9-205「パーティー後半」

「そうね、さっきの春キャベツがいい感じだから、もう半球買って、ポトフ風野菜煮込みスープを作って、メインは……そうねぇ。肉は明日食べるから今日はお魚かしら。さっきはエビとイカのいいのがあったからスルーしたけど、タラで、ホイル包み焼きがいいかもしれないわね。そうなると、エノキとエリンギも買っておきましょう。ううっ話してたらお腹減ってきたわ」
 一体、どんな物を買うとそれができるのか、さっぱりだ。お前さんに任すよ。
「見栄えがして、格好つけられるわりに、簡単な料理だから、この機会に覚えておくといいわよ」
 ハルヒは燃えすぎた蝋燭の炎のように瞳を輝かせていた。きっと、すばらしい出来映えの料理を幻視して舌なめずりをしているに違いない。
「油と調味料も買うけど、どうせ使い切れないんだから、少し使っておきましょ。明日使ってさらに余った分は有希んトコに置いておけばいいし。あんたは知らないだろうけど、この娘の台所って包丁とまな板くらいしかないんだから」
 まぁ確かに、カレー皿と鍋、レトルトのカレーと米くらいしかなかったな。あ、そうかキャベツの千切りしてたから、包丁とまな板はあるのか。
「ひとつ、聞いてもいいかな、キョン。会話の流れを見るに、長門さんはひとり暮らしのようだ。うむ、それはまぁいい。問題はだね、ひとり暮らしの女性の台所のことをキミはどうして、そんなにくわしく知っているのかな? これは大いに疑問だよ、そうは思わないか、キョン」
 ちょ、佐々木さん、目が怖いんスけど。
「そりゃ、何度か長門の部屋にはお邪魔しているからな、この一年」
 一年どころか四年前から去年の七月まで、俺は長門宅で三年寝太郎だったわけだが、それは朝比奈さんと俺、そして長門だけの秘密だ。
「ほう。まぁそれはそうだろうね」
 佐々木は未だに怖い目をしたままだった。なるほど、これが信用されてない目というヤツか。
「有希、ご飯ある? じゃあ、パンとかは買わなくてもいいわね」
 ハルヒは長門と会話しながら、夕食のメニューのための買い物に移ったようだ。
「ブラックペッパーと、オリーブオイルとサラダ油、塩はあったっけ? ないの? あとは、コンソメと焼き肉のタレも買わないとね。あ、そうだ脂身も買わないと、有希、バターは? ないのね」
 ぽいぽいぽいと、調味料の類がカートに投げ入れられる。その後、精肉売り場にとって返して、脂身をいくつか、加工品売り場で、ソーセージ、チーズをいくつか、バターなどを迷いなくカゴに投入する。明日って鶴屋さん来るんだっけ?
「とりあえず食材は、こんなもんね、ソフトドリンクとかも買っておきましょうか」
 そう言って、ハルヒはドリンク売り場に直行する。さすがに制服でビールは買えないので、酒類売り場は……って白ワインなんか、どうするんだ。
「料理の味付けに使うのよ」(※未成年の飲酒は法律で禁止されています)
 買えるかな? 多分大丈夫でしょ。なんて言いながら、一瓶忍ばせる。
「ウーロン茶に、ミネラルウォーターと、佐々木さん、飲み物の好みある?」
「そうね、100%果汁のオレンジか、アップルをお願い」
 ハルヒは我が意を得たりとばかりに、アップルジュースとオレンジジュースをカゴに入れる。おい、ハルヒ。そ、そろそろ限界だぞ。カートがえらく重くなってきた。これを俺ひとりで運ぶのかと思うと気が遠くなるぜ。
「情っさけないことをいってんじゃないわよ、キリキリ運ぶ!」
 発破を掛けるハルヒとは対照的に、佐々木は気を利かせて、カートを一緒に押してくれる。
「飲み物とかは僕が持つよ」
 助かるぜ、やはり持つべき物は頼りになる友人だな。
「ほら、まだお菓子とか乾き物も買うんだからね」
 まぁパーティには乾き物も必要だしな、適当にスナック菓子もカゴに乗せる。
「あ、そうだ。ゴミ袋とビニール袋も買わないと」
 言い捨てて、ハルヒはぴゅーと尻に帆を掛けてどっかに行った。いつもの事ながら、超小型の台風みたいなヤツだな。
「涼宮さんはまさに嵐のようなという比喩表現を用いる的確な対象だね」
 佐々木がこれまた的確な相づちを打った。ハルヒがいなくなったことにより、周囲の空気がまったりするのがわかる。ちなみに長門は俺たちの後方1.5m~2mの位置を的確にキープしており、店内を流れる音楽に耳を傾けているように見えた。
「今の内に言っておく……我々はあなたおよびあなたの友人に害意を持っていない。あなたの友人は我々にとっても、重要な観測対象であり、不測の事態の発生はこれを歓迎しない。……この決定は情報統合思念体においての現在の共通認識であり、わたしはその認識にしたがう……」
 うお、長門がこんな長ゼリフを。
「キョン。これは、僕が長門さんに仲間として容認された、ということかな? 観測対象という表現に多少引っかかりを感じるが、大意は伝わったし、その意志を僕は歓迎するよ」
 まぁ、そういうことなんだろう、多分、きっと。その上で、そのセリフは長門に言ってやれ、その方がいい。
「そうだね、長門さん、ありがとう」
 そう言って、佐々木は長門を軽くハグした、って何してんだ?
「いや、言葉では伝えきれないだろうと思って、肉体的接触を併用してみた」
 そういや、言葉による情報の伝達には齟齬が発生するって言ったのは長門だったか。一年前のこと、長門が初めて俺に対して一行以上の言葉を伝えた日のことを思い出しながら、そう言った。
 そんな俺の言葉を聞き、振り向いた佐々木の眉はハルヒもかくやというようにつり上がっていた。
 な、なんで怒っているんだ?
「ちょっと、待ちたまえ。この会話の流れで、キミがそう言ったということはアレか、キミが夢中になっているのは涼宮さんだとばかりに思っていたが、それは僕の早合点だったということかな?」
 な、なんでそうなる?
「そうだね……女のカンさ、とりあえずはそう言っておこう。ちなみに僕は怒ってなどいない。どちらかと言えば悲しんでいるのだ。それでは、キョン。キミの誠意ある返答を期待したい」
 まず、言っておくが、俺とハルヒは別に付き合ってなどいない。それは中学三年時の我らがクラスメイトたち並みに的はずれであると指摘しておこう。続いて、長門と俺は……仲間だ。少なくとも、お前がいま邪推しているような関係ではない。……一瞬、口ごもってしまった。それだけ俺が長門との間に抱えてしまった秘密は大きく、そして多かった。だが、佐々木に詰め寄られている時に、この沈黙は致命的だ。
「……残念だ、キョン。残念だ……本当に残念だ」
 悔しそうに、心底悔しそうに、佐々木はつぶやいた。
「はいはい、お待たっせ、どしたの?」
 ハルヒがゴミ袋とビニール袋、アルミホイルなどを抱えてやって来た。
 いや、何でもないんだ、別に、な。
 無事に会計を済ませ、俺たちは長門のマンションを目指した。つうか、マジ重いぞ、これ。俺の両手は完全に買い物袋に占領され、その一部は佐々木の手にあった。ちなみに、俺の名誉のために言っておくが、一番軽い袋だからな。俺の荷物であった学校指定のバッグは、長門が抱えるようにして持っている。ん、ハルヒか? 自分の鞄だけ持って、先頭でのっしのっしと歩いているよ。
 スーパーマーケットを出てから、俺と佐々木の間に荷物の受け渡しに関する物以外に会話はなかった。今も俺の、後方1mほどを佐々木は歩いている。
 トホホ、なんでこんなことに。だが佐々木にだって話せないことはある。そして、俺は俺の不思議ライフを佐々木にすべて打ち明けられるほどには、佐々木を未だに信用してはいないのだ。……仕方ないだろ、俺たちは去年一年間を共有していないんだから。佐々木も俺の気持ちは理解しているだろう。あいつは賢いヤツだ。それを認められないほどじゃあないはずだ。
 そんな風に、気分をブルーにしながら、俺たちは長門のマンションについた。


