きっと夢だ。

  視界に映る全てのものが瞬間色彩を失って、
  フィルムのコマ送りのようだとカークは思った。
  おかしい。こんなこと、現実であるはずが……ない。
  ああ、そうか。
  また悪い夢か。
  夢を見ているのか。
  だからこんなに、何も聞こえないんだな。

  あなたからまるで花弁を散らしたように、真っ赤な飛沫があがるのも、
  両の手のひらで口元を押さえたマルゥが、真っ青な顔で叫んでいるのも、
  壁の向こう側で、放熱煙の上がったエネルギー・ガンを博士が構えているのも、
  その傍らに、透き通りそうに青褪めた先生が立っているのも、
  貫通したエネルギー弾が、私の頬をかすめて背後の壁に吸収されていったのも。

  なんて悪い夢だ。
  頬に跳ね散った血飛沫を散らしながら、カークは静かに微笑んだ。
  微笑んだ、はずだった。

 「嫌だあああああああああああぁぁぁ――――ッッ!!」

  痺れたように動かないカークの頭の、常に冷静な片隅が、己の口が絶叫していることを認識した。
  知らず、見えない何かに縋るように腕が前に伸びていた。
  何も掴めない指先は、宙を虚しく掻きむしった。
  その彼の、焼き切れそうに熱く歪んだ視界の中で、大木が倒れるように、ヒューの身体がゆっくりと崩れ落ちて、いった。
  どう、と。

 「ああ……。通路が汚れてしまったね」
  目を細めてその全ての光景を見収め、
  ぼろぼろに欠けた通路の壁の縁を、指で優しくなぞって、
  それから、
  がくがくと全身を震わせ、目を剥いたまま絶句するカークを振り向いて、レンブラントは――にっこりと笑った。
 「排気口は開けてもらわなくても、きちんと計算されてついていたのだけれど」
  困ったねぇ。
  口調とは裏腹に、まるで困った様子の無いレンブラントは、凍り付いたままのカークの傍らに近寄り、
 「君も本当に……、……、手のかかる子だ」
  その顎を掴んでぐいと引く。
  引かれるままに、カークの身体は、そのままレンブラントの胸元に引き寄せられた。
 「どうした。顔色が悪いね。やけにおとなしいのじゃないか?」
 「――は、は、は、か、……せ」
  色を失った唇をようやく動かして、言えた言葉はそれだけだ。
  視線は、床に倒れたヒューから動かない。
  動かない。
  動かない。
  動かない。
 「No.9074。君に謝らなければならないことがある」
  そっと彼の耳に、白衣の悪魔は毒を流す。
 「あ、や、ま――る、」
 「うん」
  思案気に、己の唇を繊細な指でなぞりながら、レンブラントはゆっくりと頷いた。
 「G-spl(ゴスペル)が……、もう長くは保たないからと言って、わたくしはNo.9074、君にその役目を無理矢理に押し付けようとしていた。今すぐにでもデータを移行し、君をデータバンク回線に繋いで、この、危うい均衡を保つ現在のP-C-Cの統治を行おうと……していた。けれど、わたくしは考え違いをしていたようだ。それも大きな、そう、とても大きな考え違いをね」
