「今机に並べられていた7つものをすべて答えて下さい」つい数秒前まで、目の前に並べられていたものがなんだったか。「……ボールペン…と、あとは…」おかしい。確かにボールペンはあった。あとは何だった?はさみだったか?思い出せない。医者は悲しそうな目で俺を見て、机の引き出しにしまっていた7つのものを取り出した。定規、鉛筆、文庫本、はさみ、テニスボール、ペン、消しゴム。そこにボールペンはなかった。「違う、こんな筈じゃない…今日はたまたま調子が悪いんです」「そうですか。では次のテストです。あなたの年齢を答えて下さい」良かった、これならわかる。安心感と、こんな子供に対するような質問をしてくる医者に少しだけ怒りを覚えながら自信満々に答えた。「28歳です」「わかりました、ありがとうございます。これでテストは終わりです」そう言って溜め息を尽きながら医者が取り出した俺のカルテにはこう書かれていた。
○○ △△ 31歳
「若年性アルツハイマーです」
楽しかった高校を卒業し、奇跡的に佐々木とともに国立大学に入学して、卒業と同時に佐々木と結婚した。仕事も波に乗り上々だった。まさに今からという時期、俺はおかしくなってしまった。アルツハイマー。記憶、清潔感、人格、学習能力などの喪失。はじめは些細な事だった。しまった筈のものが見つからない程度のものだったんだ。それがある日仕事からの帰り、家に辿り着けなくなった。あの時の嫁の心配そうな顔を思い出すと、今でも申し訳なくて頭を下げたくなる。重要な会議と接待を忘れた。俺のミスで会社は多大な被害を受けた。そんな俺を見かねた嫁は、会社を休んで病院に行くべきだと言い出した。俺自身異常には気づいていたし、これ以上迷惑もかけたくなかったから異存はなかったさ。だから、さっき下された診断結果にも驚きはしなかった。ショックは大きかったがな。さて、嫁にはなんて説明すれば良いんだろうな。こんな事になってしまって、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
721 この名無しがすごい! sage 2008/03/25(火) 22:58:21 ID:yEXcAyWu「キョン」不意に呼ばれ、ビックリして振り返るとそこには嫁の姿があった。いつからそこに居たんだ?「僕は家を出た時からずっと付き添っていただろう、キョン?」「…そうか。ごめんな、忘れてたよ」気まずい沈黙が流れる。嫁はどう思ってるんだろう。厄介なお荷物が出来たと思っているんだろうか。こいつにそう思われたなら仕方ない、俺もその時は潔くこいつの傍から身を引こう。ただ今は、もう少しだけで良いから隣に居させて欲しい。ワガママだとわかっちゃいるが。そんな事を思いながら、俯く嫁に話しかけてみた。「なぁ、こうして二人で歩くのも久しぶりだし、買い物でもして帰らないか?」出来るだけ明るく、病気の事には触れないでいようと心掛けたつもりだったのに、嫁は俺を見上げると眉を八の字にして下唇を噛んだ。頼む、そんな顔をしないでくれよ。 「キョン、君の両手を見てごらん」言われるままに自分の腕を見下ろすと、俺は両手に買い物袋をぶら下げていた。「……ごめんな。」自分の両手で滑稽に揺れている買い物袋にどうしようもない憤りを感じた。いつ買い物に行ったんだ?誰か教えてくれ。
情けなくて怖くて泣けてくる。これから一体どうなってしまうんだろう。深夜に徘徊したり、所構わず排泄したり、それを異食する俺を見て、お前はどう思うんだろう。 そして何より、お前と過ごした記憶が奪われていく。それが悲しかった。「泣かないでくれキョン。大丈夫…僕が守るから。キョンがどうなってもキミはキミだ。僕も僕のままだから」ありがとうな。こんなに優しい嫁を貰えた俺は幸せ者だ。だからこそ、こいつに迷惑はかけられない。胸に一つの決意を抱いた。でも今はそれをしまっておこう。俺が俺のままで居られる間は、こいつの隣で居させてもらおう。このまま一秒でも長く一緒に居たい。そうだ、真っ直ぐ帰るのも何だし、買い物にでも行くか。その言葉が口から出る直前に、俺は両手にかかる不自然な重さに気づく事が出来た。
