4

 「閣下にどの口を叩くッ」
 「――言うことの聞かない相手は力で従えるか。豚のやりそうなことではあるな。わたしをくびり殺す前に、出荷時期を過ぎた椅子の上のそれを、処分してはどうだ」
  顔面に砂を交えながら、嘲笑に公女は唇を歪めた。
 「貴様、今の状況が判っているのか?!」
 「状況?状況とは何だ。次に聞くことは皆それだ。脅して何が出る?……支配者の為すことは、感心するほどに似ている。捕らえる。面前に引き出して検分する。舌なめずりをする。そうしてあとは、寝所へ連れ帰って朝方まで楽しむ。繰り返し繰り返すさまは、芸を教えこんだサルのようだ。こちらが逆に飽きた。欠伸が出る」
 「この……奴隷公女が!」
  足蹴にされて露わになった、公女の額の黒く焼け焦げたしるし――奴隷に貶められた身分を示す、焼印。
  口内でも切ったか、赤いものの混じった唾を地に吐き出しながら、
 「この額か。額がどうした。焼印ひとつで運命が変わるというなら――是非とも全身に焼き入れたいところだ。わたしはわたしだ。それ以上でも以下でもない」
  鋭く光る視線で、彼女は辺りを睥睨した。
  昔。
  身を持って、彼女にそれを教え示してくれた男がいる。
  己が光を失う代わりに、彼女に進むべき道を、照らし出してくれた男がいる。
  今はそう思っている。
 「トルエの、公女殿」
  怒りに微か、震えた声で、ようやく我を取り戻した大将軍が言った。
 「強気の娘は嫌いではない。寝所でもそれが続くかな」
 「『トルエの』公女ではない」
 「は?」
  あまりに意表をついたのだろう、彼女の言葉に再度大将軍は目を剥いた。
 「どころか、既に『公女』でもない。残念だが、半日前にその肩書きは丸めて棄てた」
 「な……に……?」
 「ハルガムント邸の西の窓から投げ棄てたが、さて。誰か物好きでも……拾ったか」
  先は知らぬ。
  そう吐き棄てた公女の言葉に、思い当たる節があったか。大将軍は不意に血相を変え、立ち上がると、
 「まさか……まさか。おい!ラグリア司祭長が逃げたと言ったな?」
 「は……はッ」
  立ち上がった彼の剣幕に驚いたのか、
  一人で立ち上がることの出来た事実に驚いたのか、
  双方はっきりしない配下の男が、慌てて手にした紙切れを読み直す。
 「た、確かに」
 「どこから!」
 「に、西門より、と」
  西の方向には何がある。
  酒精に鈍った頭の中身を、唐突に配軍図に照らし合わせて、
 「西には……西のずっと先には、エスタッド軍の大部隊があるのではなかったか?糞ッ。何か指令を帯びて老いぼれは逃げたというのか?」
 「は……、あの、ですから。『悪い知らせ』と」
  その程度はとうに予測していたのであろう。むしろ、していないほうが問題なのだ。目を白黒させて、配下の男は告げた。
 「ハ、ハルガムントは……、屋敷はそれを知っているのか?!」
 「おそらくはそれほど重要視してはいないかと。でなければ公女を、ここへ送り込むような真似は……その、自分には」
 「畜生ッ」
  まるで品のない罵声を吐き棄て、大将軍は改めて足元のトルエ公女を見下ろした。
  否。
  彼女の言葉を借りるなら、既に「公女」ではない。
  ただの、少女だ。
 「貴様……貴様、老いぼれ司祭長に何を託した!」
 「愚かな。おいそれと口に出来るものか」
 「トルエの公主が、肌身離さず身に着けているはずの……朱印ももしや持たせたかッ?」
 「さあ」
  臙脂の唇をにいいっと上げて、艶然と彼女は微笑んだ。
 「あいにく記憶が飛んで無い」
 「エスタッド皇国に、トルエの全てを差し出したと言うか?!何の見返りも無しに?り、理解できん。理解できん!狂ったのか」
 「見返りはある」
  大将軍を見上げる彼女は、砂に汚されてさえ清廉だ。
 「そこに住む人々の小さな幸せが消えぬことだ」
 「理解できんッ!」
  頭を打ち振って大将軍は、怒りに任せて手にしたグラスを地へ叩きつけた。
  砕け飛び散った破片のひとつが、少女の頬に赤い筋を残す。
  それでも彼女は微笑を崩さない。
 「――分からず屋のハルガムント侯爵夫人にも言ってやったが。国などどうとでもなる。境も名前も直ぐにでも変わる。変わらぬのは……そこに住む人々だけだ。大切なのはその人々の生活が守られること、それだけだ。金も富も関係が無い。それが判らぬような施政者は、穴を掘って埋まるなり、己の手で縊切るなりした方が良い。世の中とやらも少し平穏になろう」
  お前はどうだ。
  そう言外に言われた気がして、大将軍はますます赫怒した。
 「小賢しい!……あの能面皇帝にトルエを差し出した、だと?」
 「盗るの盗られるの言っている内は……こなたも同じ穴の狢か」
  身もがいて少女は半身を起こし、凛とした眼差しで大将軍を射抜いた。
 「――さて。で、どうする?この身には既に何ら価値が無いが」
  殺すか?
  その漆黒の瞳は、篝火を映してなお、揺らがない。
 「ぬ、ぬ、ぬ……」
  歯軋りをしてしかし口ごもった陣幕に、
  わあッ。
  鬨の声が不意に上がった。
 「な、な、なんだ?!」
 「――陛下ッ。お逃げください、エスタッド皇軍の……夜襲にござりまするッ」
  駆け込んだ伝令が、そのまま血煙を上げて倒れた。
  転げ落ちそうなほどに、大将軍の肉に埋もれた眼が見開かれる。
 「馬鹿な……ッ?」


