――一歩――
咲が麻雀部に戻ってきた。
少しずつ清澄高校麻雀部に笑顔は戻ってきた。
でも、それはみんなの無理の上に成り立っている。
そう私は思った。いや、みんな気付いているだろう。
無理に笑顔を作り、明るい部室を作っている。
それを口に出したらすぐに崩れてしまう。
だからみんなは笑う。苦しげに、でも楽しげに。
言うまでもなく、彼女の、和のことを口に出すものはいない。
「あんたぁ…、本当に行くんかい…?」
夕暮れの生徒会長室で、まこが私に確認するように尋ねた。
眼鏡の奥は不安からだろうか、揺れていた。
今頃、部室には3人しかいないから、麻雀はやってないだろう。
あれからネット麻雀を咲の前では誰もやりはしない。
私にも不安があった。
私ごときが何をできるのか?
咲を抱きしめることしかできず、和と話すこともできない無力な部長。
それでも、何かしたかった。
私が何かしたところで何も変わらないかもしれない。
でも、あんな咲の姿を、あんな悲しい目をした和を、こんな麻雀部を放っておけなかった。
いや、放っておけるわけがない。
私はまこに頷き、口を開く。
「今の麻雀部は私が始めたようなものよ。」
「…あんたとわしじゃ。」
まこが俯いて、呟き、私は何も言えなくなる。
1年間1人で勧誘活動をして、そして2年の時にまこは入部してきた。
それでも部員は2人。
それから、まこと私は二人三脚でここまできた。
「…なのに。わしは何もできん…!何もしとらん…!」
顔をあげたまこは目に涙をためていた。
私は咲と和のことで頭がいっぱいで、ずっと1番近くにいたまこが悩んでいることに気付かなかった。
「…わしは、あんたと一緒に今の麻雀部を作ってきたはずじゃったのに…。全部あんたに背負わせとる…!」
まこの頬を涙が零れ落ちていった。
まこは眼鏡をはずし、袖でそれを拭う。
ごめん…。まこ。
気付かなくてごめん。
「まこ、お願いがあるの…。しばらく私を抱きしめて…。」
本当にしょうがない奴だ、私は。
こんなことで、まこの悩みが解決するわけでもない。
でも…。
「…本当は不安で不安で仕方ないの。私なんかに何ができるの…って。」
まこはゆっくりと腕を回してくれた。
まこの温かさを感じ、不安な心が晒け出る。
「…あんたが無理してるの知っとったよ。知っとった…。」
まこの体温が体に染み込む。
まこの言葉が心に染み込む。
「わし…。力になれなくて…何もできなくて…。」
私は首を振った。何度も何度も。
「まこ…。まこ……。」
こうやって体も心も人に預けるなんて何年振りだろう…。
まこだから、まこ相手だから。
私は弱い所も全て晒すことができるのよ。
だから、まこ…。
こうやって抱きしめてくれるだけでいい。
それだけで私は……、まこ、ありがとう。
* * *
藤田プロがちょうど東京で試合があるという。
向こうでは藤田プロの泊まるホテルでお世話になる。
駅ではまこと優希と須賀君が見送りに来てくれた。
もちろん咲には秘密だ。
「部長……。」
心配そうに優希と須賀君が私を見ていた。
分かってる。
みんな不安なんだ。
でも、私は部長だから。みんなの先輩だから。
「…大丈夫よ。心配しないで。きっとなんとかなるわ。」
明るく言って、笑顔を作る。
少し2人は安心したような顔をした。
私が諦めたら、終わってしまう。
立ち止まらずに一歩一歩…。
何か必ず違う景色が見えてくる…。
今から私が踏み出す一歩は、私だけの一歩じゃない。
私達の、咲の、和の一歩でもある。
怖くないって言ったら嘘になる……。
「え?」
それまで、何もしゃべらなかったまこが私を包んでいた。
「ほんとに…あんたはなんでも背負いこんどる…。わしは…、こんなことくらいしかできん。」
「ううん…。」
「わしはあんたと背負う。こっちのことは任せんさい…。」
「うん…。」
まこに抱かれ、まこの言葉で私はこの一歩を踏み出す勇気が貰えるの。
だから、まこ…。
あなたが何もしてないなんてことはないわ。
そう心の中で呟いて、私はまこに笑った。
「帰ってきたら、また頼むわね。」
まこは「わかっとる。」と言って体を離した。
今、私は踏み出す。
私の一歩を。みんなの一歩を…。
* * *
不思議な気持ちだった。
今日も手を繋いで一緒に帰ってる。
私達がこういう関係になって1カ月半がたった。
この1カ月半の間にいろいろした。
抱きついてみたり、頬っぺたにチューしてみたり…。
でも、どれも私からで。
和は照れるだけだった。
ずっと恥ずかしいからだと思っていた。
「ねぇ…、和…。」
ちょうど1カ月がたった時、我慢できなくなった。
部活終わりに誰もいない教室に和を連れ出して。
夕焼けが染める教室に。
絶好のシュチュエーションでしょ?
