<<月へと還る獣>>

   二国間協議

       1

 「花は牡丹か霞みは芙蓉。双花は決して並び立たぬ」
 「そぉれ、ちんとんしゃん」
  いつだったか。息抜き、と称してこっそり修行中に足を向けた皇都の劇場で、そんな一節を歌った歌劇を観劇したことを、男は思い出していた。
 (あの時の女形はえらく綺麗だったな)
  どうでもいいことを思っている。
  ぽかんと阿呆のように口が開いていた。
 「……どうなされました」
  その内の、牡丹か芙蓉か。
  どちらと判別の付かせようが無い片方が、無垢の白装束をまとった姿で、鶴首のように細い首を傾げた。
  真っ白な衣装にもかかわらず黒い炎にも見えるのは、頭と瞳が、北国特有の深い青を帯びるほどに漆黒だったから。
  少女である。
  格別化粧をしている訳ではないが、元の造りが、派手である。
  清楚と言うよりは、淫靡である。
  目が大きい。鼻筋が通る。白粉でも叩いたのかと勘繰りたくなる、白い肌。
  まるで、陶器。
  ああそうかこれは生きていないのか人形なのかだからこんなに綺麗なんだな。
  そんな言葉で男は己を納得させた。
  少女の、臙脂を引いたように紅い、唇が僅かに尖る。
  不審な声を出す。
 「具合でも、悪いのですか」
 「――君。無我の境地に至るのは、祈りを捧げる間だけにしてはどうだね」
  重ねてもう片割れの花が、呆れた声で促して見せた。
  こちらも簡素な貫頭衣に、それだけは豪奢な銀狐のマントを肩から滑らせている。
  温かそうだな、と思う。
  縫いとめた皇族の証のブローチが、たった一つの装飾品だ。
 「は、は、は……」
  がしかし、促されたところで、裏返った声が僅かに一音、零れるばかりで、男の喉は正常機能しようとしなかった。
  土台、目の前の二人が異常に過ぎるのだ。
  どこの原産だったか思い出せなかったが、確か遠国の特産品である陶器人形が二体、前に並んでいるのである。
  等身大の。
  血が通っているとは思えない。何離れしているのか、男は適当な言葉を当てはめることが出来ないが、この世離れしていることだけは確かだと、思った。
  人を超えたという意味で、ある種の超人である、と男は痺れた頭の片隅で、そんなことも、思う。
 「か、か、神とは、あ、貴方のようなお方のことを、その、言う、言うので、ございましょうな」
  ようやく絞り出した言葉は、まるで意味が通じなくて、
 「む」
  少女が首を捻っている。
  威厳が薄れると、稚さが覗く。
 「それは一体、」
 「……恐れながら、公女陛下。推測しますに、ラグリア教・教皇代理さまは、こうおっしゃりたいのに違いありますまい。『お二方ともに、神の御心のありますように』と。……で、ございましょう?教皇代理ダフナーさま」
 「あ、は、は、さ、左様である」
  公女と呼ばれた、まだ年若い執政者の、側に控える男がそっと口添えた。
  機転が利く。
  瞼の上に何故か布をあてがった、長身の男だ。
  肩すれすれに、几帳面に切り揃えられた黒髪が揺れている。
 (こいつも北の出か)
  思う。
  一言、口を差し挟むと、再び側仕えの男は姿勢を正した。
  そんな光景を見やりながら、
  そして脂汗を垂らしながら、
  器用な男である。ダフナーと呼ばれた男は頷く。
 「左様。左様である」
  己の職種を言われることで、僅かに平常心が舞い戻ってきている。
  くく、と含み笑いが聞こえ、ぎょっとしてダフナーは目をやった。
  双花の、もう片割れと一瞬男が思った――実に、冷静に眺めればエスタッド国の皇帝その人は、ダフナーの取り乱しっぷりを、たいそう楽しんでいるらしい。
  こちらも同じく紅の唇が、斜め上に引き結ばれていた。
  皇帝、上機嫌であった。
 「こちらがエスタッド皇帝陛下……。と、言うことは、貴女さまはトルエ公国の公女であらせられまする訳で」
 「そうですが……何か問題が?」
 「いえっ。いえ、その」
  とりあえずは、各立場を再認識して、頭の中を整理しようと思った教皇代理ダフナー、思わず声が漏れ出ていた。
 「失礼、……紹介が遅くなりました。後ろに控えておりますのは、わたくしの右腕。エンと言います」
  慌てふためくダフナーと、エスタッド皇の両人へ向けて、トルエ公女が腰を折り紹介する。
  呼ばれて先程の男が、こちらも深々と頭を下げた。
