――そろそろ夜も遅いですし、寝ますか。

 

 言ったバラッドに、膝裏へ手を入れすくうようにして持ち上げられ、コロカントは小さくは、と息を吐く。

 男に抱えられるのはこれで二度目だ。

 一度目は、イツハァクの町で、最初にミシュカと名乗る男と会ったとき。あのときは貧血をおこして運ばれた。

 そうして二度目の今。

 初めてではないのに、どうにも安定しない。体が、ではなく、コロカントの気持ちの部分がそわそわ、というかもぞもぞ、というか、とにかく気恥ずかしい。そうして落ち着かない。

 塔の内部は、あのワールーンの見張り塔の内部のつくりと同じだった。だから、寝台がある二階までは内壁沿いの螺旋階段を、男に抱えられたまま上ることになる。 

 階段を上る男の腕の中で、居心地が悪くてどうしようもない。

 あの、と呟くと、すぐに男がはいと返した。

「どうかしましたか」

「その、お、重いでしょう。ごめんなさい、おろしてください、重いですよね、やっぱり」

 同じ年頃の町娘と比べて、やや小柄かもしれないが、それだけだ。ひと一人抱えるのだから相当の重量があるはずで、考えてみれば小麦の袋より重いのだった。

 小麦の袋、ふと思いついた重さを真面目に換算して、コロカントは余計に目の前が暗くなる思いがした。

 小麦の袋で言うなら三つ分だ。いっぺんに運べと言われて、自分は持ち上げて階段を登れるだろうか。

 考えて思う。やりたくない。

 できるかどうかと言われれば、重さの比重的にできないことはないのだろうけれど、それにしたって相当力まないと運べる自信がない。下手をうつと、ぎっくり腰になりそうだ。

「なに言ってるんですか」

 だのに、……重い?くつくつ笑いながら男は抱える腕に力をこめて、ぎゅ、とおのれの側に引き寄せた。おかげでコロカントの体は彼の胸板に押し付けられる形になり、着衣越しに体温を感じて、余計にどぎまぎする。

「軽くて、力こめたらぺきんと折れそうなほど華奢なくせに、これで重いとか言ってたら、世のご婦人方は憤死します」

 そうして笑いながら二階へたどり着き、バラッドは彼自身ごと寝台へ腰をおろした。

 横抱きに抱えられていたので、当然コロカントは彼の膝の上だ。

「ええっと、……えっと」

 ここで、運んだのなら早くおろしてくれと頼むのは言いにくい。彼女は上目で男を見上げた。

「バラッド」

「はいはいなんでしょう」

 男は、えらく上機嫌で、楽しそうに緑灰色の目を彼女に注いでいた。上げた視線がそれとかち合い、また混乱する。

 混乱しながら、ああそうか、腑に落ちて、彼女はごくんと唾を飲みこんだ。

 そうか、この建物にはいま自分と男しかいなくて、それから自分は強引に彼にプロポーズをしたわけで、そうして彼は自分に指輪をはめてくれた。つまり、プロポーズを受け入れたということだ。

 受け入れた。

 ……だから、つまり、関係は成立したわけで、だから、これから自分は、彼に抱かれるのだな。

 合点がいくと、混乱と入れ替わりに緊張がいきなりふくれあがって、やっぱり落ち着かなくなる。

 どうしよう。

 まっさきに頭にそう浮かんだ。

 さすがに、男女がひとつの布団で寝る意味はわかっているつもりだ。

 自分はたいがい世間知らずではあると思うけれど、たとえば手をつないで寝たら、それで子供ができるだとか、そんな未通娘(おぼこ)まっしぐらなほど、清らかな世界に生きてきたわけではない。

 とくにこの四年は、なにしろ女芸人や、元娼婦のララが側にいる生活だったのだ。男を手玉にとる、百戦錬磨の連中だ。

 それこそ男女のなんたるか、だとかいうものは、四六時中、頭上で勝手に飛び交っているような生活だった。

 酒が入ると、彼女らはますますてらいもない。あけっぴろげに、太さがどうの、反りがどうの、持続力がどうの、過去に相手した男どもの品のない品評で笑い転げていたりする。

 女というものがつつましやかだなんて、きっと嘘だ。酒の席で聞こえてくる猥談のたぐいは、男も女も、そう違いはなかった。

 そうして、それに眉をひそめるほど、コロカントは子供でもない。

 ただ、耳から入るものと、こうして実際自分がその事態に直面してみることはまるで別の次元の話で、

「あの、……あの!」

 それでも意を決してこぶしを作り、彼女はバラッドの膝の上で、できるだけ居ずまいを正して、そうして挑むように彼を見上げた。

「……どうしたんです、そんなに怖い顔をして」

 男はきょとんと見下ろしている。

「自分を焚きつけておいて、やっぱり、土壇場(どたんば)で、一緒になるのはいやになっただとか、そういうこと言われたら、ちょっと傷ついちゃいますからね」

「ちがいます。……ちがいます!そんなこと言いません。そんなことじゃ決してないです。でも、」

「でも?」

「でも、あのぅ、そのですね……、つまり、」

「はい」

「ふ、不束者(ふつつかもの)ですが、その、ええと、はじめてでいろいろと知らないこともいっぱいあって、不都合をおかけすると思いますが、あの、一意専心、一生懸命頑張りますので、どうか手ほどきよろしくお願いしま、」

