ジョヴァンニ・ミキエル

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「ジョヴァンニ・ミキエル」で検索した結果

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  • ジョヴァンニ・ミキエル
     ジョヴァンニ・ミキエル(Giovanni Michiel)は、1560年代初頭の駐仏ヴェネツィア大使。同じ時期の駐仏大使に、ミケーレ・ソリャーノ(未作成)がいた。 ノストラダムス関連  ミキエルの1561年の報告書には、ノストラダムスに関する証言がある。  今後、この哀れな君主(=シャルル9世)は、噂されているように片目を失うかもしれません。そのことは、私に、フランスで非常に人気のあるノストラダムスという占星術師の占いを思い起こさせます。彼は、王太后に、王子たちが全員玉座に就くでしょうと告げたことで、王子たち全員の命を脅かしたのです(*1)。  「王子達はみな王になる」という有名な予言に関する証言である。カトリーヌ・ド・メディシスの息子達のうち、四男のエルキュールは王にならずに早世したので外れた。  信奉者達の中には、「4人の王が誕生する」という予言だったと理解...
  • ジョヴァンニ・フランチェスコ・ジョリート
     ジョヴァンニ・フランチェスコ・ジョリートないしジョヴァンニ・フランチェスコ・ジョリート・デ・フェッラーリ(Giovanni Francesco Giolito de Ferrari)は、16世紀イタリアの出版業者。ヴェネツィアで1550年から1556年まで活動した後、トゥリノで1560年から1579年まで活動した(*1)。 ノストラダムス関連  1566年頃にトゥリノで出版された『ミシェル・ノストラダムス師の真の総合的な判断』は、業者名が明記されていないが、ジョリートが手がけたものとされる(*2)。 名前 コメント
  • ジョヴァンニ・バッティスタ・コンファロニエリ
     ジョヴァンニ・バッティスタ・コンファロニエリ(Giovanni Battista Confalonieri, 1488年-1537年)は、イタリアの医師。ラテン語名のヨハンネス・バプティスタ・コンファロネリウス(Johannes Baptista Confalonerius)も用いられる。  伝記的事実はほとんど不明であるが、後述の著書の肩書きから、ヴェローナ出身のパドヴァ大学教授で、大学では医学と哲学を講じたとされている(*1)。 ノストラダムス関連  彼は、1535年にヴェネツィアとバーゼルで著書『ワインの性質、およびその滋養と薬効について』(De Vini natura, ejusque alendi ac medendi facultate modis omnibus absolutissima disquisitio)を刊行した。  この著書は、フランス国立図...
  • 予兆詩第83番
    ...疑わしい。この点は、ジョヴァンニ・ミキエルの証言をどう解釈するかにもよるのだろう。 名前 コメント
  • 人名一覧
    ...未作成)(解釈者) ジョヴァンニ・ミキエル(16世紀の駐仏イタリア大使) 皆神龍太郎(懐疑派) 宮崎哲弥(評論家) 三山のぼる(漫画家) 霧満攔江(解釈者) 目羅公和(未作成)(英文学者/関連書の訳者) や 安田一悟(解釈者) 山口敏太郎(作家) 山田高明(作家) 山根和郎(翻訳家/関連書の訳者) 山本弘(SF作家/懐疑派) ヤンブリコス → イアンブリコス セルジュ・ユタン(秘教学者/解釈者) ら ラ・ガルド男爵(16世紀の軍人/ノストラダムスの知人) ピエール・ラグランジュ(社会学者) ラ・クロワ・デュ・メーヌ(書誌学者) ピーター・ラメジャラー(研究者) オッタービオ・チェーザレ・ラモッティ(解釈者) アンドレ・ラモン(解釈者) ジェイムズ・ランディ(未作成)(懐疑派・研究者) エクトール・リゴー(コレクター) ブノワ・リゴー(出版業者) ダニエル・リュゾ → ダニエル・ル...
  • 百詩篇第3巻55番
    ...復元している。また、ジョヴァンニ・ミキエルの1561年初頭の報告書にある、「ノストラダムスの占い」のせいで国王シャルル9世が片目を失うのではないかという噂が宮廷に広まっているという話は、この詩が影響している可能性を示した。  ピーター・ラメジャラーは、少なくとも前半について、1545年のブローニュ攻囲戦で片目を失ったギーズ公フランソワがアンリ2世の宮廷で権力を伸ばしたことではないかとした(*13)。ジャン=ポール・クレベールも当時の宮廷で権勢を誇った有名な隻眼の人物としてギーズ公フランソワを挙げた(*14)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • Il vero, et universale Giuditio di M. Miciele Nostradamo
     『ミシェル・ノストラダムス師の真の総合的な判断』(Il vero, et universale Giuditio di M. Miciele Nostradamo)は、ノストラダムスの暦書の一つ。イタリア語で書かれており、1566年頃にトゥリノで出版された。研究の蓄積がなく、真偽は不明である。 【画像】『真の総合的な判断』の扉(*1) 正式名 IL VERO, ET VNIVERSALE Giuditio di M. Michiele Nostradamo, Astrologo Eccell. Medico di Solon di Craus di Prouenza, nel quale si vede breuemente quanto mostrano le stelle, Pianeti di mese in mese, di quarto in q...