この病気は、進行するに連れ症状は重くなっていき、最終的には元の人格すら保てないという。まず表れるのが嫉妬と怒りっぽい性格だという。これはアルツハイマーについて色々調べてくれた嫁が言ってくれた事だ。忘れないようにメモにまでしてくれた。 俺は仕事を続けられなくなり、嫁の収入だけでなんとか食いつなぐ事が出来る状態だった。家に居る間は一人で、なにもせずにポーッと過ごす事が多い。なにかをしようとしても、忘れてしまうんだからしょうがないだろ?外出しない一番の理由は、出かける時は首から住所と名前の書かれたプレートと携帯電話をぶら下げるように嫁から言われているからだけどな。頭では理解している、これは俺の為なんだと。外出の時に笑われたりしても、気にする事はないんだと。
いつものようにソファーで過ごしていると、何時頃かは忘れたが一通のハガキが届いた。《SOS団同窓会のお知らせ》と書いてあった。SOSが救難信号だという事はわかる。その団の同窓会?訳が分からないな…それとも俺の頭がイカレてるのか?嫁宛てでもないようだし、なにかの勧誘かも知れないな。こういうもんは捨ててしまうに限る。また何か厄介事に巻き込まれるに決まってるんだからな。 「また…?またってなんだ?」何かが引っ掛かったが、残念ながら俺の壊れた脳みそではその記憶を発掘する事は出来ず、イライラだけを残してハガキをゴミ箱に投げ入れた。
その日嫁が帰宅して間もなく、ゴミ箱からハガキみたいなものを漁って俺に見せた。なんだそれ?俺はゴミをもらって喜ぶ程には壊れてないと思ったんだが…。「僕がキョンにそんな事をする筈がないだろう。SOS団だよ、覚えてないかい?懐かしいなぁ、涼宮さんが作った団。キミも所属していたんだよ」「すまん、まったく覚えてないんだ…ごめんな」「謝る必要なんかないさ。とにかく今週の日曜日は出かけるよ。僕が同行するから大丈夫だからね」そうか、なら安心だな。いつも迷惑をかけるな…ところで、どこに行くんだ?「SOS団の同窓会だよ。涼宮さんが作った団体で、キミも……………
日曜日、嫁にいつもより早く起こされた。もう少しベッドとの親睦を深めたかったが仕方ないか。今日はどこかへ出かけるんだろうか?だったら携帯電話とプレートを用意しなくては… 「さぁキョン、朝ご飯を一緒に食べよう。それが済んだらスーツに着替えるよ」食事は専ら嫁に頼るしかない。箸はとうに使えないし、最近は食べていいものと悪いものが区別できなくなってしまったからだ。「はいキョン、あーん。これは卵焼き、卵焼きだよ」
食事の後はスーツに着替える、だったよな。よし、大丈夫。着替えられた。ネクタイは目的地に着いてから嫁に締めてもらおう。家を出て嫁と一緒に歩く。プレートをぶら下げていても、こいつと一緒なら恥ずかしくなんかない。むしろこの美人を自慢して周りたいくらいだ。「ところで、今日はこんな早くからどこに行くんだ?」「うん、今日はSOS団の同窓会に行くんだよ。…って、しまった」ん、どうした?すまん、俺がまた何かやらかしたか?「いや、違うんだ。…スーツにツッカケは少しマズいね。気づかなかった僕のミスだ。急いで取りに帰るからここで待っててくれるかい。すぐ戻るから絶対にここから離れてはいけないよ、いいね?」
気付くと俺はスーツで街中に立ち尽くしていた。なんでスーツなのかは気になるが、とにかく家に帰ろう。嫁に心配かけたくはないからな。
一時間くらい歩いただろうか。知らない人がたくさん俺の方を見ている。このプレートが可笑しいのだろう。笑えば良いさ、これは俺のために嫁が作ってくれたものなんだ。 そんな人混みの中の一人の女性が俺に近づき、プレートを鷲掴みにした。「おい、やめろ!!触るな!!」俺が叫んでもその人は止めてくれなくて、さらに携帯まで奪った。そしてあろう事か俺の目の前でその携帯で通話しだしたのだ。悔しくて仕方なかったが、俺は抵抗出来なかった。ただ睨め付けるだけしか出来なかった。気付くと涙が溢れていた。しばらくすると嫁がスーツで汗だくになって走って来た。良かった、もう助かった。だがなぜか嫁は俺の携帯を奪った女性にペコペコと頭を下げ、俺の手を引いて歩き出した。なぜあんな奴に頭を下げるんだ?!「ごめんね、僕がキョンを一人にしたばっかりに…もう離れないからね。」その時俺は、また嫁に迷惑をかけた事を悟った。その原因はわからないけどな。嫁の顔はひどく疲れているように見えた。