 そこで彼女は言葉を止めた。

 怪訝な顔をしていた男が、ふっと吹きだし、それから肩を震わせて笑いはじめたからだ。

 

「バラ……、バラッド!」

 糾弾しようとした語気は、勢い込んだ分、荒げるかわりに情けない調子になった。

「わたし、何か間違ったこと言ってるかしら」

「いや、すみません。間違ってないですよ、……すみません。姫のしんからの言葉なわけですから、笑ったら失礼ですよね。……でも、……申し訳ない、すこしおかしくて」

 口をおおい、笑いをおさめようとして、男はまだ笑っている。

「笑うなんてひどいわ」

 下唇をかんでふくれると、そうですよね、と男が目尻の涙を拭いながら頷いた。

 涙が出るほどおかしかったらしい。

「そうですよね。笑ってすみません。……でもね、姫」

 ひとつ咳払いをしてようやく笑いの発作がおさまったらしい男が、じっと彼女の目を覗きこんだ。

「そんなふうに、姫がこわがって、緊張しまくってるところ、自分が流れで押し倒して、一発ことにおよんだところで、気持ちいいどころか痛いだけです。何も楽しくない。それじゃあ自分は強姦魔ですよ」

「……で、でも、最初は痛いのでしょう。初めては我慢しなきゃならないって。だったら、我慢しなくては」

「どこ情報か、その情報源の方をいろいろシバきたい気持ちでいっぱいになりますが、痛いだなんて、そりゃ男が下手なだけです。どれだけまっさらな女性だって、気持ちよくなれるし、そうじゃないなら間違ってます」

 男は真顔でこたえる。

「……でも」

 思わずコロカントはうつむいた。気負いこんで先走った自分が恥ずかしくなってきたからだ。

 それにねぇ、俯いた彼女に、どこかのんびりした口調で彼は続けた。

 慰めてくれているのかもしれない。

「たしかに自分は寝ましょうと言いましたが、別に今夜、ここで、いますぐ姫をとって食わないと辛抱たまらんとか、そんな下半身直結発言でもないんです。がっつきたいわけじゃない。……まあ、自分があと二十も若かったら、そうだったかもしれないですけど。……無駄に年食ってるわけじゃないですしねぇ」

「……だって」

「だって?」

「だって、わたし、バラッドの、つ、妻になったのでしょう」

 言いながら左の握ったこぶしを見た。

 薬指に、ちらちら蝋燭のだいだいの光が反射する、透明の輪がある。

 先ごろ男にはめてもらった、硝子(ガラス)の指輪だ。

「そうですよ。妻。いい響きだなぁ。夢みたいです。夢じゃないだろうな」

「だから、夫婦なら、……、その」

「――愛し合う?」

 たとえばこんなふうに?

