この空気が、とてもすきだ。
私はこんな雰囲気を、太陽のにおいに包まれたものとして捉えている。
住んでいる場所から少し離れた場所には、澄んだ小川に水がさらさらと流れていて。
その水面は、差し込む陽が反射して、そのゆらめきに光を映し続けていた。
小川は森の間を縫うようにして続いていた。もし私が小さな葉っぱの船を作って、ここに流したとしても。その船が、一体何処にたどり着くのかを私は知らない。
この細い水の尾は、何処かで行き止まってしまうのか、それとも。
森の中で、ちょっとだけ開けた場所。その真ん中に、私の家はある。
そこへと戻る途中、私はまた、新しい標を見つけた。とりもあえず、バッグからノートを取り出し、その標の位置を記しておいた。
こうやって書き残しておかなければ、忘れてしまう。
私は自分の記憶力に関して、相当の自信をもっていた。例えば、今まで何に挑戦したか、そういった回数の類は、無駄に覚えているタイプ。
けれど、実のところ――大事なことを忘れて、肝心なところでドジを踏む。そんなおっちょこちょいな自分を自覚したのは、一体いつだったのだろう。
覚えているわ。それを忘れては、いけないもの。だって私は、この森の住人なのだから。
ここは、不思議な森。
地図を持っていなくても大分歩けるようになっていたけど、この森は、どうも時間によってその表情を変える。
今だって、あの標をかつて見たことは無かった様に思う。私の視界に入らなかっただけなのかもしれないけれど。
そして、また気付く。
私のすきなにおい、太陽のにおいが、薄らいでいく。
雨、か。なるほど、天気が変わるのなら、またこの森も、その表情を変えたとして何らおかしい話はない。
「早く家に帰ろうかしら」
早足で、家に向かう。戻れなくなっては、たまらない。
そうして、家の庭に飼っているピチカート(名前を付けるって、多分大事なことだと思う)の傍らに、人影が見えた。黒いトランクを持った、少年。
「やあ、ここは君の家かい?」
「――そうよ」
「そうか。えっと、……君の名前は、なんだろう」
名前を尋ねられた。だから私は応える。
「かなりあ。金糸雀、かしら」
思った。彼が私の名前を訊くから、私もそうする。それは、当たり前のことよね?
「あなたの――お名前は、何かしら?」
【お日さまのノート】
――――――
「森を歩いてたら、開けた場所に出たから。あの鶏は、君の?」
「そうよ、ジュン。ピチカートって言うの。女の子よ、女の子。私の大切な相棒かしら」
「あの一羽だけ?」
「そうかしら」
「……ってことは、あの鶏が産んだ卵は、君がしっかり頂いてるってことか」
ぐ、と言葉が詰まってしまう。だってしょうがないじゃない、私は玉子焼きが大の好物なんだから。
「まあ……あんまりおもてなしは出来そうにないけれど。そうよ、あなたの言う通りかしら。おとっときの卵料理くらいなら、食べさせてあげるわ」
「いや大丈夫、気を遣わないでいいよ。そんなにお腹はすいてないから」
「そう? まあ、お夕飯まではまだ少し時間があるものね」
午後のおやつに卵料理、というのも妙な話だろう。お菓子が作れない訳でもないが、私が作ると、どうも甘くなりすぎる(私には丁度良いけど)。果たして彼がそれを気に入ってくれるかどうかはわからないし、私もあんまりお腹は空いてないし。
結局、紅茶を淹れてあげることにした。
テーブルに向かい合ってふたり、ティーカップに口をつけながら、ぽつりぽつりと言葉を零しあう。
「よくここにたどり着いたわね?」
「うん。森にちょこちょこ標があったから、それに従って歩いてきた」
ふと上を見上げると、太陽の光に照らされて、私の家の方向を指している標があったのだと言う。もっとも、ここに辿りつくまでは多少迷ったに違いないが……
「歩いていれば、何処かにつくさ。……そうだな、僕は運が良かったんだろう」
「運?」
「そう。まあ、そんな気がするだけ」
……。気分でどうにかなる森でもないのだろうけど、ずっと歩き続けた彼ならば、何でもないことなのかもしれない。
窓の方に視線をやった。お日さまの光は、もう明るさを保っていない。ただ、昼間ということを示し、ぼんやりと灰色を映し出しているばかりだった。
「雨がふりそうだな」
彼も私の視線を追ったのか、窓の外をみて呟いた。
「そうね。ここ暫くは、ずっと晴れていたんだけど。まだ少しは、保つんじゃないかしら」
晴れでもなく、雨でもない。すなわち、曇りの天気は、曖昧を空間に反映させるものだと私は考える。
曖昧は、ただ存在するだけで、元々在る筈の何か、をやさしく隠してくれる。
どっちともつかず、ただぼんやりとしている空気。また晴れるかもしれないという期待と、ひょっとしたらまた雨が降るのかもしれないという、少しのかなしみ。
やさしい筈の曖昧は、何かしらの不安と似ていた。