  • V.S.C.
     V.S.C. は意味が特定されていない略語。  S.C.V. と並べ替えて「カール5世の後継者」(Successeur de Charles V)つまりフェリペ2世を指すと解釈されることがしばしばである。この解釈は19世紀初頭のベローや匿名のパンフレットによって提示された読み方らしいが(*1)、アナトール・ル・ペルチエやエドガー・レオニらも踏襲した(*2)。  ただし、ノストラダムスがこの語を公表した段階では、カール5世は神聖ローマ皇帝の座にあった。皇帝位を弟フェルディナントに、スペイン王を息子フェリペ2世に譲るのは2年ほど後のことである。  ベルナール・シュヴィニャールによれば、エリゼ・デュ・ヴィニョワ(未作成)はラテン語の墓銘碑に見られる言葉 Voto Suscepto Curavit(誓いを果たすためにこの碑を建てた)としたようである(*3)。ただし、何らかの文章や名詞...
  • 出版業者の一覧
     ノストラダムスに関連する出版業者の一覧。原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。  ノストラダムス関連書を出版したことのある業者、特に16世紀から19世紀までの業者の情報を網羅することを目指している。  出版業者の情報はさしあたり次の2点で有益と考える。  ひとつめは、刊行年の特定されていない関連書について、出版業者の活動歴から刊行年を絞り込める可能性が出てくることである。  ふたつめはノストラダムス現象を従来とは別の視点から裏付けていくことにある。 例えば、ピエール・ルーやクリストフ・プランタン(未作成)など、出版業者の中には活動し始めて間もない頃にノストラダムス関連書を出版している事例がしばしば見られる。これは単なる偶然の場合もあるだろうが、その一方で「売れるブラン...
  • 1656年の伝記
    ...の内容は不明である。ジョヴァンニ・ミキエルの報告書 (1561年) からすれば、「全員が国王になる」 と占った可能性も否定できないものの、確証はない。  なお、言うまでもないが、ブロワに赴いて息子たちの運勢を見たというこの話は、ブロワ城の問答の史実性を裏付けるものでは全くなく、シチュエーションは全く一致しない。 第6節 サロン=ド=プロヴァンスでの生活  宮廷で大いに栄誉を受け、彼はサロンに戻ると、最後の百詩篇集の残りを 〔書き上げることを〕 続行し、2年後の1557年に国王アンリ2世へとそれらを捧げた。そして、その冒頭の献辞で、神の恩寵を受けた国王ルイ14世の生誕から反キリストによる迫害の終焉までの未来の秘密全てを開示したのである。  サロンにいた時に、彼はその町でサヴォワ公、および公がカンブレジでの全面講和条約 〔=カトー・カンブレジ条約〕 で得た内容に従い、彼...
  • ノストラダムス
    ...  ヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエルの報告書にもその予言は見られるが、原文に即する限りでは、的中したとみなすのは難しい。  なお、恐怖の大王は目に見えない存在だとカトリーヌに述べたという、いわゆるブロワ城の問答も史実ならばこの時期に当たるが、時期設定などの内容があまりにも支離滅裂なため、創作と見るのが自然だろう。  1559年には、アンリ2世はモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュ(未作成)との馬上槍試合で致命傷を負い、10日後に没した。  通俗的な説では、当時これが詩百篇第1巻35番の情景通りだったとして大反響を巻き起こしたことになっているが、そのような記録は全くない。ノストラダムス自身が文人ヴォゼルにあてた献辞の中で、別の詩によって的中させたことをそれとなくほのめかしている程度である。 フランソワ2世、シャルル9世との関係  アンリ2世の次に王となった長男...