 不意に顔を近づけ、囁きながら、バラッドは口を開け、そうしてはむ、とコロカントの耳朶(じだ)を食んだ。

「バ、」

 ぎくりとなって全身がこわばる。いけない、いけないと思いながら、快感よりも緊張が先立って、

「夫婦だって、姫が言ったんですよ」

 男が囁く。食んでいるから、耳元に直接吐息と共に吹きこまれる。

「夫婦でしょう。無理矢理でもなく、春を鬻(ひさ)いでいるわけでもない。だったら、夫婦なんだったら、お互いが納得の上で、気持ち良くならなきゃ嘘でしょう」

「でも、」

「――こうしてね。自分が触れても、姫がまったく怖くなくなって、ぐずぐずに気持ちよくなって」

 言って男が肩から指をすべらせた。

「とろとろに溶けて……、それから、何も考えられないくらい、もうほしくてほしくてたまらなくなって……そうしたら、……、……ね?」

 くすくす笑いながら唇を首筋に落とすその刺激に、なぜか鼻の奥が痛くなる。

「……で、でも」

 打ち消したくて頭を振った。

「でも?」

「でも、それじゃあいけないんです」

 ふんふんと肌のにおいを嗅ぐ男の頭を両手で挟みこんで、コロカントはもう、と男の目を見返す。

「有耶無耶(うやむや)にしようとしてるでしょう。だめです」

「おや、だめですか」

「だめです。……だってそれじゃあ、わたしの都合に合わせるばっかりで、バラッドになんの見返りもないもの。待たせるなんて、対等じゃないわ」

「対等ねぇ」

 うーん、と短く整えた顎髭(あごひげ)を撫ぜながら男は上を向く。

「自分の嫁さんに気持ちよくなってほしいと願うのは、いけないことですかねぇ」

「……いけなくないです。いけないことじゃないですけど、でも、」

「言ったでしょう。痩せ我慢しているわけじゃなくてですね、見返りと言うなら、姫が気持ちよくなって、そうしたら男の側も気持ちよくなる。そういうもんなんですよ」

「でも」

「それに」

 コロカントの言葉を最後まで言わせずに、男はぎゅう、と彼女をおのれの側に引き寄せた。

「こうして姫を抱っこして、くっついて、それで十分、幸せなんですよ」

「でも、」

「待たせるのがよくないとか、対等じゃないだとか、姫は仰いますけど、でも、待つのはもう慣れてるというかなんというか」

 言いながら男は彼女の髪を指にからめる。

「十三年です」

「え、」

「十三年。姫に初めてお会いしたときから、もうずっと、自分は姫にぞっこんだったですよ」

 ひと目惚れでしたので。

 言って男は、ばつの悪い顔になって笑った。

「こんなこと言うと、そのころから、虎視眈々(こしたんたん)とツケ狙ってたみたいで、なんかいやですけど……、……。いやでしょう。なんか、年端も行かない小さな女の子に惚れたとか、そういうの。実際、こうやって、大手を振って、姫に触っていい日が来るなんて、思ってもみなかったですし」

 手のひらに乗せた髪の房へ口づけする。

「……、だから、夜の、……あー、営みっていうんですか?そんなこと今すぐしなくたってですね、自分は満たされてるっていうか」

 髪へ口づけた男の動きが妙に色っぽくて、動きを追っていたコロカントは思わず赤面した。

 そのぱっと赤くなった彼女の顔に目ざとく気づいて、おや、と男が口の端を上げる。

「こうされるのは、厭ですか?」

「いえ、その、イヤではないんですけど、ええと、恥ずかしいというか、なんというか」

「ふふ」

 可愛いなあ。言って男が目を細める。その吊り上がった唇の、濡れた具合まで気になってしようがない。

 直視できず、ちらちら見ていると、そのまま男の顔が近づいた。

 ああ口づけされるんだ、おずおず目を閉じた彼女は、そのまま、いっこうに重なってこない男の唇に訝しんでうっすら目を開ける。

 見れば、触れるかどうかぎりぎりのところで、男がにやにやと笑いながらこちらの様子をうかがっていた。

「許可がないと触れちゃいけない気がしてきました」

「……意地が悪いわ」

 男が触れることに対して、コロカントがもう十分、受け入れているのを判っているくせに、そんなふうにして彼は聞いてくるのだ。

 ちょっとうらめしく思って呟くと、そうだ、と男はあらためて下唇へ触れながら言った。

「じゃあ、練習しましょうか」

「練習……、ですか」

「準備体操と言いかえても結構ですよ。ほら、千里の道も一歩からとか言うでしょう。遠泳しようとして、いきなり冷水に飛び込んだら、足が攣(つ)ったり心臓おかしくしたりするでしょう。泳ぐには、まず体をほぐしたり、足先から水につけたりして、体を慣らすわけです。するわけですね?」

「ええ、……はい」

「姫が怖いという気持ちを、いきなりまっさらになくすというのも難しい話です。崖から覚悟して飛び込むようなものだ。怪我をするし、姫ばっかり辛抱するわけでしょう。自分は厭です。……だから、段階を踏んで、徐々に慣らしていくというのはどうでしょうね?」

「段階ですか」

「そう。――ほら、こうして、唇に触れるのは、平気なわけでしょう」

 言ってバラッドは囁きながら唇を重ねる。

 再度目を閉じようとしたコロカントに、

「口をすこし開けて」

 低い囁きを吹きこまれた。

 言われるままに、おそるおそる口を半開きにすると、その歯と歯の隙間から、ちろ、と男の舌先が口内に侵入した。

「……ん、」

 ここ数か月、何度も男と口づけをしたけれど、それらはすべて、大人が子供にするような、軽く重なるだけのものだった。こんな、深く入り込む口づけは初めてだ。

 驚いてびくんと肩が揺れるのへ、

「だいじょうぶ」

 かすかに、しわがれた低いささやきが上書きする。

「言ったでしょう。練習ですよ」

「れ、練習」

「そう。練習です。水につま先を入れるのと同じ。……ほら」

 歯列を舌でなぞられて、そうして無意識に逃げを打つ体をとんとんと撫でられる。

 