「雨は嫌いか?」
ティーカップを卓に置き、彼はぽつりと言う。もう中身は空になっているようだった。
「あんまり好きじゃないわ。雨は、空から落ちてくる涙だから。かなしいかなしいって、きっと泣いているのかしら」
雨が降ると、もっと森がくらくなってしまう。森や、森に潜む何かしらにとって、水を得られることは恵みと捉えられるかもしれない。
だから、雨が好きではないという私のこころは、独りの勝手な都合だった。
「なるほど。まあ雨が降ると、何となく暗くて、じめじめとした感じにはなるかもしれない」
「そうでしょ?」
「うん。でも、多分涙を流すのは、哀しいだけが理由ではない気もするね」
――それは、私も知っているわ。
「ほら、あれだ。どうしても雲が覆って、少し暗くなってから雨が降るから。でも、太陽が出たまま雨が降るってことも、あるらしいよ」
「そんなことって、あるかしら」
「あるさ。きっと」
彼がそういうなら、そうなんだろう。私は思う。
「紅茶のおかわりは、如何かしら?」
丁度、私のカップの中身も空になった。
「いや、淹れてもらってばかりでも悪いし――そうだ、お礼に僕が淹れるよ。葉はあるんだろう?」
「あるにはあるけど。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら。キッチンはこちらよ」
―――――
紅茶の葉は、いくつかは用意してある。
「これは、森から採ってきたもの?」
「そうよ。大概のものは、あそこに行けばあるもの」
お湯を沸かしながら彼は言い、私はそれに答える。
オレンジの実がある場所を見つけてからは、天然果汁満載のオレンジジュースを作ることが出来るようにもなった。
もっとも、私が歩き回れる範囲も、そう広くはない。森の奥に私は入り込まないし、元々足を踏み入れる必要が無い。
ここら一帯が、私の場所。それだけでいい。
「じゃあ、……これにしようかな」
葉の詰まった缶の匂いをいくつか嗅いで、選んだ様子だった。
「じゃあ、お茶請けは――そうね、あれを使おうかしら」
以前焼いておいた小さめのパンケーキを出して、お皿にちょこちょこと盛り付ける。
「はは。こりゃ、ピチカートに感謝しないとな」
温めておいたティーカップに紅茶を注ぎながら、彼は笑う。
「あんまりそれに触れないで欲しいかしら……」
もう。もともとあの娘しか居ないんだから、ひよこに孵ることはないし……
トレイにのせて、部屋のテーブルに運ぶ。さっきと同じ位置、また向かい合わせになるようなかたちで席に着いた。
「じゃあ、いただきます」
「どうぞ。僕はこっちのお菓子の方を」
少しの間うまれた、無言の時間――だったが、本当にそれは長く続かなかった。
『おいしい』
二人の声が、重なる。
彼はパンケーキの味を気に入ってくれたようだった。それがお世辞なのかどうかは推し量ることはできなかったけれど、甘すぎるのではないかと少し不安だったから、安心した。
そして、彼の紅茶。薫り高く、心が落ち着くような紅茶。
「どうしてこの葉を、選んだの?」
「さあ……何となく、香りがいいから選んだ。淹れ方は適当。紅茶が美味しくなるように」
成る程。紅茶は、葉そのものによって風味自体が変わる。
そしてその淹れ方によって、またその味は全く異なってくる。
それは、相手を思いやる心に似ている。
それを彼は知っていた。私ではない誰かに、教わったのだろう。
味の知識を、自分で確かめることが出来ないわけではない。でも、その味を試すもっと簡単な方法は、自分ではない誰かに評価してもらうことだ。
「ジュン。あなたは今まで、どのくらい歩いてきたのかしら」
「ん? どうだろう。結構歩いた気もするし、そうでも無いといったら、そんな気もする」
「そう……」
彼の言葉。それはどうしようもないほど疑いようのないことで、私はそれを黙って受け入れる。
「ちょっと、外に出ない?」
「外?」
「そうよ。大丈夫、まだ雨は降らないと願いましょう」
――――――
少し歩いて、私達は小川にたどり着いた。
「へぇ、川が流れてるのか」
「ええ。まだ他にも水の尾は引かれているかもしれないけれど、私はそれを知らないわ」
「それを知ろうとは思わない?」
「どうかしら、……」
少し間をおいて、私は答える。
「それは、私の役割ではないから」
彼はその私の言葉に、何の反応も示さない。ただ、流れる小川の水を、じっと見つめているばかりだった。
「あ、ほら。魚が跳ねた」
「そうね。なんていう名前なのかしら……」
ほんの一瞬だったけれど、綺麗な色をしていた。
「曇りの空でも、夜じゃなければ、光があるんだな」
――当たり前のことかもしれないけれど。
そんなことを、彼は言う。
虹色の鱗をした、魚。色は、光が無ければ確かめることが出来ない。曇りの曖昧にあっても、彼らは自らの光を、放ち続けている。
