<<Longing-love:憬れ>>
意識が戻ったときには、温かな闇の中だった。
身体に馴染んだ、闇である。ぎこちなく見下ろした視線の先に、幾ら陽に当てても全く色の変わらない自身の手足があるはずだった。
よく陽に焼けた、健康な肌に憧れた。己の不健康な青白いままの肌を見るたびに、何処か悲しい気持ちに陥るから、己の身体を見ることはあまり好きではなかった。
今はその手足も暗闇に溶けて、何も見えない。
陽に――当たったことはあったろうか。
首を傾げて自問自答する。きっと夢だろう。夢に違いない。
暫くそうしてぼんやりと佇んでいた。身に何も纏っていないことに気付いたのは、目には映らない手足を確認するように、指先で撫で擦ったからだ。
ブランケット一枚無くとも温かな闇は、ねっとりと身体を包んで、最適な温度を提供してくれる。
昔から、知っている匂いだ。
そうしてこれからも、馴染んでゆく匂いだろう。
ぼんやりとした意識の隅で、闇に抱かれて安心する。胎児のように膝を抱え、丸くなって眠りに就き直そうと深呼吸をひとつ、吐いた。
理由もなく、淋しい。
何か夢を見ていた気がする。
とてもあたたかで、そう、この闇の中よりもずっと安心できる何かに、包まれていた気がする。
ぽっかりと心が空いていた。何故だろう。
――ねむりなさい。
耳管よりも更に深く、聴神経に優しく囁く音がする。
そうだ。眠ればいい。眠ってしまおう。
――ねむりなさい。
夢ならば、もう一度見れば良い。
顔を膝に埋め閉じた瞼の裏に、
刹那。
真っ直ぐに貫く鳶色の視線が蘇った。
陽に焼けた藁の金茶色と共に。
慄然とした。
ここ――は。
驚愕か、恐怖か。切れ長の目を精一杯に見開き、挙動を欠いて辺りを見回す。
身震いがするほど、馴染んだ――……、二度と戻りたいとは思わない、
「ああ。……覚醒してしまったね」
不意に間近で響いた声に、息を呑んでカークは振り向いた。
背後に何の姿も無い。
声は頭上から降ってくるのだ。
「おはよう。All can-No.9074:X(キィ)。気分はどうかな」
「――」
「素晴らしく原始的な爆弾をつけていたけれど、外してしまったよ。それと、あちらこちらに酷い損傷を受けていたから、直しておいた。修復は完璧に思うが、どこか違和感は無いかな」
「こ、こ――は」
降り注ぐ声に、唇を震わせてカークはようやく語を発した。
「あなたは――」
わたしは。
「質問に答えなさい」
命ずることに慣れた口調に聞き覚えがある。思う通りにならないとすぐに苛立つ色の混じるそれに聞き覚えがある。
「下層地区から――私は連れ戻されたのですか」
その苛立ちの色に気付かない振りをして、声の問いに応えることをせずに、カークは改めて立ち上がった。何も眼に映らないと判っていながら、頭上を振り仰ぐ。
「――連れ戻されたのですね」
「……質問に答えなさいと、言ったはずだ。わたくしの言うことが聞けない……のかね?……No.9074。お行儀が少し悪くなったんじゃないかな」
それとも安定剤投与が少し多かったかな。声は続ける。
「あの地区に――あの地区に、なにか危害を加えてはいないでしょう――ね」
あのひとに。
「No.9074。質問に答えなさい」
「あなたこそ、私の質問に答えてください――ッ」
細い悲鳴がカークの口から零れ出た。
落ち着こう、落ち着こうと、自身に言い聞かせても気が急く。嫌な予測をしてしまう。
その昔。連れ戻すために、部落を一つ消した。
「博士!」
壁面に叩きつけられ、一瞬銀の星が視界にチラつき息が詰まる。次いで激痛が襲ってくる。
痛みが起きるのは、神経が通うせいだ。
痛みが起きるのは、人間の生命活動に支障のある行為へ、注意を喚起するために脳が作り出したシステムだ。