 「凡才ながら、トルエ国の参謀役をあい務めまする。今後とも、どうぞお見知りおきを」
 「ああ。堅苦しい挨拶は抜きにしよう。うん……、私のことは疾うに知っているね。それと、机の前にいるのが書記官。背後の近衛はディクスと言う。大きいのだけが取り柄の、四面四角。面白みの無い側近であるよ」
  ダフナーを差し置いて、エスタッド皇が話を進めて、席を指し示した。
 「まぁ、まずは座りなさい。立ち話では話題に花も咲かぬ」
 「はい」
  頷いて、勧められるままに公女は腰を下ろしかけ、
 「教皇代理さま」
  目を白黒させたまま憤慨している、ダフナーへ呼びかけた。
 「どうなさいました」
 「な、何でもない」
  場をさらわれて、不愉快とも言えない。
  もとより、二人を見た瞬間、取り乱したのは他でも無い己自身なのだ。
  憤然とダフナー、腰を下ろすより他、無かった。

       2

  会談とは名ばかりの、非公式の軍議であり、裁判所でもある。
 「そもそも、」
  腰を落ち着け、本題に入ったエスタッド皇は、胡乱な視線を目の前の公女へ投げやる。
  現在の状況を楽しんでいるのと、過去の過ちを許すかどうかは、まったく別の話である。
 「エスタッドとトルエ。二国の和議を破棄したのは、他でも無いそちらが先なのだ。それを、判った上での今回の訪問ではあるのだろうね?」
 「勿論です」
  問われてキルシュが頷いた。
  眉一つ動かさない。
 「ムシの良い許しを乞うていることも、よーく判っております」
 「ふむ。……それで、トルエの出す謝罪の条件とは何だ」
 「謝罪の条件、ですか」
  言われてキルシュが不思議そうに首を傾げた。
 (演技か、本気か)
  演技であるならば、大した度胸である。
  そっと様子を伺いながら、彼は褒めてやりたい気分に陥っていた。
  彼の前に出て、平静を保てる人間はそう多くはいない。
  戦場で名を馳せるダインですら、彼の前に出ると、もそもそと据わりの悪い顔になる。
  エスタッド皇、意地の悪いことに、はっきりと己の容姿の威圧感を認識していた。
  認識した上で、素知らぬ振りして相手の動揺を眺めて楽しむのだ。
  とことん性質が悪い。
  性分であった。
 「トルエは。エスタッド国に対して、謝罪する気はまったくありません」
 「ほう」
  いきなり段上から切り込んだ。
  とんでもないことを言い出す公女である。
  ところが皇帝。怒りだすどころか、関心を惹かれて、かたわの身を乗り出す。
  話をようやく聞く気になったのだ。
 「……君の一言一句が、国を巻き込む大きな波紋を呼ぶかもしれないのだと、それは判っているのだろうね」
  一目で、場の空気に呑まれるほどヤワではないと、皇帝はキルシュを分析している。
  しかし、万が一、と言う言葉もある。
  彼は語調を強めて念を押した。
 「無論です」
  キルシュは頷く。
 「正気を失った訳でも、自暴自棄に陥った訳でもありません」
 「成程」
 「しかし、トルエ国民を路頭に迷わせる、深刻な事態にはならないと、わたくしはそう確信しております」
  そう言って、キルシュは横目でちら、とダフナーを見やった。
  己を保つことに精一杯の教皇代理は、気付かなかったようだ。
  けれど、皇帝ははっきりとその視線を追いかけている。
 「……それは、どう言うことかな」
 「実は。わたくし、前トルエ公の犯した大罪を、心底悔やみ、省み、鑑み……この身と運命を、神の御手に捧げる覚悟をいたしました」
 「ふむ」
 「……まずは覚悟の程を示す証に、これを」
  そう言ってキルシュは、ばっさりと切り絶たれた後ろ髪を撫でた。
  自慢の、長く豊かな黒髪は、そこには無い。
  男のように短髪である。
  まだ成熟しきっていない分、少年にも見えた。
  それが、ますます少女のいとけなさを強調させるのだった。
  眺めたその一瞬だけ、皇帝の視線が鋭いものに代わる。
  意図を、読もうとしたのだ。
  女の命と髪が、同等であった時代の話である。美しさの条件の一つに、「長く艶やかな髪」が入った。
  女であるならば、幼い時より「髪は命」と母親に言い聞かされて、丁寧に梳られて育つものと決まっていた。長じて、成人の際に「髪上げ」と名の付いた儀式を行う。
