通であること」。
これは、私たちが理解不能なできごとと出会ったり、 はっきりと何かに違和感を覚えたりするとき、それを自らの日常生活世界から“くくり出す”ために用いる装置だ。
さらに、このような明快なできごとに対してだけでなくなんとも言いあらわしがたいが、どこか違う、など、私たちの日常を脅かす“あいまいな”リスクに対しても、「普通であること」という装置は見事に発動されるのである。
ただ、問題なのは、その「普通」は中身が満ちているものではなく、 いわば“空洞”であるという点だ。

代知識人には「動かぬ証拠」がないからいつまでも懐疑の目を向けるのです。
そして何より、知識人にとって、公の場で自分とか自校、自社、そして自国を肯定的に語ること、
すなわち自己肯定は無知、無教養、無邪気をさらすことであり、
自己懐疑こそがとるべき知的態度なのです。
実は、理経知識人は必ずしもそうでありません。
理系では独創が命で、そのためには自己肯定が不可欠だからです。(p44-45)

れが正しいことかそうでないか、動機が善か悪かをいう前に、他人に迷惑をかけずにできるか、自分で責任をとれるかを自分に問う、それができるのが成熟した大人といえるのではないだろうか

しかに、国の渡航制限を無視して戦火のイラクに行き、ボランティアだ劣化ウランだとやっているうちにテロリストに捕まり、解決のために多額の国家予算が使われたことをみれば、彼らのやったことは愚行以外のなにものでもない。だが、人には具行権がある。どんなに馬鹿げたことだろうが周りに迷惑をかけようが、それをやる権利がある以上、誰も彼らのことを責められはしない。また、すべての国民を等しく守るのは国家の義務だ。愚か者だから助けなくてもいい、自分の力でなんとかしろなんてとんでもない。<中略>他人の愚行を認められなければ、自分の自由も制限されるのだ。

分は平和主義者だから、殴られるのが嫌だからと恋人を見殺しにして、あとで国家権力に、犯人を捕まえてくれ、どうか死刑にしてくださいと泣きつくような人間を、僕は心底軽蔑します。僕の掟でいうなら、そういう人間こそが、最大の悪人なのです。

の場にいた人が動けなかったのなら、自分も動けなかっただろうと思うのが当然です。手出しをして、事態を悪化させる可能性も高いでしょう。自分の力がとうてい及ばないこともあると知ったうえで、それでも精一杯、何ができるかを必死で考える。これが、本当に命がけで守るということではないでしょうか。(p237)


本がエネルギーの安定的な確保を考えるのであれば、
オバマが言う「国際燃料バンク」構想に積極的にかかわるほうが、
何十年か先の核燃料サイクルの完成を待つよりはるかに現実的だろう。(中略)
ダムも見直そうという時代である。
巨大原子力発電所もそう遠くないうちに同じ道を歩むのではないだろうか。(p262)

本が核武装することの日本にとってのデメリットを、
米国の著名な軍事戦略家の一人R・ヒルズマンは、
「日本の全土を壊滅するには極めて少量の核があればいい。
日本は単に地形的な理由で、わずか六発前後の核でいい」
と指摘している。米国に対してだと三〇〇~四〇〇発が必要だという。(p263)


遣切りでここまで悪道非道といわれるなら、
国内の新工場などつくらなければよかった(p95, 大手企業の経営者の本音)

TPPの議論で思うことがある。
貿易技術立国でここまで発展してきた日本にとって
TPPが国益を損なうとしたら日本は何をしたいのか。
議論の順序として環太平洋のTPP参加の前に、
アジアの国々とのFTA・EPAを先行しろという議論ならわかる。
だが、そんな国家戦略を描いて、日本がアジアをリードしているわけでもない。
この国はいったいどこに向かっていきたいのだろうか。(p143, コマツ会長 坂根正弘氏のコメント)

ともとアメリカには、優れた画像処理技術などが数多くあるのですが、
コンシューマー向け市場ではやや弱いんです。<中略>
もう一つ大きいのは、アメリカ企業はこれまでパソコンやメインフレームで巨額な利益を
得てきたため、市場がコンシューマー寄りになってくると、利益率が低下してしまうのです。
それで、アメリカ企業はむしろ開発に特化し、
製造の拠点はアジアなどの新興国に置くという動きになってきているわけです。
(P193-194, 東京エレクトロン 東哲郎会長)