永遠に生きることの出来るD-LLには全く必要の無いものなのに、無駄に付属された性能のために動きを制限される。
いっそこのまま、人間のように気絶できればどんなにいいかと、マルゥはふと思った。
生憎そうヤワな設計をされていない。
苦渋の声を漏らしながら体を起こした。
吹き飛ばされたのだと理解したのは、その後だ。
理解し、呆気に取られていた。
「……嘘ォ……」
自身の吹き飛んだ距離がどう考えてもあまりにも長い。
と云うよりは、彼女の起き上がった辺り一面が、数瞬前と同じ場所とは思えない。辺りは吹き飛んだ人の群れで一杯だった。
動かない。
動かない。
動かない。
「嫌……なに、これ」
気付いて唐突にマルゥは恐怖した。
辺りは人の骸で一杯だ。
「なに……なんなの……」
訳が判らないまま、見開いた虚ろな瞳に怯えて数歩、にじり退がり、
「マルゥ!」
不意に聞こえた温かな保護の声に、涙目で彼女は振り返った。
離れた高台から心配顔でこちらを見やる主がいる。その距離100メートル。どんな力が働いたのか彼女には知る術も無いが、一瞬でこの距離を吹き飛ばされたのだ。
やわらかな体を持つ人間はひとたまりも無い。
「だいじょぶか!」
「マスタ……!」
案じる声に状況に恐怖しながらひとまず安心して頷き、
そのままマルゥの表情が凍りついた。
「マスタッ!」
染み出すように現れた女がいる。
つい一瞬前まで、そこには誰もいなかったはずなのに、目をやるといつの間にか現れていた女がいる。
体にぴっちりとスーツを纏わりつかせ、佇む女がいる。
影法師のように真っ黒い女だ。
不吉なほどに、漆黒だった。
記憶の中にある、何かと似ている気がした。誰だかは思い出せない。
染み湧き出た女は、無感情な瞳でヒューを眺める。
訂正する。視界に入れた。
そう表現したくなるほどに女の瞳は虚無に満ちている。白目の殆ど見えないぬめぬめとした黒は、蛭のように彼の身体の輪郭へと吸い付く。
「アンタ……何だ?」
訝かしんでヒューは、触れかけたカークの体から離れ、身構えた。味方にはどうも見えない。ドルマ一味とも見えない。けれど、
誰だ、とは聞けなかった。それはあまりに紛い物過ぎたから。
「座標確認。――S-305。1286。73。All-can。No.9074――捕視しました」
ヒューの声が聞こえたのかどうか。
女がゆっくりと体を彼に向けた。
これを。
唇が声にならず、震え動くのを最後に、
「……が、は……ッ」
形の良い女の足が軽く引かれて、ヒューは地に叩き転がされていた。女の動きを目に入れたか入れないか、ヒューが自覚をする前の話だ。
遠くでマルゥの悲鳴が聞こえた気がしたが、鳩尾にめり込んだ爪先に七転八倒していたヒューは、生憎と手を上げて答えることは出来なかった。
そうして驚愕している。
……今の引きで……この蹴り、だァ……ッ?
まるで自慢にならないが、厄介事を昔から招き寄せる性格だ。人並み以上に喧嘩してきたと言う自覚はある。その自覚に照らし合わせても、今の女の動作は理解できなかった。威力が半端ではない。考えられるのは一つ、
「て、めぇ……D-LL(ドール)か」
苦し涙を浮かべた無様な姿で、ヒューは口元を拭い、目前の女を見上げる。
マルゥと同系のD-LLに違いないという確信があった。何故なら、女はあまりに紛い物過ぎたから。
「抵抗は――死を招きます」
「おい!」
無感情なD-LLの女はそう言って、まるで無防備にヒューに背を向けると、今は既に動かないカークへと歩を進める。
見止めてヒューは立ち上がり、
「ちょっと待て」
女の肩に手を掛ける。
「――愚かな」
未だ傷みに傾いたままのヒューの体に、二撃目が容赦なく叩き込まれて、避ける余裕の無い彼はまともに喰らって再度吹き飛ぶ。
