2007年ワークショップ記録2

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パールハーバーワークショップに参加して

名児耶美帆            

このパールハーバーに参加をして、今まで改めて捉えることのなかった歴史観や日米の関係というものについて考えるきっかけとなった。
そもそも社会科教員を対象とするこのパールハーバーという歴史についてのワークショップに私が参加をしたのは異文化理解の授業に参考になればということである。異文化理解の授業では多角的な視点でものを考えるということを最終的な目標として授業を展開している。この歴史をアメリカ人と日本人があつまって考えるときに一元的な見解ではなく、多元的見解を目指したこのワークショップは様々なハワイ、アメリカ、日本という異なる情報提供があり、投げかけがあった。
最近日本でも問題になった「あの原爆があったから、戦争が終わることができた。あの原爆のおかげで最小限の被害になった。」という意見はアメリカでも少なからず存在すると聞いた。これが主流の意見になればまた戦争は起こるかもしれない。異文化理解の授業だけでなく、物事の多元性を知る大切さを知る機会づくりを授業でしていかなければならないという決意を新たにした。
また参加者の人々やサポーターの人々とは日本とアメリカという枠を超えた交流をすることができた。今回の参加によって異文化理解の授業に還元できる考えや具体的な授業案、生徒間交流につなげられる人脈をつくることができことは大きな収穫であった。
このレポートではワークショップでの活動、取り上げられたテーマ、それを通して自分が考えたこと、最後に今後の異文化理解の授業にどのように取り入れていくかということをまとめる。
まずこのワークショップはハワイという一見「本当に研修なのか」と眉をひそめられても仕方がないような場所で行われた。しかし、ハワイと言ってもその活動はハワイ大学のキャンパス内にほぼ限られているので、ハワイらしい場所を見る機会はほとんどなかった。夜もワークショップが主催する映画や交流があり、日本人は招待されている「リソース(考えるきっかけとなるべく人)」であるという立場から積極的な参加を求められたり、日本側のサポートをしてくれていた先生の交代という名目での食事会、最後の夜は日米関係における重要なワークショップだということで急遽日本領事館から主催者と参加した日本人が慰労会に招待された。唯一ハワイらしいところで記憶しているのは5時までしっかりセッションをこなしたあとにワイキキビーチでサンセットまでの約1時間のクルージングとワイキキの歴史散策であった。
しかし、「このワークショップをほかの場所で行っても意味がない」と主催者の一人が言うには理由があってのことである。その理由とは、このワークショップは現地に実際に脚を運ぶということを非常に多く取り入れており、その場所には一般人が立ち入ることのできない場所も含まれていた。次はワークショップのスケージュールである。


7月22日(日)初日
1日中バスによるUSSアリゾナメモリアル、USSミズーリ見学、パシフィックアビエーション博物館、USSボーフィン潜水艦を見学後、ウェルカムセレモニー

7月23日(月)
ハワイ式挨拶を習う、自己紹介、各テーマにそった講義:「どのようにパールハーバーは教えられているのか」(日米実態把握)、「なにがパールハーバーで起きたのか」(模型を使った当時の状況説明)、「魚の池から軍港へ」(ハワイ人にとってのパールハーバーという場所) 

7月24日(火)
バスによるパールハーバーにおける攻撃地痕見学、USSユタメモリアル、フォーとデルッシー陸軍博物館、ヒッカム航空基地の攻撃痕、パールハーバー生存者との昼食会、パンチボール墓地にて無名戦士の墓に献花、夜は映画『トラ・トラ・トラ』を鑑賞 

7月25日(水)
パールハーバーの攻撃地についてのまとめ、各テーマにそった講義:「なぜ日本はパールハーバーを攻撃したのか」、「日本人のパールハーバーにおけるイメージと視点」、「アメリカの記憶におけるパールハーバー」 

7月26日(木)
「ハワイ人にとってパールハーバーとは」、生存者によるパールハーバー攻撃当日の記憶、「パールハーバーを教える、そして日本人抑留について」、教員でグループをつくりティーチングプランを教授を囲んで相談、夜はワイキキサンセットクルーズとワイキキツアー