  • Angolmois
     Angolmois (アンゴルモワ、日本ではしばしば「アンゴルモア」とも)は、恐怖の大王が登場することでも有名な詩百篇第10巻72番に出てくる固有名詞である。  アンゴルモワの大王(アンゴルモアの大王)という形で登場し、信奉者的な解釈ではことさらに謎語であるかのように語られがちだが、実際にはアングーモワ地方(Angoumois)を指すに過ぎない。  当時、o と ou は交換可能な綴りであり、Angolmois と Angoulmois は実質的に同じ綴りである(*1)。  そして、アングーモワのことを当時 Angoulmois と綴っていたことは、フランス国立図書館の蔵書検索などでそれを表題に含む文献がいくつもヒットすることなどから、容易に確認することができる。  それどころか、ノストラダムス自身が参照していた可能性が高いシャルル・エチエンヌの『フランス街道案内』(...
  • エゼキエル預言書の解読
     『エゼキエル預言書の解読』は、たま出版から1997年に刊行された當間健一の著書。  副題が「『聖書』を読む鍵は『諸世紀』にあった」となっているように、著書の大部分はエゼキエル書の解読ではなく、ノストラダムス予言の解釈に当てられている。 【画像】カバー 内容  當間の解釈法は、数字に注目して複数の詩篇を絡めるものである。  要約が困難な方法論なので、第1章の冒頭に出ている解釈を例として挙げておこう。  まず、ノストラダムスの生まれた年を 15 と 03 に分け、十の位を無視して詩百篇第5巻3番を導き出す。そして、その詩をロレーヌ公の予言として、彼らがトスカーナ公国を支配したのが1859年までだったことから詩百篇第8巻59番を導く。その上で二つの詩篇の番号を引き算して詩百篇第3巻56番を出し、その4行目にある数字の計算から詩百篇第4巻54番につなげるという具...
  • ダニエル=ジョン・エゼキエル・ド・ノストラダムス
     ダニエル=ジョン・エゼキエル・ド・ノストラダムス博士 (Dr. Daniel-john Ezekiel de Nostradamus) は『百の予言の中の歴史』(History in One Hundred Prophecies) などの著者。自称「一流の科学者」(a reputable scientist) だが、経歴などは全く示しておらず、「『黙示録』の聖書予言に独自の科学的アプローチを適用」していると述べているだけで、本来の専攻領域なども示されていない(*1)。  著者名も単に黙示文学の著者(ないし著者と目されている人物)とノストラダムスの名を組み合わせただけなので、明らかにペンネームだろう。おそらく英語圏の人物だろうが、当「大事典」でのこの人名のカナ表記は慣例的な表記も取り入れたものとしている。 著書  『百の予言の中の歴史』(History in One Hu...
  • 化粧品とジャム論
     『化粧品とジャム論』(Le Traité des Fardements et des Confitures)は、ノストラダムスの医師としての主著である。初版のメインタイトルは『多くの至妙の製法についての知識を得たいと思う全ての人々にとって優良かつ大変有益な二部構成の小論集』(Excellent moult utile Opuscule à touts necessaire, qui desirent avoir cognoissance de plusieurs exquises Receptes, divisé en deux parties.)となっていたが、後の版ではしばしば異なる題名が用いられ、しかもそれらがいずれも長いので、現在では『化粧品とジャム論』ないし『化粧品論』(Traité des Fardements)、『ジャム論』(Traité des Confitures)...
  • ヴァンゲソンヌ
     ヴァンゲソンヌ(Vanguessonne, 1468年頃歿)は、ノストラダムスの父方の曾祖母。出自については未詳である。ヴァングズト(Venguesete)ともいう。  1430年ごろにダヴァン・ド・カルカソンヌと結婚し、まもなくクレカ・ド・カルカソンヌを生んだ。  ユダヤ人女性で、1453年ごろにダヴァンがキリスト教に改宗したことに賛同せず、離婚した。1468年頃まで生きていたようである(*1)。 名前 コメント
  • ヴァンサン・セーヴ
     ヴァンサン・セーヴ(Vincent Sève, 1585年? - 1657年?)は、六行詩集の冒頭に掲載された前書き(しばしば「アンリ4世への献辞」といわれる)の著者。  従来は実在性自体がはっきりしなかったが、1990年代以降、郷土史家ジャン・ロッシュ(Jean Roche)の研究などによって、いくらかの点が明らかにされている。  それによると、ヴァンサン・セーヴは大工の親方アントワーヌ・セーヴと、マルグリット・ジュリアンの子として生まれたが、直接的な洗礼記録などは見つかっていないという。ただし、弟トゥーサンが1587年7月19日に洗礼を受けた記録があるため、そこからの推測で1585年ごろではないかとされる。  青少年期の多くをボーケールで過ごしたと考えられ、彼自身の手稿では、地元の愚連隊のような集団に加わっていたことを述懐しているという。  19世紀の郷土史家が持...