  現在ではかなり簡略化されて、その面影を感じさせないが、頭を結うと言うことは、「大人の女」と周囲に認められたということだ。
  勿論キルシュも、8歳で再婚した折に髪を結っている。
  婚姻は、「娘」から「女」になる儀式だからだ。
  仮令それが、まだ年端のいかない痛々しさの残る少女であったとしても、非情さを踏まえての、国と国との「婚姻」であった。
  その髪を、切ったと言う。
 「まだ改心して日の浅い我が身ではありますが、教本を手に取る度、教義を聞かせて頂く度、ラグリア神の慈悲深さに打たれ、目の覚める思いです。そして修行をさせて頂いた神殿で、わたくしは考えました。いくら言葉を重ね、謝罪したところで、この罪は到底贖えるものでは無い。……では、一体どうしたら、この深い罪業を償うことが出来るものかと」
  ラグリア。
  神の名を呼ばれた瞬間正気に戻ったようで、教皇代理の男の目がらんらんと輝き始める。
  見止めて内心、皇帝は舌打ちした。
  公女の持ち出す話が読めてきたからである。
 「そしてある晩。礼拝所で一心に祈りを捧げていたわたくしに、突然、ラグリア神がほんの数瞬、そのお姿を見せてくださったのです」
 「なんと、ラグリア神が!」
  わざとらしく驚いた声で、ダフナーが繰り返す。
  皇帝はそんな男を見て、眉根を寄せた。
  小心者で挙動不審だ。だが、愚かではない。
  しかもそれが、教団に潤いを齎す話だと気付いたのなら、なおさらのこと。
 「それはきっと、貴女の信仰の深いことを、神がお認めになったに違いないッ」
 「ええ、わたくしもそう思ったのです」
  得たり、とばかりにキルシュが胸の前で握った手をきり揉んで、頷いた。
  こちらも演技だ。しかし騙し技は、彼女が数段上である。
  目端に涙が浮いていた。
 「許されざる大罪を犯した、我が国が唯一……許しを得る場所。それは、わたくしのみならず、トルエ国の全てをも、ラグリア神の御手に委ねることだと、そう神は告げられたに違いないのです」
 「素晴らしい!なんと素晴らしいご決意であろう」
 「……ならぬ」
  発した言葉は同時だったろう。
  思わず漏らした皇帝の鋭い一言に、しん、と応接室が静まり返った。
  これ以上黙っていては、話の主導権を公女に握られてしまう、それを憂慮しての一喝である。
  ダフナーとキルシュ、両名の視線。それと室内で息を潜めていたディクスと書記官。さっと皇帝に集った。
  公女の背後に控えた参謀が、低く抑えた咳払いをした。
  じろりと睨む。
  この男の策であることに、皇帝は疾うに気付いている。
  上位に立って、高みの見物を決め込みかけていたエスタッドを、トルエと同じ土俵に、引きずりおろしたのだ。
  忌々しげに小さく舌打ちをする。
  視線を感じているのか、いないのか。取り澄ましたトルエ国の参謀は、微動だにしない。
  隠された瞳は読めない。
 「……あの。何か」
  代わって公女キルシュが、覗きこむように皇帝へ尋ねた。
 「何か、支障がありますか」
  困惑した微笑すら、その頬に浮かんでいる。
 (面白い)
  皇帝、腹の中でぎりぎりと唸った。

       3

 (勝った)
  と、思っている。
  皇宮の応接室を後にした、エンである。
  全力で遠泳をし切ったときと、少し似ている爽快感だ。
  彼が仕える公女に、「憎たらしい」と文句を言われる鉄面皮は、崩すことなくしかし内心、快哉を上げたい気分だった。
  これでこそ、彼が公女に宗教替えを勧めた狙いであり、
  そうしてまた公女がその教義通りに、数ヶ月を清廉潔白に過ごし、
  更には、私財を投げうってまでラグリア教団に、喜捨と言う名の袖の下を渡した苦労が、あると言うもの。
  エスタッド皇国は軍事国家である。
  奇才と歌われるエスタッド皇の性格に反して、彼の国が取る軍略の多くは、正攻法であり、定石であった。
  奇襲とは、本来の真正面からの攻撃を繰り返すことによって、相手に隙を生むもの。
  奇策とは、百の定石をして初めて生きてくるもの。
  奇をてらい続けては、それは単なる物好きか悪あがきに過ぎない。
  裏をかくのが「奇」なのだ。読まれてはまるでその意味を持たない。
  エスタッド皇、そこのところはしっかりと押さえている。
  であるから、例えばエスタッドが一国を攻める際、数を力に押し寄せた。
  そのための軍事国家であり、抱える職業軍人だった。