嫁と一緒に電車で20分ほど移動して降りた駅は、まったく見覚えのない所だった。「くっくっ、涼宮さんも洒落た事をするね。ここが集合場所だよ。僕にとってのある転機が訪れた所でもある」懐かしそうに目を細める嫁の顔は、その言葉とは裏腹に幸せそうだ。よほど良い事があったんだろうな。その涼宮さんとやらは俺との面識はあるのか?「僕が認識している限りでは、それは親密な仲だったようだよ。僕が嫉妬してしまうぐらいにね。ほら、あれが涼宮さんだ」嫁の視線を追うと、エラい美女がそこに居た。「あんたはいつまで経っても遅刻癖が抜けないようね。団長を待たせるとは良い度胸じゃない?」眉を吊り上げながら笑うこの美女は、どうやら怒ってはいないようだ。「遅れてしまってすみません。少しトラブルがあって…」「佐々木さん、お久しぶり。あ、もう佐々木じゃなかったわね!ダメキョンが迷惑かけてるでしょう?キョン、あんたも…」そこまで一気にまくし立てて俺へと視線を移した女性は、怪訝そうな顔をした。「…キョン?あんたどうかしたの?」嫁が間に入り、女性と何やら話し始めた。きっと俺の病気の事を説明してくれてるんだろう。女性の表情は見る見るうちに蒼白になっていく。また俺の病気のせいで悲しませてしまう人が居る…。「キョン、あたしがわからない?団長の顔を忘れたなんて言わせないわよ!」今にも泣きそうなこの女性には申し訳ないが、まったく…記憶にない。「そんな…そんなバカな事がある訳ないでしょ?冗談でしょ、あんた団長をからかってタダで済むとでも…」ついに涙を零してしまった女性に対して、これ以上言いようがないから、俺は俯いて沈黙を貫いた。
俺達は喫茶店に入り、嫁を入れて計6人でテーブルを囲っていた。「僕はホットコーヒーにするよ。キョンはどうする?」「お前と一緒のやつが良いな」しばらく嫁が皆に病気について説明していた。反応はそれぞれで、俺の為に泣いてくれる人も居れば終始無反応な人も居た。嫁が話す症状は俺が自覚しているよりもずっとヒドいもので、中期で周辺衝動が顕著になっているといった事を話していた。そして、誤診以外に回復した例はないと…。耳を覆いたくなる内容だったが、嫁が言うからには本当の事なんだろうな…。
目の前に何か置かれた。なんだろう。どうしたら良いかと困っていると、横から嫁が助け船を出してくれた。「あぁ、気付かなくてごめんよ。これはコーヒーだ。こうやって砂糖とミルクを入れて飲むんだよ。もう少し冷めてから飲もうか」嫁が少し手を加えると、コーヒーは色を変えてクルクルと回った。しばらくその不思議な現象を眺めていると、嫁が店に移動するよと声を掛けてきた。どうやら皆でお酒を飲むらしい。嫁達は若者向けの居酒屋で酒を酌み交わしながら、思い出話に花を咲かせている。俺はアルコールは嫁から禁止されているから、皆の話を聞く事に専念した。何でもアルコールは病気の進行を早めるとか。SOS団という団体は涼宮さんが団長らしく、皆から慕われているようだ。楽しそうだな…この中にかつて俺が居たのか。きっと楽しかったんだろう、昔の俺よ。もしも時間が戻るなら言ってやりたい…決して忘れられないような時間を生きろ、ってな。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。皆俺の病気なんか関係ないかのように接してくれたし、朝比奈さんという人はずっと俺を気遣って世話を焼いてくれたし、長門さんはなぜか俺にずっと寄り添って離れようとしなかった。古泉さんの話は面白いし、涼宮さんは…「キョン!次に会う時も忘れてたりしたら死刑だからね!」その言葉に反応して、頭から抜け落ちたピースが一つ見つかった。「あぁ、ごめんなハルヒ。今日はありがとう」「…キョン!?わかるの、あたしが?!」どうして忘れてたんだろうな、お前みたいに騒がしい奴を。