「マスタッ!」
叫んでようやくマルゥが駆け寄ってくる。否、女の動きがあまりに早すぎて、それは実に一瞬のことだったのだ。
「アンタ一体なんなのよ!」
倒れ伏したヒューの体を抱え起こして、噛み付きそうな顔でマルゥが喚いた。
ふ。
女の視線がヒューよりマルゥへ移る。拳を構えた動作を目にして、ヒューは咄嗟にマルゥの体を庇った。少女がその実、己より頑丈な体を持っているとか打たれ強いとか、この際関係ない。弾みである。
……やべぇな。
冷静な判断を下せる自身が不思議だった。
直後にもんどりうって、今度こそ再起不能だ。肋骨が数本。確かに逝った音がした。
「マスタァッ?!」
どうして。
覆い被られ、その背に守られたマルゥが、愕然として普段でも大きい瞳を目一杯に見開いていた。
「マスタ!マスタったら!」
取り縋った彼女から温かな雫が振りまかれて、激痛に呻いていたヒューはうっすらと瞼を開く。
人間だろうとD-LLだろうと女に泣かれるのは、苦手だ。
「嫌だよ……嫌だよ……!しっかりしてよ!」
その無防備な少女の体が、ヒューの視界から弾き飛んだ。背後に女が立っている。
「てめぇ……、」
「No.9074の回収を妨害するものと――認定。消去します」
相変わらず黒い女はどこまでも無感情で、
あん時の……カークか。
こんな切羽詰った状況だというのに、ヒューの脳裏に、女の姿を見たときから感じていた既視感と記憶が不意に合致する。
廃棄場に虚ろな瞳で蹲っていた、あの時のカークとよく似ていた。
無感情で光の無い瞳。
何の色も浮かばない視線がヒューに降り注いで、女が小さく手刀を振り上げた。
これは……避けられねェな。
見上げたというよりは睨んでいただろう。視界に細い腕が迫る。諦めきれずに唇を噛み締めた。
ぐき、と。迫った女の腕が見当違いの関節へ折れ曲がって、
「――?!」
硬質の顔に浮かんだのは怪訝な色だ。無感情が崩れた。
女は即座に振り返る。
その、振り返った女の向こう側。半身を気力で持ち上げたヒューの瞳にも同じく映ったのは、
「カー……」
自己修復に陥っていたと思われた、カークが瞳を開けていた。渾身の力を振り絞っているのだろう。悲愴なほどに厳しい顔の彼もまた、地に転がったまま。煤けた頬を僅かに起こし、その端正な顔を苦痛に歪めながら、小さく何かを呟いているのが見えた。
日頃から彼のそう言った姿を見ていたヒューには、よく判る。
……リンクしてやがる。
「マスタ!」
思わぬ方向から声が聞こえ、共に宙に浮く感覚。持ち上げられたのだ。理解するのに数瞬かかった。
風を切る感覚が、まるで夢の中で泳いでいるようだと思った。夢なら悪夢に違いない。
そのまま。彼は激痛に意識を手放した。
そうして――夢をみる。
「僕が。僕が、ずっとずっと一緒にいる」
目の前のやさしい生き物に、懸命に少年は語りかけていた。
5つの頃か、6つの頃か。
昔の話だ。
少年は片腕を肩から吊っている。
何のことはない。無茶をして、怪我をした。
村のど真ん中にある貯水池は、少年の大好きなトカゲの宝庫だ。けれどそこには安全のために、周囲をフェンスで取り囲まれている。安全防止のために張られたものであったが、同居人は決して越えてはいけない、とは言わなかった。越えてはいけないとはっきりと提示したのは、村の周囲の木柵だけ。
ただ注意してくださいと何度か口にしたのみだ。
以前はもう少し、口うるさく感じた覚えがある。過保護にはしてくれるな。少年の父親が苦笑いしながら、同居人に言った。首を傾げて困ったように微笑みながら、それでも自覚はあったのだろう。はい、と答えて以後、必要以上の注意を控えるようになった。
それを良いことに、少年は何度かかなりの無茶をした。