  職業軍人とは、日頃から軍務に従事するものたちのことだ。いざ、戦が起きた時に雇われる傭兵や徴兵される市民兵とは、畑が異なる。
  職業軍人を抱える条件はただ一つ、軍人たちを食べさせていけるだけの、国力の余裕があること。
  進行時はともかく、一年の大半を訓練で費やす彼らを養う国庫の安定があってこそ、初めて「軍事国家」と呼べるのである。
  飢えた軍では、使い物にならないのだ。
  そんな大国がある国に、攻め入ろうとする。
  嫌うひとつは、背後を衝かれること。
  もうひとつは、内応して紛争を起こされることである。
  数を任せて押し切る作戦と言うことは、本国はかなり手薄になるということである。
  がしかし、仮に、背後を衝かれたところで、負けるとは言わない。
  大軍が自国に戻るまでを、篭城でもして、じっと堪えれば良いだけの話である。
  援軍の見込みのある篭城は、もっとも安全牌だ。
  ただし、事情はどうあれ、煩わしいことに変わりは無い。
  その上、構想している計画が数年は遅れる。
  できることなら避けたい。
  内紛は、さらに面倒くさい。
  隣国が背後を衝いて攻めてくるなら、まだ腹も収まる。
  相手の隙を衝くことこそが、戦略だ。なだれ込まれた相手方が煩わしく思おうが、思わなかろうが、勝手に思わせておけ、である。
 「仕方なし」
  その言葉で納得させるより他無い。
  隙を作るほうが、悪いのだ。
  しかし。進軍中の内紛は、実に始末が悪い。
  端的に言えば、一国の中で治まってしまう揉め事だからである。
  例えば、エスタッドのような大国相手に、真正面からぶつかれない国はいくらでもある。
  トルエもその一つだ。
  小国同士、協定を結び合って連合軍を成し、正面奇ってぶつかる、と言う手も無くは無いが、このご時勢、いつ何時その協定を覆されるか、知れたものではない。
  二国間協議ならともかく、エスタッド相手には数国の協力が、必要不可欠である。
  それらそれぞれの、主義権利の主張をまとめ上げることは、困難である。
  下手をすると数年。かかりかねない。
  であるから、小国の狙うは、大国内で不満不平を抱えている分子だ。
  ほんのちょっと、外から刺激してやれば、彼らはたちまち本国に対して牙をむく。
  あとは、己が手を汚さずとも、同国人同士で勝手にドタバタと、しばらく盛んに騒いでくれる。
  更にちょっかいを掛ければ、面白いように長引く。
  内紛を起こされた方の国は、歯軋りしながら、しかし鎮圧するしか術は無い。
  放っておいては、安心して侵略に出かけてゆくことも出来ぬ。
  しかし、進軍の手を止められるのは、
  しかもそれが、同国内での揉め事であるならば、
  内紛を起こされた方、百害あって一理も無い。
  先代エスタッド皇が、ラグリア寺院を焼き払ったのも、その辺りに原因があった。
  数年。構想を練り、厄介ごとをあえて持ち出し、相手方を侵略する理由を与え。満を持していざ、その時に国内で呼応した反乱軍が、あちらこちらで狼煙を上げた。
  よほど頭にきたのだろう。
  出発間際の大軍を率いてそのまま、主要因と思われる教団本部に、怒涛の如く攻め入ったというから、これは相当なものである。
  大は小を飲み込む。
  一時は、反乱分子も押さえ込んだように見えた。
  が。燻ぶる不満までもを、押さえ込めるはずも無い。
  しかもそれが、過激な信仰を誇る宗教集団であったなら。
  それは現皇帝に政権が移った今も、時折火の手を上げる。
  一度叩き潰された、その恨みは深いのだ。
  ラグリア教団をそそのかした国が一体どこであったのか、詳細は不明である。
  取るに足らない小国であったのかもしれない。
  今はもう無い国だったのかもしれない。
  判っていることはただ、「エスタッド国内にて内紛が起きた」、その事実だけである。
  そこへ、トルエは。
  ラグリア教に、トルエ国の領地と領主をそっくりそのまま差し出すと、そう言ったのである。
  エスタッド皇にしてみれば、ようやく事が収まり、最近はおとなしくなっているラグリア教に、わざわざ騒動のタネを植え付けられようとしている。
  嘘か誠か、確かめようは無い。
 「馬鹿なことを」と、鼻で笑って仕舞いにすることもできる。
  が。