「…!!バカキョン!!このバカキョン!!二度と忘れるんじゃないわよ!うっ…うわぁぁぁ!」こら、急に抱きつくな。「残念だが、きっと覚えておく事は出来んな。だけど、ありがとうな。お前のおかげで楽しかったよ。SOS団に誘ってくれてありがとう」「キ、キョンくぅん…わたしの事も忘れちゃ嫌ですぅ…」「……私はあなたの事を忘れない」「僕の事も忘れないで下さい。将棋も少し腕が上がったんです。また勝負しましょう」朝比奈さん、あなたの麗しいお姿は網膜に焼き付けておきますよ。長門、お前が泣いてるのを見るのは初めてだったか。ありがとうな、長門…古泉、お前にはまだ賭け金もらってないぞ。まだ黒星を飾りたいならいつでも来い。皆、そろそろ苦しいから離してくれ。じゃあ…元気でな。また次の集まりにも呼んでくれよな。その時にもし俺が俺じゃなくなってても。「当たり前よ!あんたはSOS団団員その一なんだから!何十年たっても来なきゃ死刑よ!」
嫁と二人、夜道を歩く。何十年たっても…か。俺達に十年後なんてあるのかな。あいつらが羨ましい。きっと本当に何十年経っても一緒なんだろうな。¨あいつら¨が誰を指すのか、もう思い出す事は出来ないけれど。俺に…俺達二人に、十年後があるのだろうか。「今日は楽しかったね。僕は少し妬いちゃったけれども」「あぁ、ごめんな」今日何があったんだろう。何が楽しかったんだろう。嫁を妬かせるような事なんて想像出来ないんだが。「キョンがなにもかも忘れてしまっても、皆はキミを忘れないよ」「皆…?」嫁は一瞬目を丸くし、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。「僕は、僕だけはずっとキミのそばに居るからね」あぁ、また何か大切ななにかが俺の中から消えたのか。でも良いさ。お前が居れば、俺は幸せだから。「うん…」二人は手を繋いだ。夜空の下、俺の手を引いてくれる嫁。この手を離されたら、俺は一体どうなるんだろう。
「ところで、こんな遅くからどこに行くんだ?」「今日はね、SOS団の同窓会に行って来たんだよ。涼宮さんが作った団体で、キミも……
最近は意識がはっきりしない時間が長くなってきた。つい数分前の出来事が思い出せない。服が着られない。気づくとソファーに座っていたり窓際で立ち尽くしていたり。幻覚と現実の区別がつかない。時々呼吸をしていたかどうかわからなくなる。 今のようにはっきりと意識がある状態がついにはなくなった時、俺という存在は死んでしまうのだろうな。自我を失ってしまった身体だけが生き長らえても、それはもう俺ではない。あとどれくらい俺は俺で居られるのだろう。どれくらい嫁の事を覚えていられるだろう。
俺に残された思い出は、あとどれくらいだろう。いつか誰かから聞いた話だが…お袋だったか嫁だったか、もしかしたらテレビで見ただけかも知れん。人は年老いていくと残された人生は短くなっていく。そのかわり、思い出が増えていくんだそうだ。 長い人生で得た思い出を持って逝ける…それがどんなに幸せな事か。俺には何も残されない。残された時間と思い出、両方が少しずつ奪われていく。それが辛かった。「キョン…大丈夫だよ、思い出は僕がしっかり守るから」いつの間にか嫁が目の前に座っていた。いつ帰って来たんだろう?…よく見ると、今俺たちが居るのは家ではなかった。「今日は一緒に病院に来てるんだよ。一緒に家を出ただろう?」…そうか、なら良かった。たしかに周りには年配の方々が多いようだ。「キョン、そんなに悲しまないでくれ。僕達の過ごした時間が消える訳じゃないんだ。」嫁にとってはそうかも知れない。だが俺にとっては…その時、若い看護士が俺の名前を呼んだ。
「公的施設の利用も考えてはいかがでしょうか」俺よりも少し年上に見える医者は嫁にむかって言った。「これ以上進行すると、ご自宅での介護だけでは対処しきれなくなる事もあります。介護者の負担も…」進行、介護、負担…。どれも俺の前では言わないで欲しい言葉だ。チラリと嫁に目をやると、俺から意識的に目を逸らすようにまっすぐ医者を見つめていた。医者はまるで俺がこの場に存在しないかのように嫁だけに話していたから、俺の頭には¨施設¨の言葉以外まったく入って来なかった。だから、病院を出た途端にそれ以外は忘れてしまった。