端技術というものは複合技術です。<中略>
そこで問われてくるのが技術の蓄積です。簡単に真似できる世界ではない。<中略>
それを持っているのは日本とアメリカだけでしょう。(P196, 東京エレクトロン 東哲郎会長)


1815年(ウィーン会議)から今日まで、両国は戦火を交わすことなく、
自由と民主主義のために手を携えてきました。
ただ我々はすべてに一致する訳ではありません。
英国のプラグマティズムとフランスの情熱。
フランスの構想力と英国のユーモア。
英国の雨とフランスの太陽。
私たちはこの補完関係を喜ぼうではありませんか。
(p93 エリゼ宮での晩餐会でのエリザベス女王のスピーチ)

命」と「改革」の間には大きな線引きがあって、
革命は、それまでの体制を完全にひっくり返して別の人間が取ってかわる。
これに対して、改革というのは、体制を大胆に変えはするけど、
別の人間が取ってかわるわけではない。(P30, 池上彰)

は起こしたことで非難されるのではなく、
起こしたことにどう対応したかによって批難される。(p3)

りゃそうだよ、が口癖の人は要注意
(和田秀樹「人は『感情』から老化する」)

音を相手に直接ぶつけるのがアピールではない。
自己アピールは自分を偉く見せるのとは違う。
自分の本音なり、意見なりを通すために、自分をアピールするわけだ。
(和田秀樹「頭の整理がヘタな人、うまい人」)

動が動機を生む
(桑原知之「商業簿記・会計学『連結会計編』」)

うしてもこれだけは言っておきたい」という言葉は決して「暴走」したりしません。
暴走したくても、自分の生身の身体を「担保」に差し出しているから、制御がかかってしまう。
真に個人的な言葉には制御がかかる。(p94)

この国でも、「食品」にかかわる運動は強い政治性を帯電します。
「自然食」運動は例外なしに反近代、反都市、反資本主義、反市場主義的な
メンタリティーを惹きつけ、ある種の「大地信仰」に結びつきます。<中略>
これは使い方次第ではかなり危険な思想だと私は思います。
ひとつには強い排外主義をもたらしかねないこと。<中略>
もうひとつは、文化の本質的な混質性・雑食性を看過するようになること(p69-70)

がいつも思うのは、食べることの大切さです。
他の民族と接したときに、相手の民族がおいしいと思っているものを自分たちがおいしいと思えるのはとても大切なことだと思います。
例えば、アメリカ人が刺し身やお寿司を喜んで食べてくれると、日本人としてはとても嬉しいですよね。(中略)
エスキモーにとっていちばん大事な食べ物はシールオイルというアザラシの脂です。彼らの食生活にとってシールオイルは欠かせないもので、日本人にとっての醤油にあたるものです。彼らと旅をしていると、僕がそれを食べても食べなくても彼らは何も言わないんです。でも、ずっと僕を見ていて、僕が食べるとすごく嬉しそうな顔をします。(p230)

たちが「伝統」とか「固有の」とか思っているもののかなりの部分は
伝統的でもオリジナルでもなく、ちょっと前にどこかから入ってきたものです。(p70)

が死んだら、ただいなくだけだと知った。<中略>
どんなに死んだ人間のことを思っていたとしても、生きている人間は、死者とは無関係の世界を生きていく。その殺伐とした事実に、ひどく衝撃を受けたのだ。(p13)

体は激しく動けば、それだけ摩擦が大きくなる。人間だって、激しく動くと熱を>持つのだ。端から見れば、輝いている人間のことが、きっと羨ましく見えるのだろう。だけど、輝いている本人は熱くてたまらないのだ。(p26)

うしてそういう無理をさせるのだろう。なんでも努力のせいにして、人間には本>来差があるという現実をうやむやにする。(p64)

本的に、芸を磨くためにはやっぱり、お金を払ってお笑いを見に来てくれた人の>ために勝負した方がいい。<中略>
しかし、金を払って笑いに来ている客の前では、そういう言い訳はできない。ウケないのは、自分のせいでしかない。あれはかなり辛かった。辛かったからこそ、努力もしたし、必死にもなった>というわけだ。(p99)

