4

 「は、」
 「そんな辛気臭いツラで背後に立たれては、酔うものも酔わなくなるわ。座れ」
  強い口調であった。
 「命令」と名の付く裏に、彼を気遣うキルシュの気持ちが酌んで取れたから、エンは今度はおとなしく、彼女の前へと腰を下ろす。
 「注げ」
 「はい」
  差し出されたグラスへ、エンはまた火酒を注いだ。
  透き通る赤い液体がとろとろと流れる。
 「陛下」
 「なんだ」
  注ぎながらエンは言った。
 「エスタッドの皇帝は、心の臓がお悪いそうにございます」
 「それがどうした」
  怪訝な声をキルシュが出す。
 「不意を衝いて驚かせ、発作を併発させろとでも言うか」
 「流石は陛下。私の考えの及ばぬ案を思いつかれまする。そう言う手もございますな」
 「なぁあにが『流石』だ。白々しい」
  先程の仕返しなのだろう、褒めているようではっきりと貶しているエンの含みに、キルシュがむっとする。
 「今のは冗談だ。……で。皇帝の心臓が悪くて、何なのだ」
 「恐れながら。エスタッド皇、お子が作れませぬ。夜の営みに、お身体が耐えられませぬゆえ」
 「まぁ……、励まぬと子は出来ぬからな」
  ふと考える素振りで、キルシュが頷く。
  カヴダヴ酒が回ってきたのだろう。
  目元がほんのり、桜色に染まっている。
 「はい。婚儀とは名ばかりで、二国の合併。獲らぬ狸のなんとやら、の段階ではございますが、これを利用せぬ手はございますまい」
 「エン」
  先との態度とはうって変わって、背筋を正したキルシュが言った。
  厳しい顔になっている。
  室内の空気が、張った。
 「はい」
 「これはいつだかのように、後にわたしの気を引く話を持ち出すための、前振りではあるまいな?」
 「これは異なことを。どんな不調法者が、そのような策を持ち出したので」
 「どの口が」
  呆れてキルシュが仰け反る。
 「……して、どうなのだ」
 「只今が真打ちにござります」
  そのエンの言葉を聞くと、キルシュはしばらくの間、黙り込んだ。
 「……こなたも、少し飲め」
  張った空気が、いつの間にか弛緩している。
  知らず力んでいた肩の力を、エンも抜いて長椅子に沈む。
  その様子を見たのだろう、低い声でキルシュが呟いた。
 「ですが、陛下。私は」
 「判っている。まだ仕事が残っているとでも言いたいのだろう。そなたの言いそうなことだ。聞こえぬ。飲め」
 「陛下」
  小さく苦笑して、エンはキルシュの差し出したグラスを受け取った。

 「世迷言を言うが」
  次にキルシュが言葉を発したのは、それからまたしばらく経ってからだ。
  強引に勧められるまま、エンは二度、三度グラスを空にした。
  胃の腑が燃えるように熱い。
 「はい」
 「こなた。逃げたくは、ならぬか」
 「……陛下?」
  静かな声で、キルシュが問うた。
 「昔。掛け札を教えてくれた時に、こなたは言ったな。『賭けは、一番勝つと思う手に賭けるのだ』と。この場合、強い手とはなんだ。どんなに目をすがめて見ても、トルエは勝てる見込みの少ない……、大負けする前に、場を下りたほうが良いと思われる札だ」
 「……」
 「せいぜいがワンペアの役を、二倍にも三倍にも見せかける為に、奔走するこなたの心中は一体どんなものなのかと。……そんなことを、最近。たまに考える」
 「判りませぬか」
 「判らぬ」
  頬杖を突いて口を押さえたのだろう。キルシュの声が少しだけくぐもった。
 「流されてゆくことが、たまらなく……怖い。一人ぼっちの闇は、とても冷たい」
  独白だった。
  ぽつんと呟いた声はひどく心許なくて、本当にさびしそうだった。
  思わず腕を伸ばしかけ、気付いてエンは慌てて自戒する。
  鉄壁の自制心。
 「月を、ご存知ですか」
  であるから、代わりにエンは口を開いた。
 「……月、とは」
  怪訝な声で、キルシュが応じる。
 「あの、空にかかる月か」
 「その、空にかかる月にございます」
 「知っているも何も。……今夜も浮かんでいる。それが、どうした」
 「以前、天文学者から聞きかじったことでございますが、月は、自ずからは光を放たないそうにございます」
 「ほう」
  興味を惹かれたのだろう。彼女が身を乗り出す気配が、エンに伝わった。
  現代では多くの人々が常識としていることでも、時代や背景が異なれば、常識も文化も、無論、違う。
  キルシュたちの生きたこの時代、天文の専門家でなければ、まだ星や太陽の運行と言ったことに対して、一般の知識は浅かった。
  月が己で発光しようとしなかろうと、その知識自体、生活に密着していなかったからだろう。
  世界の端が信じられていた時代である。
 「月は月」
  それだけだったのだろう。
  満ち欠けがあり、色が変わるだけで、大概の者はそれ以上の疑問を持たなかった。
 「では、何故光る」
 「あれは、対になる太陽の光を反射して光っているそうにございます。地上で鏡に陽光を受けるのと、同じ原理ですな」
 「なるほど。巨大な鏡が、天空に浮かんでいると」
 「そのようです」
  書痴のエンに触発されて、昔から、キルシュの知識への関心は深い。
 「その月が、何だと言うのだ」
  首を傾げた。