  人間、追い詰められれば、大概のことは何でもする。
  確かに、トルエは小さい。
  一国でエスタッドと向かい合う国力も無ければ、産業にも乏しい。
  国としてみれば。
  しかし、ラグリア教団が一国の領地を手中に収めるとなると、話は別である。
  過激派の数はそう多くは無いものの、エスタッド国内にも信者は多いのだ。
  勿論、軍に従事しているものの中にも。
  これは、見過ごす訳にはいかない。
  一気に不愉快な顔になった皇帝は、だが理性を失うことは無く、飽くまでも表面上は穏やかに、トルエとラグリアの結びつきを否定して見せた。
  エンの一番の狙いだったのは、そこだ。
  否定したと言うことは、代わりに別案をエスタッドがトルエとラグリアに、提示して見せねばならぬということだ。
 「嫌だ。気に入らない。だからやめろ」だけでは、話と言うものは進まない。
  利権が絡めばなおさらである。
  さらにトルエは、領地と領主を差し出すという提案をした際に、「謝る気は無い」とはっきりと意思表示をしている。
  今さら、エスタッドから「謝罪の意志があるなら、トルエを乗っ取らせろ」とは、言い出せない状況に追い込んだのだった。
 「そちらの出す条件次第では、トルエはラグリア教と手を結ぶぞ」
  そう脅しを掛けたのである。
  はっきりと。
  結局、不承不承ながらも、エスタッドはトルエの背信行為を内々に認め、不問とすることを提示するしかなかった。
  これが、鞭。
 「代わりに」
 「不問」との言葉をはっきりと皇帝から引き出したエンが、そこでようやく口を出す。
  これは、トルエから持ちかけてはいささか具合が悪いのだ。
  事情がどうあれ、表向きはエスタッド皇から発したという形にしておかねば、後々支障が起きる場合がある。
 「寛大なるエスタッド皇帝陛下に、二国の更なる発展と、平和と繁栄を約するために、ひとつ提案がございます」
  そうして持ち出したのが、エスタッド皇と公女キルシュの、婚姻による再和議だった。
  これが、飴。
  先の、「ラグリア教にそっくりそのまま差し出す」のと、形は違えど同じ提案をして見せたのである。
  トルエ公国に、キルシュ以外の後継者はいない。
  だがキルシュに子は無い。
  婚姻は、そのままトルエの領土がエスタッドのものになるのと、同意義だった。
 「いらない」と、エスタッドは断ることも出来る。
 「トルエ程度の小国を手にするために、エスタッドが払う代価が大きすぎる」、そう言うこともできる。
  これは飽くまで、「提案」と言う形を取っているからである。
  がしかし、皇帝が断れば恐らく、トルエは教団と結びつく。
  それは困る。
  何としても避けたい。
  痛し、痒し、であった。
  条件を出すエンの前で、やはり顔色一つ変えない公女が、口元に微笑をたたえて俯いていた。
 「……公女は、どうなのかね」
  苦し紛れに皇帝は、キルシュに水を向ける。
 「婚姻の形を取れど、実際はトルエがエスタッド国に飲み込まれるということだ。21代続いた……この乱世には珍しい、古き良き家系ではないか」
  21代。ざっと200年。
  安穏とした世と違って、数日で消えていった後継者も数多くいたから、だいたいがそんなところである。
  それでも、現れては消えていく大陸の国の中では、古いものから数えて二番目に入る。
 「惜しくは、ないかね」
  そう聞いているのだ。
  婚姻とは形ばかりで、おそらくはトルエの名が消える。
 「名に執着はありませぬ」
  その時は公女、それだけ答えて終わりにした。
  ちなみに。
  棚からぼた餅を逃したラグリア教の教皇代理ダフナーも、表立っては口を挟まない。
  トルエ一国の領土を逃したことは、大きい。
  がしかし、ラグリアはエスタッドの公式に認められた宗教であるから、婚儀となればその仲立ち人として、教団の手で式を執り行うことになろう。
  手に入るか、入らないか、今の時点ではまだ定かではない巨大なぼた餅よりも、婚儀の際に謝礼や寄進として贈られる、確実なぼた餅の方が美味い。
  そう判断したのだろう。
  反対は、しなかった。
  終始和やかな雰囲気で会談は終わる、とその日の記録にはある。
  まるで真逆の、エスタッド皇の腹の内を覗けば、書記官、仰け反ることになっただろう。


最終更新:2010年10月21日 23:04