「…キス、しよ?」
ファーストキスを和と、こんなシュチュエーションで…。
やっぱり自分から言うのは恥ずかしかったけど。
夕暮れの誰もいない教室でのファーストキス。
あぁ、少女漫画でしかありえないと思っていたものが今、ここで、私と和でできるんだ。
そう思うと嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、でも嬉しさが勝る。
和も頬を赤らめて、私の肩に手を置いた。
二人の距離はゼロになった。
初めてのキスなんて、どんな感じかだったなんて覚えていない。
けど、夕焼けで赤く染まる教室と、頬を染めた和と、心臓がばくばくしたことだけは覚えてる。
私はキスができたことを喜んだ。
だって好きな人と通じ合えた感じがするんだもん。
でも、いつからかそれは…違うものになっていった。
それから私達は何度かキスするようになった。
和から抱きしめてくれることもあった。
最初のうちは慣れてなくて、ドキドキして、嬉しくて、その行為自体が嬉しかった。
少しずつそういう事に慣れてきた頃、通じ合えてたと思っていた心は揺らいでいった。
キスする度に、抱きしめられる度に…。
何か違和感を覚えていた。
でも、それは私の勘違いだと思ってた。
だって、私は和のことが好きだし、和も私のこと好きなんだから。
だから、きっと勘違い、思い違い。
でも……。
* * *
東京に着いた頃にはもう夕方になっていた。
まだ部活から帰ってきてないと踏んだ私は白糸台高校を目指し、歩き始めた。
そして2人を見つけた。
手を繋いで仲よさそうに笑う和と金髪の子だった。
確か私の記憶が正しければ、白糸台の大将だった大星さん。
でも、そんなことは気にしていられない。
固く繋がれた手の反対側を掴み、私はひったくるように和を連れ出した。
繋がれていた手はほどけ、大星さんは「あ、」と声をあげた。
「ごめん、ちょっと和を借りるわね!」
自分でも強引だって思う。
でも、こうでもしなくちゃ和と話すことはできないと、私は思っていた。
私も和も何も言わなかった。
そして近くに公園を見つけた私はすぐにそこに入り、ベンチに腰をおろした。
約3か月ぶりに見た和の顔は最後に見た時と変わっていないように見えた。
「…今の子誰なの?」
「大星淡です。今の私の…、恋人です。」
和は間髪入れずに答えた。
「…なんであのとき、咲にあんな態度をとったの?」
「……。」
「…咲はとても悲しんでいたわ。」
「……。」
「…麻雀をやめようとしたくらいだったわ。」
「……。」
「今も…。無理して笑っているわ。」
「……。」
「…咲のこと嫌いになったの?」
「……。」
「…なんで、なんで何も言わないの?」
和はこっちを向くことも口を開くこともなく地面を見ていた。
私はポケットからあれを取り出し、和の視界に入るように目の前に持っていった。
和はそれから目をそらした。
「これと同じようなマスコットを咲は今も大切に持っているわ。」
和は動かない。
「咲は、今もあなたのことが好きなのよ…!だから、だから…それも大切にしてる。」
少し和が揺れた。
「咲は自分を責めてるわ…。自分が何か嫌われるようなことをしたんじゃないかって。自分のせいだって。私はそんな咲が見ていられない。…あなたは!」
和はこっちを見た。
瞳が不安げに揺れていて、私は、あれが和の本心じゃないと分かった。
私はそんな和の様子を見て、自分を落ち着かせてゆっくりと話を続けた。
「どうしてあなたがあんな態度をとったのか、私には見当もつかないわ。でも、咲は今も苦しんでる。」
なんとなくわかった。
いや、なにもわかることなんてない。
でも、これだけは言えた。
「…あなたも、苦しんでいるのね。」
* * *
予感は確信へと変わりつつあった。
いつものように手を繋いで帰っていたはずだった。
だけど、それは突然やってきた。
帰り道に現れた人影。