その日もそんな無茶の一つだった。普段見たことのない、全身は深い青。背の筋が虹色の、体長20センチばかりなトカゲを目にしたのだった。気付いた瞬間から、それしか目に入らない。捕まえようとそっと忍び足、にじり寄った少年の影が、ふとトカゲの上に差しかかる。
あっ。
しまったと思ったときには、トカゲの身体はフェンスの向こうだ。
夢中だった。
姿を見失わないように注視して、フェンスの金網に足を掛ける。
天辺に身体を持ち上げ、向こう側――貯水池側に飛び降りた。ひりりと焼け付く痛みが走った気がして少年は顔を顰める。
うん、と見やって顔色を変えた。
二の腕にぱっくりと傷が走っている。鉄条網で切れたのだ。
深いなと気付いたのはその後だった。見る見るうちに傷口から血が滴りはじめ、能天気が信条の少年も流石に少しだけ慌てた。
少しだけ。
服の隠しをまさぐって、ハンカチを取り出す。突っ込んだままだったハンカチは、しわくちゃであまり綺麗とは言えない。無いよりはマシ、程度のものだ。
それをぐるぐると傷口に巻いた。
そうして幸運にもまだじっとしていたトカゲに向かい直る。
戦利品をポケットに突っ込んで、家に戻ったのは日も暮れてからのことだった。
錆付いた鉄条網で傷つけた腕は、ひどく腫れた。二倍にはなったろう。
あまりに腫れたそれが喉許まで圧迫し、呼吸困難に陥りかけて初めて、少年はえらい事になった、と実感したのだった。
それを最後に意識は無い。
朦朧と夢うつつ、うんうんと唸って一晩過ぎ……二晩過ぎて。次にはっきりと覚醒できたのは、怪我をして実に三日後のことだったからだ。
不意にパズルのピースがかちりと嵌まったように、完璧に少年は目を覚ます。
寝もせずに枕元に付きっ切りでいたのだろう。心労でやつれた顔の同居人が、ほっと切なげな息を吐くのが、瞼を開けた瞬間に判った。
死にかけたのだと、後で聞いた。
「――私が――判りますか」
覗きこんだ彼が、震える声で囁く。うん、と少年は頷いて返した。
「喉……渇いた」
久しぶりに押し出した声は酷くしわがれていて、まるで自分のものでは無いようだ。
心得顔の同居人が、枕を膨らませて頭を高くしてくれ、そうして水差しを手に、口に水を含ませてくれる。
甘い。
混ぜ物も無い水が、それでもこんなに甘いものなのだと、少年は妙に感心しながら喉を鳴らして飲み干した。
「お腹すいた」
「――三日間食べてませんからね――朝になったら、ご飯にしましょうね」
「もう眠くない」
「たくさん寝ましたものね――何かお話してあげましょうか」
「起きて外で遊ぶ」
「元気になるまで少しの辛抱ですよ」
理不尽なことを口にしているのは、百も承知だ。少年の今までの経験から言って、次には同居人の雷がきっと降って来る。心配させたのだ、当然である。幾ら幼いとは言え、その判断すらできぬほどの子供では無い。
判っている。
けれど三日ぶりに聞いた彼の声と、頭を撫ぜる手と。それはいつもと同じようにやさしくて、少年はついつい我侭を口にする。
けれど、
上げた視界に、同居人の透き通る微笑が見えて、少年ははっと息を呑んだ。
あまりに透明に過ぎたから。
彼は――泣いていたのだ。
静かに、声も漏らさずに、微笑みながら泣いていたのだった。
「ど……」
前後の甘えもどこへやら、泣き顔を見た瞬間全て吹っ飛んで、慌てて少年は起き上がった。
「どうしたの。どこか痛いの」
「――いいえ。――いいえ」
頬を濡らしていたことに、今更ながら彼もまた気付いたのだろう。起き上がった少年の身体を不意にひしと抱きしめる。
「――あなたが――もう目を、覚まさないかと……思っ――」
抱きしめてきた細い身体は、全身細かく震えていた。
かき抱かれて少年は喘ぐ。