 (――しまった……ッ)
  瞬間、エンの身を焼き貫いたものは、烈しすぎる後悔だ。
  エスタッド本部へ、死に物狂いで馬を奔らせ飛び込んだ、トルエ支部のラグリア司祭長――グラーゼンが齎した知らせを受けて直ぐのことだった。
  司祭長が胸元に秘めた封書は、一通。
 「トルエの全権を、エスタッド皇国現皇帝に無条件に譲渡する」そう書かれた羊皮紙一枚と、現トルエの最高責任者であるキルシュの血判、そしてトルエ公主の証である朱印。
  21代歴代の公主が手にした、全権を現す印。
  「おいこら!」
  慌てふためいた声が肩越しに掛けられて、咳き込んだままテントの入り口にすらたどり着けずに、崩れ落ちていたエンが、正気に返る。
  知らず己の胸倉を鷲掴んでいた。
  どくどくと鳴り響く喧しい音に、少しは静かに出来ないのかと、文句を言おうと口を開きかけ、それがエン自身の頭の中に響く音だと気付くのに、数秒要した。
 「起き上がってはならん!」
 「ああ――、大丈夫。眩暈がしただけです。放して下さい、立てます」
  丁度様子を見に来たのだろう、軍医の力強い手で引き上げられて、却って立ち眩みがする。
 (エスタッドに、弱みを見せては足元を掬われる)
  すぐにそんな計算をしてしまうのは、性である。
  腐っても策士であった。
  腕をつかまれ支えられて、何度か深く呼吸を繰り返すと、無茶苦茶に跳ねていた心音も次第に静まり、そこで初めてびっしょりと汗を掻いていることにエンは気付いた。
  一気に、不快になった。
 「もう平気です。申し訳ない。――放して下さい」
  支柱にすがって、支えた腕の持ち主に無理に笑うと、
 「放せると思うのかッ」
  がんと拒否される。