       5

 「はい。月は、己からは光りませぬ。雲がかかれば見えませぬ。陽光がなければ、地上から気付かれることもございませぬ。それでも月は、天空に浮かんでおります」
 「……」
 「陛下。陛下は、月になられませ。気高く天に座する月になられませ。光を受けようと受けまいと、それは確かにそこにございます。宵闇の中でも、決して消えてなくなることはございませぬ。時に、天の宮はひどく冷たいかも知れませぬ。独りと感じることもあるかも知れませぬ。しかし、月は地上のものが仰ぎまする」
 「……」
 「そして私は、その月の光の下でしか生きられぬ、獣(けだもの)にござります。我が手で光を失くしてから、私の光は陛下にございます。月光でしか生きられぬゆえ、必死にもなりまする」
 「……詭弁とけなすか。雄弁と褒めてやるか。悩むところではあるな」
  エンの言葉に押し黙っていたキルシュが、ようやく口を開いた。
  気が紛れたのか、声に力が戻っている。
  苦笑していた。
 「では、東奔西走するケダモノにあえて尋ねたいが、何故わたしを月と定めた。世は広い。こなたの月となれる候補も、数多おったろうに」
  エンのグラスに酒を注ぎながら、キルシュが尋ねた。
  彼は、迷い無く即答する。
 「私の目には、たった一つしか映りませなんだ」
 「また。クサイ科白を吐く。わたしをおだてても何も出ぬぞ」
 「本心にございます」
 「本心か。こなたの本心は移り気で判らぬ」
 「判りませぬか」
 「判らぬ。こなたはいつも、大事なことは口にしないで、はぐらかすからな。……狡い男め」
  今度はエンが苦笑う番だった。
  己が狡猾なことは、己自信が一番よく知っていたからだ。
 「耳が痛うございますな」
 「いけしゃあしゃあとよく言うわ」
  ぼやきながらキルシュはグラスを呷る。
  その彼女に釣られるように、エンもまたグラスを口に運んだ。
  酒に強いほうでは無い。酔いが全身に回って、熱くなっていた。
  赤い顔をしているだろう。
  とても、良い心地だった。
 「寝てしまえ」
  彼を眺めていたのだろう。向かいのキルシュがそう言って、毛布を投げて寄越した。
 「そこでそのまま寝てしまえ」
 「まだ。眠る訳には……、」
  そう言っても身体は正直だ。
  抵抗する言葉と裏腹に、安息を求めて、既に糸が切れたように動かない。
 「げっそりとやつれた顔で、無理矢理駆けるような馬鹿者に、月は光を投げかけてはやらぬぞ」
 「光は万人に平等でありましょう」
 「あいにくと、この月は相手を選別するのだ。良いから。寝ろ」
  そう言って彼女は立ち上がる。
  そのまま近づく音がして、ふわとエンの身体に、つい先程投げた毛布を広げて掛けた。
 「陛下」
 「……済まぬ」
  温もりと共に、ぽつんと声が降って来る。
 「弱音を吐いたわ。これは恐らく酒に酔ったゆえ。忘れろ」
 「陛下」
 「いいな。忘れろ」
 「は、」
  念を押して言い聞かされ、言葉を封じられたエンは頷く。
  すっと伸びた首筋と、白すぎる肌。
  何ものも干渉を許さない存在感で、彼女はエンを圧倒する。
  そうして、彼から離れて、窓際に立つ気配。
  グラスを片手に、外を眺めているようだ。
 「酔ったと言えば、トルエからの旅は、散々だったな」
  苦渋った声がした。
 「散々、とは」
  半ば夢うつつで、エンがキルシュの言葉をなぞる。
 「死ぬかと思った」
 「ああ。襲撃にござりま」
  訳知り顔で頷きかけたエンに、違う。キルシュが首を振る。
 「そうではなくて。あの程度、どうと言うことは無い。わたしが辟易したのは、揺れだ」
 「……揺れ」
  遮られた言葉が意外であったので、エンは朦朧と顔を上げる。
