トルキー

フリューゲルにおけるトルキー史

(前期を1~4月、中期を5~8月、後期を9~12月として扱う)

(フ歴)
500年頃 技術力の問題から最初から地球を「捨てる」前提で移住
507年 移住者らによって地球から独立したトルキー帝国が樹立。

トルキー帝政

正式名称は「トルキー帝国」
初代皇帝は地球における当時のトルキー帝国の皇帝の息子のメスィフ1世。
地球における帝国2つ(オスマン帝国とその後地球にて自然に皇帝(カリフ)が担ぎあげられた奴)をカウントしトルキー第三帝国とも
フリューゲルにおけるトルキーの最も平和で反映した時代。領土には現在の西岸州も含む。
帝国自体は皇帝やその親族が退位し内戦第一期が終わった571年まで続いているが、567年にはすでに皇帝の威信はボロボロだった。

首都はイスタンベル 君主制国家であり、皇帝は地球におけるトルキー帝国の皇帝と血縁があるが、帝国自体の連続性は無いとされる。
憲法においては皇帝が主権を持つと定められ、帝国議会や内閣、裁判所は皇帝の名のもとに存在していた。
帝国議会は二院制で、上院は全議席が皇帝によって任命され、下院は皇帝の認める範囲で選挙が行われた。
裁判所は皇帝の名の下で司法権を行使し、内閣は帝国議会の提案を元に皇帝が任命した。
成立後皇帝とこれらの機関がバランスを取りながら国家運営が行われてきたが、551年のイドリース1世のときに皇帝の権利が重視されて関係性は大きく変化した。
1代目皇帝	メスィフ1世			(507年~531年)
2代目皇帝	メスィフ2世			(531年~551年)
3代目皇帝	イドリース1世			(552年~562年)
	(空位 摂政はアッバス・アルカン)
4代目皇帝	メスィフ3世			(566年~571年)

510年頃 この頃には国内が安定する
551年 無能皇帝(イドリース1世)が即位。以降国内が乱れ始める
562年 話を聞かずに暴走し続ける皇帝に大臣の怒りが爆発、皇帝は死んだ。ち~ん(笑)
イドリース1世には直系の息子がいなかったので後継者問題が勃発。メスィフ3世とアフメト1世がそれぞれ名乗りを上げた。
ところが名乗りでた2人は頑固者で権力に飢えた亡者だったためにお互いが一歩も譲らずに論争はエスカレートしていき、お互いが相手を支持する国民を切り崩すために自らの支持者を扇動するというとんでもない事態に発展。4年に渡る継承者争いが発生した。
その間皇帝の位は空位となってしまい、皇帝の役割は摂政が代役を努めていた。
566年 終わりが見えなかった継承者争いはアフメト1世が突然死したことにより突然終結。後には荒れた土地が残り、メスィフ3世が正式に皇帝に即位した。
しかし起こっていた問題が問題なだけに国民の王朝への支持が薄れはじめ、国民の間には王朝を疑問視する考えが発生。
自由主義や社会主義などの思想の台頭も重なり、王朝を倒そうとする動きへとつながっていった。
567年前期 自らの権力が多少でも失われることをよしとしないメスィフ3世がこれらの動きを察知し、徹底的に弾圧。これによって王朝打倒の動きが一気に内戦へと発展した。

トルキー内戦(第一期)~

567年の王朝打倒運動から571年の皇帝退位まで4年ほど続く一連の戦闘。王朝が倒れ後に共和制国家が建設されたことから「トルキー革命」とも言われる。
王朝打倒を目指す勢力と白軍による争いであり、王朝を打倒する勢力は社会主義者や自由主義者から民族主義者や無政府主義者までも含んでいた。
初期においては王朝に対する反乱程度の戦闘であったが、反乱が激化するにつれ国同士の戦争とも言える大きさの戦闘が繰り広げられた。
場合によっては4年続いた継承者争いを第一期とする場合があるが、一般的ではない。
最終的に571年に反乱軍が宮殿を占領し、皇帝やその親族に退位を迫ったことで王朝は崩壊。反乱軍が勝利を収めた。
この時の反乱軍の指導者達が中心となりトルキー第一共和制と言われる国家が建国された。

567年中期 反乱軍側が「トルキー国民議会」を結成。以降反乱軍の中心的な存在となる。
567年12月 国民会議に参加しない立場にあった穏健派が纏めた政治改革案が帝国議会で否決されるとともに、皇帝権限により帝国議会からそれら勢力の議席が剥奪される。これによって立憲君主制の導入による事態の収束を図ろうとした穏健派と皇帝の決裂が決定的となる。
568年5月 反乱軍側がアンカラを奪取。同時に国民議会の拠点も移され反乱軍の活動の拠点となった。
569年後期 国民議会が「トルキー共和国」の憲法草案と白軍との和平案を採択。しかし帝国側はこれを認めず、和平はお流れとなった。
570年後期 白軍最後の拠点となったイスタンベルの攻囲が開始。2ヶ月以上に渡る攻囲の末ついに白軍が投降し、反乱軍の勝利となった。
同日反乱軍の監視の元皇帝やその親族の退位が実現。こうしてトルキー帝国は滅んだ。
元皇帝やその親族らは西岸州へ移動し、現在でもトルキーの帝位を請求している。