 さて、久しぶりの長門邸訪問である。とは言っても、前回と別に何も変わっていない。殺風景は、この部屋の不変の属性らしく、その感想はいささかも揺らいでいなかった。ため息ととも、荷物を玄関に降ろす。即座に、ハルヒの叱咤が飛んだ。
「ほら、キョン。そんな所に店広げてどうするのよ。こっち、持ってきなさい」
 ひいこらいいながら、荷物を台所に持ち込む。
 ハルヒは俺の置いた荷物から、手際よく、肉やら何やらを取り出し、それぞれ所定の場所に詰めていく。野菜はいいのか?
「野菜はこれから洗って切るからいいのよ。佐々木さん、飲み物持ってきて……うん、ありがとう」
 なんで、お前は佐々木にはちゃんと礼が言えて、俺には命令と叱責しか与えられんのだ。
「そりゃあんたがグズでのろまな亀だからよ」
 教官、俺は別にCAを目指すつもりはないんだがな。
「うっさいわね、さっさと残りの荷物も持ってきなさい! 二秒で!!」
 はいはいっと、佐々木、何を笑っているんだ。何か面白いものでも在ったのか?
「いや、想像以上にキミらのコンビが決まっているからさ。嫉妬していた」
 はあ? お前は友人が奴隷のように扱われているのを見て、そんなことを言うのか? 俺は悲しいぜ。
 佐々木は俺の軽口には付き合わず、シンクに野菜を並べ、まな板と包丁の準備を始めた。
「涼宮さん、何から始めようか?」
 どうやら、カンのいい佐々木はもうハルヒの扱い方を覚えつつあるようだ。
「そうね、野菜の下ごしらえを先にやって、夕食の準備と肉の下ごしらえは並行で進めましょ。じゃ、キョン」
 なんだ、今度は何を買ってくるんだ?
「邪魔だから、居間に行ってなさい」
 はいはい。