「あ、また」
「随分元気だなあ」
「ふふっ、そうね。全くその通りかしら」
私は、ここにいるだけ。そして、あなたと今、話をしている。
曖昧を曖昧と捉えるのは、人の思惑。私達に彼らの――いや、私以外の誰かの――思いを『完全に汲み取る』ことなど、出来はしない。
それでいい、と思う。そう考えるのが、この森の住人として、多分相応しいこと。
「あなたは、これからも歩き続けるのかしら?」
「うん、多分」
「適当に?」
「そう、適当に」
「あなたが言うなら、そうなのね。この森はすごく広くて、とても深いわ。それがどこまで続いて、いつ終わるのかを、知ることが出来ない」
「……いいんじゃないかな。僕は僕の思うように歩くし」
「そうしたら、また誰かと逢うことも、あるかもしれないわね」
「どうだろう」
ふたり、小川を眺め続ける。
そういえばこうやって川を眺めていたとき、ピチカートが歩いてきたんだっけ――
『こけー』
そうそう。いかにも鶏って感じで……
「こっこ、ここ」
「おい、君の大事な相棒がここまで来てるぞ」
「あ、あら、ピチカート? どうしたのかしら?」
どうやら、柵を抜け出してきたらしい。もっとも、柵らしい柵を作っていたわけでもないけれど。
「こけっ、ここ、こけ」
「……何か訴えてるって感じではないな」
「……そうね」
ふと、上を見上げる。曇り空の間から、すっ、と。太陽のひかりが、差し込んでいた。
「ああいうの、天使の椅子っていうのよ」
「天使の椅子?」
「そう、あの光。あの足元には、一体何があるのかしら……」
あのくらいの光だと、太陽の匂いはしないのね。
……
――――
「そろそろ、行くよ」
家に戻ってから、また落ち着いて。空が相変わらず曇り続ける最中、彼は言った。
「そう……じゃあ、これを持っていくといいかしら」
バッグからノートを取り出して、その内の一枚を破りとった。
「午後の地図。私は、そう呼んでいるの。これでこの辺一帯は、迷わずに進むことが出来るだろうから」
そして、出来ることなら――
「そうね、あの小川の先。水の尾の先に、何があるか。それを確かめて欲しいかしら」
それをお願いしたら。あなたはまたそれを教えに、ここへ戻ってきてくれるかしら?
「そうだな、わかった。またいつか、逢うこともあるんじゃないかな」
「そうね。あなたが忘れていなかったらでいいけれど。そうそう、あと――雨が降りそうだから。この傘を、貸してあげるわ。この大きさなら、もし雨が降らなくても……トランクの中に、入れておけるでしょう?」
お気に入りの傘を、手渡す。これを誰かに貸すのは――そういえば、初めてだった。
「ありがとう。またふらふら歩いてみるよ」
雨が降らないことを、祈りつつ。
彼はそう呟く。午後の地図は、上着のポケットへ。傘は、黒いトランクの中にしまっていた。
家を出て、彼が森へ入っていくのを、私は見送る。
行ってしまった。彼はまた、ここにやってくるだろうか?
そんなことを考えても、先のことなんて、わかる筈もないし。
私はこの森の狭間で、この一帯で、こうやって暮らしていく。
また、待ってみようかしら。
今度のあなたは、あの水の尾の先を報せに。そして、私のお気に入りの傘を持って、顔を見せてくれるかしら。
「ねえ、どう思う? ピチカート」
「こけ、こけっ」
……うん。またとりあえず、その卵、もらっていい?
森の中、ちょっとだけ開けた場所。その真ん中にある、私の家。
空は相変わらずの曇り空だというのに、不意に明るくなった。
天使の椅子。
その足元に、私の家が、照らされているのかしら。
少しだけ、太陽の匂いが香る。私の大好きな、におい。
――地図はほとんど覚えているけれど、また作り直しね。
それはそれで、楽しいかもしれない。
また新しい発見が、あるのかもしれない。
あなたがまたここに来るのなら、その地図をあなたにあげよう。
「もう少しで、夕ご飯の時間かしら」
正直なところ、夕暮れにはまだ早い。
でもまあ、何となくお腹も空いてきたし、そのメニューを考えるくらいなら、許してほしいものだ。
「オムレツが、いいかしらね」
踵を返し、家の中へ戻る。新しいメニューを考えてみるのも、良いかもしれない。
考えることは、お菓子でも、いいわ。違う紅茶の、レシピでも――
それは書き残しておけば、きっと忘れないもの。
今日がそうやって、終わる。
夜が来たら眠り、眠っている間に、朝が来る。
明日の天気は、どうかしら? ――
ノートに、今日あった出来事を記しておいた。これは大事なノートだから、大事なことを書いておくの。
晴れたら、お洗濯でもしましょう。
お日さまが、いつまでも、出ていますように。
そんな些細な思い、そして大事な想いも、何となく記しておいたのだった。
最終更新:2008年01月09日 00:35