金がないことを、そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、なぜ世の中の人は気づかないのだろう。<中略>
だからそれを逆手に取って、ギャグにしていた。インタビューされたときとかに「俺だけ金を儲けて、俺だけ幸せになればいい。他人なんてどうだっていい」なんて言うと、昔の記者ならゲラゲラ笑っていた。そんな身も蓋もないことを言うもんじゃないという感覚がみんなにあったから、平気でそれが笑いになったのだ。だけど近頃は、下手をすると「ああそうですか」って普通の>顔で聞いてる記者がいる。<中略>
そういうことがギャグにならない時代になってしまったのは寂しいなあと思う。(p122)

分のために映画を撮ることと、思い込みで映画を撮るのとは違う。<中略>
客観的に作品を見るというのは、撮影の苦労や思い入れを忘れて、一人の観客として自分の映画を見るということだ。マーケティングの結果がどうだからとか、世の中がこうだからというよう>な話とは、まったく関係ない。信じているのは、結局のところ自分の感覚であって、他人の感覚>じゃない。そういう自分のために撮った映画を公開するのは、俺が面白いとお思うことを、同じ>ように面白いと感じる他人がいることを信じているからだ。

画のテクニックでいえば、強火はアップだ。弱火は、その反対の引きの絵。映画でアップにするのは、料理でいえばガーっと強火で炒めるようなものだ。フライパンに火が回るような強火は、たとえば目や口だけのアップ。見てる人の気持ちを、ぐわっと一気につかむテクニックだ。あまりやりすぎると、焦げてしまうところも似ている。鍋を弱火にかけてトロトロ煮込むのは、カメラを引いて撮る淡々とした絵だ。すぐには意味がわからなくても、見ているうちにじわじわと意味が伝わっていく。(p217)

間にとって大切な自然が二つあるような気がします。
一つは、皆にとっての身近な自然です。例えば、家の近くの森や川、鳥だとか、そういう日常に近い自然の大切さがありますよね。それは日々の暮らしの中で変わっていく自然ですが、もう一つ、遠い自然も人間にとって大切なのではないかと思うんです。
そこには、一生行けないかもしれないけれども、どこか遠くにそういう自然が残っていればいつか行くことができるかもしれない。あるいは、一生行けないかもしれないけれども、いつも気持ちの中にある、そういう遠い自然の大切さがある。(p98)

がとても好きな言葉に、「多様性」という言葉があります。遠い自然がどうして僕たちにとって必要かというと、僕たちが生きていく上では二つの多様性が非常に大切な気がするからなんですね。
その一つは「生物の多様性」だと思います。人間だけが生きているわけではなくて、いろいろな生物が生きている、そういう多様性。(中略)
そしてもう一つの大切な多様性は「人の暮らしの多様性」だと思うんですね。さまざまな人間がさまざまな価値観で生きている。あるいはさまざまな土地で生きている。そういうことの大切さをアラスカにいると強く感じます。(p116)

ラスカの自然は観光の場になりえないんです。
つまり、あまりにも自然が厳しい。あまりにも遠い。なかなか入っていけない。
それはアラスカのよさで、僕が魅かれている部分ですけども、逆に何かがあったときに、
簡単に覆されてしまう自然なんですね。(p138)


憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものが、記憶だ。(p26, 長田弘氏)

ロたちは意識の中でグラウンドを一メートル四方の網目に切っている。まず、ボールを投げる人は受け取る人に『縦八番、横十三番の網目に七秒後に行け』というサインを出す。<中略>ここで重要なのはボールを取る人がどれだけ速く走るかではなく、どれほど気づかれずに正確に七秒後に所定の網目につけるかです。(p187)

の戦略思考力の欠如がハッキリ表れるのは、
「やれることがあるのに大ごとになるまで何もしない」という点だ。
失敗が誰の眼にも明らかになるまで、物事を引っ張るという性癖だ。

謀は3年先を読み、3年後の成功をみなに約束する力を持たなければいけない

は、一日たりとも戻りたくはありません。なぜならば、今まで歩いてきた道のりを、同じように歩いてくる自信がないからです。今までの道のりはまったく平坦ではなく、失敗と苦労を重ねてきました。<中略>それに、同じような運と縁に恵まれるかどうかも分からないし、私にはその自信がないのです。(p61-62)