  • サン=レミ=ド=プロヴァンス
     サン=レミ=ド=プロヴァンス(Saint-Rémy-de-Provence)は、南フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。ノストラダムスの生誕地として、また画家ゴッホの療養地として国際的に知られている。 概要  アルピーユ山脈のふもとに位置し、町の歴史は古代ローマの入植地だった頃に遡る。当時の遺跡はサン=レミの近郊に残っている(グラヌムの遺跡)。  10世紀には近隣にロマネスク様式のサン=ポール=ド=モゾル修道院が建造され、1810年から私営の精神病院に転用されている。その病院は画家ゴッホが療養のため滞在していたことがあるため、国際的に有名である(ゴッホが滞在していた部屋は見学可能)。この病院の背後には採石場跡であるマス・ド・ラ・ピラミッドがある。  現在の町の中心部には、町の歴史や文化にゆかりのある博物館がいくつもある。  サドの館(Hôtel de Sad...
  • 詩百篇第1巻6番
    詩百篇第1巻 6番* 原文 L’oeil1 de Rauenne sera destitué2, Quand à3 ses pieds les4 aesles5 falliront6, Les deux de Bresse7 auront constitué Turin8, Verseil9 que10 Gauloys11 fouleront. 異文 (1) L’oeil Loeil 1589Me (2) destitué distitué 1605sn (3) à a 1588Rf (4) les (vers2) des 1611B (5) aesles 1555 1557U 1568 1588-89 1589PV 1590SJ 1840 aelles 1557B, aeles 1590Ro, aisles T.A.Eds. (6) f...
  • サロン=ド=プロヴァンス
     サロン=ド=プロヴァンス(Salon-de-Provence)は、南フランス、ブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。  ノストラダムスが晩年を過ごした町として、またクラポンヌ運河を建設したアダン・ド・クラポンヌの出身地として知られている。 概要  クロー平野に位置し、かつてはサロン・ド・クローとも呼ばれていた。  古来、オリーブオイルやマルセイユ石鹸の産地として知られている。現在は空軍士官学校の所在地でもある。  市の中心部近くにアンペリ城がそびえる。  かつてはアルル大司教の私邸だったが、現在は博物館に改装されている。  市庁舎の前にはアダン・ド・クラポンヌの像が飾られている(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムスは1547年にこの町のアンヌ・ポンサルドと結婚したのを機に、サロンに移り住んだ。  彼は暦書などにラテン語で署名するとき...
  • アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞
     ノストラダムスは『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』の冒頭に、ナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームにあてた献辞を掲載した。 原文 A TRESEXCELLENT, NOBLE ET PVISSANT Roy de Nauarre, Anthoine de Vandosme, Michel de Nostre Dame son treshumble obeissant seruiteur, vie longue felicité. A Bien bonne raison, tresredoubté1 Sire, à tousiours esté l’ignorance estimee esté cause de tous maux, empeschement de tous biens, d’autant qu’il est impossible ...
  • 的中例として有名な予言
    ...50年代後半) → ジョヴァンニ・ミキエルを参照 少年の裸を見て未来の国王になると予言した話(1564年) → アンリ4世を参照 {{書きかけ}} ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史
     『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』(Histoire de la premiere guerre de religion en Provence)は、ノストラダムスが執筆していたらしい草稿である。内容については全く分からない。  この草稿の存在自体は、19世紀にフランソワ・ビュジェ(未作成)によって指摘されていた。ビュジェは、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーがジャン・ドラ(未作成)にあてた献辞の中で、この草稿の題名に触れていることを指摘した(*1)。  ノストラダムスの私信の中にも、これと同じ文献ではないかと推測される言及がある。1562年5月13日付のロレンツ・トゥッベ向けの書簡での「お望みなら、私がまとめたプロヴァンスにおける宗教戦争初期の覚書をあなた向けに要約します。」(Si vous voulez, je vais vous résumer le mémoire ...
  • シクストゥス5世
     シクストゥス5世は第227代ローマ教皇(在位1585年-1590年)。 【画像】シクストゥス5世の肖像画(*1) 生涯  世俗名はフェリーチェ・ペレッティ(Felice Peretti)で、1521年12月13日にアンコーナのグロッタンマーレ(Grottammare)に生まれた。彼が極貧の境遇で育てられ、豚飼いをしていたという若いときの話には疑問の余地がある。若くしてフランシスコ会修道院に入り、すぐに説教者、弁証家としての類まれなる才能を発揮した。  1552年頃に修道会の庇護者であるカルピ枢機卿をはじめ、ギスリェリ(Ghislieri, のちの教皇ピウス5世)、カラファ(Caraffa, のちの教皇パウルス4世)らの目にとまり、将来の栄達は約束された。のちにピウス5世(在位1566年-1572年)が教皇になると重用され、1570年には枢機卿に任命された。 ...
