同じく。
  心ここに在らず。目の前に広がる光景を眺めている男が、優勢側――即ちエスタッド皇軍陣――にも存在した。
  壮年の、男であった。
  エブラムと言う。
  家名を継ぐだけの無能が多いと、皇帝以下、現実を直視するだけの勇気があるものが嘆く中で、珍しく叩き上げの軍人である。
 「生粋の軍人」などと渾名まで付いている。
  生粋の、と付くだけあって、自己に課す規律がとことん厳しい。
  この男が休んでいる姿を見たものがおおよそ、いない。
  いつでもどこかで、鍛錬を積む姿が目撃されている。
  比例して、部下にもその厳しさを貫いた。
 「無力なるは既に一つの罪業である」
  などと、日常的に言い切ってしまう辺りが、「生粋の軍人」と謳われる所以であろう。
  その腕を買われて、アルカナ王国残党軍殲滅に、抜擢されている。
  因みに一撃離脱の俊敏性は、エブラムの本隊にはない。
  と、言うより、奇策を用いることを嫌った。
  正攻法が好きだったらしい。
  定石通りに動く陣。
  これは一見、全ての動きを相手方に読まれてしまうかのように見えるが、実はこれほど理に適った攻撃方法はない。
  古今、戦術を書いた書物が読み継がれていることからも判るように、時代は変われど戦う人間に毛ほどの変化もない。
  人が変わらない限り、戦術の是非も変わりようがないのだ。
  実際、
  型通りに嵌まった正攻法ほど、怖いものはないのである。
 「百の定石があって、初めて一の奇が効する」
  と、以前トルエの策士も漏らしているように、正攻法の進軍あってこその、特殊部隊であった。
  例えば、ミルキィユの率いる隊。
  例えば、命を受けた傭兵からなる前線部隊。
  その、定石を何より好む男が、目の前に繰り広げられる光景に、息を呑んでいる。
  詰まっている、と表したほうが、より的確かもしれない。
  傍らに立つ青年の洞察力に、畏怖さえ感じていた。
 「貴殿はここまで予測していたと言うか」
  乱れ逃げ惑うアルカナ残党軍に、威風堂々と進軍してきた面影は微塵も見えない。
  青年は、曖昧な微笑みをエブラムに返した。
 「否」
  優しげな外見に反して、出てくる言葉は辛辣である。
 「生温うございますな」
 「……生温いと」
  思わず目を剥くエブラムである。
  問う視線を流したエブラムに、その青年――エン――は、鋼鉄を思わせる声色で、
 「これは、奇襲ではございませんので」
  言った。
 「と、言うと」
 「殲滅とは、相手を徹底的に叩き潰すことにございます。皆殺し滅ぼすことにございます。僅かなりとも手勢をまとめ、退却できる余力を与えてしまったと言うのなら」
  生温い、と。
  微笑を崩さぬトルエの策士に、背筋に薄ら寒いものを感じるエブラムだ。
  いつの間に本陣に辿り着いたのか、床机に腰掛けていた彼に詰め寄った先刻を思い出す。
  片手にトルエの全権を示す、朱印を掲げ。
 「エスタッド皇より、本陣の指揮を揮えとの命を拝してございます」
  通達書は届いていない。
  辞令の一枚もトルエの男は持っていない。
 (はったりではないのか)
  疑う気持ちがなかったと言えば、嘘になる。
  エブラムは軍人である。
  だが、軍人である以前に、エスタッド皇国民であった。
  生まれてよりこの方、任務以外に皇都を離れたことがない。
  二国間同盟を結んだと、上から聞かされてはいたが、「エスタッドとトルエが協定に同意した」と言う以外、どの程度トルエと言う国が信用できるクチなのか、またどの程度猫を被った相手なのか、エブラムには知る術がない。
  審眼。
  結局のところ、頼れるのは己の相手を見抜く「眼」であった。
 「この男ならまあ、いいか」
  全てをトルエの男が語り終わるその前に、エブラムはそう判断していた。
  無謀と言われれば、そうかもしれない。
  試してみようと言う好奇心が、警戒心を勝ったとも言える。
 「やってみろ」
  瞬間、にやりと。
  言を下した一瞬、エンの口元に浮かんだ笑みを、エブラムは見逃さなかった。
 (ほう)
  心の中で、感心している。
  エンが浮かべたそれが、一軍の将を騙し果せた安堵の笑みではないことを、瞬時に見抜いたからである。