7月27日(金)
USSアリゾナメモリアルの教育機関による資料提供についての説明、多様な視点からパールハーバーを考える授業案作成、発表、「なぜ私たちが1941年12月7日を覚えているのか」というUSSアリゾナメモリアルスピーチコンテストの入賞者(中学生対象)の作文朗読と授賞式、全プログラム終了後日本領事館にて慰労会に参加 

振り返ってみると、前半の火曜日あたりまでのプログラムは流れとしてやはりアメリカがいかに攻撃されたか、どれだけの被害があったかという具体的な話が多かった。恥ずかしい限りであるが、知らなかったことが多く、ここで得ることができた知識をもとに議論にも積極的に参加することができた。それと同時に、日本ではあまりこのような具体的な話を知る機会が少ないのではないかという気もする。プログラムの後半は”PEARL HARBOR: HISTORY, MEMORY, MEMORIAL” というワークショップのタイトルに相応しい内容で講義を聴き、その内容についてアメリカ人の先生方と意見を交換する貴重な機会が多く設けられており、段々と日本側とアメリカ側という国を超えて多角的な視点をもってパールハーバーについて話をするようになってきた。
特に最後の発表の場では、Jerryという体格の大きい元軍人の保守的で知られる南部出身のアメリカ人教諭の変化は著しいものがあった。ほとんど話したことのない私にも最初は日本に対して敵意すら感じているのがわかった。また、「多角的な視点」にさして興味もなさそうだった。その彼が最後の発表で「ここにくる前には日本人側の主張などを授業で取り入れようと思ったこともなかったが、この1週間で様々なことを学び、新しいことを授業にこれから取り入れていこうと思う」と言った。この発言と彼の中の変化はこのパールハーバーワークショップの大きな成果であったといっても過言ではないだろう。



次に、まず前述したようなテーマを通してワークショップの中で学んだことをいくつかの点にわけてまとめる。その後、多少パールハーバーというトピックからは外れるが、このワークショップに参加しなければ出会えなかった人との交流を通じて感じたことを付け加えておきたい。

日本ではあまり知られていない真珠湾攻撃の詳細情報

先にも挙げたが、このワークショップに参加するまで真珠湾攻撃という言葉や、日本がアメリカに奇襲をかけたこと、太平洋戦争開戦のきっかけとなったことなど大まかな情報しかもっていなかった。もちろんこのワークショップに参加するにあたって自主学習をしておくべきだったという後悔は尽きないのだが、それとは別に1つの疑問が湧く。知らないのは私だけなのであろうか。日本の歴史教育の中でどれだけ真珠湾攻撃は取り上げられているのだろうか。渡米する前に社会科から日本史、世界史の教科書と参考書をそれぞれお借りしたのだが、ここには私が知っている以上のことはほとんど記述されていない。例えば、私が高校生当時も使っていた山川出版の世界史の教科書(p332)をみると「1941年初めからの日米交渉がゆきづまると,同年12月8日,日本軍(海軍)はハワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲し、(イギリス領)マレー半島に軍(陸軍)を上陸させて,アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争に突入した」とある。同じ山川出版の日本史の教科書にはかっこで付け加えたような情報が加えられていた程度で、記述自体に大きな変化はない。ただ日本史の教科書、『総合日本史図表』(第一学習者)、『世界史図録ヒストリカ』(山川出版社)には写真が載せられており、『総合日本史図表』(p207)には攻撃が2度にわたってあったこと、戦果をあげた、などという追加情報が記載されている。別の『新詳世界史』(浜島書店)には「リメンバーパールハーバー」という言葉やアメリカ太平洋歓待に大損害を与えたこと、当時の報道として新聞を載せ、「日本の最後通牒は攻撃30分前にわたる予定が、日本大使館の不手際で開戦1時間後となる」という記述もある。もちろん教科書にのっている情報だけが授業で取り上げられるわけではなく、当然そのような細かい情報については教科担任の裁量によるところが大きいという前提を理解した上で、負傷者、損傷等具体的な数値がないということは、悪いことには蓋をするというという意識が働いているのかと考えるのは勘ぐり過ぎであろうか。逆にアメリカの教科書にはどのような記載がされているのか興味がある。(それについてはアメリカの高校生と異文化理解の授業の生徒と交流ができるといいのだが。この授業については後述する)