 居間に行くと、長門が黙ってお茶を出してくれた。
む、うまい。長門、腕を上げたな。
「そう」
 まったく無反応にそう言って、ビデオを逆再生するかのようにちゃぶ台の向こうに戻った長門は、ビスクドールのような凍った瞳で、俺の手元をじっと見つめていた。いやいや、そう謙遜することもない。朝比奈さんほどではないが、俺のお袋はとうに超えている。
「…………そう」
 む、やはりお袋に例えたのはまずかったか?
「いい」
 そうか。もう一杯貰えるか?
「……どうぞ」
 ありがとう。

「しっかし、有希、あなた普段何を食べてるの? 冷蔵庫ほとんど空っぽじゃない。コンピ研の部長じゃないんだから、サプリメントと水だけで十分とか言うんじゃないでしょうね」
 ハルヒが長門に台所から話しかけていた。
「ダメよ、そんなんじゃ、今は成長期なんだから、ちゃんと栄養取らないと。エンゲル係数低すぎるんじゃないの?」
 長門は答えない。答えているのかもしれないが、俺の視界には入っていなかった。なんとなく、リモコンを取り寄せてテレビを点けた。
 テレビでは、タイミング良く天気予報をやっている。奇麗な気象予報士のおねーさんによれば、この週末の天気は問題なく晴れるらしい。よいことだ。さすがにバーベキューパーティの日に雨ではこれはもうどうしようもない。
 台所からはリズミカルな包丁の音が響いてくる。
 なんか、眠くなってきたな。夕食ができるまで、一眠りしておくか…………。

 うぼっ!!