それはどこかで見た記憶があって、でも、曖昧で。
繋ぐ手を通じて、和がビクッて揺れたのがわかった。
「ごめん!」
その人は私に向かってそう言って、和の手をとった。
「ちょっと和を借りるわね!」
そして和を引っ張った。
固く繋いでいたはずの手は、なぜか自然にほどかれた。
「あ。」
間抜けな声が出た。
和とその人はちょうどそこの角を曲がるところだった。
繋いでいた手を見つめる。
別に強く握っていたわけではない。
でも、そんなに簡単に離れるような握り方はしてないはずなのに…。
「和……?」
もやもやした気持ちが私の中に溢れていた。
追いかけなくちゃ。いや、でも、追っちゃいけない。
頭では追いかけなくちゃと思っていた。
でも、私の体は言うことを聞かない。
追いかけちゃだめだ、と心のどこかが体を止めてる。
「バカっ!」
自分に叫んだ。
何を怖がっているんだって。
動かない足を軽くたたき、私は2人を追いかけた。
少しして2人を公園のベンチで見つけた。
聞きたい。いや、聞いちゃだめだ。
でも、知りたい。
私は耳を傾けた。
ずっと和を連れていった人が一方的に話していた。
たぶん、和を連れていった人は和が前にいた学校の人だ。
そして、その内容は…。
でも、過去のことだよね。
今の和は、私のことを好きでいてくれてる……はずだよね。
不安になっていく心に言い聞かせる。
和は口を開いた。
「…私にはもう、淡がいます。」
そう、今の和には私がいる。
だから、うん、大丈夫。
私の不安なんて…
「…苦しんでるなんてこと、ありません。」
ほっと安心する心とざわめく心。
今の私には2つの心が存在するように思えた。
* * *
最初の質問以外何も答えなかった和がようやく口を開いた。
でも、私にはそれがどうしても嘘に聞こえた。
だから念を押して聞いた。
「和、それは本心?」
「…もちろんです。」
和はそう答えた、でも、違う。
この子もきっと無理をしてる。
私の直感がそれを告げていた。
「…それでもいいわ。でも!」
きっとこのまま聞き続けても、和は否定するばかりだ。
私はそう考えた。
だから言葉を方向を変えた。
「咲のことを嫌いになったわけではないんでしょ。だったら、これを持てるはずよね。友達としてでもいいわ。だから、咲と仲直りをしてほしいのよ。」
友達同士でもお土産交換くらいしたりする。
咲のこと嫌い?と聞いた時も、彼女は何も言わなかった。
嫌いだったら、イエスと言えばいいだけの話だ。
それを何も言わなかったんだ。
彼女は咲を嫌いになったんじゃない。
「…私は。」
和はマスコットから目をそらして、そう言ったきり黙りこむ。
私も何も言わないで彼女を見ていた。
沈黙が続いた。
「私は……それを持つことはできません。」
それは震えていて、今にも泣きだしそうな声だった。
和は地面を見ていた。
でも、体が少し震えている。
「私に、それを持つ資格はありません……。友達の資格だってありません。」
和はそう言って立ち上がった。
「私は…。最低な人間なんです。彼女に…咲さんに…。好かれる資格だってありません……!」
* * *
初めて見た。
和と出会ってから約3カ月。
初めて見る和の表情。言葉。そして和の涙。
確信に変わった。
走り去る和の背中を見送った。
あの人はベンチに座ったままで動かない。
でも、私はその背中を追うことができなかった。
違和感の正体。
それは和の本当の気持ち。
気付かなければ幸せなの?
これからも、気付かないふりをしていれば、和は私を見ていてくれる。
いや、私を通して別の人を見ている。
でも、このままいれば、私がその人を忘れさせることだってできるかもしれない。
そして本当に私を見てくれるときがくるかもしれない。
私は……和が好き。大好き。
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最終更新:2010年02月19日 01:15