1-661「バレンタインチョコ L」

「ところでキョン。キミは今日が何の日か覚えているかね?」
塾の帰り。いつもの如く佐々木と二人でバスを待っている時に、唐突にそんな問いかけをされた。
今日?はて、今日は何かの記念日だっただろうか。
学校にはいつもどおり通い、これまた塾のある日の定番で佐々木と自転車二人乗りで塾までやってきたのだから、
国民の休日とかで無いのは確実だ。
だとすると休日とかとは関係の無いなんらかの記念日か何か。それも佐々木が話題を振ったからには、俺も知って
いる、俺達にカンケイのある何かだということになるわけだが。えーっと今日は確か二月の……何日だ?
などと塾で疲れた頭を空転させている俺を見て、佐々木はくっくっと彼女独特の笑い声を漏らした。
なんだよ。何かおかしかったか?俺。
「ああ、可笑しいね。世の中の平均的な男子中学生なら意識せずにはいられない日だろうと言うのに即座に出てこな
い辺りが特に、ね。――まあ、実にキミらしい、とは言えるのかも知れないが。」
なんだそれは。
平均的な男子中学生が意識せずにいられない日だって?
二月のそういうイベントというと、えーっと確か今日の日付は十――あ。
「――バレンタインか。」
「そのとおり。セントバレンタインズデーだ。諸外国ではどうあれ、この日本では女性が好きな男性にチョコレートを贈
る日とされているようだ。」
なんてこった、塾で入試当日までのカウントダウンばかりを刷り込まれていたせいかすっかり忘れていた。
確かに今日は妙にそわそわしている奴がいるかと思えば、靴箱を緊張した面持ちで開けて直後にがっくり肩を落と
す奴がいたりと変な行動をとっている奴が多いなと思ってはいたのだが……。
「気にしている様子が無いのは気が付いていたが、まさか忘れているとまでは思っていなかったよ。キョン。キミは以
前、僕に“振る舞いを改めれば異性にモテるようになる”などと禄でもない事を言ったが、それをそのままキミにお返
しするよ。キミがモテたければ、もう少しその鈍感さを改善したほうがいい。」
余計なお世話だ。
大体バレンタインなんて毎年母親と妹がチョコを買ってきて二人で半分以上平らげてしまうのが定番のイベント
なんで、覚えとく価値すらなかったのさ。
製菓業界の陰謀にのっかるのも癪だし、バレンタインとかいうおっさんの記念日をキリスト教徒でも無い俺がわ
ざわざ覚えておかなきゃいけない理由もないだろうが。
「聖ウァレンティヌス。キリスト教の司祭で、兵士の婚姻を禁止したローマ帝国皇帝の命令に逆らって兵士を結婚
させたことで2月14日に処刑された……なんてことになってはいるがね。実際にはクリスマスと同じで、もとはキ
リスト教が浸透する以前からあった他宗教の祭を取り込むための方便に使われたというのが正確なとこなんだ
ろう。ま、覚える必要が無いという点に関しては同感だが。ただ、製菓業界の陰謀、というのは正確ではないね。
バレンタインの贈り物にチョコレート、というのは日本だけではなくて外国でも定番だ。日本が特殊なのは、その
贈り物がチョコレートに限定されている点と、女性から男性に、という縛りだ。女性の社会進出が叫ばれて久しい
というのに、この習慣が改められないのは何故なんだろうね?」
そんなこと俺に聞かれても困る。
いや、そもそもなんで俺達はバレンタインについて真面目に語り合ってるんだ。
確かに忘れてたのは迂闊だったが、もとより関係ないのだからそれでかまわないんじゃないか。
「個人的には同意見だね。ただ、クラスの皆は異なる見解をもっているようだ。特に女子達はね。まあ、同意はで
きないが理解はできる。僕達は中学三年生で、もうすぐ卒業だ。中学校最後のイベントとして良い思い出が欲しい
というのは誰しもが思うところだ。意中の相手が違う高校を志望している者は最後の機会に、ということもあるのだ
ろう。――実は先日来女子のグループの中ではバレンタインの話題ばかりなんだ。」
そうだろうな。
そういう気持ちは俺もわからんでもない。
これでこの話題を振ってきたのが他の誰かならもうちょっと思うところもあるだろう。
だが目の前にいる奴は恋愛感情は精神的な病の一種などと言い切るような奴なのだ。
この手のイベントを好むとも、ましてや参加しようなどと思うとは思えん。
俺がそう言うと、佐々木は何故かまた喉の奥でくっくっと笑い声をあげた。
「そのとおりだよ、キョン。キミが僕の事を理解してくれているのは実にうれしい。確かに僕はこの手のイベントには
何の興味も無いし、参加したいとも思わない。だがね、人生というのは往々にして個々人の意のままになるとは限
らないものなんだよ。その証左が――これだ。」
妙に芝居がかった口調でそう言うと、佐々木は俺の鼻先に手を突き出した。
その手の先にははたして小さな箱が吊り下げられていた。
可愛らしい包装紙と可愛らしいリボンでデコレーションされた、小さな小箱。
なんだ?これは。