  むしろ、歓喜。


 「鬼気迫るというのは、貴殿のようなもののことを指す言葉なのかも知れぬな」
  普段口にしないような褒め言葉――あるいは貶し言葉か――が、エブラムの口から零れ出た。
  容赦が一切感じられぬ。
  戦場で、どこまで透徹を貫けるか。
  それが軍人の、軍人たる資格のようなものであり、エブラムが日々己に課している題目でもある。
  感傷が入ると人は弱い。
  その弱みが時には強みになりもするが、それは個々のレヴェルでの話であって、
 「一軍」
  を動かす将として、もっとも注意すべき事柄である。
  感傷は、迷いにつながる。
  即断を要求される戦場で、頭目たる将に瞬き一つ分でも迷いが生ずれば、末端に辿り着く頃には大きなうねりとなっていることが多い。
  定石が、いつまでも定石足り得ないのは、大概の場合、命を発するおおもとが、迷いながら指揮を揮うからである。
  その、迷いがない。
 「鬼でございますか」
  鬼と呼ばれたその本人、首を傾げ、意味を噛み含むように口の中で転がした。
 「鬼ならば、皇国にも一匹。強くて哀しい鬼が棲んでおりましょう」
 「鬼、か」
  言われてエブラムは、皇軍内でも鼻つまみ扱いの、透明質の少女を思い浮かべる。
  堅くて脆い、凶刃。
 「迷いは生ぜぬか」
  ふと、疑問を口にしていた。
 「迷いでございますか」
 「あの残党軍のどこかに、トルエ公女がおられるのであろう。こうして貴殿が指揮を揮うことで、公女の身に何かあっては、と」
 「ここで亡くなるタマなのでしたら、その程度の器だったのでございましょう」
  ぎくりとするほど、トルエの策士から冷酷な声が返ってきた。
  相変わらず、エンが頬に浮かばせた微笑は変わることがない。
 「貴殿は厳しいな」
 「生粋の」と揶揄されるエブラムが、思わず苦笑して本音を漏らすと、
 「差し詰め私は――獣にございまするよ」
  どこか上空を眺めながら、エンがぼつりと呟いた。
  無論、盲いた瞳の上には当て布が当てられているのだから、仰いだところで光景が目に映る訳ではない。
  釣られてエブラムも上を向いていた。
  その仰いだ耳に、低く抑えた声が忍び込む。
 「――月に依って生きまた月に焦がれ。到達しようと足掻く、醜状たる獣にございます」

       3

  立て直しを図ったアルカナ王国残党軍と、エスタッド皇国軍が再度激突したのは、明けて紫獅子の月三日のことである。
  河岸をはさんで此岸と彼岸に睨みあうこと十数日。
  ハルガムント邸にてトルエ公女キルシュが拉致されてから、実に半月強に及んだ。
  勿論、それ以前にも、あちらこちらで小競り合い程度の戦闘は行われていた。
  小競り合いの沸点が高まり、ついに弾けて真っ向からの戦闘になったとも言える。
  もとより、エスタッド皇軍の士気は高位を示しており、それは半月強の野営においても少しも静まるところを見せてはいない。
  日頃、本国で訓練しつくされている職業としての軍人の賜物であり、また大元を締めるエブラム将軍の意識度も関連していただろう。
  野営陣において何より怖いのは、戦闘を長引かせることだ。
  欠乏した日常の中で、兵士たちの不満は次第に高まり、あるものは民家へ略奪行為に走り、またあるものは身内でいさかいを起こし始める。
  きつく縛り上げればその矛先は上官へと向かい、かと言って全てを黙認してしまっては下に就くものは上を小馬鹿にし始める。
  手綱の緩締が難しい。
  その調節を日々の戦闘で上手く活用したのがエブラム将軍であり、
  対して完全に裏目に出たのが、大将軍以下、元アルカナ王国残党軍を率いる将の顔触れだった。
  実に牙を研ぎ澄まして戦いをけしかけたエスタッド軍と、
  脱走兵の尋常ではない量に頭を抱え、これ以上目減りしては敵わないと、戦に応じたアルカナ軍。
  どちらに軍配が傾くのかは、十に満たない子供の目にも明らかであったろう。