間を増やそう<中略>
条件はたったひとつ。自分より優秀なヤツ。(p20)

2005年の夏ごろだが、私は2011年3月期の数値目標を打ち立てた。<中略>
狙ってもなかなか達成できないような難しいことが、
狙わずにできるはずがない、大きい試合をしよう、と
幹部連中に本気でコミットを迫ったのを覚えている。(p115)

のチームが秋になって、これならいけると、カジュアルゲームとSNSを組み合わせた
携帯向けサービスのプランを提案してきた。1億円以上は掘らないでくれと赤字の上限
だけ伝えて、すべて守安のチームに任せた。(p116)

を起点にベストを尽くす、10年以上経営者をやり、そういう訓練だけはしてきたはずだ。
過去を悔いても仕方がない。(p169)

のすべてのことに無能力だとしても、残されたただ一つのことに才能があるとは限るまい
(北杜夫「どくとるマンボウ青春記」)

には消炎作用があると思う。
だから、もしも感情の起伏-たとえば恋愛-がある種の炎症だとしたら、
雨は危険だ、といえるかもしれない。(p25)
(江國香織「雨」 「いくつもの週末」収録)

{自分の人生に予定をたてた覚えはないのだが、予定外だ、と思うことはしばしばあって、可笑しいと思う。予定がないのに、予定外はあるのだ。(p10)
(江國香織「アメリカンな雨のこと」「泣く大人」収録)


は犬に似ている。
場所ふさぎでカサ高いわりに、甘エタで、かまってやらないと淋しがってシャックリする
(田辺聖子「人生はだまし、だまし」)

にとって居心地のいい私でありたい
(野中柊「テレフォン・セラピー」)

いことは言わない。いじめた方も、いじめられた方も、大人になってまでつらいんだ。
人をいじめるのだけはやめとけ。(p91)
(「エリクの後日談」 青木奈緒「うさぎの聞き耳」収録)

婚している頃私は、家事なんて一人分も二人分も大して変わらないと思っていた。
量的には確かにそうかもしれない。(中略)
けれど、一人になってみて気がついた。一人分と二人分は大違いなんである。(p15)
(「魚久の粕漬けと労働意欲」 山本文緒「そして私は一人になった」収録)

く考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判ってまいります。(p31)

嬢さま、私が辛いのではございません。つらい時には泣き、おかしい時には、存分に笑えるような身分に生れついて、有難いと思うております。けれども、お嬢さま、お気の毒に、旦那さまは…(p78)

あ、千代、お前はこのお家にないものばかりを見せておくれだったから、お母さまはこのお家にあるものをお見せしてあげましょう。(p302)

ずこの国でも進歩のさきがけをするのは中流社会のように思われます。(p362)

私は民間企業に働く勤労者として、家族で妻の介護を子どもたちとしている。
そして妻の行く施設やヘルパーにも、勤労者が故の無理を言ったりもする。<中略>
障害者とその家族の暮らし(今風に言えば、目線)から要望を出す、健常者社会に「迷惑」な話を持ちかける。
それがヒントになって、ソフト、ハード両面を兼ね備えた「人のやさしい町」づくりになると思う。(p31)

指すべきなのは、「もったいない」から始めて、最終的に「女性だから」という発想自体が不要になることだと思います。(p57)

ロから築く」のは、通常大いなる無駄である。(p21)

爆の法則
法則その一 嫌なことに二つ以上の理由をつけること
法則その二 自分にできないことを、できると言ってしまうこと
法則その三 自分にできないことを、他人のせいにしてしまうこと (p92-93)

議というものは、およそ理由を訊ねた方が勝ち(p94, ソクラテスの言葉)


材は、おのれを知る仕事そのものです。(中略)
「取材をすること=おのれを知ること」という自覚がなければ、
5W1Hに即した短い三面記事しか書けません。
5W1Hの致命的欠点は、評価の視点も批評もないことです。
評価の視点がないということは、誰がやっても同じであり、熟練や成長とは関係がなく、
おのれを知る行為とは無縁だ、ということに他なりません。(中略)
取材で危険なのは、相手の土俵で聴き惚れてしまうことです。(p122-123)