日本=>アメリカへの奇襲を多角的に捉える

実際アメリカ人の先生方がどのように真珠湾を教えているのかという話が最初に出たときはU.S.と日本のプロパガンダについて、ハワイ王国、孤立主義や原因と結果など比較的中立的な立場から捉えやすいような題材が挙げられていた。そこで、様々な題材を取り上げて教えているのだと解釈をしていた。しかし、4日目(水)の講義「なぜ日本はパールハーバーを攻撃したのか」では日本の軍国主義や植民地政策の道のりやどのような決断があって真珠湾攻撃につながったのかという講義がなされた際にある先生の反応に違和感を覚えた。
アメリカ人の大学教授は講義の中で「アメリカは日本の植民地政策を責められるのか。日本には日本の事情があったのである」という趣旨で話をされたその講義の後、早速一人のアメリカ人の先生がやってきて、「あのリベラルな(偏見のない、進歩的な)講義についてどう思った?」と質問されたので「私は日本人としてという立場は置いて、論理的に理解のできる講義であったと思う」と答えた。彼女も同感だと言っていたが、しかしこの講義がリベラルであるということは、このような講義は主流ではないという意味にも聞こえた。別のアメリカ人の先生とは、パールハーバーからから第二次世界大戦が始まったということが繰り返しでてきたが、アメリカのこの戦争への介入はここからだという「アメリカ側からの見方」ということにならないかと問うと、言われて気づいたかのように「そのとおりだわ」という答えが返ってきた。
また別の日にはハワイ人の立場からパールハーバーについて講義がされた。ハワイ学(ハワイ大学)の教授はギターを片手に古い言い伝えの歌を歌うユニークな発表であった。もともとパールハーバは「プウロア」と呼ばれ、サメの神が住むと信じられる場所であり、王や貴族の魚を収穫する魚池を設けられていた。ハワイ先住民にとって神に守られた大切な漁場であり、日々の糧を与えてくれる場であったのが、現在はアメリカの一台軍事拠点となり、「連邦汚染地区」とアメリカの環境省に指定されるほど環境破壊が進んでいる。その教授にとって第二次世界大戦は両親の世代の戦争であり、多くはハワイ人の愛国者としてアメリカの軍隊で戦った。しかし彼は戦争やパールハーバの軍事基地に対してハワイ人として複雑な思いを抱いているのが伝わってきた。このパールハーバーがパールハーバーになる以前のことについては、私は教えられた記憶がまったくなく、またそのような視点で考えたことがなかった。
アメリカ人の先生にしても、日本人の私にしても、自分が知らない(知る機会のない)別の人の立場というものを一度に多く「気づく」ことができた。自分の立場からのみの意見を言うのではなく、他の人の立場を考慮できるというのは多文化理解において欠かせない要素である。

博物館の展示の仕方の違い

初日の最初に行ったUSSアリゾナメモリアルセンターという戦艦アリゾナが真珠湾攻撃で沈没したままの状態で保持され、その上にまたぐ形で建てられた大きな記念碑と水際にたつ展示物と映画を観ることができる見学センターなっている。そこで早速日米の博物館の違いというものを目の当たりにした。
1つは博物館の建物の印象が大変明るく、遺体がそこにあるにもかかわらず死の匂いがしないということ。いまだに1000人以上の人が戦艦と共に沈んでいるにもかかわらず、である。また、日本人がもつ戦争の黒いイメージとは違いメモリアルセンターは白い建物であるということも死のイメージがない要因であるかもしれない。もう1つは個人的の感情に訴えかけるような形での展示の仕方である。入館時にもらうチケットの裏には”EXPERIENCE YOUR AMERICA REMEMBER PEARL HARBOR”(あなた自身が感じてみてほしい パールハーバーを忘れるな)と書いてあり、その下には攻撃で戦った戦士の写真と彼の名前、出身地、軍隊の中での役割やその真珠湾攻撃の日の彼の功績をたたえる文章が載っている。そして、花が渡され彼のことを思ってメモリアルセンターで献花してほしいといわれた。ただ記念碑という場所に訪れるだけ、観るだけではなく、体験をするということを重視してつくられたプログラムであった。またこの2つの点においては私だけではなく、参加していたほかの日本人の先生方も同じような感想を述べていた。
この日米の博物館のイメージの違いはその時その場で思い浮かんだだけの感想であったのだが、最終的にシカゴ出身のアメリカンスタディーの教員であるバーバラと組んでつくる授業のテーマに深くかかわってくることになる。そのイメージの差を次に考察する。