「……キョン。キミが本気でこの箱の中身が解らないというのなら、友人として一度医者にでも診てもらうことを
進めるが?」
いや、すまん。わかってる。わかってるとも。
さっきからの話の内容から考えるまでも無く、この可愛らしい装飾の小箱の中身がバレンタインのチョコレート
であることには微塵も疑いの余地も無い。
だが、一体どういう風の吹き回しなんだ、これは。
「うん。さっきも言ったように、僕はバレンタインなんかにはなんの興味もないし。参加したいとも思わない。だが
ね、そのことを友人達に話したらね、それでは駄目だ、と言われたんだよ。何が駄目なのか理解できなくて聞き
返したんだが……どうやら彼女達は僕がキミにチョコレートをあげるものと思い込んでいたらしい。」
「はあ?」
なんでそうなるんだ。
思わず素っ頓狂な声をあげた俺の反応に、佐々木は爆笑をこらえるような表情で喉を鳴らした。
「いやいや、キミならそう言うと思ったよ。予想したとおりだ。――怒るなよ。別に馬鹿にしている訳じゃないんだ。
僕のキミに対する理解が間違っていなかった事が立証されたのが愉快だった。ただそれだけのことなんだ。
……話を戻すよ。そんな訳で僕は彼女達にキミにチョコレートを渡すように迫られたんだ。無論、断ったさ。でも
ね、一緒に買いに言ってあげる、とまで言われて否と言えるほど僕も空気の読めない人間ではないつもりなの
でね。まったく。他人の事情にどうしてあそこまで必死になれるのか理解に苦しむよ。……ところで僕はいつま
でこれをぶら下げていればいいのかな?そろそろ手がだるくなってきたのだが。よもや受け取り拒否などとは言
うまいね。バレンタインに贈り物の受け取りを拒めるルールがあったなどとは寡聞にして知らないのだが。」
いや、受け取る。受け取るともさ。
どんな相手からのものであったとしてもバレンタインにチョコを貰ってうれしくない、なんて思うわけもないし、
それが佐々木からのものならなおさらだ。
もし受け取りを拒むような奴がいるとしたら連れて来い。小一時間説教してやる。
「喜んでくれてなによりだ。正直肩の荷が下りた様な気分だよ。さして意味のあるものではないと思ってはいても、
実際贈るとなると中々気を使う。これでも色々と悩んだんだよ。どれにするか、とかいつ渡すか、とかね。製菓業
界もここぞとばかりに多彩なチョコレートを売り出しているし、正直参ったよ。慣れない事はするもんじゃないね。
一緒に来た友人は手作りを勧めてくるし。ああ、もちろん丁重にお断りしたよ。技術もないし、正直文字なんて何
を書けばいいものやら。まあ、とりあえず無難なものを選んどいたつもりなんで、早めに食べてくれたまえ。」
ああ、喜んでいただかせてもらうさ。
「うん。そうしてくれ。……と、バスが来たな。それじゃあ、キョン。また明日。――ああ、そうだ。言い忘れていた。」
バスの中に入りかけた佐々木は振り返って言った。
「なんだ?」
「一ヵ月後のイベントだが。忘れてしまって構わない。いや、むしろ忘れてしまってくれるほうがありがたいね。バレ
ンタインだけでも十分理解しがたいのに、ホワイトデーなんて奇怪なものにつき合わされるのは勘弁願いたい。」
まあ、そういうなよ。
毒喰らわば皿までって言うだろ。
せっかく佐々木が意に沿わないながらもバレンタインのチョコをくれたんだ。
せいぜい俺も慣れないホワイトデーのお返しを考えるさ。
「バレンタインを忘れていたキミの言葉にあまり信用がおけるとも思えないね。まあ、期待して待ってるよ。――ど
ちらかといえば忘れてくれてるほうをね。それじゃあ、キョン。こんどこそ、また明日。」
ああ、また明日。
挨拶もそこそこにバスのドアは閉まり、佐々木を乗せたバスは夜の向こうへと走っていった。
後日。
そのチョコレートの包みを開けたのは俺ではなかった。
親に見つかるのも気恥ずかしかったので、とりあえず机の引き出しにしまったのだが、食べる機会の無い
うちに遠慮という言葉を知らないうちの妹に見つかって八割がた食べられてしまったのだ。
よって俺が見たのは、おそらく元はハート型だったのではないかと思われるチョコレートのかけらと、そこに
ホワイトチョコで書かれた“L”の文字。
それと『今後ともよろしく』なんて年賀状か季節の挨拶かと勘違いしそうな言葉が描かれたメッセージカード
だけだった。

さらに後日。
佐々木の予想通りホワイトデーの事をすっかり失念していた俺は、よりにもよって当日の朝に母親に指摘
され、あわてて買いに行くハメになった。
それを佐々木に言うと『それは残念』と一言だけ言われた。
しかし、まあ。ちゃんと受け取ってはくれたし、機嫌は良さそうにしていたので俺にしては上出来とでも考えて
おくことにしよう。
やれやれ。

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最終更新:2013年03月03日 01:21
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