  • ノストラダムスはエヴァンゲリオンを予言していた
     『ノストラダムスはエヴァンゲリオンを予言していた』は、1999年に刊行されたらしい同人誌。著者名義はクリスマス・ピポ。 概要  アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』テレビ版全26話について、ノストラダムスの詩篇と結びつけた解釈が展開されている。対応する詩篇数はエピソードによってかなり差があり、第1話は詩百篇第1巻29番をはじめとして6篇が対応しているが、第2話に対応しているのは第5巻53番のみである。  編集後記も含めて採り上げられている詩篇は全部で84篇だが、第25話と第26話のみは該当なしとして1篇も扱われていない。  詩篇はいずれも『ノストラダムス大予言原典・諸世紀』(たま出版)からの引用であることが、奥付に明記されている。  編集後記は愚かな批評家に対する法の警句の引用のみで成り立っており、編集前記と奥付はフィクションになっている。  『新世紀エヴァンゲリ...
  • 偽ノストラダムス
     ノストラダムスの知名度にあやかり、一族の者でないにもかかわらず、ノストラダムス姓を名乗った偽ノストラダムスというべき人物は何人もいる。  16世紀には、少なくとも ノストラダムス2世 アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス フィリップ・ノストラダムス の3人が現れた。関連して、ノストラダムスの甥やノストラダムスの弟子を勝手に名乗った者たちも複数いた。  17世紀以降の暦書には、ノストラダムスの名を冠したものが多かったが、それらは当然ノストラダムス本人とは何の関係もない匿名のパンフレット作家たちの著作に過ぎない。  19世紀イギリスではガブリエル・ノストラデイマス、マーリン・ノストラデイマス(未作成)という2名が登場したが、少なくともガブリエルの方はノストラダムスとの血縁関係を主張するなどはしていないため、権威付けのペンネームにすぎなかったものと思われる。  権...
  • 予言集一覧
     『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版(1555年)から現在までに出版されている版の一覧。 1815年までの版 一段下げてあるのは特定の版の復刻版 1555年初版 1555年アヴィニョン版 1556年シクスト・ドニーズ版 1557年アントワーヌ・デュ・ローヌ版Michel Nostradamus mester próféciái melyek közül háromszázat eddig még sohasem nyomtattak ki., 2004 1558年版 1561年頃バルブ・ルニョー版 1561年ニコラ・ビュフェ未亡人版 1568年ブノワ・リゴー版 1588年ニコラ・ロフェ未亡人版 1588年ラファエル・デュ・プチ・ヴァル版 1589年ピエール・メニエ版 1589年シャルル・ロジェ版 1589年ラファエル・デュ・プチ・ヴァル版 1590年ジャック・ルソー...
  • レニ・ノーバーゲン
     レニ・ノーバーゲン (Rene Noorbergen) はアメリカのジャーナリスト、教員。ジャーナリストとしては海外通信や従軍記事を専門領域としていたという。また、少なくとも1970年代末にはサザーン・ミッショナリー・カレッジで教鞭をとっていたというが、講義科目などは未詳である(*1)。  日本語訳された著書に『オーパーツの謎 消えた先史文明』(パシフィカ、1978年) がある。 ノストラダムス関連  ノストラダムス解釈書としてInvitation To A Holocaust(1979年) を刊行した。この本は日本語訳され、翌年に『ノストラダムスの予言した第三次世界大戦』の名前で刊行された。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • 當間健一
     當間健一(とうま けんいち、1944年9月10日 - )は、沖縄県出身の電気工事業者(1997年)。日本大学第一高等学校(定時制)卒業後、2年間の陸上自衛隊勤務を経て、沖縄で電気工事業に従事する(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス予言の解釈書『エゼキエル預言書の解読』(1997年)を出版した。その中で続編の出版を予告していたが、出版されていないようである。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ
     ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ(Pierre-Joseph de Haitze, 1648年頃 - 1736年7月26日)は、フランスの作家、歴史家。主としてプロヴァンスの歴史や、プロヴァンスに縁のある人物の伝記をまとめた。  エーツは、1648年頃にカヴァイヨンで生まれた。ベアルン地方の高貴な出自であったという。彼はプロヴァンスの歴史に特に興味を持ち、様々な調査も行った。その作品は文体の丁寧さや明瞭さが評価される一方、内容が皮相的であることや、調査における批判能力の不足なども指摘されている。 彼は、親戚にあたるジャン=フランソワ・ゴフリディ家に秘書として住み込んでおり、1736年にプロヴァンス地方のトレ(Trets, 現ブーシュ=デュ=ローヌ県内)で没した。 ノストラダムス関連  エーツによるノストラダムスの伝記 『ミシェル・ノストラダムスの生涯(未作成)』(1711年...