トルキー第一共和政

第一というカウントに地球時代のものは含まれていない。
正式名称は「トルキー臨時政府(571年前期~中期)」「トルキー共和国(571年中期~崩壊)」。
トルキー第三帝国が滅んだ後に建国された民主制国家。
しかし形だけは近代的なシステムをとっていたものの、実際には封建的な制度が完全に撤廃されたわけではなかった。
またこの国家にとって運の悪いことに、4年の内戦でさらに土地が荒れた結果国民の間ではより急進的な思想が広まりつつあり、建国の時点ですでに内戦寸前の危険な水準にあった。
それでも選挙を行わなければ直ちに内戦になるだろうとの判断により、571年中期頃最初で最後の選挙を実施。
結果は社会主義勢力と民族・ファシスト同盟が議会を2分するという悪夢となった。
この状態で国家がまともに運営できるはずもなく572年に入る前に再び内戦が勃発。あえなくこの国は崩壊した。

首都はアンカラ 共和制国家であり、元首は大統領となっている。
議会は国民議会の流れを引き継いだ一院制のものであり、普通選挙によって議員が選ばれた。
出馬に関しては政党の縛りなどはなく、第四共和政に至るまでのトルキーにおいて最も自由度が高かったと言われる。
大統領は行政府の長とされ、大統領の任命によって内閣が組織された。
初代大統領を除いて大統領も選挙で選ばれる予定だったが、実施されぬまま内戦へと突入してしまった。
裁判所も帝政時代のものが元となって存続した。
1代目大統領	アミル・シャヒーン(自由党)		(571年)

571年前期 帝国の崩壊により国民議会が中心となってトルキー臨時政府が成立。
またトルキー共和国の憲法草案がまとめられていき、大筋においては国民議会の間で全会一致を得た。
しかし社会制度の改革については大きく意見が分かれ、また大統領の権限の範囲などにおいては激しい論争が繰り広げられた。
その為即座の憲法制定には至らず、公布・施行についてはおおよそ3ヶ月ほど待たねばならなかった。
571年中期 社会制度改革については棚上げされたものの、大統領の権限について大筋の合意を得たため、トルキー共和国憲法が公布・施行された。
またこれと同時に初代大統領が就任し、議会も国民議会として成立。正式にトルキー共和国が成立した。
その後第一回国民議会選挙が実施となったが、国内情勢の悪化から一時はいきなり大統領権限によって議会を停止させてしまうことも検討された。
しかし「今議会を停止したら直ちに内戦になる 避けられる可能性がある方に賭けたほうがいい」という大統領の考えに基づき第一回国民議会選挙は予定通り実施された。
結果は上述の通り議会は極左・極右によって真っ二つとなった。
571年後期 議会運営がまともにできず、さらに大統領がそのどちらにも属さない自由主義者であったことも拍車を賭け、極左・極右、さらに国民の不満は溜まる一方となった。
そんな中軍部はあまりにもひどい国家の状態に業を煮やし、クーデターを実行。これによって内閣が総辞職し、国民議会も解散され第一共和政は滅んだ。
その後社会主義を支持する軍人と民族主義・ファシズムを支持する軍人との間で対立が生じ、トルキー内で大規模な分断が発生。
統一国家の形成交渉にも失敗し、そのまま内戦へと突入した。

トルキー内戦(第二期)

571年後期の第一共和国崩壊から587年の第二共和国成立まで16年ほど続いた一連の戦闘。
社会主義国家の建設を目指す勢力と民族自決やファシズムを訴える勢力による争いであり、トルキーにおける社会主義勢力の優勢と極右勢力の死亡が確定した内戦である。
16年も続いたこの内戦は最終的には社会主義勢力の勝利ではあったが、民族自決の意識は各少数民族に残り続け後にトルキー人の頭を悩ませる事となる。
法的には事実上の無政府状態となっていたが、それぞれの勢力が国民の支持を得るために社会保障に力を入れていたため、国民生活は悪くはなかった。

トルキー第二共和政

正式名称は「トルキー共和国」。
内戦で勝利した社会主義勢力が587年に建設した共和国。
人民議会や内閣など現在のトルキーの政治システムの原型となった共和国。
内閣や議会は第一共和政を大きく模倣して作られたが、内閣の権限が強いなどの傾向が生まれたのはここである。
選挙は内閣に認められた政党のみ認められており、サンディカリストや社会主義者・共産主義者などが議会の議席を争った。
しばらく5年ほどはトルキーは平和そのものであったが、592年に議会で経済政策を巡りサンディカリスト政党と社会主義・共産主義政党の間に対立が勃発。
さらにそこに燻っていた少数民族の民族意識が加わり事態が悪化。議会や内閣が解散を繰り返すなど混乱が続いた挙句594年にとうとう内戦に発展してしまった。
こうしてようやく取り戻されたかに見えた平和はあっけなく崩れ去り、また凄まじい内戦に発展するのだった。

首都はアンカラ 共和制であり、元首は内閣総理大臣である。
議会は国民議会であり、一院制である。内閣総理大臣は議会の任命によって選ばれ、議会の信任に基づき内閣を組閣する。
裁判所は第一共和政のものとほぼ変わらず、そのまま存続した。
1代目首相	ハムゼ・エルゲン(社会改革党)		(587年~590年)
2代目首相	ハシム・バラミール(革新党)		(590年~592年)
3代目首相	イスメト・チェリク(革新党)		(592年)
4代目首相	イドリース・デミレル(労働組合党)	(592年~593年)
5代目首相	ファルク・デュラン(革新党)		(593年)
6代目首相	ハーミト・セネル(革新党)		(593年)
7代目首相	アリ・セキ(社会民主党)		(594年)

トルキー内戦(第三期)