 「揺れ、とは、馬や車の揺れでござりますか」
 「そう。馬や車の揺れだ。アレには堪えた。しこたま酔った」
 「は、」
  不意に込み上げた笑いを抑えきることが出来なくて、エンは声を立てて笑った。
  思い当たったのだ。
  道中、言葉少なだったキルシュを、エンは見ていた。
  そして邪推した。
  公女は恐れていると。
  トルエを離れ、エスタッドへの罪を問われる旅を、
  いつ何時襲いかかって来るか知れない夜盗を、
  そしてその運命を、
  怯え、恐れ戦いた上での沈黙だと思い込んでいた。
  余計な気を回したりもした。
  それをキルシュは、乗り物酔いで悩まされていたと言うのだ。
  何のことは無い。
  くつくつと笑うエンへ、眉をしかめて眺めていたのだろう、
 「こなた。酔ったな。笑い上戸め」
  キルシュが釘を刺しても、エンは笑いを収めることが出来ない。
  酒を勧めたのは、彼女だ。
  そのことに思い当たったのだろう。それ以上咎めることなく、キルシュは憤慨の吐息をひとつだけ付いて、外を眺めていた。
 「こなた、わたしにばかり婚儀を迫るが、こなた自身はどうなのだ」
  笑いで緩んだ神経に、仕返しとばかり、痛い角度からキルシュは切り込んでくる。
 「私自身……とは」
  笑みが引き攣った。
 「トボけるな。こなたも、いい加減イイ年ではないか。世間ではとっくに、子供二人はいてもおかしくは無い年齢であろう」
 「私の世間では異なりまする」
 「ああ言えば、こう言う。本当に忌々しい男だな。したくないのか」
 「しませぬよ」
  酔った勢いだっただろうか。
  つい――ほろりと本音が、口から零れ出た。

      6

 「ほう」
  しまったと臍を噛んでも後の祭りである。
 「ほう。せぬか」
  本音を巧くさらったのは、キルシュだ。わざとらしく驚いている。
 「それはそれは。して、何ゆえ」
  好奇心を含んだ声だった。
  揶揄する声である。
  向かって、エンは苦虫を噛んだ顔になった。
  自分の一瞬の気の緩みが恨めしい。
  言わなければ、いつまでもいつまでも、キルシュはつついてくるだろう。
  で、あったから、諦めた。
  一瞬である。
  認めたのだ。
 「捧げてございます」
  大きく息をひとつ吐いて、
 「この身の全てを、陛下に捧げてございます」
  エンは言った。
 「……わたしに」
 「はい」
  息を呑んで数呼吸。思いもかけない言葉だったのだろう。キルシュが小さく繰り返した。
 「……要らぬな」
  がしかし。
  次に返された彼女の言葉は、彼の予想の斜め上を行った。
  素直に恥じらう性格ではないと思ってはいたが、
 (私なりの、精一杯だったのだが)
  エンは内心苦笑する
 「要りませぬか」
 「うむ」
  キルシュは頷き、そうして次に続けた言葉は、
 「要らぬ。わたしは貪欲であるから、こなたの身体だけでは満足せぬ」
  照らい無く、言い切った。
 「では、」
 「こなたの身体だけでなく。心も、全て寄越せ」
  弾かれて顔を上げる。
  酔いに鈍った頭にも、強烈な一言だ。
 「おかしなことを申されますな」
  じんわりとエンの胸に、キルシュの要求が浸透してゆく。
  温かな笑みが頬を緩めた。
 「私の心は、疾うに陛下のものにござります」
 「言ってくれる。本心かどうかいずれ試してくれるわ」
  鼻で笑って、キルシュはそれきり口を噤んだ。
  甘い空気が流れることを嫌ったのかもしれない。
 (――敵わないな)
  口の中で呟きながら、エンは酔いに足を引かれ、とうとう眠りへと意識を手放した。
  夢の間だけは、安楽に身を任せられよう。