  • シェバ
     シェバ(Sheba)はアラビア半島南部(現在のイエメン周辺)にいて、紅海を挟んでアビシニア(エチオピア)にも殖民した古代の民族の名前(*1)。シェバ人が築いた古代の都市および国の名前にもなっている。サバ、シバとも表記される。  旧約聖書には、乳香をはじめとする香料を特産物とし、ほかに黄金、宝石などの交易も行った者たちとして登場する。  「シバとラアマの商人は、あなたと取引し、もろもろの尊い香料と、もろもろの宝石と金とをもって、あなたの商品と交換した」(『エゼキエル書』第27章22節)(*2)  ソロモンを訪ねたシェバの女王は特によく知られている。  「シバの女王はソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようと、非常に多くの従者を連れ、香料と非常にたくさんの金と宝石とをらくだに負わせて、エルサレムのソロモンのもとに来て、その心にあることをことごとく彼に告げ...
  • Volsques
     Volsques はウォルスキ人(Volsci)を意味するフランス語である(*1)。  ウォルスキ人(ヴォルサイ人)は、古代イタリアの民族で、ローマの少し南に住んでいた。  ティトゥス=リウィウス(リーウィウス)の『ローマ建国史』にも言及がある。 【画像】リーウィウス『ローマ建国史・上』 異説  ジャン=ポール・クレベールやマリニー・ローズは辞書通りに上の意味で捉えているが、アナトール・ル・ペルチエ、エドガー・レオニ、ミシェル・デュフレーヌ、ピーター・ラメジャラー、ブリューノ・プテ=ジラールらは、よく似た綴りの Volques と理解している(*2)。  これは Volces と同じ意味で、ウォルカエ人(Volcae)を指す。  ウォルカエ人(ウォルカエ・アレコミキ人/ウォルカエ・テクトサゲス人)は、フランス南部のラングドック地方に住んでいたケルト系の民族であ...
  • ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム
     ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、ノストラダムスの甥であるクロードの息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」(ノストラダムス)と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「ベルトラン」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 生涯  1578年11月1日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。姉トミーヌの時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっ...
  • トミーヌ・ド・ノートルダム
     トミーヌ・ド・ノートルダム(Thomine de Nostredame)は、ノストラダムスの甥であるクロードの娘。  1574年1月4日に洗礼を受けた。代父はサン=レミの神学博士でサン=マルタン参事会聖堂の参事会員でもあった伯父(または叔父)のピエール・ダルメラン(Pierre d Alméran)、代母はトミーヌ・リシエール(Thomine Richière)であった。  ピエール・ダルメランは、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子である。  彼女は、16世紀末にアヴィニョンの法学博士メルキオール=ジャック・ド・ジョアニス(Melchior-Jacques de Joannis(*1))の再婚相手となった。メルキオール=ジャックは、ノストラダムスの叔母に当たるマルグリット・ド・ノートルダムとその夫ピエール・ジョアニスの曾孫であ...
  • ミシェル・ノストラダムス師の真の百詩篇集、予兆詩集、予言集 (1792年)
     『ミシェル・ノストラダムス師の真の百詩篇集、予兆詩集、予言集』は1792年に出版された予言集の版の一つである。 【画像】扉(*1) 正式名 LES VRAIES CENTURIES, PRÉSAGES ET PRÉDICTIONS, DE MAITRE MICHEL NOSTRADAMUS,Exactement revûs, fidellement corrigés sur les premières Editions ; précédés de la vie de l auteur, suivis d une NOTICE des principaux événements accomplis, d une interprétation complette de tout ce qui a rapport à la Révolution de Fran...
  • ジョーム・ド・ノートルダム
     ジョーム・ド・ノートルダム(Jaume de Nostredame, 1470年頃 - 1547年頃)は、ノストラダムスの父。アヴィニョンとサン=レミで、商人、公証人などとして活動した。  ジョメ・ド・ノートルダム(Jaumet de Nostredame)、ジャック・ド・ノートルダム(Jacques de Nostredame)、ジャック・ド・サント=マリー(Jacques de Sainte-Marie)などとも記録され(*1)、ラテン語名はヤコブス・デ・ノストラ・ドミナ(Jacobus de Nostra Domina)である(*2)。 生涯  ジョームは1470年頃にアヴィニョンで生まれた(*3)。父ピエールの死は1485年頃で、ジョームが15歳頃にあたっている。ジョームは当初父の職をついでアヴィニョンで商業と貸金業を営んでいたが、1495年5月14日にプロヴァンス州サ...