594年の第二共和国崩壊から600年の第三共和国成立まで6年ほど続いた一連の戦闘。
サンディカリスト勢力と社会主義・共産主義勢力、さらに少数民族による泥沼の争いであり、最終的にアッバス・アタイズィによる独裁政治が成立した。
当初は20年以上に渡る激戦が予想されていたが、サンディカリスト勢力から社会主義・共産主義勢力への離反が相次いだ結果トルキー人同士の争いは比較的早期に終結した。
しかし少数民族との争いでは相次ぐゲリラ戦闘に悩まされ続け、さらに一時は独立宣言まで行われるなど鎮圧には多くの犠牲者や混乱が発生した。
さらに最終的にかなり横暴な独裁者が独裁政治を敷いてしまった結果、社会主義勢力の中でも更に民主主義を要求する勢力と社会主義・共産主義勢力が枝分かれしてしまい、火種が増えることとなった。
第二期と同じく社会保障自体は充実していたが、戦闘は激しくなっているため危険な状況が続いた。

トルキー第三共和政

正式名称は「トルキー社会共和国」。
内戦で勝利した社会主義勢力が当時のリーダーであるアッバス・アタイズィを筆頭にした独裁政治を敷いたもの。
この体制は現在でも強く批判されており、成立したばかりの第四共和政でもアタイズィ体制を公然と批判するなど失敗として見られている。
独裁政治となっているのは第二共和政の失敗の理由が限定的とはいえ民主主義を導入していたからとされたからである。
この共和国は604年まで4年ほど存続していたが、街では明らかに人道に反する方法で公然と粛清が行われるなど平和とは思えないほど国内は暗くなっていた。
最終的にアッバス・アタイズィがアルミニア人によって暗殺されたことによって強引にまとめられていた国家が再度分裂し滅んだ。

首都はアンカラ 共和制であり、元首は大統領である。
行政府は大統領補佐団、立法府は人民議事堂百十数名の政治委員(社会党員)からなる国家評議委員会、司法府は裁判所である。
第三共和政の特徴として、元首が行政府の長のみならず、立法府である国家評議委員会に対し議席配分の決定など非常に強い権限を持ち、
更に司法府である裁判所に対しても全裁判官の任命権など非常に強い影響力を持ち、政治犯に関しては超法規的措置も厭わない特別人民裁判所で処遇を決定していたことがある。
これによって大統領は非常に強力な権限を持つこととなり、国家の混乱に際してもすぐに対処ができる体制となった。
しかしあまりに強力な権限はそのままあまりに強力な制圧体制へと繋がり、結果的に逆に国家を混乱に陥れる形となってしまった。
また国家評議委員会についても形式上は大統領補佐団と別れてはいるが、実際には大統領補佐団の提案や意向をそのまま可決させるほとんど意味のない組織と化していた。
ただしアタイズィの元で働いていた人員の全てがアタイズィに心からの賛意を表していたかというと全くそんなことはなく、アタイズィ暗殺の報を受けた際には多くの関係者が寝返りを見せた。これにはアタイズィ自身の疑い深い性格によって対外関係が希薄であり、多くの人物は「敵視されない」ために動いていたことが一因として挙げられている。
1代目大統領	アッバス・アタイズィ(社会党)		(600年~604年)

トルキー内戦(第四期)

「もし609年にメフメト・セキが居たならば、第四次内戦は5年で終わっていただろう。」	
			―――セリーム・オナト第18代社会民主党党首(591 - 652)

「歴史に『もし』はない。我々に出来ることは繰り返さないことだけだ。」
			―――イブラヒーム・アイクル第2代トルキー第四共和国首相(613 - 691)
604年のアタイズィ体制崩壊から631年の第四共和国成立まで27年ほど続いた一連の戦闘。
概ね第三共和国での権力者狩りの情勢を呈した前期、社会主義勢力と社会民主主義勢力と少数民族の三すくみの戦いとなった後期に分かれる。
後期における社会主義勢力は「労働者評議会」、社会民主主義勢力は「民主主義連合」に再編されている。
国内は相次いだ粛清の嵐によって大混乱に陥っており、どの勢力も統制が取れておらずさらに長期化した。
繰り返された内戦の中では犠牲者がトップクラスであり、この間に国政を担っていた重要な各施設や貴重な文化財が破壊されるなど損失も大きい。
最終的にクルディア人が労働者評議会側と協力体制を築き上げ、泥沼の情勢を打破し労働者評議会の勝利で内戦が終結した。
しかし最終的には労働評議会の勝利で終わったものの、その後建築された第四共和政はメフメト・セキの決断により民主主義連合との折半案のような体制になっており、主に第三共和政が完全に滅んだ609年からの22年間の戦いを指し「何もなかった22年間」と揶揄されることもある。