アメリカと日本の戦争に対する意識

先に挙げたUSSアリゾナメモリアル博物館での体験を経て、アメリカと日本のもつ戦争のイメージの違いに興味を持つようになり気づいたことがある。当たり前のことだが、アメリカはまだ戦争が終わっておらず、日本は敗戦から50年以上戦争がないという違いなのではないか。
アメリカでは第二次世界大戦以降、断続的にベトナム戦争、朝鮮戦争、イラク戦争が起きている。戦争があるということは軍人の需要があるのである。そこで優れた人物や英雄伝を取り上げて「ヒーロー」をつくることによって、新たなヒーローを求めるということを繰り返してきのではないかと考えるようになった。
戦争に対する意識ということに関係して、「アメリカの記憶におけるパールハーバー」というタイトルでの講義ではなぜ「リメンバーパールハーバー」が9.11の事件の直後に引き合いに出されたのかということがとりあげられた。ワークショップ前半において授業でどのようにパールハーバーをとりあげているかという話が出た際には多くのアメリカ人教員が9.11と絡めているという話だった。しかし、講義をした教授も主催者の一人もパールハーバーと9.11は同列に並べるのはおかしいと主張していた。パールハーバーは奇襲ではあったが、国家間の戦争であり、テロではなかった。では、なぜ使われたのかということ問題になる。
「リメンバーパールハーバー」のメッセージの中のパールハーバーは「アメリカに対する卑怯な行為であり、突然の奇襲に備えなければならない」という政治的なメッセージであり、第2次世界大戦中にルーズベルトが意識的にそのメッセージを使って国民の「悪」との戦いに対する士気を高め、国民を一致団結させた言葉である。しかし、戦争後も、「エコノミック・パールハーバー」という言葉が使われ、「パールハーバー」という言葉は真珠湾攻撃を直接指すのではなく、イコン(icon)として使われてきた。1990年代には文化的な面において映画「パールハーバー」が公開され、それまで「パールハーバー」に馴染みのなかった若者たちにもアメリカ人の「歴史」というものが刻み込まれることになった。そしてそれが2001年9月11日の攻撃の一ヶ月前のことであった。9.11の次の日のアメリカの新聞には「パールハーバー」という言葉がどこの新聞にも使われており、この講義の発表者であるエミリーローゼンバーグも驚きを隠せなかったと語っていた。
それに対し日本では、戦争は悪いものだという考えが人々の中にあり、また戦争の被害者として「繰り返してはいけない」と平和を主張してきた。戦争は1945年以来一度もない。現在のところまで平和憲法を守ってきた。
しかし、最近の日本で気になる動きがある。「プチ・ナショナリズム」と呼ばれるものである。このワークショップとはまったく関係のないところで考えていたことなのだが、「男たちの大和」、「ローレライ」、「ほたる」など戦争を題材にした映画が数年の間に公開されている。なぜ今立て続けにこのような映画が作られるのだろうか。また、偶然この春鹿児島を訪れた際には知覧特攻平和会館というところに行く機会があった。この博物館には特攻隊員直筆による私的な手紙が閲覧でき、私もその一人ではあるのだが、涙を流しながら読みいってしまう。これはアリゾナメモリアルの見る側の心情に訴える方法と共通点がある。また石原慎太郎都知事の熱烈な推薦があることも疑問を投げかける。名前は平和会館とあるが、本当に平和のための博物館なのであろうか。
アメリカと日本の戦争に対する意識の違いがあるというのがワークショップでの素直な感想ではあるのだが、同時にそのような二項対立という図式では捉えきれる問題ではない。「歴史は繰り返されるのではなく、作られる」というエミリーローゼンバーグの言葉は強く印象に残っている。個人の記憶というものは千差万別であり、その記憶と歴史を切り離すことは難しい。それと同じように一つの立場からの歴史などというのはありえないのだということは、また多文化理解につながる。