  • 百詩篇第2巻6番
    原文 Aupres1 des portes2 dedans deux cités3 Seront deux fleaux4 onques5 n aperceu6 vn tel7, Faim dedans peste8, de fer9 hors gens boutés, Crier secours10 au grand Dieu immortel. 異文 (1) Aupres Au pres 1557U 1557B 1568A 1590Ro (2) portes Portes 1672 (3) cités Citez 1672 (4) fleaux Fleaux 1672, flaux 1772Ri (5) onques 1555 1589PV 1840 onques 1557U 1557B 1568 1588-89 1590Ro 177...
  • La Vie de Nostradamus (Haitze)
     『ノストラダムスの生涯』(La Vie de Nostradamus) は1711年にエクス=アン=プロヴァンス(未作成)で刊行されたピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる伝記。翌年にも再版され、伝説的なノストラダムス像の形成にも影響した。 題名 LA VIE DE NOSTRADAMUS.PAR PIERRE JOSEPH. De filiis quoque Isachar, veri eruditi, qui noverat singula tempora. Paralip. Lib. 1, cap.12, v.32 A AIX, Chez la Veuve de CHARLES DAVID, JOSEPH DAVID, Imprimeur du Roi de la Ville. 1711 ノストラダムスの生涯ピエール・ジョゼフによる。 「イサカル族の者たちは、あらゆる...
  • ベルトラン・ド・ノートルダム
     ベルトラン・ド・ノートルダム(Bertrand de Nostredame, 1518年 - 1602年以降)は、ノストラダムスの弟の一人。ジョーム・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの商人、軍人。  「ベルトラン・ド・ノストラダムス」とも名乗った。ノストラダムスの弟でノストラダムスを名乗ったのは、ジャンとベルトランだけである。 生涯  プロヴァンス州サン=レミで、1518年の6月4日から7月10日の間に洗礼を受けた(*1)。日付が曖昧なのは、現存している史料が不完全な形でしか残っていないためだという。名付け親が、代父ベルトラン・ユゴラン(Bertrand Hugolin)、代母ジョルダーヌ・ド・ラ・メール(Jordane de la Mer)ということは分かっている。  1540年頃にラマノンの領主の娘であるトミーヌ・...
  • ve
     ve は、『予言集』の中では詩百篇第8巻98番のみに登場する語。  綴りとしては vé または væ が正しいだろうと思われる。実際、暦書では Vae の使用例がある(*1)。  DMFには名詞のみの用法で「呪い、呪いの言葉」(malédiction)、「脅威」(menace)とある(*2)。  DALFにはそのほか、間投詞として malheur が載っている(*3)。malheur は「不幸」などの意味だが、間投詞的な用法としては「災いあれ」のほか、失望や落胆を表す語として使われる。  ただし、アナトール・ル・ペルチエ以来、しばしばラテン語の vae のフランス語化と見なされている。『羅和辞典』では「ああ!」「災いなるかな!」という語義が挙げられている(*4)。  新約聖書のウルガータ(カトリック公認ラテン語訳)では、ヨハネの黙示録第8章13節、第18章10...
  • 詩百篇第9巻76番
    詩百篇第9巻 76番* 原文 Auec le noir Rapax1 sanguinaire2, Yssu du peaultre3 de l inhumain Neron, Emmy deux fleuues4 main gauche militaire5, Sera murtry6 par Ioyne7 chaulueron8. 異文 (1) Rapax rapax 1653AB 1665Ba 1720To (2) sanguinaire sanguina ire 1568X, sanguine 1572Cr (3) peaultre peaulter 1627Di (4) fleuues fleuuues[sic.] 1627Di, Fleuves 1672Ga (5) militaire militante 1627Di, Mi...
  • シャルル・ド・ノートルダム
     シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有...
  • Almanach, Pour l'an 1560
     『1560年向けの暦』(Almanach, Pour l an 1560)は、ノストラダムスの暦書のひとつ。1559年頃にパリのギヨーム・ル・ノワールが出版した。 【画像】『1560年向けの暦』の扉。本来は二色刷りである。(*1) 正式名 Almanach, Pour l an 1560, Composé par Maistre Michel Nostradamus, Docteur en Medicine, de Salon de Craux, en Provence. Tu teipsum oblectes, vulgi verba loquacis. Sperne, bene hic de te dicet, at ille malè.プロヴァンス州サロン・ド・クローの医学博士ミシェル・ノストラダムス師により構成された1560年向けの暦。 内容  24葉...