       5

 「――そんなにひどい顔をしていますか」
  笑いかけた頬が、そのまま力無い苦笑に染まった。
 「ひどいなんてモンじゃありゃせん。蒼白を通り越して真っ白だぞ。おとなしく横になりなさ……おい!」
 「エンさま!」
  動こうとするエンを更に制止したのは、軍医ではなく、今しがた到着したと思われるバートだ。
  エンと公女キルシュの、数少ない味方の一人である。
  年上の部下は、テントへ飛び込むと同時に、長革靴の汚れを落とす暇もなく、
 「無茶にございます!」
  軍医の上から飛びついた。
 「あとのことは私どもにお任せ下さりませ。どうか、どうかお休みになってください」
 「寝る間も惜しい。寝てはいられません」
 「お願いです。なんでしたら、今日だけで結構です。結構ですから」
  哀願する声に、頑固にかぶりを振って、エンは無理矢理に押さえつけられた床から、立ち上がりかけ、
 「エンさま!」
  再び咳き込んで、崩れ落ちた。
 「お身体が持ちません!」
 「大丈夫です。まだ――保ちます」
 「アンタ。何故にそこまで無茶をなさるか。アンタの身体はもうボロボロだぞ。どうせ周りには隠しているのだろうが、もう何度も発作を起こして喀血しておるのだろう。何を生き急いでおるのか知らんがね、今無理しては延びるものも縮まるだけなんじゃあないか」
  バートに支えられ、喘ぐ息の下から顔を上げて、エンは真っ直ぐに軍医を睨みつけた。
  失った眼球で。
 「あの方は独りで戦っておられる」
 「あの方とは……公女のことか?アンタ、アンタがそんな視界の不自由な身体で、何か出来ると思うのか?意気込みだけは勇ましく救出しに行けると思うのか?一体何ができると言うのだね?後のことは軍人に任せてアンタは引っ込んで、」
 「――あの方は独りで戦っておられるッ」
  軍医の言葉を遮って、激したエンは立ち上がった。
 「司祭長がここに派遣された意味を、あなたは判らないのだ」
 「何のことだ」
 「公女は――公女は、犠牲になるおつもりだ」
  エンを抱きかかえたバートと軍医が、はっと息を呑むのが伝わる。
  血の気の失せた拳を握り締めて、エンは今にも暴走しそうになる己を何とか抑えていた。
  公女に――キルシュに、己を捧げてその成長を傍らで見つめてきた彼であるから、彼女が何を考えるのか、よく判る。
  己の浅はかな思惑に、飽くまで善意のグラーゼン司祭長を巻き込み、その身を盾に掲げられてエスタッドとトルエの双方への脅しをかけられて。
 「わたしがなければ全ては丸く収まる」
  あのどこまでも私欲を通さない少女は、そう考えるに決まっているのだ。
  司祭長が運び込んだ封書と朱印がそれをはっきりと物語っている。
 「あとは、よろしく頼む」
  用件だけ記した簡素な封書には、その言葉すら書いてはいなかった。
  書いてなかったが故に、逆にエンには、痛いほどその意思が伝わる。
  それは、哀しい直感だ。
 「……どういうことです」
  低い声でバートが尋ねる。
  彼には判らない。
 「無条件でトルエの全権をエスタッドへ譲渡したあの方は既に――、トルエ公主でなければエスタッドと約を交わした盟主でもない。無力な――15歳の人間ひとりでしかない。利用価値のないあの方を、エスタッドは助けるのでしょうか?そも、アルカナは生かしておきましょうか?」
 「……」
 「死にたい訳ではないのでしょう。しかし、あの方は己の延命への執着をおそらく棄てた。アルカナの残党が腹いせに嬲り殺そうと、エスタッドがその身に構わず交戦を開始しようとも」
 (あなたは確実に戦渦に巻き込まれる)
 (いや――それすらも受け入れたというのか?)
  口の端を噛み締めたエンの脳裏に、いつのことだったか。頑是無い少女の声が蘇る。
  確か、トルエの公女に据えられる前の夜のことだ。

  ――土壇場で……もう、何をどう頑張ってもいよいよどうにもならなくなった時はな。
  物知り顔で得意そうに語る彼女を、微笑ましくエンは眺めている。
  ――地に伏して神に祈りでも捧げまするか。
  おどけた口調は即座に切って捨てられた。
  ――馬鹿な。「生き長らえさせてくれ」なぞと無様な祈りを叶えてくれる神などいようか。
  ――叶えてはくれませぬな。そもそも神は、聞き届けてくれるのみにございます。
  ――そうだ。だからそう言う時は「死の苦しみに耐える強さを保てるように」と祈るのだ。
  ――無信心な陛下らしゅうございます。
  キルシュが小さく笑った気配がして、そのあと不意に鹿爪らしい声で、
  ――ところでこなた。こなたは、その最期の瞬間も……わたしの側におるのだろう?
  何とはなしに尋ねた。
  声が、微かに震えているのを、エンは聞き逃さない。
  ――勿論にございます。私は陛下のお側を終生離れませぬ。
  ――そうか。
  彼の応えに彼女は笑って、
  ――よかった。
  隠しているものの、隠し切れない心底安心した少女の声を、エンは忘れない。

  ――ひとりでなくて、よかった。

 「エンさまッ」
  踏みしめた両足の下の大地は、まだ幾分ゆらと揺れて、しかし今度は何にも縋らず、エンは立ち上がった。
  駆けたい。
  馬に乗り、がむしゃらに少女の下へ馳せ参じたい。
 (だが――)
  頭を振り、込み上げる無鉄砲な思いを、エンは冷静の下に押し固めた。
 (私が我を見失ってどうする)
 「エンさまッ」
 「バート。軍医殿。止めてくださいますな」
  口から出た声色は、既に平静のものへと戻っていた。
 「私はトルエの策士にございます」
  その言葉だけで、背筋の伸びる心地がする。
  主君が生きている限り。
 「陛下がいつ何時お一人になっても、決して道を過たぬよう。光明無き暗がりに歩みを止めぬよう。僅かな迷いの側道へ足を踏み入れぬよう。太く確かな道標を立てておかねばならぬのが、私の役目でございました」
 「あなたは、」
  動揺はない。
  迷いもない。
 「あの方は独りで戦っておられます」
  静かな声に、制動していた軍医とバートの腕が離れる。
 「血も涙もない鉄面皮」と、
 「腐っても策士」と、
  揶揄するならするが良い。
 (最高の褒め言葉ではないか)
  笑みが浮かんだ。
 「ゆえに。私は、私の戦いを此方でいたします」