 「馬鹿者」
  であったから、深い寝息を立て始めたエンに、キルシュが一人ごちたことは、当然知りようはずも無い。
 「この、底抜けの大馬鹿者が……」
  もう一度呟く。
  夜気に流れた声は掠れていた。
  見上げた月が、キルシュの目には揺らめいて膨れ上がっている。
  こらえ切れなくなった涙腺から一滴、手にしたグラスに跳ねて落ちると、それに気付いた彼女は、慌ててごしごしと瞼を拭った。
  喉奥で唸る。
  泣くは、負けだと思っている。
  自身の弱さが、自身で許せなかった。
 「強くあれ」。
  そう念じて生きてきたのだ。
  その牙城を、長椅子で寝息を立てる男は、いとも簡単に崩してしまう。
  悔しい。
  けれど、乱暴に瞼を擦るうち、男の言葉に泣けたことが悔しいのか、
  泣いている自身を放って、男が眠ってしまったことが悔しいのか、
  それとも、
  こうまで男がくたびれ果てる状況を、作ったことが悔しいのか、
  何がなんだか判らなくなって、キルシュは泣き止んだ。
 (……狸寝入りではあるまいな)
  余計なことを勘繰って、彼女は窓際を離れ、男の寝顔を覗きこむ。
  そもそも、盲いた瞳を隠しているのだから、仮令男が眠った振りをしていたのだとしても、キルシュには判別がつかないのだが。
  数滴、額に火酒を垂らしてみた。
  ぴくともしない。
 (寝ている)
  そこで強張りが抜けて、キルシュはもう一度だけ鼻をすすった。
  男の、微かに開いた薄い唇から、舌がこぼれて見える。
  この舌が動いて、様々な人間の運命を翻弄させようとするのだ。眺めてキルシュは、少し不思議な気持ちになった。
 「……参謀とは因果な商売であるな」
  頬を突いて、キルシュは男の耳元に囁いてやる。
  トルエを離れてより、
  そして更にはそれ以前、キルシュに出会って後の15年間、
  彼女と同等か、もしくは以上に気を張り続けた、ただ一人の人物だ。
  緩む暇が無い。
  緩ませ方を、忘れてしまったのかもしれない。
  今夜も、働き続けるエンを見兼ねて、押し掛けを承知でキルシュは部屋に訪れたのだ。
 (こうでもせぬと、こなたは倒れるまで走り続ける)
  それは悲痛な確信でもあった。
  息を潜めて見下ろすと、世界に今はただ一人、彼女だけが知っている無防備な寝顔がある。
 「……こなたはな。このわたしより離れて、生きるという術もあるのだぞ」
  ――心は。
  ――心は疾うに陛下のものにござります。
  生真面目に、見えない視線で自分を見つめた先の声を思い出して、
  彼女は切ない色を瞳に湛えた。
  トルエを背負う公女であろうと、
  特殊な環境で育とうと、
  それでも尚、彼女は女である。
  憎からず思う男から告げられる本心が、嬉しくないはずは無い。
  しかし、
 「負わなくても良い荷を、あえて負うている」
  楽であろうはずがない。
  手を伸ばして、男の顔に触れてみる。
  それから、
  そっと男の瞼の上をなぞり、眉を寄せて、キルシュは顔を背けた。


公女と参謀にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:00