帰り道、俺達は手を取り合って歩いた。これは最近になって出来た暗黙のルールみたいなもので、俺が迷子にならないためと、残り少ない時間を出来るだけ共有するためだ。 「なぁ…施設、探してみないか」本当の話、嫁にこれ以上迷惑をかけたくない。嫌な顔一つせず、俺に食事をとらせてくれて、綺麗にしてくれて、一緒に居てくれる。きっと触りたくもないような事をしてくれた時だってあっただろう。もう十分だった。「僕は嫌だよ」それだけ言うと、嫁は俺とは目を合わさず真っ直ぐ前を向いて歩いた。この話はもうしたくない、という意味なんだろう。嫁が嫌がるなら、俺ももうこの話はやめよう。
夕食は気まずかった。いや、俺がそう感じただけなのかも知れないな。もう味はわからない。食べている事もわからない。嫁がスプーンで俺の顔の前に食事を運んでくれて初めて俺は食べられる。一口、一口ごとに申し訳なく思う。嫁のような人間なら、いくらでも他の人生が選べたはずだ。「ごめんな、ご飯もまともに食べられなくて」最近涙もろくなったと思う。涙と食べかけのモノが零れた。「ごめんな…こんな男で」こんな男と結婚してしまったばっかりに、わずか30歳にして介護生活を送らなければならない。世間体もある。近所で俺を知らない人は居ないだろう。白い目で見られているのは俺だけじゃないはずだ。「君と結婚したのは人生で最も賢い選択だったよ」そう言って俺の汚れた口から顎にかけて拭い、微笑みかけてくれる嫁の顔は、もう見間違えようがないほどに疲れていた。「…もう良いって…もうやめていい。施設に入れてくれよ…頼むから…」嫁に顔を拭いてもらいながら肩と顎を震わせる姿はまさに精神病を患う人のそれだっただろう。だが、もう俺はそれを惨めで醜いと思う事が出来なくなっていた。「キョン、そんな事を言わないでくれ…僕は最後まで隣に居るって言っただろう?」俺を諭す嫁の頬も濡れていたような気がした。シャワーを浴びて来ると言って嫁が居間を出たらすぐに忘れてしまったけどな。あれ?嫁が居ない。まだ帰ってないんだろうか。時計を確認してみたら午後9時を指している。嫁が仕事から帰って来るのは6時だったはずだ。どうしたんだろう?仕事が遅くなっているんだろうか。もしかしたら他の男の所に行っているのかもな。そんな筈はないと思いながらも、どす黒い感情はどんどん膨らんで行く。「アルツハイマーには感情障害や嫉妬が随伴症状として現れる事もあるんだそうだよ」誰かがそんな事を言っていたかも知れない。そう思い出しかけた時、居間のドアが開いて風呂上がりのような雰囲気で嫁が入って来た。「どこに行ってたんだ」自分の声ではないような冷徹な声が喉から出た。「え?」「どこに行ってたんだと聞いてるんだ。他の男の所か?」醜い嫉妬で声が荒くなる。「何を言ってるんだいキョン、ついさっき一緒に晩御飯を食べたじゃないか」優しく諭すように微笑む嫁。俺が何もわからないからって、もう少し言い訳を選べよ。「正直に言えば良いだろう、他の男の所に居たって!どうせ俺はすぐ忘れるから構わないだろ?!なぁ、言えよ!」「そんな事ないよ、キョン。大丈夫だから…」「うるさい!!だまれ!」
嫁がうずくまって泣いている。額から血を流していた。
「おい、どうしたんだ…大丈夫か?!」嫁に駆け寄ろうとして、右手の違和感に気付いた。状況を理解するまでの一瞬、俺は怖いくらいに冷静だった。何だろう?なにか固いモノを持っている。赤い血がついている。嫁を見ると血を流しながらうずくまって泣いている。俺が血のついたモノを持っている。嫁が血を流して泣いている。俺が。終わった。「うわあああああああああああああ!!!」もうダメだ。もう生きてちゃダメだ。俺はもう俺じゃない。「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」自分の頭を嫁を傷つけたモノで殴った。殴った。俺が、これで、嫁を、殴った、俺が、俺が、ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ「大丈夫、キョン、僕は大丈夫だから…!キミが悪いんじゃないから…!もうやめてよ…!」もう俺は俺を許せなくなっていた。