  その、アルカナ陣営。
  明り取りのひとつない、テントの中に、堅く戒められ、転がされてキルシュはいた。
  剥きだしの大地から、芯から震える寒さが這い上がってくる。
  アルカナ王国残党軍に拉致されてから、随分経過している。
 「随分」と表現したのは視界を覆われた状態で、昼も夜もないテントの中に転がっているのである。
  おおよその感覚しかない。
  苦労して起き上がり胡坐をかいた。
  虚空を見つめてみる。
  見つめるしか、すべきことがない。
  先ほどから、剣戟の声が次第に高まり始めている。
  開戦したのだ、と検討はついた。
  が、
 「逃げよう」
  とは思わなかった。
  無論、まったく考えが及びもしなかったかと問えばそれは嘘になるが――、そもそも、逃げ延びる才覚が自身にないことは、キルシュが一番良く知っている。
 (護身術でも習っておけばよかったかも知れぬ)
  呑気にそんなことを思っている。
  熾烈な鉄の波からなんとか逃げ果せた大将軍が、ここに陣を張るなり腹立ち紛れにキルシュを散々殴って、去った。
  以来、上の面々が訪れる気配はない。
  殴られた頬が、鈍く痛む。
  痛めつけられた体で、しかし彼女はおかしそうに肩を震わせて笑っているのだった。
 (可愛げのない男だ)
  勿論、アルカナ王国残党軍の話ではない。
  自身が捕らえられるアルカナ軍に叩き込まれた苛烈な攻撃の中、確かに。小憎らしいほど冷静な、トルエの策士の残滓を、キルシュは嗅ぎ取ったのである。
  遠慮会釈が一切なかった。
  どころか、まるでそれが当初の目的であるかのように、エスタッドの一軍は、アルカナ本陣目掛けてまっしぐらに突き進んできたのだった。
  トルエ公女を助けようという、動きではない。
  その場にいる何もかもを全て弾き飛ばす――、
 「殺す気か」
  あの時も。
  半月ばかり前に、ハルガムント邸からアルカナ本陣へ連れ出されたときのことだ。
  正直キルシュが、押し寄せる騎馬に踏み潰されることなく済んだのは、単にアルカナ大将軍の一番近くにいた、それだけなのだった。
  幸運であった、としか言いようがない。
  良い意味での巻き添え、と言う奴である。
  大将軍を守ろうとする閣僚が、幸運にキルシュをも守り通したに過ぎない。
  拘束されていたキルシュには抗いようがなかったし、仮令自由であったところで、前述したように、武道の心得など一切ない。
  せいぜいが頭を抱えて逃げ惑うぐらいのものだ。
  無力。
  今現在の自分を、キルシュはそう分析している。
  剣のひとつでも使えるのであれば、この緊張し、しかし緩みきったアルカナ王国残党陣から、闇に紛れてそっと逃げ出すことも出来ただろう。
  馬を巧みに操れるのであれば、繋がれている軍馬の一頭を失敬して、まっしぐらにエスタッド皇国へ馳せ戻ったはずである。
  そのどちらもない。
  剣技の心得もない自身が、この混乱の中を逃げたところで、呆気なく再度捕まることが目に見えている。
  馬技の心得もない自身が、軍馬を盗んで逃げたところで、疾駆する馬の背にしがみついていることさえ出来ずに、落馬して首の骨でも折るのが関の山だ。
  策士はそれを知っている。
  知っていて尚、アルカナ軍を容赦なく叩き潰しにかかっているのである。
 「殺す気か」
  もう一度呟いてみた。
  いっそ、死んでしまった方が手間が省けて、良いか。
  口元から漏れる吐息が、芯まで冷え切った体のために、白く色づきもしないことに、キルシュは気付かない。
 (利用価値のない人間)
  思い当たってキルシュは低く忍び笑った。
  トルエの全権をエスタッドに押し付け終えた今、キルシュは既にアルカナ王国残党にとって邪魔な荷物でしかない。
  あの血の巡りの鈍そうな大将軍も、そろそろ気付いても良い頃合である。
 (縊り殺すか。嬲り殺すか)
  どちらにせよ、あまり楽な死に方ではなさそうだ。
 「やれやれ」
  剣戟を縫って、もっと近い音。
  彼女の耳にはテントに向かって歩みを進める、幾人かの足音が聞こえていた。
  近づいてくる敵の足音。
 「難儀なことだ」
  呟いて彼女は、真っ直ぐに顔を上げ。垂れ幕が巻かれてゆくのを、静かに見つめ続けたのだった。


公女と参謀にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:05