 「考え――違い」
 「そうとも。君を押さえつけて……、なんとか、君を君のままで、”管理者”として機能させられないものかと、わたくしは考えた。それが、君の幸福につながると、わたくしは思っていたからね。わたくしの命ずるままに為せば、君の幸福は保証される。……けれど、君の気持ちというものをわたくしはまるで……考えていなかったのだね。これは大変に……、そう、見落とした箇所であったね。認めよう。わたくしは誤認していたのだ」
  そうしてね。
 「君が嫌がって、そんなに何度も逃げるほど嫌がって、心の底から嫌がっているとは……思いもしなかったのだね。人間で言う反抗期のように、例え一時は抗っていたとしても、やがてはNo.9074、君も、このわたくしの崇高なる願いを、そうしてどこまでも整然と統制されたP-C-Cの美しさを、理解してくれるのだと、そうわたくしは認識していたのだよ。けれど……大いなる誤解だった。君は本気で……わたくしの願いを理解しようとは……いいや、理解できなかったのだね」
 「博、士」
  だからね。
  これ以上は無い慈愛の表情を浮かべて、レンブラントは微笑んだ。
 「喜びなさい。No.9074。わたくしは君を、”管理者”と言う責務から、外すことにしたのだ。そこまで嫌がる君を理解してやれなかった、わたくしの過ちでもあった。わたくしは君を……解放しよう。君は自由だ。なりたくも無い”管理者”になる必要も無い」
 「うわあああああッッ」
  慈愛の笑みを浮かべたレンブラントの背後から、金縛りの解けたマルゥが、がむしゃらに打ちかかった。
  見やるともなしに肩越しにエネルギー・ガンを一発。
 「――マルゥッ?」
  告げられた言葉より、一撃で吹き飛んだマルゥに気が行って、我に返ったカークは身もがきし、レンブラントの胸の内より飛び退る。
  右肩を撃たれたマルゥが、激突した壁を背に、顔をしかめて蹲っていた。
 「マルゥッ」
 「莫迦……アタシのコトなんかいいから……マスタを……」
 「No.9074。ああ……No.9074。本当にすまなかったね」
  撃たれた少女と言葉の矛盾に寒気を覚えて、モノクロームの世界の中カークはまじまじとレンブラントを眺めた。
 「あなたは――自分のしていることが判っているの――ですか」
 「なにがだね?」
  あくまでも微笑を崩さないレンブラントは穏やかだ。
 「望まぬ責務を無理に負わそうとして、すまなかったね。やはり”管理者”としての責務は……わたくしに忠実な、ゴスペルに引き続き託そう」
 「――え?」
  そこで初めてカークは、レンブラントの仄暗い片眼鏡の奥を見た。
 「託す――託す、とは」
  ゴスペルはもう長くは保たない。
  そう断言したのは、他ならぬレンブラント自身ではないか。
 「うん」
  応えてレンブラントは、静かに佇むゴスペルに目をやった。
 「ねぇ、君。君も賛成してくれるね?」
 「博士――」
  顔を僅かに背けたゴスペルの視線は、虚無に満ちている。
  レンブラントだけが一人手を打ち鳴らして、楽しそうだ。