       6

 (……しまったッ)
  同じようにここにも一人、唇を噛み締め己を責めたものがいる。
  第五特殊部隊将軍――ミルキィユだ。
  エスタッド本隊とは行動を別にすること一週間、上手い具合に気付かれず、ハルガムント邸の山岳方面から侵入に成功した、その直後のことである。
  公女の姿がどこにも無い。
  城砦のどこにも見当たらない。
 (そんな筈は無い)
 「……お嬢」
  不安に眉を曇らせながらも、もう一度探せと、配下のものを叱咤したところへ、降って湧いた高笑いがある。
  侵入後、まず真っ先に身柄を拘束された、ハルガムント侯爵とその夫人であった。
  後ろ手を縛られ、地に膝を付かされた夫人が、猛り狂ったように笑っているのだ。
 「……何がおかしい」
  低い彼女のアルトの声が、普段より一層抑えられて侯爵夫人に突き刺さる。
  不穏な声にびくともせず、嘲笑に唇を歪ませて夫人はけたたましい声を上げた。
  それは、勝ち誇った笑いだ。
 「心底おかしいから笑っているのさ!まったくザマぁないね!鬼の将軍さん、アンタの目論見は見事に外れたんだよ」
 「どういうことだ」
  自分を誹謗する言葉には全く反応せず――、それでもミルキィユは夫人の方へ足を向けた。
 「あの皇帝サマのことだ。やれ公女はトルエからの客人だからだの、エスタッドは盟約相手との約束は守るだの、どうせお綺麗な御託並べて、エスタッド本隊とは別に――トルエ公女を救出する一部隊を派遣するだろうと踏んでいたら案の定だ。アンタが来るんじゃないかってことも、薄々は予測していたのさ。せっかくの隠密行動の結果が失敗に終わるとは、大層お気の毒だけど、公女はもうこの城砦にはいないよ」
 「なん……だと」
 「いくら痛めつけてもあの強情娘、トルエ譲渡の血判状を書きやしない。仕方が無いから、ちょっとお仕置き代わりにアルカナ王国軍にね。今頃は大将軍様とよろしくこなしている最中なんじゃあないかねぇ」
  ふふ。
  笑った唇が淫靡だ。
 「アルカナ王国軍に……公女を売ったと、言うのか」
 「売ったなんて人聞きの悪い。大将軍様に差し上げたんだよ。アタシはね、もともと皇帝に喧嘩を売って勝とうだなんて、そうたいして思いゃしないのさ。金の切れ目が縁の切れ目、ラグリア教団だって、どこまで助けてくれるか判ったもんじゃあない」
 「ラグリア教団を後ろ盾に、トルエの国土をアルカナ軍と折半して……、陛下に一泡吹かせてやろうと、そう言う魂胆ではないと言うか」
  意外な顔でミルキィユは夫人と目線を合わせる。
  理解できない。
  そんな表情をしていた。
 「ふん。だからアンタは甘っちょろいのさ」
  見下した視線で、夫人はミルキィユをせせら笑う。
 「軍人上がりのお堅い頭でしか考えられない、だからアンタは二流なんだよ!」
 「トルエの公女か」
  言葉をなくしたミルキィユの肩越しに、ダインが夫人へ声をかけた。
 「弟大公の復讐のつもりなんだな、アンタ」
 「そうさ」
  唐突に形相が変わったように感じて、ぎょっとミルキィユは身を仰け反らす。
  夫人の顔が歪んでいる。
  浮かぶは、憎悪だ。
 「あの小娘をぎったぎったに熨してやりたい。絞め殺してやりたい。串刺しにしてやりたい。アタシはこの三年間と言うもの、ずっと……ずうううぅぅっとそれだけを考えて生きてきたんだ」
 (ここまで人を憎めるか)
  怒りに身を震わせる夫人に、ミルキィユはふと思う。
 (そうまでして叶える想いとは、一体何だ)
 「……ルドルフを手にかけたのは、エスタッド軍だろう」
  困ったように頭を掻いて、ダインが言う。
 「結果的にはね!」
  乱杭歯をむき出して、夫人が喚いた。
 「だけど切っ掛けを作ったのはあの小娘と……小娘の側にいつも控えていた、無表情な男の仕業に決まってるんだ。アタシには判る。アタシの血を分けた弟は、あの小娘にたぶらかされて骨抜きにされ……、そうして皇帝サマに戦を仕掛けたのさ。勝ち目のない戦をね!」
  一矢。
  ただ一矢、それだけのために、
 「弟の首を前にアタシは誓ったんだ。いつか必ず、あの公女の取り澄ました顔を苦痛と恐怖に歪めてやると。その為なら、アタシは全てを投げ打っても構わなかったのさ。あの小娘が、大将軍様に組み敷かれ、泣き喚く様を思うだけで、エスタッドとアルカナ、両軍の衝突のどさくさにあれが命を落とすかと思うだけで、それでもうアタシは満足だよ。今アンタに殺されても、ちっとも構わない。アタシは、アタシのしたいことをやり遂げたんだからね」
 「逆恨みにも、程がある」
  不意にミルキィユは立ち上がり、喚き散らす夫人を見下ろすと、
 「ルドルフの為した数々の淫行の方が、余程わたしには許せぬ」
  強く言い放った。
  瞳に冷たい光がある。
 「あなたとは相容れないな」
 「は!相容れようが相容れなかろうが、公女の運命はどうだい?もう風前の灯じゃあないか。今さらアルカナ本陣へ向かったところで、間に合いやしないさ!」