「団長を働かせて、平団員が居眠りなんかすんなっ!!」
 脇腹に奇麗に入ったつま先と、「キミってヤツは……まったく、キョンは……まったく」佐々木の呆れた声によって俺は起こされた。
 無機質な柔らかさを持った枕から……え~と、もしかして、膝枕されてました。今? 身体を覆っていた、タオルケットが床にだらりと落ちた。
「いい」
 片づけようとした俺から、長門はタオルケットを取り上げ、奇麗に畳んだ。
「ほら、早く退きなさいよ」
 ハルヒにけり出されるようにして、家具調コタツから逃れる。ハルヒは、天板の真ん中に寸胴をゴンと置き、佐々木は手に持った盆からアルミホイルの塊の乗った焼き魚用の皿を面に合わせて4つ置いた。手早く箸、ご飯が山盛りになった茶碗、スープ皿が同じように配膳される。
 それを待って、俺は席に着いた。右隣には佐々木、左隣は長門、向かいにハルヒである。ちなみに、ハルヒが上座に座ったのは説明するまでもないだろう。
 佐々木が膝立ちになって、各人のスープ皿に野菜スープを取り分けていく。コンソメスープにいい匂いがした。野菜もほどよく煮込まれてて旨そうだ。
 いただきます。という唱和とともにスープに手を付ける。おお、野菜のうまみがシンプルに出ているな。
「あ、そうだ。ホイル焼き大丈夫だと思うけど、あんまり火が通ってなかったら言ってね、焼き直すから」
 ハルヒがそんなことを言った。まぁ多少レアでも食えるだろう。
「いやいや、タラにはアニサキスが付いていることがあるからね、生食は危険だよ。60℃以上で死んでしまうから、良く火が通っていれば安心だ。逆に、-20℃以下でも死ぬらしいから、冷凍してもOKということだね。ちなみに胃酸に負けないことからも分かるとおり、酸には強く、酢で締めたサバにもいることがあるから気をつけたまえ」
 これから食う物につく寄生虫の話なんかするなよ。怖いじゃねぇか。
「だから、火が通っていれば安心なのさ」
 アルミホイルを切り出すと、中からいい香りがしていた。チーズが溶けていて、かなり旨そうだ。こりゃいいな。具材はタラとシメジ、エリンギ、タマネギ、チーズってとこか。
「ちなみに、ワインをふりかけて電子レンジに掛けたタラをアルミホイルの船に入れて20分くらい焼くだけの簡単料理よ。一緒に入れる野菜はタマネギとキノコが基本だけど、まぁ何でもいいわ。今回はチーズも入れてるけど、これは好みで決めていいわね」
 ほお、なるほどな。今度お袋にも聞いてみよう。
「こっちのスープもいい味でてるね、さすが涼宮さん」
 佐々木もスープを一口すくってそう評価する。
「こっちは、下ごしらえしたジャガイモとニンジンとタマネギとキャベツとベーコンを適当に切って、適当に煮込んで、コンソメと塩コショウで味を調えたらできあがりの簡単料理パート2よ。もっと野菜と鶏肉とかソーセージとか、豚バラとかを入れると、コンソメ仕立ての洋風野菜鍋になるわね」
 さりげなく、こっちにも刻んだエリンギとシメジが入っている。なるほど、材料も一緒にして効率アップというわけか。主婦的な料理術だなぁ。
「この料理ってお母様、直伝なの?」
 佐々木はさりげなく、ハルヒが喋るように何かと水を向けている。
「ま、ね。ウチの母は簡単料理の権威なのよ、手を抜くことばっかり考えているんだから。ちなみにウチだったら、ホイル焼きにはならないわね。ホイルの船を人数分作るの面倒くさがるから。多分、大皿に人数分の切り身を並べて、オーブンレンジで焼いて、後からホワイトソースにチーズを混ぜて乗っけて、もうひと焼きして、グラタン風に仕上げて終わりよ。あ、そこまでやんないかなぁ、焦げたホワイトソースって洗うの面倒だから」
 それはそれで旨そうだな。俺はそんなことを考えながら、ハルヒと佐々木の料理に舌鼓を打った。
 会食は滞りなく済んだ。俺たちの食事が終わるのを見計らったかのように、長門が各人にお茶を入れた。つうか、四人分の食器と湯飲みがあったことが驚きだ。
 いや、もしかしたら、ここにいないふたりの分くらいは食器に余裕があるのかもしれなかった。長門は、なんというかそういうヤツだ。
「ほら、なにのんびりしてんのよ、食器くらい片づけて洗いなさいよ。あんた、食っただけなんだから」
 はいはい。ったく、お前は俺のお袋か。
「何いってんのよ、あたしがあんたのお母さんだったら、こんなことは言わなくても済むようにガキの頃から教育してるわ」
 まったく人のやる気を削ぐ発言をさせたら天下一品だな、お前は。悪態を付きつつも何もしていないのは確かであるので、食器を集めて、立ち上がった。
「キョン、僕も手伝うよ」
 佐々木も湯飲みを置いて、立ち上がった。

