その日の朝は特別なものでもなく、いつも通りの朝だった。歌合戦を見ながら年越しする習慣も、午前零時に人混みの神社へ繰り出す習慣もない私にとっては、正月を迎えるからといって特別何かあるわけではない。初日の出と呼ばれる太陽の光を浴びながら、ベッドから少し身を起こした。New Year’s Day、そう呼ばれる割には何の変わりもない日常。新しい年だからって何かが変わるのだろうか。去年と比べて何か変わったのだろうか。そんなことを思いながら、ベッドから抜け出した私は、窓から初日の出に染まった街の風景を眺め、ふと引っかかったちっぽけな記憶の糸をたぐり寄せていた。去年の今頃、私は窓からこの景色を見てはいなかった。あの時、私は鏡を見ていた。あの時、私はその日に着ていく服のことばかり考えていた。なぜだかわからないけれども、心躍るような期待感に胸を膨らませていたことを覚えている。そう、あのNew Year’s Dayは、ほんの少しだけ私にとって特別な日だった。「なぁ、佐々木。一緒に初詣に行かないか?」いつも通りの予備校からの帰り道、自転車を押す彼は、その日の満月を見ながらそう言った。それは唐突な誘いだった。「今年はお互い年明けに高校受験だろ?おそらく気休め程度にしかならないけど、合格祈願ってのをしとこう。」そして、彼は私の方を振り返って、悪戯を見つかった子供のような顔で私を見た。予想外の誘いに少し戸惑っていた。心臓の鼓動が少し早くなってきているのがわかった。「んー、そうだねぇ。」それを彼は拒否の色ととってしまったらしく、「あぁ、お前は現実主義だから、そういう神頼みとか信じてなさそうだもんな。 俺は気にしてないから、遠慮なく断ってくれてかまわないぜ。」と、立ち止まって言った。いや、全然そんなのじゃないよ。ただ、少し―少し―どうしたんだろう、私?「いや、僕はそういった日本の文化的な行事を行うことについて否やはないよ。 キミだって、神様が合格させてくれるなんて信じているわけではないだろう? せっかく、この国に生まれて来たんだ。 その文化や習慣を堪能しなくてはもったいないからね。」動揺を悟られないように、必死に取り繕ってみせる。「拝んだだけで合格させてくれる神様がいたら、元旦と言わず年中無休で拝んでやってもいいんだけどな。」彼は屈託ない笑顔を私に向けた。「まったく、キミはそのような邪まな考えをするから、思うように成績が伸びないのだよ。」そして大げさに息を吐いて、嘆息してみせる。「おいおい、それは言わない約束だ。んじゃあ、佐々木。元旦の朝十時に駅前集合でいいか?」あぁ、それでかまわないよ、キョン―午前4時、まだ日は出ておらず、あたりは真っ暗なままだ。まったく、遠足前の小学生か、私は。元旦の朝、初日の出を待つ街の片隅のベッドで私は暗い天井を見ていた。約束の10時までまだ6時間もある。眠れそうもないが、起きれそうもない。少し寝不足気味の頭はとりとめもない考えを巡らす。私は何を期待しているのだろう。そして、何を恐れているのだろう。今年はきっといろいろなものが変わるだろう。その中で繋ぎ止めていたいものは何?右手を宙に伸ばしてみる。私がそのとき何をその手に掴みたかったか、何に触れたかったか、漠然とわかった気がした。そして、その右手は朝日に染まった。午前10時、彼は茶色のコートのポケットに両手を突っ込んで、白い息を吐いて立っていた。駅前は人でごった返している。みんなどこかの神社へ初詣に行く人たちだろうか。私の姿を見つけると、右手を挙げて「よう、佐々木。新年明けましておめでとう。」例のありきたりの挨拶をした。「やぁ、キョン。あけましておめでとう。すまない、少し待たせてしまったかな?」「いや、5分前に着いたとこだよ。」6時間も前に目が覚めていたくせに、私が待ち合わせ場所についたのは時間ぎりぎりだった。自分の部屋を出ようとしては、部屋に戻り、姿見を見ては服装を考え直す、なんてことを延々繰り返していたためだった。自分でもつくづく奇怪な行動だと思うが、なぜか気になって仕方がなかった。まぁ、新年くらいはお気に入りの服で過ごしたいものだよ。「それじゃ、行こうか。」そう言ってくるりと目的地の方向へ体を反転させる。しかし、彼になんらかを期待した私はまったく見当違いだったと言わざるを得ない。まったく、誰のせいで朝からこんなどたばたを…「ん?どうした、佐々木?なんか機嫌悪そうだぞ。」「…いや、なんでもないよ。」ほんとうにまったく。神社への参道には数多くの出店が出ていた。