同居人が泣いたのは初めてのことだ。
どんな悪戯をしても、大抵は黙って見逃してくれる彼だったから、
腹を空かせて帰ってくると、いつもあたたかい部屋に、湯気の立つ料理を用意して待っていてくれる彼だったから、
父親に叱られて表に出されたときでも、しばらくするとそっと扉を開けて中に入れてくれた彼だったから、
嬉しいことも悲しいことも一緒になって共有してくれた彼だったから、
だから。
熱い感情が、突如少年の身体を走りぬける。言葉に出来ない。
「ああ――かみさま――」
あなたが何処かへ行ってしまったら、私は。
大切な大切なあなたが、目の前で苦しんでいた。代われるものなら、どうにか方法があって代われるというなら、私は喜んでこの身を差し出しただろう。
そうして。あなたがもし無くなっても。この世のどこを探してもいなくなってしまっても。死の概念の無い私は、それを看取ることしかできない。
生の無い機械には、死もまた無い。
私がどんなに。どんなに共に在りたいと願っても。
ずっと一緒に生きたいと願っても。
どんなに、どんなに希っても。
毛布越し、少年に縋った彼から刹那伝わった声にならない声は、まだ稚けない少年を翻弄し、その小さな胸を引き裂く。
どうして。
どうしてだろう。
どうしてこのやさしい生き物は、生きていないのだろう。
こんなにもあたたかいのに。
こんなにもやわらかいのに。
必死だった。知らず、少年は細い腕を掴んでいた。
「僕はどこへも行かない。僕はずっと、ここにいるよ」
「――ヒ、」
「約束するよ。一緒にいる。僕が、」
僕が、ずっとずっと一緒にいる。
その時、少年はまだあまりに幼かったから。
ただ、笑ってほしくて。いつもの優しい顔で笑ってほしくて。
自分自身まで泣き出しそうに、一緒にいるよと繰り返す少年に気付いて、安心させようとしたのだろう。同居人は微笑もうと努力して、一層嬉しいような悲しいような、泣き笑いの顔をした。
その濡れた頬に自由な片手を伸ばし、少年は彼のガラス玉を覗き込む。
「――ヒュー」
震えを帯びる囁き声に被せて、
「ずっと一緒にいる」
信じてくれるだろうか?漆黒のガラス玉が揺らめいた。
彼が何に対して嘆いていたのか、今ならもっとはっきりと判る。
いつの日か。
いつの日か死にゆく俺は、お前に何が出来るだろう。
直射日光がもろに瞼を直撃し、痛みに似た眩しさで目を覚ましたヒューだ。
くすぐったいような、照れ臭いような、悲しいような。浅くて深いぐるぐると回るおかしな夢の中で、白い光の渦に巻き込まれ、嫌な汗をかいて目を覚ましたのだった。
目覚めると同時に、疼く痛みがヒューを襲う。思わず呻き、その呻きすら、喉が渇ききって満足に発音できないことに気付く。
なぜ。
疑問符と共に起き上がろうと肘を突き、瞬時に全身を走った激痛にその姿勢のままに固まった。
「いッ、……で、ぇ……」
痛みにぐぅと喉が鳴り、吐き気が次いでやってくる。吐酸きかけて一旦目を閉じ、吐き気の一波をやり過ごすと、もう一度。今度はゆっくりと目を開いた。
閃光に傷めた目が霞む。
それでも寝ているソファの横に水筒が置いてあるのが見え、ヒューは汗水垂らしながら腕を伸ばした。たったそれだけの動作に全身が冷たく湿り、瘧のように震えが止まらない。
水を何とか口に含んで、そこでようやく息を継ぐ。
改めて自身を見回すと、いつも通りだ。住み慣れたリビングのソファの上で、うたた寝でもした風情。寒さ避けに掛けられていた毛織の上着の、繕い糸までくっきりと見えた。
不用意に作ってしまった鉤裂きの、ほつれた箇所を莫迦丁寧に繕ってあるそれ。
誰が。
繕ったのだろう。怪訝に思い、痛みに痺れる指で縫い跡を撫でさする。
繕ったもの。繕う。……誰が?