くはこういう「女性のための」とかつくのは、あんまり好きじゃない。だって通常、こういう「女性のための」っていうのは、「頭が悪い人のための」とか「雰囲気だけで物事を判断する人のための」とか「パワーがない人のための」とか、そういうのと同義で使われているでしょう。バカにしてると思わない?(p232)

もが信じて疑わない常識にメスを入れることから企画は始まる(p42)

{他人の意見を批判せず、ありのままに受け入れて、それから考えよう(p42)

にとって愛とはひたすらに責任をとること、人生とはひたすらに健全なもの。もし深く考えたら立ち止まってしまうので、考えずに命をかけて責任を取り続ける。彼女にとっては愛とは深くせまく自分だけといっしょにいること。ううむ。夫婦って最終的にはお互いに「保護してくれる理想の親像」を相手に求めて必ず一度は失敗することになるけれど、そのすりあわせがうまくいくのだろうなあ。(p173-174, よしもとばなな)

分の直感をクリア―に言葉にして説明できない限り、あなたが発しているのは自分の混乱だけである。(p66)

し、アイデアをあまりに早くから固定してしまうと、
そのアイデアに恋に落ちてしまうことになります。
あまりに早く洗練させてしまうと、それにこだわってしまい、
より良いものを探求し続けることが難しくなります。
洗練されていない初期のモデルこそ、熟慮が必要です。(ジム・グリンフ, p164)

我人でも急病人でも、人は「大丈夫?」と聞かれると、ふつう反射的に「大丈夫」と答えることが多い。(中略)
また、相手からそう言われると、聞いた方も「大丈夫」と安心しがちである。もちろん大丈夫なこともあるが、
中には、本当は「大丈夫ではない」どころか、命にかかわる状態の人もいる。(p84)

ンプルの品質は思考の総量が決める。ただ単純なのではない。同じシンプルでも、考え抜かれたシンプルかどうかが重要。<中略>多様なイメージを一身に受けとめられる容量の大きな器として機能するかどうか。(原 研哉)

れたモノは、無言語なんです。説明が必要なサービスというのは、やはりレベル>が低い。 いくら美しくても、ここをつかんでください、なんて書かれたコップを使わないでしょう。(p61 佐野氏の言)

は消費者は買いたいんです。買う目的や動機を探しているんです。 そこにポン、とぴったりの理由を見つけてあげる。プッシュしてあげる。 それはウィンウィンを生み出すんです。(p158 佐野氏の言)

自身、大学も文系で、この世界には素人だった。
この私が業界にいるうちに理解できた程度の用語なら、
一般の方もいずれわかるはずだと考えたのだ。
別の言葉をあてがい、誤解や曖昧な理解を招くよりは、
消費者を信じ、きちんと専門用語を使うほうがいい。
同時にこうも考えた。
「こういう用語が当たり前に使われるようになれば、我々のマーケティングは成功だ」(p111)

、これは「島の規則」だ!
島国という環境では、エリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。
逆に小さい方、つまり庶民のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。
「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。(p22)

術というものは、次の三つの点から、評価されなければならない。
(1)使い手の生活を豊かにすること
(2)使い手と相性がいいこと
(3)使い手の住んでいる環境と相性がいいこと。(中略)
使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい。(p74-75)

ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということですでも高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きています。(P210, 羽生善治の言葉)

べての卵をひとつの籠に入れるな(p167)

人が自分の思い通りにならないからといって、腹を立てることはない。
自分自身でさえ、思い通りにはならないものだから。(p241, トーマス・ア・ケンビスの言)


果にばかりこだわると、その途中にある、おもしれーもんや、
役に立つことを見逃すんで。
俺には、それがもったいないように思う。齊藤はマンタっちゅー魚を知りよるか?(p38)


まりの、おいどーらは、おいどーらにできることをすべてやったんど。
それから後のマグロが捕れるかどうかなんて、海が決めることど。
齊藤ら陸の人たちは、人間ではどうにもならんことまで、なんとかしようとしちょる。
それが疲るる原因よ。<中略>
マグロが捕れんからといって、海に飛び込んでマグロを捕りに行ってみよ。
齊藤がサメに食われるだけで、マグロは捕れんど。(p43-44)