604年3月12日 アッバス・アタイズィ暗殺の報を受けて最初に動き出したのは軍部の人間であった。報を受けたムスタファー・テミルジ元帥は大統領補佐団の戒厳令を待たずして直ちに戒厳体制を敷き、国内でのあらゆる動きに目を光らせようとした。
しかしこの独断の戒厳体制の電報を受けた将官らの一部はアタイズィへの何らかの不慮だと察知。特にフスレウ・チャクル大将はこの電報を握りつぶし、共にしていた十数名の部下を引き連れ電撃的に人民議事堂を占領した。これにより通告されてなかった国家評議委員会に出席していた政治委員らもアタイズィへの不慮を察知した。
604年3月13日 少し遅れ大統領補佐団が原因を伏せる形で戒厳令を発令する。しかしあまりに不自然な形での戒厳令に国民の多くが政治の何らかの形での大混乱が起こったと察知。特にアンカラでは戒厳体制にも関わらず「悪魔は去った」といった怪文書が出回り、暴徒と化した市民らが人民議事堂を包囲するという大混乱が起きた。
これを受け内部で立てこもっていたフスレウ・チャクル大将は数名のアタイズィ体制に批判的な政治委員を引き連れ独断でアタイズィの死去と国家評議委員会の解散を宣言。これを聞いた市民らは更に盛り上がり、一部には人民議事堂へ立ち入ろうとするものも出るほどだった。
604年3月14日 アンカラ市街での大混乱に大統領補佐団は危険を回避するためイスタンベルに移動し、大粛清の担い手だったルトフィー・バジェオウル国家保安大臣を臨時の大統領代行に任命。またムスタファー・テミルジ元帥を呼び寄せ事態の鎮圧、また暗殺事件後も何事もなく第三共和国を存続できるよう作戦を練った。一方同時刻にはアッバス・アタイズィ暗殺の報を聞いた体制に批判的な市民や政治家、軍人らが続々と人民議事堂付近に集結しはじめ、最終的には宣言から僅かな時間にも関わらず50万人以上の人員が集結した。
604年3月15日 この日より少数民族の活動が活性化した。アルミニア民族公正組合は第三共和制の終わりを告げるビラを配布し地方議会前でのデモ行進を展開した。また大クルディア民主党はクルディア人へ独立闘争再開を呼びかけた。
604年3月16日 少数民族による地方の危機を尻目に大統領補佐団は14日より話し合われ続けた鎮圧作戦を決行。人民議事堂にて大規模な銃撃戦が勃発し、双方合わせ15万人以上の死傷者が生じる大惨事となった。(アンカラ血の海事件)しかし銃撃戦の過程において兵士らの寝返りが生じたことにより鎮圧は失敗。この事件は強力な報道規制にも関わらずまたたく間に広がっていき、各地で暴動や反第三共和政デモが起こりはじめた。
戒厳令の中であったが、現地で警戒する兵士らはそれを黙認、或いは参加した場合もあった。
604年3月20日 銃撃戦により血の海と化したアンカラでは反乱勢力の再編が進められ、生き残った社会党員らは現地で急遽党大会を開催し、社会主義の闇鍋状態だった社会党の解党を宣言した。また人民議事堂では第三共和政崩壊後の新政府を見据えた「共和国評議団」の結成が行われ、その初代代表としてフスレウ・チャクル大将が選出された。これ以降第三共和政の残滓との戦いにおいて主導的な立場を担うこととなる。
604年4月 アンカラ郊外へと避難していた大統領補佐団の居場所が国民に露見し、暴徒と化した市民らが一斉に襲撃。警備にあたっていた兵士と戦闘となり、100人超もの死傷者が発生する。大統領補佐団は更に離れた農村へと装甲車などを用いて避難した。
604年6月 この頃ようやくアッバス・アタイズィ暗殺の一報が報道されるが、政府幹部からの流出もありもはや国民にとって周知の事実となっていた。時を同じくして大統領補佐団は大統領代行として実質的なリーダーとなっていたルトフィー・バジェオウルを次期大統領に選出することを試みるが、事態が悪化の一途を辿っていることを理由にムスタファー・テミルジ元帥が反対し中止された。
604年7月 クルディア人・アルミニア人双方の独立闘争が本格的に開始される。第一目標として第三共和政の完全破壊が掲げられた。
606年11月 大統領補佐団の警備にあたっていた兵士のリークにより大統領補佐団の居場所が再び露見する。このリークを元に共和国評議団による襲撃が行われ、ムスタファー・テミルジ元帥と数名の大臣が拘束された。残ったルトフィー・バジェオウルらは親第三共和政の師団を頼り山岳部へと逃亡した。
607年2月 共和国評議団内部において新たな第四共和国の憲法草案が話し合われる。しかしアタイズィ体制の反省を汲みつつもある程度の独裁体制を維持しようとした社会主義勢力と第一共和政をベースとした民主主義の導入を求めた社会民主主義勢力の間で大きな溝が生じ、話し合いは決裂する。
609年3月 大統領補佐団が逃亡した地域の掃討が完了し、ルトフィー・バジェオウルら残った大統領補佐団のメンバーが拘束される。これによって第三共和政は完全に滅んだ。
その後六度目となった新憲法草案の話し合いが試みられるが、議論は初回から変わらず完全に平行線のまま幕を閉じる。お互いがお互いを罵倒する悪夢のような議論の末に社会主義勢力、社会民主主義勢力共に武力での解決以外解決策は無いと認識し、闘争が開始された。
また少数民族の活動家らは第三共和政滅亡の一報を受け、第四共和国の憲法草案を話し合っていた共和国評議団に対する闘争を開始した。
完全な分裂によって共和国評議団は有名無実化し、第四共和国の建国は大きく遠ざかることとなった。
609年4月 武力を持って立ち上がった双方にとって、共和国評議団の本拠地が置かれていたアンカラの領有は勢力の正当性を強めるという意味で重要であった。当初アンカラで起こっていた戦いは奇跡的に人民議事堂前に詰めていた市民らの乱闘騒ぎ程度に収まっていたが、月が変わってアンカラ市外から社会主義勢力、社会民主主義勢力双方の武装した支持者らが集まるとアンカラは再び悪夢のような光景に変貌した。双方がアンカラの領有を譲らず兵力を続々と投入したために長期化したこの戦いは3年に渡って続き、最終的に社会主義勢力がこの地を領有した。(アンカラ黒の3年間)この戦いによって廃墟と化したアンカラの復興は15年以上にも及んだ。