  • ラファエル・デュ・プチ・ヴァル
     ラファエル・デュ・プチ・ヴァル(Raphaël du Petit Val, 1614年1月5日歿)は、ルーアンの出版業者。ラテン語式にラパエル・パルウィウァリウス(Raphael Parvivalius)という名義を用いることもあった。  1585年頃から1614年1月5日に歿するまで出版業者として活動した。彼の名義の印刷物は1626年頃まで出続けるが、これは死後も息子のダヴィド・デュ・プチ・ヴァルがラファエルの名義で出版を続けたためだという(*1)。 ノストラダムス関連  『予言集』の1588年ルーアン版、1589年ルーアン版を立て続けに出版した。これらは、1555年アヴィニョン版と主張していたらしい失われた初期の版を考察する上で、非常に重要な版である。 名...
  • 百詩篇第4巻27番
    原文 Salon, Mansol1, Tarascon2 de SEX.3 l arc4, Ou5 est debout6 encor7 la piramide8, Viendront liurer le prince9 Dannemarc10 Rachat honni11 au temple12 d Artemide13. 異文 (1) Mansol Nansol 1557B, Tansol 1668P (2) Tarascon Tarrascond 1627 (3) SEX. 1555 1557U 1568 1644 1650Le 1650Ri 1668 1840 sex 1588-89 1590Ro, SEX, 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1660 1716, Sex 1557B 1589PV 1649Ca...
  • アンドレ・ド・ノートルダム
     アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと...
  • contrade
     contrade はプロヴァンス語 contrada (地方)のフランス語化。  エドガー・レオニ、ピエール・ブランダムール、ジャン=ポール・クレベールが指摘している(*1)。  プロヴァンス語はもとより、現代イタリア語にも同系列の contrada という語がある。  アナトール・ル・ペルチエは古フランス語で「地方」の意味としていたが、LAF には載っていない。マリニー・ローズは contrée の原初の形としていた。  語源などには触れていないが、ベルナール・シュヴィニャール、ブリューノ・プテ=ジラールも同じ立場である。テオフィル・ド・ガランシエールの英訳でも Countries があてられている(*2)。  いずれにしても、語学的な素養のある論者たちは一致して「地方」(région, contrée)の意味としている。  それに対し、日本人論者たちは似...
  • 地名一覧
     地名記事の一覧。未作成の記事が多いがご寛恕いただきたい。* 印は歴史的地名。 あ アヴィニョン アウクスブルク(アウグスブルク) アウソニア* アグド アジャン アスティ アルビ アルマダ アルモリカ* アルル アングレーム アンスウィ アンチーブ(アンティーブ) アンティオキア* アンティポリス → アンチーブ アンフィポリス* イエール諸島 イギリス諸島 イスタンブル(イスタンブール) イラク → バビロン* イラン → ペルシア* イングランド インスブリア* → Insubre ヴァティカン → バチカン ヴァレンヌ ウィーン(未作成) ヴィエンヌ ヴィチェンツァ ヴィルフランシュ ヴェネツィア ウェールズ ヴェルチェッリ ヴェローナ エヴルー エノー エフェソス* エペイロス*(エピルス) エペソ* → エフェソス オセール(オーセール) オルレアン(未作成) か カオ...
  • アヴィニョン
     アヴィニョン (Avignon) は、南フランス、ヴォークリューズ県の県庁所在都市。古称はアウェンニオ (Avennio)。現名称はそれが転訛したものだが、語源未詳である。  なお、ジュラ県にある同名の町の方はローマ人名アウェンヌスからではないかと推測されている(*1)。  ローヌ川とデュランス川の合流点に近く、古くからの交通の要衝であった。9世紀以降、地域の中心都市となったが、異端とされたアルビ派に加担した都市として制圧され、13世紀にはプロヴァンス伯領に編入された。  本格的な発展はいわゆる「教皇のバビロン捕囚」時代以降のことで、アヴィニョン教皇庁の所在地として栄えた。その後も教皇領となっていたが、1791年にフランス領に組み込まれた。  現在でも、特に教皇庁時代の多くの建造物群が残り、その歴史的景観は 「アヴィニョン歴史地区」 の名前で世界遺産にも登録されている...
  • 詩百篇第8巻27番
    詩百篇第8巻 27番* 原文 La voye auxelle1 l’vne2 sur l’autre fornix Du muy3 deser4 hor mis5 braue genest6, L’escript7 d’empereur8 le fenix9 Veu10 en celuy11 ce qu’à12 nul autre n’est13. 異文 (1) voye auxelle voix auxelle 1650Mo, voye Auxelle 1672Ga (2) l’vne l’vn 1605sn 1611 1649Ca 1649Xa 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1840 1981EB (3) muy mey 1772Ri (4) deser desert 1611B 1627Ma 1627Di 1644...
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