――嫌気が、さしたんだ
僕は覚悟を決め、家の慣れ親しんだ青い布団のベッドの上で携帯の通話ボタンを押した。
――何もない、自分に
機械的な発信音が僕の心臓をドクドクと壊れるくらい殴る、呼吸は少しだけ小刻み。
――やっと、わかったんだ
「はい、もしもし」
どこか上品、そしてどこか棘のある口調。
「あ、もしもし!薔薇学吹奏楽ですか?」
――僕の扉を開けれるのは
「!……ちょっとアナタ……声が大きいのだわ、まったく……ええ確かにその番号は薔薇学吹奏楽のものよ」
――僕だけなんだということが
「……僕、吹奏楽に入部したいんです」
不思議と心臓の鼓動は元に戻っていた、聞こえるのは心臓の音ではなく電話越しにクスッと響く優しい声。
「そうね、そう思うのなら是非、明日の新入生歓迎コンサートに来るのだわ」
「あ……はい!わかりました!」
では、またね。と残し電話を切る相手。
今度はさっきとは違う理由で心臓が高鳴りだす。
「……緊張した」
僕はベッドの上に携帯を投げ、じわりと浮かぶ額の汗を手で拭った。
「……ふう」
夕焼けにそまる窓の向こう、淡く滲む美しさはそんな臆病者を安心させる力があるのだろうか……僕は掴めるはずの無いソレに腕を突き出し、握る。
「明日……か」
交互に高まる希望と不安、見えぬ先を必死に手探りで進むこの感覚、そのどれもがただ待っているだけじゃ得られないもので……僕は、ちょっとだけ自分が変わった気がした。
『蒼白天使、第一楽章~wish~』
「ここか……」
校内中、至る所に張り巡らされた部活勧誘のチラシ。
僕はここ、私立薔薇学高校に入学した新一年生、桜田ジュン。嫌という程味わってきた冷たい日常を変え、そしてそこから抜け出すために――
「……コンサート会場」
ここにいる。
「…………」
目の前にそびえる重厚な扉、防音のためなのだから当たり前だ、と言われればそれまでなのだが、僕にとってはこの扉はただの扉では無かった。
「……やっぱり止めようかな……」
――中学時代、僕は世間一般で言う『引きこもり』だった。
自分の“他の男子生徒とは違う”趣味、ささいな感情の高まり、折り合いのつかない担任、それらが原因となり、僕は自分と周りを繋ぐ扉に内側から鍵をかけたのだ。
それでも、どれだけ固く扉を閉ざしてもノックを止めない奴が一人だけ、僕の……姉ちゃんだ。どんくさくて、ドジで馬鹿で……でも……優しくて、たまに頼りになって……。
それが――嬉しくて
だから僕は約束したんだ、他の誰でもない姉ちゃんに、小さな恩返しの最初として。
『……ありがとう……姉ちゃん。僕……学校に行くよ』
……いま思い出しても本当に気のきかない言葉だったと思う……でも、止まらない涙と焼けるような喉から絞り出した勇気に嘘は無かった。
そして目の前の扉もまた、結局は僕が作ったかつてのツケ……だからこそ……僕は……
精算しなければならないのだ、過去を。
果たさなければいけないのだ、約束を。
「いや……でも……」
僕のたどたどしい右手はドアノブの前を、極の同じ磁石の用に浮かび続ける。
何をすべきか頭ではわかっている、どうすべきかも頭ではわかっている。
……わかっている、本当にそれだけなんだ
意気地なしで根性なしな自分に嫌気だけが積もっていく、やっぱり僕には……
「――!」
伸ばした指先にピタリと冷たいドアノブが当たる。別に手を伸ばした訳ではない、向こうから扉が開けられたのだ。
「あら? アナタ、コンサートに来た新入生?」
現れたのは僕の首ほどまでの身長の女の子、長く整った鮮やかな金髪をツインテールに結び、力強い眼差しを携えていた。
僕の心臓は突然の出来事に飛び起きる、バクバクと胸が暴れる中、この声は確か昨日――
「あ、ハイ……そうです、昨日電話して……」
「あら、昨日の電話はアナタだったのね……ふふ、早く入りなさい。コンサートが始まってしまうのだわ」