 「お嬢」
  堪らなかったのだろう。嘲弄する夫人に背を向け、歩き出したミルキィユに近づいて、ダインがぼそ、と声をかける。
 「アンタは間違ったこと言っちゃあいねぇよ」
 「違う」
  真っ直ぐに前を向く瞳は、いつの間にか睫涙を湛えている。
 「泣くなよ」
 「泣いてない」
  ごしごしと目端を子供のような仕草で擦って、ミルキィユは鼻を啜った。
 「心底、自分で自分が嫌になった」
 「お嬢」
 「醜い」
 「……」
 「その醜さは、わたしの心にもある」
 「……」
 「瞬間はただの夫人の怨恨だと思った。根拠のない、理不尽な逆恨みだ。……だが、根拠のあるなし、理不尽のあるなしは一体誰が判定するのだと、直ぐに思った。他人ではない。判定基準はおそらく、己自身なのだ」
  吐き棄てる。
 「例えばわたしが、わたしにとって正しいと思えない状況に遭遇したとしたら。貴様や、陛下や、わたしの大事なその他の人たちが、わたしにとって納得の行かない理由で殺されたとしたら。わたしは殺したものを、ひどく憎むだろう」
 「……」
 「或いは出来得ることなら報いをと、復讐に走るかもしれない。目の前にいたら叩き殺すかもしれない。けれどそこに、世論も政情も関係はないのだ。わたし自身の常識に当てはめて、それが納得の行かないものだったとしたら」
  わたしは。
 「わたしもまた、夫人と同じなのだ」
 「……お嬢」
 「あの醜さが、わたしの心にも確かにある」
  唇を噛み締めるミルキィユの頭に、ダインは手を置きかけ――流石に人目のあるここではまずいと判断し――中途半端に上げた手の行き先を、結局自身の頭に持って行きながら、ダインは苦笑する。
 「慰めは聞きたくない」
 「おべっか言おうとしてるワケじゃあねぇんだよ。アンタは何て言うか……、」
  その。
  言葉に詰まってダインはぼりぼりと頭を掻いた。
 「綺麗なんだ」
 「――」
 「アンタ自身が清流に棲んでいる魚だから、時折流れる汚泥にきっともがくんだな」
 「ダイン」
  驚いたように目を見張って、ミルキィユは言った。
 「な、なんだ」
 「貴様正気か」
 「……」
 「守銭奴傭兵が、詩的な言葉を吐くとは思わなかった」
  笑う。
  まるで邪気のない、心底おかしそうに笑うのだ。
  笑い、それから、
 「すまなかったな」
  ぽつりと呟いた。
 「お嬢?」
 「弱音を吐いた上、慰められた。この借りは戦いで返さねばなるまい……行くぞ、ダイン」
  言葉と共に、直ぐに背を向け、馬止めに向かって歩んでいる。
  颯爽。
  その言葉が良く似合う女だと、ダインは以前から思ってた。
  今もまた、思いを強くする。
 (敵わねぇなぁ)
  再び頭を掻いて、それからダインは鬼将軍の後を慌てて追った。


公女と参謀にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:03