613年 社会民主主義勢力が領有したイスタンベルを社会主義勢力が攻撃を仕掛けるも、イスタンベル特有の防衛に優れる地形によって膠着。イスタンベルを流れるボスポラダ川を堺に5年以上に渡って睨み合いを続けることとなった。
615年 社会主義勢力に属した複数の政党が社会主義勢力の中心団体として「労働者評議会」を結成。それに対抗する形で社会民主主義勢力も合同し「民主主義連合」を結成した。これよりようやく双方の戦いも統制が取れたものになり始めた。
620年 クルディア人の独立運動を主導していた大クルディア民主党が分裂し、敵対派閥への自爆テロを伴った過激な政治闘争が繰り広げられる。またかねてより大クルディア民主党のファシズム的な思想を嫌っていたクルディア安定党他3つのクルディア系民主主義政党もこの闘争を受けて立ち上がり、クルディア人同士の戦いが勃発した。
622年 アンカラとイスタンベルという大きな2つの都市が陥落したことにより労働者評議会と民主主義連合の一回目の和平交渉が行われる。しかし民主主義連合側は労働者評議会が民主主義を慮らない憲法草案を掲げていることを理由に最後まで戦うと声明した。
623年 労働者評議会の議長として当時20歳で機関紙『アナトリアの誇り』の編集長だったメフメト・セキが就任。まだ若く政治経験の浅かった彼が議長として選ばれたことには彼の父ジャフェル・セキが優秀な将軍であったこともあるが、当時の労働者評議会議長がほとんど名誉職であると見られており、政治の場に立つのは書記長であると考えられていたことが最も大きかった。しかし彼の持ち前の政治とクルディア語の知識は後の内戦の推移に大きく関わっていくこととなる。
625年3月 無政府主義者により当時のダーマード・アヴジ労働者評議会書記長が襲撃を受け、重傷となる。これを受け復帰までの間職務を代行する者が探されたが複数の派閥の思惑が絡み失敗。半ば押し付けに近い形でメフメト・セキ議長が職務を執行することとなった。
625年4月 民主主義を守るために戦う民主主義連合の戦いぶりを見続けた右派派閥より憲法草案に民主主義を盛り込む改訂案が提示される。しかし左派は明確に反対し中道派は態度を明らかにしなかった。
625年5月 労働者評議会にて機関紙編集者らによるヘルトジブリール・ヴェールヌイへの非公式訪問の報告が成され、特に右派が大きく反応する。
625年7月 ヴェールヌイより持ち帰られたいくつかの社会主義論について書かれた本の翻訳が完了し、労働者評議会にも持ち込まれる。左派は他国のこととして切り捨てたが、右派はこの本を価値あるものとして重要視した。
626年 地獄絵図と化したクルディア人同士の戦いを見たメフメト・セキは独自にクルディア系民主主義政党に支援と引き換えに労働者評議会との停戦を行う和平案を提示した。当初クルディア系民主主義政党は労働者評議会が非民主主義的な憲法草案を掲げてるとして和平を渋ったが、メフメト・セキは労働者評議会が掲げている物とは異なる現在の第四共和政に近い独自の"セキ草案"を提示した。これにより労働者評議会に民主主義的な改革が行われると信じたクルディア系民主主義政党が和平を受け入れ、以降労働者評議会と協力体制を築くこととなった。クルディア系民主主義政党がこの際に将来の自治の約束を持ち出さなかった理由は異説もあるが、民族自立とファシズムが一体であるかのように扱った大クルディア民主党への反動だったと言われる。
628年 労働者評議会とクルディア系民主主義政党の共同戦線となった対大クルディア民主党の戦いが終了し、クルディア人同士の戦いが終わる。
630年7月 民主主義連合が継戦能力を失ったことを理由に労働者評議会との和平交渉に応じ始める。当初民主主義を守れと勢いづいていた支持者も長い戦いの末に次第に拳を降ろし始めていた。
631年5月31日 民主主義連合との交渉にメフメト・セキが直接当たり、停戦合意が成立する。これによって27年に及んだ第四次内戦が終結した。しかし停戦合意の中には具体的な第四共和政の体制は和平条例において改めて定めるとする奇妙な項目が含まれていた。和平交渉の過程は非公式ではあったが、この交渉においてもメフメト・セキは独自の"セキ草案"を持ち出し、近い将来における労働者評議会の変貌を民主主義連合に向けて話したのではないかと言われている。
631年6月3日 この奇妙な行動に当然労働者評議会は紛糾し、責任の追求にも及んだ。これに対しメフメト・セキはようやく公式の場に"セキ草案"を持ち出し、会場には非常に大きなどよめきが起こった。紛糾した労働者評議会を収めるためその場は一旦閉会とされ、翌日以降に持ち越されることとなった。
631年6月5日 一旦棚上げにされた"セキ草案"についての話し合いが行われ、左派は明確に反対、中道派は曖昧な返答、右派は賛意を表明した。これ以降現状での憲法草案に疑問を持っていた右派とメフメト・セキが会談し、新たな憲法草案が作られていくこととなった。
631年6月6日 予定通り労働者評議会は新たな第四共和政のための憲法草案の話し合いに入った。しかし当初の予定ではこれまで掲げていた憲法草案をそのまま通す事になっていた所を、独自の"セキ草案"の登場により議論の必要が生じ、631年8月での第四共和国建国が間に合わないという可能性が生じた。そのため631年8月時点では「トルキー臨時社会主義連合」を建設し、来たる宣言に備えることがひとまず全会一致で決定された。
631年7月 トルキー臨時社会主義連合の建国に向けて着々と準備が進められ、これまでの憲法草案と"セキ草案"との共通項を元に臨時社会主義連合の"憲法草案"もまとめられた。『第四共和国』の憲法草案についての議論が長引いていることとは対照的にこの『臨時社会主義連合』については非常に順調に進んだ。最終的に7月中にこれらの準備は終了し、8月の臨時社会主義連合建国を迎えた。