おまけ

最後に付け加えになるが、このワークショップを通して私が学んだことはパールハーバーにおける多角的視点やアメリカの学校については当然のことながら、いかにアメリカ人のスピーチが巧いかということにも大いに感心した。中でもこのワークショップを取り仕切っていたダニルマルチネスという人物はHistory Channelというアメリカのテレビ番組に出演をするほどの自他ともに認める「歴史おたく」であり、また退役軍人の話を聞いていて涙してしまうような情にもろい一面も持ち合わせている人物である。彼の人物紹介や一日のまとめ、バスの中での説明は、まったく場面に相応しくまたウィットに富み、観るもの聴くものの心の中に入って来るスピーチであった。スピーチというのは何か畏まって形式にとらわれてしまいがちなものであるという先入観があったが、彼のそれは自然でかつ説得力があった。撮影をしてあとで研究をしたいほどであった。英語科の人間として教科の勉強にもなった。



最後に今回ワークショップで学んだことをどのように授業で活かすかということについてまとめておきたい。
授業案作成がワークショップには組み込まれており、興味が共通しているグループをつくり、発表をした。アメリカの歴史教育ではトピックを教員が選び、それについて様々な角度から考察する。時間軸にそってたくさんの情報を整理してノートを写す日本の歴史教育とはちがい、参考文献を読みエッセイを書いたり、なぜその出来事が起きたのかを分析するなどトピックを深く考察する。問題はやはり時間が限られていて、網羅しきれない部分をどうするのかということであった。私はシカゴ出身のバーバラという高校のアメリカンスタディーの教員と組み、アメリカと日本の戦争の意識にどのような差異があるのかということをテーマを取り上げた。
授業の大きな流れは、現状における知識の確認、教科書から得られる情報の分析、実際の博物館のHPからの情報収集と分析というように三つにわけた。
  • 最初に、現時点でどれだけ第二次世界大戦の知識があるのか、太平洋戦争について知っていることなどを質問し、それを生徒はノートにまとめる。それらの知識はなにから得たものなのか、今もっている知識をもとに戦争で得た教訓は何かということを考える。
  • 次に、教科書には第二次世界大戦がどのように記述されているか、何が強調されているのか、どのような出来事が取り上げられているかをまとめる。そこから教科書は何を教訓としているかということを考える。
  • 最終段階では、インターネットのUSSアリゾナ,ワシントンD.C.にある第二次世界大戦記念館、広島平和記念館、知覧特攻平和会館などのホームページを調べ、それぞれの名前、その博物館の設立目的、どのような立場からの展示か、どのような人が推薦をしているか、その場合博物館のメッセージに影響はある人物か、などをそれぞれの博物館について調べ、比較をする。また本校では異文化理解が2年生対象の授業であることから、沖縄での実地調査をアメリカの生徒にレポートを送るということができる。
それぞれの段階でアメリカと日本の高校生が意見を交換できると興味深いと考えていたのだが、話を突き詰めていくと、同じ時期に進行させることが困難であるとわかった。しかし、文化交流を事前に行い、生徒間で関係を作っておくことは可能である。
今年度の予定として、異文化理解の授業は前半で「自」文化理解として「自分」「郡上」「日本」ということを取り上げている。これを活かして、アメリカの生徒に日本を伝えるということも異文化コミュニケーションの練習になるだろう。また、後期はアメリカからケイティー(ALT 9月に急遽帰国)を迎えるということもありアメリカを取り上げる予定であるので、向こうからアメリカについて教えてもらおうと考えている。たまたまバーバラの授業では最初にアメリカ人としてのアイデンティティーを考えるということなので、日本の生徒にそれを伝えるというのは大変よい機会だと言ってくれている。(結局バーバラとはコンタクトをとっていません・・・)



以上、思いつくままに、忘れるうちに書いておこうということでレポートをまとめました。夏休みに入る多忙極める一週間という期間にこのような研修に参加させていただけたことを皆様に感謝するとともに、与えられた機会で得たものを少しでもご理解いただけたら幸いです。学ばせていただいたことを不完全ではありますが自分なりに消化し、生徒に還元していけるよう努力していきます。




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