「こわくない」

 

 間近にうっすら伏せた男の赤い睫(まつげ)があって、コロカントは逃避するように思わずそれを直視した。

 ああ、赤いな、だとか。

 こんなに赤い睫(まつげ)の奥に、緑の瞳が隠れてるのが、なんだかうそみたいだな、とか。

「こわくない」

 ぐだぐだ考えることはやめて、男が言った通りに、同じ言葉を呟くと、顔を傾けた男がふふふ、と息だけで笑う。

 その顔が、こうして口づけをしているだけなのに壮絶になまめかしくて、彼女は慌てて目をつぶった。

 やめてほしいと思う。

 こんなふうに、いままで見たことない顔を見せられると、どう反応していいのか判らない。

 恥ずかしいやら気まずいやらで、目をつぶったコロカントが、内心百面相をしているそのあいだにも、男の舌先は再び口内に入り込んで、今度は彼女の舌を弄(なぶ)る動きをしはじめた。

 ねろねろと舌上を往復し、上あごの裏側を刺激される。

 ナメクジだとか、ヒルだとか、そこだけ何か別個の生き物が這っているようだ。

 くすぐったさと、それからその裏に隠れているどうしようもない心地よさをたくみに引きだされて、ぴく、とまた肩が揺れた。

 その震えが、不安や緊張からでないことに、彼女はもう気づかない。

 ただ、男が口中のあちらこちらを舌先でつつき、それから不意に興味を失ったように、そそくさと引く動きに、真似て舌をからめていた彼女は、つられて思わず舌で追ってしまった。

「ふ」

 男がまた吐息だけで笑う。

 安心したような、嬉しそうな、そんな声色だ。

 動きを追い、ちろ、と歯列からのぞかせてしまった彼女の舌を、彼は見逃してくれなかった。

 すっと角度を変え、絶妙な位置から彼女を引き出し、おのれのものと絡める。舐めしゃぶり、吸われて、コロカントはだんだんに頭がしびれたようになった。

 ただ男の動きを真似するように互いに擦りつけ、食みあって、彼が与えてくる快感に没頭する。

 粘膜と粘膜が触れ合っているだけなのに、どうしてこんなに気持ちが良いんだろう。

 不思議に思った。

 舌の先と先を挨拶するようにつつきあう。

 それから肉厚の部分を這わせるようにし、かと思うとこれ以上ないほど密着させて食みあい、音を立てて吸いあう。

 そうして、どれだけの時間、舌をからめているのか、もうよく判らない。たったいまだったようにも、もう四半時ほど経ったようにも思う。背筋が間断なくぞくぞくとして、男の服の袖を握ることで、体に走るそのなにかを逃がそうとした。

 

「……姫」

 そうして、いつまでも生温かな空間でまどろんでいたかったのに、ゆっくり男が唇を離すと、その世界はしぼんで消えてしまう。

 不意に離れていった心細さに、おずおずと彼女は目を開け、眼前の男を見てしまった。

 自分がいったいどんな顔をしているのか、コロカントには判らない。

 目があった男は、一瞬ちょっと驚いたように見える角度で眉を上げ、それから、どうです、とかすれた声で囁いた。

「こわくなかったでしょう」

 返事をしようとして、おのれの喉が男と同じようにひどく掠れていることに気がつき、彼女は数度咳払いをする。

「怖くはなかったです」

「それはよかった」

 受けて男がにっこりと笑った。

「……、……怖くはなかったです。……、でも」

「でも?」

 ちら、とコロカントは夜の窓の外を見た。

 うすい獣の膜が張ってあるそこは、外の暗さをうつして真っ黒だ。

「朝までまだ時間はあるのでしょう」

「ありますねぇ。明日はグシュナサフらのお祝い本番でしたよね。そろそろ寝ましょうか」

 頷いた男の濡れた唇に、すこし伸び上がるようにしておのれのものを重ね、じゃあ、と彼女は彼の耳元で囁いた。

「もう一度、はじめから教えてください」

「え、」

 練習なのでしょう。

 言うと男がわあ、と嬉しそうに困ってみせて、それから、膝の上にいた彼女を脇へ降ろし、壊れもののように静かに、藁床(わらどこ)の寝台へ横たえた。

 よく干された、日なたのにおいのする褥(しとね)だった。

「――じゃあ、もう一度、最初から」

 理性もつかなあ。

 おどけてぼやきながら、バラッドは彼女の隣へゆっくり肘をつき、そうして体を引き寄せ、唇を重ねた。

 

 

最終更新:2019年12月19日 23:17