 「ゴスペルの電子頭脳を、君の身体に入れようと思う」

  聞いたカークの世界に、残酷にも色彩が戻った。

 「な……に、言ってん、の……アンタ……」
  最初に反応したのは、壁に凭れたマルゥだった。
  幼い顔を精一杯引き攣らせて、レンブラントを睨みつける。
 「最初っから思ってたけど、アンタ絶対ヘンよ。ヘンって言うか狂ってるわ!」
 「虫けら同然のD-LLが何を言う」
 「な、」
  瞬時に瞳の慈愛の色は姿を消して、代わって現れたのは侮蔑の色だ。
  射抜かれてマルゥが絶句した。
 「明瞭たる目的もなく造られた愛玩人形が。だから下層地区のダミーは嫌いだよ」
 「な、何のことよ」
 「造られたのは大方どこぞの闇工場だろう?わたくしの手がけた高貴なD-LLたちとは比較にもならない、醜悪で愚劣で、救いようの無いものたちだ。表面上はD-LLそっくりに仕上げてはいるが、所詮は闇ブローカーによる贋作だ。まがいものに過ぎない。まぁ、そのまがいものがP-C-Cに蔓延していたおかげで、No.9074が紛れても目立たなかったのだから、役に立ったと言えば役に立ったとは言えるのだろうけれど」
 「な、な」
 「そうして怒りに我を忘れるか。芸が無いね。怒って、喚いて、それで解決できるものは何だね。結果を何も残さない行為を承知で行う、君は非常に愚かだ。安物部品で動いていることが奇跡と言えば、奇跡だが……ね」
 「何様なのよアンタ……!」
  瞬時に激怒したマルゥが、右肩を抑えて立ち上がるより早く、
 「――博士。あなたの言うとおりですよ――」
  いつの間にか、そっとヒューの傍らにしゃがみこんで傷を改めていたカークは、レンブラントの言葉を拾って立ち上がる。
  挑むように。
  護るように。
 「誰が造ろうと、私たちは、せいぜいが人間の――まがいものに過ぎない。どんなに高級な材料を使っても。どんなに高等な教育をなされても。偽造品は偽造品でしかないのです。決して独創品足り得ない。あなたがD-LLに対して――何の感慨を持って製造されたのかは知りませんが、私たちは人間にはかなわない。奇しくも、ヒトの間で生活できた私にはよく判る」
 「……No.9074?」
  製造者(メイカー)と対峙したカークは、真っ直ぐに相手を捕らえた。
 「私には、私たち中央管理局が成してきたことの過ちが、よく判る。驕り高ぶった私たちの過ちがよく判る。私は、あなたへの畏怖を口実にして、あなたに黙って従ってきた。従おうとした。あなたへ全ての責任を押し付けて、――逃げようとしていた。今なら私自身の卑怯さがよく判る。そうして博士、私は、私自身の意志で、あなたに従う気は――ありません。私は、制裁と粛清を盾にした大量虐殺には加担しない」
 「No.9074……わたくしに……わたくしに逆らうと言うのかね?」
  無慈悲な怒りに、レンブラントは身を震わせた。
  向かうカークの瞳も同じく冷酷。ただしこちらは、悲しみを湛えている。
 「わたくしに刃向かうと……言うのか」
 「――刃向かうというのならば――刃向かうのでしょう」
  一瞬憂いの色を浮かべた後、そうしてカークはきっぱりと、
  思い切った。
  目の前に立つのは、過去を共にした男ではなく、既に一人の他人だ。
 「中央管理局とたいそうな名をつけて、実態はD-LLがD-LLを製造し、管理する――歪んだ王国でしかないではないですか。博士――あなた”も”」
 「……えッ?」
  聞き捨てならない、そんな風で黙って固唾を呑んでいたマルゥがその言葉に反応する。
 「……D-LL?」
 「――もとは――人間だったのでしょうが。1000年生きる人間はいない。生き延びるために身体のあちこちを改変し、改変を重ねて――とうとうあなたは”心”まで回路の奥底に追いやってしまった。あなたは極秘にしていたのかもしれないが――”管理者”であるならば、判ることです」
  挑戦するようなカークの視線を受けて、レンブラントはこちらも同じく顎を上げると、
 「ふん」
  鼻先でせせら笑った。
 「それが。何だね?」
  わたくしがD-LLであることに何か問題でもあるというのかね?
  レンブラントは髪を掻き上げ、次いで片眼鏡を外し、
 「地球を捨てて幾世代。ようやく見つけたこの惑星は、脆弱な人間が移り住むには少々……と言うよりははっきりと不可能だった」
  思い出すように瞼を閉じる。
 「その大地に柱を打ち込み、中央塔を建てて、わたくしは人間どもがこの惑星に適応できるように、お膳立てしてやったのだ。……そう。確かにわたくしの身体には、生体部分は既に一片もない。だが、それがどうしたと言うのだね?わたくしは……むしろ嬉しいのだよ。醜悪に細胞分裂を繰り返す人間の身体を脱ぎ捨てて、永遠に……永遠に美しいままの姿を保てるのだからね。折角お膳立てしてやった惑星上で、人間どもは愚劣にも争いを始めた。争いのために地球を捨ててきたことなど、数世代を経て、未だに理解が出来ない低脳なのだ。正直、見放そうとも思ったのだよ。けれど……。わたくしは、一度手につけた仕事を投げ出すことが、結局出来なかったのだ。自身の自尊心が許さなかった。だからわたくしは、1000年かけて人間を統治してきてやったのだ。ありとあらゆる技術を用いて、争いのない、完全都市を建立してやったのだ。礼を言われるならともかく……、君ごときに糾弾される筋合いはNo.9074、全く……無いね」
 「治めて欲しいと――誰が頼んだと言うのです」
  滔々と語るレンブラントの言葉に惑わされることなく、
 「あなたのしていることはただの虚栄心の満足に過ぎない」
  カークは動揺もしなかった。
  聞いたレンブラントが、初めて怒りを露わにする。
 「これだけ言ってやっても判らないか。愚か、愚か、本当に愚かなことだ。わたくしに刃向かうと言うことは……世界を相手にするということだよ?」
 「それが――どうだと言うのです」