トルキー第四共和政

「私の行動がトルキー第四共和国の民主化に繋がったとは思いません。遅かれ早かれ、トルキーはこのような体制になったことでしょう。」
			―――メフメト・セキ初代トルキー第四共和国首相(603 - 713)
630年前後に労働者評議会が建国した現在のトルキーを統治する国家。
初期は「トルキー臨時社会主義連合」で後に「トルキー社会主義共和国」となった。
臨時社会主義連合結成当初は憲法は大枠のみが定まっていた状態であり、建国後も第四共和政の取るべき道について議論が続いていた。
建国当初は左派を中心に主張されたアタイズィ体制の反省を汲みつつも国の混乱を巻き起こしそうな芽は摘むという制圧体制を敷く案が優勢であった。
しかし第四次内戦の終結に"セキ草案"が大きく寄与していた事実はこれまで態度を明白にしなかった中道派に確実に影響を及ぼしており、右派主導でヘルトジブリール・ヴェールヌイでの社会主義形態が研究される内についに中道派も民主主義を新憲法に取り入れることに前向きな姿勢を示した。
労働者評議会内で民主主義導入が多数派となったことで憲法議論は少しずつ前に進むようになり、既に民主主義連合の賛同が得られていた"セキ草案"を基盤に636年11月に現在の第四共和政の初期憲法が完成した。同月棚上げになっていた民主主義連合との講話条例も結ばれ、労働者評議会を含めた政治勢力の再編が進んだ。
一方でこの進展に反対した左派の一部は離反し共産党や労働農民党を結成した。特に急進的だった労働農民党は当初選挙出馬を認められず、743年の憲法改正後に共産党へ合流しようやく国政復帰となった。
現在では一部制限はありつつも自由な選挙が行われている。
1代目議長	メフメト・セキ			(労働者評議会議長としての就任当時28歳)(6年2ヶ月間在職)(34歳で首相に移行)
1代目首相	メフメト・セキ			(首相としての就任当時34歳)(23年6ヶ月間在職)(56歳で辞職)
2代目首相	イブラヒーム・アイクル		(就任当時48歳)(13年間在職)(60歳で辞職)
3代目首相	ハムゼ・イノニュ		(就任当時43歳)(12年3ヶ月間在職)(54歳で辞職)
4代目首相	ユセフ・シャヒーン		(就任当時51歳)(27年10ヶ月間在職)(78歳で辞職)
5代目首相	ファルク・ウラス		(就任当時54歳)

トルキーの主要な政党

長期に渡り存続

社会民主党(544年~601年、604年~)

帝国議会の黄金期といわれたメスィフ2世の治世後期に結成された。
主に労働者の権利の保護強化を主張し、メスィフ2世の治世最後の帝国議会選挙においては初出馬と極端に保守派に有利な選挙システムというハンデをくらいながら3議席を獲得することに成功した。
しかしイドリース1世の治世以降労働者の権利を第一と考える思想が嫌われ極端に冷遇されるようになり、自由党に次ぐ第二位の得票率を誇りながら選挙システムの改変によって帝国議会の議席を手に入れることが出来なくなった。
継承者争いによって皇帝が空位となっている間も主に政治を動かしていた貴族らが「皇帝中心の政治が覆される」という懸念を持ったことにより一切勢力を伸ばすことはなかった。
しかしこのように辛酸を舐めさせられていた社会民主党ではあったが、帝政打倒のような急進的な政治改革には終始否定的であり、終始政治改革による解決を主張していた。
しかし567年12月に自由党を中心に提出された政治改革案が否決されてからは労働組合からの突き上げもあり、国民議会へ参加し帝政打倒への道のりを歩むこととなる。

国民議会に参加した後は労働者の支持を繋ぎ止めるため、国民議会内の最大勢力であった自由党に社会保障の実現を訴えていた。
また内戦終結後の第一共和国の憲法制定においてもその姿勢を崩さず、強固に社会権の明記を主張していたが、保守勢力の反発を招き憲法の正式な制定を遅らせる遠因となった。
極左・極右の入り乱れた第一回国民議会選挙では波乱の中においてもある程度の勢力を確保することに成功したが、党内では左派派閥の大規模な共産党への寝返りがチラつくなど終始穏やかではなかった。また支持団体の労働組合とて例外ではなく、共産党を支持する組合が分派する事態が相次いだ。
選挙の結果から極左極右への政権の明け渡しを回避するため自由党、秩序党との連立政権を組む事を余儀なくされたが、上述の党内情勢と憲法制定の過程に起因する右派との軋轢もあって政権運営は終始不安定だった。