んまり素っ気なく返事をすると、話しかけにくいやつと思われるど。<中略>
最初に話しかける言葉はあいさつじゃ。あいさつで出鼻をくじかれると、
次に何も話せめーが<中略>
連想ゲームをするのよ。『暑いね』と言われたら、
「暑い」で思いつくことを話しゃーええんじゃ(p173-174)


校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。
(中略)優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われて困る。指導するものがあってのグライダーである。(p11)

つめるナベは煮えない(p32)

間は文字による記録を覚えて、忘れることがうまくなった。それだけ頭もよくなったはずである。(p121)

の紅茶がおいしい」と言うとき、何と比べておいしいのかをはっきりさせよう。
でなければ、それがどの程度おいしいのかわからない。
「一番おいしい」というのは、すべての紅茶を飲んでから言ってもらいたい。
どうしてもそう言いたければ「今のところ一番おいしい」と言うべきだ。
ただのベストやワーストではいけない。
これから新しいものが来ることを予見する表現、そして最初から決めつけないこと、
これが比較において重要なことだ。(p65)

インは丸、コインは長方形という見方はハードウェア的だと言える。
数分前のあなたなら自動販売機や貯金箱を発明することはできなかっただろう。
コインの投入口は明らかに長方形である。
ハードウェア的発想というのはそういうことであり、そこで勝負していけば必ず成功する。
ソフトウェア間での競争というのは熾烈も熾烈、生き残るのは本当に難しい。
だが、ちょっとものの見方を変えてハードウェア的に発想すれば(それこそが難しいのだが)、
成功の可能性は高くなる。(p106)

{この世の中、あらゆるものがかわっておるのですよ、それに慣れてしまうまではね。
(p116, ライマン・フランク・ボーム「オズの虹の国」より)

点を変える、ずらすということは自分の考えや意見を持つということに
ほかならないが、 勘違いしてはいけないのは、批判は考えでも意見でもないということだ。
(p203)

2000本という表に出ている結果よりも、
4000とか5000とか、数字は分からないですけど、
多くの失敗を繰り返してきたと思います。
その数だけ悔しさがあったと思いますし、それに対して共感します。
(p218, 清原の2000本安打達成を祝したイチローのコメント)

末に行くと、物事はご都合主義で変えられる(p66)

・半分は許される。ケタ違いはいけない。(p88)

ーバの祈り
神よ、
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたま>え。(ラインホールド・ニーバ、大木英夫訳)(p159)

を数多く読む時間が不足しているんじゃなくて、本を読んだあと、ボーッとする時間が、今の子にはないんです。(p13 松岡享子氏)
(阿川佐和子「きりきりかんかん」)

んな人間も、社会と関わる権利と能力を持っている(米・スミソニアン博物館)
(阿川佐和子「いつもひとりで」)

レビはウンコみたいなものだ。
毎日の習慣になっているけど、じっくり自分の排泄物を見る人は誰もいない。
それと同じで、みな暇潰しに眺めて時間を無駄にしていえるだけだ。(p181, オリヴィエーロ・トスカーニ)

家は敗戦によっては滅びない。国民が国家の魂を失った時に滅びる。(p196, ビスマルクのコトバ。)

{「原因とはうまくゆかないものにしかない」(p35, ジャック・ラカンの言)

断とは、目的を見失わない決心の維持に他ならない
(アイゼンハワー)

物のなかで最悪なのは決断できないことである
(ナポレオン)

々の幸福の90パーセントは健康に依存している
孤独は全ての卓越した精神の持ち主の運命である
他人の意見に多大の価値をくことは、世間で支配的な誤りである
(ショーペンハウアー)

人に接して苛つくことの全ては、自分自身の理解に役立つ
(ユング)

を熱烈に動かそうと思ったら、相手の言い分を熱心に聞かなければならない
(カーネギー)


人はただ時間の過ごし方を考えるだけだが、才能のある人は時間を使おうと努力する
(p108, ショーペンハウエル「意志と表象としての世界」)


I have not failed, I have just 10,000 ways that won't work.
(Thomas Edison)


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最終更新:2013年12月28日 02:51