  ……せ、かい?
  どこかで聞いた覚えのある言葉に、うっすらと反応してヒューは重く鈍い頭を上げる。
  身体が。
  指先まで作り物のように、力が入らない。
  打ち抜かれた鳩尾が、じくじくと痺れて出血が未だに止まらないのが判る。
  ……寒ぃ……なァ。
  身を縮める。
  細かく震えて暖を取ろうとするのに、一向に身体が温まらないどころか、次第に体温が宙に溶けてゆくようで、

 「それが――どうだと言うのです」

  鈴を転がしたように凛と響く声が、妙に耳奥に残響した。
 「あなたに刃向かうと言うことが、世界に刃向かうと言うことなら。私は喜んで刃向かいましょう。世界よりも何よりも。たったひとつ、護りたいものがあるのです――私は」
  カー……、
  血で濡れ固まった瞼をこじ開けるのに、全身の力が要った。
  開くと朱に染まったヒューの視界に、華奢な背中が見える。
  細くて頼りなくて。なのに、いつも追いつきたくて眺めていた背中。
  彼の一言に、
  自分の理想は。
  そう冗談半分語り合ったあの夜を思い出す。
  青い月の降る砂漠の夜。
  ”俺好みの女”。
  木擦れの音を辿って、さまよい歩いた散歩道。
  ――あなたの。
  ――あなたの望みは、どんな。
  ――聞かせてよ、マスタ。
  ――よーく聞け。
  指折り数えるのは条件。
  ――世界中の人間を敵に回しても。
  ――世界中の銃口が向けられていても。
  ――泣かない。
  ――怯まない。
  ――喚かない。
  ――媚びない。
  ――居もしない神になんて、祈りもしない。

  参ったなァ。

  苦笑いを浮かべて、一度だけ。左の親指を撫ぜると、そこに填められた銀の輪っか。
  仄かにピンク色の、三連のリングの、ひとかけら。
 「ヒデェ口説き文句じゃねぇか」
  立ち上がる。
  ……俺の運命は……お前か。
  渾身の力であった。
  立ち上がれることが不思議だと自分でも思った。
  立ち上がった弾み、ごぼと込み上げた血糊を、脇へ吐き棄てた。
  まだ動く。
  動く。動かなければ。
  頼むよ。もう少しだけで良いんだ。
  ……動いてくれ。
 「――ヒューッ?」
  気配に驚いて振り返ったカークが、悲鳴を上げる。
 「動いては――動いては、……もう――!」
 「……なぁ。」
  口元を乱暴に拭って、一歩。
  喀血が拭いきれない。
 「お前ら」
  さらに一歩。
  凄絶。
  引きずった足跡に血溜まりができる。
  長くは持たないことが、自身で判る。
  甲高い笛の音が聞こえ、それが自身の喉から来る呼吸音なのだと、数瞬遅れてヒューは理解した。
 「マスタッッ」
  遠い潮騒のように、少女の悲鳴も聞こえる。
  聞こえないことにした。
  ……もう少しだけ持ってくれ……。
  祈るような気持ちだった。
  そのままヒューは、立ち竦んだカークの肩に手をかけ、力一杯後ろに突き飛ばす。

 「先に。行け」

 「――え――?」
  勢い突き飛ばされ、よろけるままに尻餅を付き、愕然と見上げる漆黒のガラス玉を、
  真ん丸い目をさらに広げて、零れそうな涙をこらえる少女の瞳を、
  肩越しに眺めて、ヒューは笑った。
  口の端を片方だけ上げる、いつもの笑い方で。
 「メシ、作って待ってろ」
  答える間は無かった。
  次の瞬間。
  雷音に似た轟きと共に、通路の空間全体が弾け飛んで、カークとマルゥの目の前の壁が崩れ落ちる。
  と、同時に物凄い力で背後へ吹き飛ばされて、数秒。呼吸が出来ない。
  持ち込んだショルダーバッグの中身を、いちどきにヒューがぶちまけたのだと二人が理解したのは、そのすぐ後だった。


  爆風にもみくちゃにされ、頭を抱えて。
  カークは、腹の底から絶叫した。


Act:25にススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:19