霧のかかった重い頭で、ヒューはしばらく上着を見つめ、そう言えば黒の縫い糸が少なくなっていたと言われていたな、暇があったら買いにいかなければ、などとぼんやり思い。そこで一気に現在の状況が奔流となってなだれ込み、
弾け飛んだ。
「カーク!」
喚いて跳ね起きる。忘れていた痛みが急激に襲い掛かって、低く唸りながらヒューは蹲った。わんわんと音がしそうなほど眩暈のするこめかみを押さえ、もう一度きつく目を閉じる。
冷や汗が一筋顎を伝った。
「ヒュー……ッ」
物音に驚いたのだろう、隣室にいたらしいマルゥが、叩き壊しそうなほど勢いよく寝室のドアを開けて、悲鳴をあげながら駆け寄ってくる。
「動くなんて、無茶よ!」
「マ、ル……ゥ」
すがる少女の名前を呼んで、舌打ちし、思い切りを付けかっと目を開く。そのままヒューは勢いで体を起こした。引き攣れた痛みがまた、走る。苦痛で自身の顔が歪むのが判った。ぎりり。歯を喰いしばり、立ち上がる。
「肋骨4本もイカれちゃってるのよ?じっとしてなきゃ駄目だってばッ」
「……まだ……動く」
膝に手を付き、眩暈を堪えた。そうして自身に言い聞かせる。動く。まだ動く。
……動かなければ。
「ヒュー!」
「あれから……何日……だ」
「な、……何日って。1日位しか経ってないけど。……けど!」
「マルゥ。悪ィが、水筒取ってくれ」
「え、あ、うん……ってヒュー!アタシの言うことも少しは聞いてってばッ」
もう一口水を口に含んで、跳ね起きた弾みで落ちた上着を拾い上げ。不器用なマルゥが、懸命に固定しようとしたのだろう。裸の胸にぐるぐるに巻かれた包帯が、まるでミイラだ。その上から無造作に上着を羽織った。
羽織る動作に痛みが舞い戻り、一瞬気が遠退く。
い、……ってェェェ。
ぐらりと崩れ落ちるところを、慌ててマルゥが脇から支える。
「ヒュー。無理よ」
弱りきった声で少女が咎める。“マスター”と呼ぶ、普段の呼び癖は姿を消して、半分涙声だった。
「どこへ行こうって言うのよ」
「ウチの迷子を、引き取りに行かなきゃあなんねぇだろうが。アイツは、おとなしそうで誰にも迷惑かけないような顔をして、結構手がかかるんだぞ。お得意のデータバンクへのリンクができなきゃあ、意外に方向音痴だしな」
「引き取るって。……判ってるの?あのドルマ一味と辺りの人間を吹き飛ばした黒いヒト、中央管理局の戦闘専門のD-LLよ。悔しいけど……アタシより性能が上。もう一度襲われたら、今度は多分ヒューを守りきれない」
「自分の身は自分で守るからいい」
「満足に動けない身体で何言ってるのよ!……ヒューには聞こえなかっただろうけど、アタシ、アイツとおんなじD-LLだから。あの時アイツはアタシにリンクしてきた。ちょっとだけ、アイツが意識を取り戻した時。そうして、言ったわ。もういいって。逃げなさいって。“マスター”を守ってくださいって」
私のことはもういいから、どうかヒューを守ってください。
「……だから、なんだ」
「だから。そりゃ、人間はアタシたちD-LLを造ったんだろうし、スゴイってことは判ってるけど。けど!人間はアタシたちよりももっと軟らかくて、弱くて。ほんのちょっと血が出ちゃっただけで、死んでしまう。ヒューだってヤセ我慢してるんだろうけど、無理して……悪化したらどうするのよ。アタシは専門医じゃない。アイツのように無駄に知識があるわけでも無いから、そんなに的確な判断が下せるわけでもない。けど!今ヒューが動けるような状態じゃないってコトくらいは、アタシにだって判るわ」
「だから。なんだ」
「だから。じっとしてないと、どうなっても知らないわよって言いたいのよ。アイツだってそんなコト望んでるわけない。お願い。ヒュー。……死んじゃうわ」
「だから。なんだ」
「だから!」
無意識にヒューが触っていたのは、上着にできた鉤裂きの、莫迦丁寧な繕い跡。
「……ずっと一緒にいてやるって約束したんだ」
器用に縫った太い糸。季節ごとにきちんと洗濯しては仕舞われていたその上着。鼻を埋めると日なたの匂いがした。
「思い出したぜ。途中随分とゴタゴタあって……二度目にアイツにあった時にゃあ、すっかり忘れていたが」
「……ヒュー」
「俺から言い出した約束を破っちゃあ、男が立たねェじゃねェか」
脂汗を浮かべながら笑って見せると、しばらく彼の顔を見つめて動揺していたマルゥは、やがて。思い詰めた瞳で、こっくりと頷いたのだった。
最終更新:2011年07月28日 08:18