「……わかりました」
くるり、と回った彼女が纏う香水に一瞬思考が停止する、そして再び開けられた扉から溢れる光に僕の思考は動き出し、また止まったのだ。
「せっかくのコンサートなのだから……ゆっくりしていくのだわ」
――ありあまる、輝きに
ありあまる、希望に――
「うわぁ……」
光の向こう側、白を剥がしていく中から現れたのは今までに見たことの無い楽器ばかり。
僕は今までに特定の楽器はやっていなかった、まあそれが吹奏楽を選んだ理由の一つでもあるわけなのだが……
――芸事
別に僕は音楽を通して“世界を救いたい”とか“お金を稼ぎたい”とかは思っていない、ただ僕は少しでも人生を豊かにしたかったのだ。
絵、詩、音楽……僕はずっと考えていた、人生を豊かにするのは何か
“必要”が豊かにするのか
“無駄”が豊かにするのか
必要なモノは遅かれ早かれ自分に降り注ぐだろう、その瞬間から義務感と共に連れ添うのが“必要”だ、それは恐らく凄くつまらなくて……辛いモノだと思う。
そんな必要から逃げたい時、僕はどこへ向かうのだろうか……うん、きっと僕は“無駄”に向かう。
辛くてつまらないモノから逃げて、楽しくて面白いモノで安らぎを得るのだ、そして、その瞬間に得るのが……豊かさ。
僕はそう考えた、必要と無駄はどちらも必要なのでは無いのかと。
「ここに座って待っていて頂戴」
「わ、わかりました」
促されるまま、僕は並べられた椅子の一番端に座る。
『絵と音楽は互いに支えあっている』
誰か偉い人が言ったらしいこの言葉、絵描きは絵を書くとき音楽を思い、音楽家は旋律を綴るとき絵を思うというのだ。
僕も……絵描き、とまではいかないが、服のデッサンをちょっとだけやってる。
そういった意味では音楽は僕にとって好都合だった、お互いに高めあうことが出来る、まあ損得勘定と言われればそれまでなのだが……
「おや? 君は新入生かい?」
「え? あ、ハイ!」
不意に話しかけられ、僕の声は上滑りになる。
目の焦点をあわせた先には、照明を受け艶やかに輝くショートカットと、何よりも輝く――可愛い笑顔があった。
そして彼女の右手には……これは何だろうか?
僕の右腕一本分くらいの木の棒、それの根元の膨らみと反対側の先からは木とは違う何かが伝っている。
「これが気になるのかい?」
小さな微笑を携え、名前も知らない彼女は僕にソレを渡した。
「あ、ありがとうございます」
動揺の動かす、僕の弱い右手はたどたどしくソレを掴む。
「僕の名前は蒼星石、ここでコントラバスを弾いてる二年目だよ」
僅かに感じる体温、いつからだろうか……僕の鼓動も相手に伝わるくらい高鳴っていた。
「コントラ……バス?」
「? 君は吹奏楽の経験が無いのかい?」
僕の目の前、蒼星石先輩は軽く首を左に傾げる、その先で僕はその優しいオッドアイから逃げるように俯いた。
やっぱり……吹奏楽経験の無い僕が来ることは間違っているのかな……
勇気の裏側に胸が痛む、足りないのは勇気だけじゃなかったのが、今になって突きつけられた感覚だ。
「ふふ、でも大丈夫だよ」
「え?」
突然の言葉に、僕の言葉は間抜けに裏返る。
思わず見た彼女の顔は、さっきよりも眩しい笑顔で彩られていた。
「ここは初心者大歓迎だからさ、君を強制入部させるような事はしないけど……もし入部してくれるのなら歓迎するよ」
僕の心配事は一瞬で吹き飛ばされる、その風を受け、新たに灯るのは希望の灯火。
「あ……ありがとうございます! あとコレ、お返しします」
僕はすでに体温の入れ替わってしまったソレを渡す。その時ありがとう、と返してくれた声がとても嬉しくて……
「あら? そちら新入生ですの?」
――すぐ後ろにいた人にさえ気付かないくらいだった。
最終更新:2007年07月09日 00:18