そして、辺りを埋め尽くす人。「キョン、妹さんは連れては来なかったのかい?」ふと心に浮かんだ疑問をぶつけてみる。「あぁ、ちょっとこの人だかりの中じゃ、危ないし迷子になるかもしれないしな。」そして、連れて行けとうるさかったんだけどな、と付け加えた。「確かに、この人混みではね。その気になれば人の上を歩いていけそうなくらいだ。」「はぐれないように気をつけてくれよ。この中で迷子になったら、もう会えないぜ。」彼は振り返って両手を挙げる。なぜか「もう会えない」という言葉が、私の心の中のどこかでひっかかった。―それは、困るね。彼は左肩にかかる不自然な力に一瞬きょとんとした顔をした。私は、彼のコートの裾を握っていた。「これならはぐれることはないだろう。」もっと力強く握り締めたかった、でもその勇気はなかった。彼の手から十円玉が放物線を描いて放たれる。「おし、入った!」右手で小さくガッツポーズする。「まったく、実にご利益のなさそうなお供えの仕方だね。」どこか賽銭箱にコインを投入成功したことだけで、満足してしまった右手の先の彼にすこしあきれた言葉をかける。「だって仕方がないだろう。この人混みじゃ。」「そんな粗暴な振る舞いをしていたら、叶えてもらえるはずの願いも叶えてもらえなくなるよ。」「珍しいな、お前がそんな非科学的なことを言うなんて。」「悪いが、僕は唯物論原理主義者ではないのでね。ある程度は宗教のような観念論的な考え方にも同調できるよ。」そして、笑い声を上げる。「なんかよくわからんけど、まぁお前も神様が願い事を叶えてくれるなんて信じるんだな。」彼はなんとも形容しがたい味の料理をはじめて食べたような表情を浮かべた。「そうだね。そう信じることで救われるなら、そう信じればいい。」そうやって信じることで、どんな願いを叶えてもらいたいのだろう、―この私は。「さてと無事初詣も済んだことだし、お守りでも買おう。」お守りには色々な種類がある。どれもこれも大差あるものとは思えないけど。学業成就のお守りを彼は指差していた。白いお守り。彼はそれを受け取ると、それを私に渡してきた。「ほい、佐々木。」意外な行動に頭の中が一瞬真っ白になる。「こういうのは、自分で買うよりも、人からもらう方がご利益がありそうな気がするだろう?」そう言って私の手にお守りを渡す。彼の手が暖かい。「あぁ、ありがとう、キョン―」彼の手から私の手にお守りが渡る。「それに、そのお守りの色。なんか今日のお前の服によく合うだろ。」まったく、人が苦労してコーディネートした服に、お守り、なんてのを合わせてくるなんてね。「そういう価値基準でお守りというのは選ぶものだったのかい?」「いや、なんとなくだ。四つも色があるしな。」「ならキミのは僕が選んであげるよ。」そう言って、お守りを大切にポケットにしまった。なぜなら、これが、初めての、彼からの少し珍妙なプレゼントだったから―「さてと、これで神頼みは終わりだね。キョン、これからは帰って、自らの労力を惜しまず受験勉強に注ぐ番だよ。」悪戯っぽく彼を指差す。「正月くらいはのんびりさせてもらいたいもんだがね。」彼は両手を小さく挙げて、ジェスチャー。「神は自らを助くるものを助く、だよ。」「へいへい、じゃあな。受験勉強がんばれよ。」「それはキミもだよ、キョン。」そうやって軽くふざけあう。駅前にて、お互い軽く会釈して去ろうとしたとき、「おお、そうだ、忘れてた。」そして、彼は鞄をごそごそとして何か紙を取り出した。「ほい、年賀状。」「普通年賀状というのは郵便で届けてもらうものではなかったかね?」ある意味彼らしい、不思議な非常識。「何か変か?」「何か変だね。」彼はあごに手を当てて考え込むようなしぐさをした後、「いや、どうせ会うんだったら、手渡しでいいだろう?」そう言って、私にその年最初の年賀状を渡した。
―あれが一年前のこの日だった。あのときの白いお守りは今も私の机の引き出しに入っている。そして、その日、彼から年賀状が届いた。あの間の抜けたやり取りを思い出す。あぁ、そうか、今日はもうキミと会うことはないんだね―あれからの一年でここまで変わってしまったんだね。あの時と今はまるで違う、同じ日付。キョン、キミは遠くに行ってしまったんだね。でも、私はまだ同じ場所にいる。もしも、一年前に戻れるなら、あの右手を離さなかったのに。―なぜ、私の心は、変わっていないんだろう
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