軍のクーデターを経て生じた第二次内戦では上述の経緯から党としての立ち位置を決めかねていたが、左派派閥主導で秘密裏に社会主義勢力との交渉が行われ、最終的に民主主義の尊重を条件として社会主義勢力に参加した。
しかし党内・支持団体の混乱冷めやらぬまま内戦に突入したことで党の団結力はほぼ無いに等しい状態であり、党としての仕事は身内を宥めることに終始する有様だった。
第二共和国成立後もその状態は大きく変わらなかったが、サンディカリズムと社会主義の間で政治的な対立が生じていくと国の分裂回避と民主主義の堅持に全力を尽くすようになり再び党としての団結を取り戻した。
第二共和国での最穏健派に近い立場になった社会民主党にとって国の分裂はなんとしても避けたい事態であり、第一共和国での反省が活かされない事態に危機感を覚えていた。
そのため大きなすれ違いが生じていた経済政策の面において社会民主党は両勢力と繰り返し会談を行って両勢力の納得がいく妥協点を探り続け、「第三極」とも呼ばれたほどの中立的な立場に立った。
しかしこうして両者の刀を収めようとした社会民主党に対し社会主義の中心だった革新党とサンディカリズムの中心だった労働組合党の風当たりは強く、また二大勢力間の溝は社会民主党の想像以上に深かった。
当初政権を握っていた革新党は提出された"妥協案"を封じ込めるため、内閣権限で社会民主党から選挙出馬権を剥奪することをチラつかせ続けた。また労働組合党はこの"妥協案"を共産主義の悪魔との講和だとして反対し、支持母体であるトルキー全労働組合総連合にも"妥協案"を支持しないよう呼びかけた。
このような動きによって社会民主党が目論んだ二大勢力間の融和は失敗に終わり、対立の構図は社会民主党の為す術のないまま更に深まっていくこととなった。
しかし社会民主党にとって全く成果がなかったわけではなかった。このような対立の激化を当初より疑問視していた労働組合党右派が離反し、社会民主党に寝返ったのである。これによって党勢の増強のみならず未だに続く支持団体の労働組合の混乱も収まり、社会民主党が第二共和国以降も存続することを可能にした。
当初の目的であった国の分裂回避には失敗したものの、結果的に社会民主党が社会民主党たる理由を全体で再確認する契機となった。
こうした動きを二大勢力の対立に違和感を覚えていた国民も注視し、社会民主党の支持は増していくこととなった。
これによって第二共和国最後の選挙となった594年の第十九回国民議会選挙において革新党・労働組合党の急進派が選挙をボイコットしたことも手伝いついに社会民主党は比較第一党を獲得し、政権を担うこととなった。
しかし時代の流れはもはやどのような権力によっても留めようのないものとなっていた。無政府主義者によってアリ・セキ首相が拘束され、これを他方の陰謀であると主張した二大勢力が国民議会の場において衝突。軍隊や国民もこれに続き分裂し、第二共和国は機能停止状態に追い込まれた。
アリ・セキはすぐさま救出されたが、もはや二大勢力にとってそのようなことはどうでもよかった。
自らが関わる余地なく分裂し内戦に突入していくトルキーを指し当時の社会民主党党首でもあったアリ・セキは自らの子息であるハムゼ・セキに向かってこう話したと言われる。
「この国においての権力はただの高価な飾りに過ぎない。このように何回も何回も何回も繰り返してトルキーは先細りしていくんだろう。さながら私はおもちゃの王冠を渡され喜ぶ子供だ。」

第二次内戦では社会民主党は右派派閥に属していたアリ・セキの指導の元、暫くの間は戦乱に直接には関わらず支持者や党員の御用聞き、或いは連絡所のような立場に居た。
しかしサンディカリストによる社会民主党に対する襲撃、更に社会主義勢力による左派派閥への焚付は社会民主党を中立の立場に置くことを許さなかった。
まず596年2月にイスタンベルで活動していた社会民主党員をサンディカリストが襲撃し、10人以上もの死傷者が出る痛ましい事件が勃発した。この時点より左派派閥からの社会主義勢力への参加を求める声は急激に大きくなっていったが、中道派・右派派閥共に参戦に対しては否定的であり、即座には社会民主党の立場は変化しなかった。
しかし翌月に開かれた党大会において左派派閥は党内クーデターを決行。中道・右派派閥を締め出し党首を軟禁、辞職と左派派閥からの党首選出を要求した。
クーデターは内戦状態にあって警察組織が機能していなかったことなどから成功し、左派主導となった社会民主党は社会主義勢力への参加を表明した。

帝政期~第一共和政における主要政党

トルキー帝国時代は帝国議会の権限自体が弱く、
選挙もあくまで皇帝が認める範囲でのみ行われていたため、
皇帝に気に入られなかったがために芽が出なかったという政党も存在する。
しかしそんな中でも帝国議会ができる範囲で皇帝に意見を強気に稟議し、
実際に皇帝の政策に影響を与えることに成功した政治家もあり、
その独特の存在感は特筆に値するものがあった。
またメスィフ2世の時代後期には「立憲君主制」と呼べるほど帝国議会は手厚く扱われるようになり、
憲法の未熟さに反して近代的な議院内閣制のような政治が繰り広げられる黄金期を迎えた。
しかし3代目皇帝のイドリース1世の時代からは帝国議会は皇帝に冷遇されるようになってしまい、
その存在感は急激に収縮。近代的政治の復活はトルキー共和国の形成まで待つこととなった。