その夜は自室で引きこもった。机に座ってなにもせずにボーっとする。昔から嫌な事があるとこうやって何も考えずに過ごしたものだ。今はもうその必要もなくなってしまったけどな。なにげなく引き出しを開けてみると、見覚えのないモノばかりが顔を出した。中には写真もある。仲の良さそうな男女数人のグループや、頭の悪そうな奴と肩を組んでいるもの。そのどれもが、俺の記憶には存在しないものばかりだった。綺麗な女の人や美男子の顔写真の下に、何かメモ書きがされているものもある。『涼宮ハルヒ。SOS団の団長よ!忘れたら死刑!』『朝比奈みくるです。SOS団のメイドです~。覚えてますかぁ?』『長門有希。あなたの愛人。』『古泉一樹です。あなたの親友ですよ』初めて見る旧友らしい人たちに首を傾げた。更に引き出しを漁ると、手紙を見つけた。日付は書いていないけど、俺の字だった。手紙には、今の俺に対する昔の俺からの命令が書いてあった。まず、これを書いた事を思い出せなくなっていたら無条件で従う事。そして、これは俺が病名を…死刑宣告を受けた日に決意して書いたモノだという事。
最初にまず電話をかける。指定された番号はただの数字の列にしか見えない。必死に記憶を漁る。電話をかける…?とりあえず書かれた番号のボタンを押してみると、良かった、掛かった。次にこの文章を読む。文章はすべてひらがなで書かれていた。
『はい、古泉です』聞き覚えのない声だった。「○○と言う者です」『キョン君?!お久しぶりです、どうしたんですか?』
この見知らぬ友人に向かって、俺は手紙を読んだ。
―――こいずみへ。しんゆうとしてさいごのたのみがある。これをよんでいるときのおれは、もうおれではないとおもう。これいじょう、めいわくはかけられない。おれを、おまえのこねでしせつにいれてやってくれないか。よめはきっとしせつをいやがるとおもうんだ。おまえしかたよるやつがいない。いやなことをたのんでもうしわけないとおもう。むりやりひきずってでもつれていってくれ。それからどうか、よめのことをたすけてやってほしい。たのむ。しょうぎのまけはちゃらにしてやるからな。
読み終えると長い沈黙があった。俺はこの時意識ははっきりしていて、状況を理解しながら客観的に見ていた。『…わかりました。なんとかしましょう』明日迎えに行きます、と言って電話は切れた。最後の声は泣いているようにも聞こえたが、俺には何が悲しいのかもう理解できなかった。明日になれば、嫁が仕事に行っている間にこの人が迎えに来てくれる。その頃にはもう、俺の意識は死んでいるだろう。終わったな。そう思うと一気に疲れを感じて、溜め息のあと俺は寝てしまった。
朝起きると、久しぶりに 頭がスッキリしていた。こんなに気分が良い朝は何年ぶりだろう。嫁と一緒に朝食をとり、他愛もない事を話した。あんな事があったね、こんな所に行ったね。そういえばあの時は…楽しそうに話す嫁に俺は相槌を打った。なにもわからなかったが、それだけで俺は幸せだった。俺はどんな人生を生きたのか?もうそれはわからなくなってしまったけど、コイツが隣に居てくれたなら、きっと良い人生だったんだろう。「僕が保証するよ。キョン、キミは誰にでも誇れる人生を生きた」そう言って微笑んでくれる嫁の額にはガーゼが当てられていた。どうしたんだろうな?でも…そうか。記憶がなくても、思い出がなくても、お前がそう言ってくれたなら俺は十分だ。
仕事に向かう嫁の背中を見送る。小さくなる記憶の点滅が、二人の影を消していく。瞬くたびに映るあの人の姿が消えていく。俺の中に残された最後の自我が去って行く。幸せの意味とあり方、感謝、最期の自我を抱き思う。「お前に会えて良かった」と。俺の、最後の思考だった。
完全版ハルヒ「…キョン?あんたどうかしたの?」
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