内戦による国土の荒廃から生まれた社会不安と経済混乱は国民を急進的な思想へと推し進めた。
第一共和政は国民議会での流れをそのまま引き継いで政治機構が組み上げられたが、国民の急進化により生まれた極左・極右勢力によってその崩壊まで終始危険な情勢が続いた。
帝政を打倒して生まれた新たな国家は近代的ではあったが、それまでの過程での社会不安と経済混乱を解消することに失敗し、国民の大きな不満を買うこととなった。
最初で最後の選挙となった第一回国民議会選挙後もこの不安を解消できず、最終的に軍によってその短い体制に幕が下ろされた。


メシェルティエト(507年~562年(分裂)、570年(解散))

直訳すれば「立憲制」
親皇帝派の貴族・地主らによって結成された保守的な共同体である。
時代によってその程度は異なるが、多くの部分において皇帝によって手厚く扱われ、
その不平等な選挙制度によって下院においても多数派を占め続けた政党である。
政策としては「専制君主制の強化」「皇帝の元での団結」などを掲げ、他の政党の主張した
様々な社会改革についても反対票を投じるなどした。
562年のイドリース1世暗殺に伴う後継者争いによって分裂。
570年にメスィフ3世が退位し正式に解散となった。
アルカン派(562年~570年)
562年の当時の共同体代表で、摂政にも選ばれたアッバス・アルカンが中心となり形成された分派。
皇帝不在という帝国の危機ではあるが、摂政を中心としていつでも皇帝を迎えられるようしっかり
帝国を維持していこうとする分派だった。
主にどちらの帝位請求者にも肩入れしない貴族や地主らによる共同体だった。
摂政が代表を努めていたために、当時の帝国議会での最大党派となったが、帝国議会の威厳自体が
薄れてしまっていたために誰にも相手にされなかった。
メスィフ3世の即位後はそれを支持する方向に転換するが、帝国議会自体が冷遇されており威厳も
もはや無かったため、皇帝にとっては「空席を埋めるに都合のいい存在」という程度の認識でしか
なかった。
トルキー内戦では白軍側を支援し、白軍側の中心勢力として活躍した。
デミレル派(562年~567年)
その余りにも横暴で残酷な振る舞いから「冷酷官」と評されたエクレム・デミレル元帥が中心と
なり形成された分派。
当初は既存の政治機能は継承者争いと完全に切り離されるべきだという立場だったが、
エクレム・デミレルがアフメト1世と会談を行うと一転、アフメト1世を支持する立場に回った。
立場が変わった後は「この混乱を一刻も速く終わらせるため、政府はアフメト1世が正当な皇帝
であると一刻も速く宣言するべきだ」と主張し、アフメト1世派の中心的勢力として暗躍した。
アフメト1世の突然死後にも彼の甥であるハーミト・クビライを無理やり担ぎ上げ、メスィフ3世
の即位は不当であり、ハミート1世こそが正当なる皇帝であると主張し続けた。
なおハーミト・クビライはこの動きを非常に嫌っていたが、エクレム・デミレルの威厳を恐れ、
ただただ従うのみであった。
567年にメスィフ3世によって「危険分子」とされて代表のエクレム・デミレルが拘束された
ことによって消滅した。
無干渉派(564年~570年)
エクレム・デミレルがアフメト1世の支持を表明したことに反発し、
デミレル派から離脱した貴族らが形成した分派。
当初のデミレル派の主張だった「既存の政治機能は継承者争いと完全に切り離されるべき」を
そのまま受け継ぎ、また「場合によっては摂政の継続が望ましくなる可能性もある」と継承者
争いそのものにも警鐘を鳴らした。
メスィフ3世の即位後しばらくは目立った動きはなかった。
内戦勃発後は国民議会側と白軍側の和平交渉役を努めたが、
努力も虚しく交渉は失敗に終わり帝国は滅亡した。
その人脈は第一共和政の秩序党に引き継がれた。

自由党(507年~571年)

帝国の社会改革と民主主義の発展を求める市民らによって結成された政党。
帝国議会においても社会改革と新憲法の発布を強固に稟議し続ける勢力だった。
選挙において最大の得票率を得るなど国民からの支持は厚かったが、保守派有利の選挙制度のために
殆どの場合帝国議会において多数派になることはなかった。
メスィフ2世の時代には黄金期を迎え、内閣を担当し様々な社会改革を推し進めたが、
イドリース1世以降は急激に冷遇されるようになり、以降国政に深く関わる機会を失った。
王朝打倒運動の際に国民から「王朝打倒の最精鋭」として持ち上げられ、
メスィフ3世からの弾圧も加わったことにより自由党はもはや革命の流れを留めることは出来ないとして帝国の打倒に向けて進むこととなった。
国民議会結成の際には旗振り役を担い、内戦期においてもその中心となった。

第一共和国では既に多くの国民の支持を取り付けていた国民議会を中心に新たな政治機構を組み上げていくことになり、中心であった自由党は特に大きくそれに関わっていった。
しかし国民は長い内戦を経た結果もはや自由党では力不足とされるほどに急進化しており、自由党の政権運営は左右両派からの猛烈な突き上げによって困難を極めることとなった。
第一回国民議会選挙後は穏健勢力であった社会民主党・秩序党の支持を取り付けることによりどうにか政権の維持に成功したが、急進化の流れは国民のみならず軍人にさえ広がっており、最終的にクーデターによって第一共和国が崩壊すると共に自由党もひっそりと解散した。
人脈は社会民主党に継承されたというが、直後の内戦で自由党の議員らの多くは散り散りと成ったため定かではない。
最終更新:2019年03月03日 02:21
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