 ふたりで、食器を洗う。なんとなく機械的に手を動かしつつ、佐々木に尋ねた。
ハルヒとふたりで何か話せたのか、と。
「ああ、なかなか有意義な時間であったよ。涼宮さんは本当に魅力的な人だ。多少、変人ではあるが、それは僕が言えたものではないだろう」
 ああ、まぁ変人具合じゃあ、大差はないな。もっとも、奇矯な振る舞いをしない分、お前の方がよっぽどまともだが。
「連れないね、キョン。もうちょっと、フォローしてくれてもよいだろうに。だが、まぁ確かにね、宇宙だの、未来だの、超能力だのといった戯言を半ば信じた僕は相当なものだ」
 俺の洗った皿をキュッキュと布巾でぬぐいながら、佐々木は苦笑する。
「キョン、キミに謝らなければならないな」
 ん、俺がお前にじゃなくて、お前が俺に? そんな謝るようなことがあったか?
「ふ、さすがの大人物だね。かつて僕らが同じクラスにいた時だ。不思議なことがあってもいい、キミはそう言った。僕はそれを真っ向から否定したじゃないか」
 ああ、エンターテインメント症候群だっけ? 覚えてるよ。
「僕らが今おかれている状況を考えてみたまえよ」
 思わず、吹き出した。
「まったく、宇宙人と同じ釜の飯を食べるなんて想像すらしたことはなかったよ」
 友達に宇宙人と未来人と超能力者のいる高校生になれるなんて、中学生だった俺たちは想像すらしていなかった。あの頃の俺たちが今の俺たちを見たら、どんな顔をするんだろうか。俺たちふたりは声を上げて笑った。やばい、さっきのキノコはワライタケだったんじゃないかというくらいツボに入った。
「ちょいと、おふたりさん。手がお留守よ」
 何事があったのかと様子を見に来たハルヒが怒り出すくらい俺たちは笑い続けていた。


「明日遅れるんじゃないわよ」
 長門邸を辞した俺たちはいつもの北口まで戻っていた。ハルヒは命令口調でいい捨てて、駅へと歩いて行く。
「さて、僕らも家路へと向かおうじゃないか」
 佐々木と俺はこれまたいつもの駐輪場である。
「その自転車、まだ使っていたんだね」
 佐々木が俺のママチャリを見ながら、そう言った。ああ、大分ガタ来てるけど、まだ乗れるからな。
「懐かしいな、一年前までその自転車の荷台は僕の場所だった。去年は誰か、たとえば、涼宮さんや長門さんを乗せたのかな?」
 どうだったかな、ああ、長門、ハルヒで三人乗りしたっけな。
「……む、それは予想外だね。そうか、ふたりともか……。ふふ、柄にもなく妬けてしまうね。僕は大概の欲望が希薄な性質なのだがね、その分、自分の物に対する執着は……それなりにあるのだよ」
 なんだよ、また乗りたいのか? だけど、今日はお前もチャリだからなぁ。
「キョン、どうしたんだい?」
 なにがだ。俺を見上げる佐々木の黒い瞳は、街灯の光を反射して、夏の星空のように輝いていた。
「僕の自転車のことなど気にするな、僕は月極でここを借りているのだ。一日二日駐めっぱなしでも文句は言われまい。というわけで、キミの自転車に僕を乗せてくれたまえ。それにしても、キミが僕の遠回しな要求に即座に応えてくれるなんて、天気予報では快晴だったが、雪でも降るのではないかな」
 そう言って、佐々木は俺の自転車の荷台に慣れた仕草で横座りに乗った。お互い制服は替わったが、そうしていると、中三の頃を思い出してしまうな。
 ったく、本気かよ。まぁ、いいか、最初っからお前の家まで送っていくつもりだったしな。この程度の負荷荷重は食後の腹ごなしには丁度いいというもんだ。
「失礼だね、キミは。僕の体重は、高校二年生女子としては平均的なものだ。決して、……荷重として厳しい物だとは……思わないぞ」
 その声には応えず、ペダルを強く踏み込んだ。


 佐々木の家までの道のりは覚えている。何度かこうやって、家まで送り届けたものだ。たしか、小説だか何だかを買って、お前がバス代を食いつぶした時があったよな。
「ん、覚えていたのか……ああ、時効だから言ってしまうがね、あれは嘘だ」
 はぁ?
 佐々木は俺の背中の向こうでククッといつもの皮肉っぽい笑いを上げた。
「僕もね、可愛かったものだとね、思うよ。キミの自転車に乗りたいばっかりにそんな嘘をついたんだからね」
 そんなに、いいもんか? ふたり乗りの後ろってのは? 俺はあんまり記憶にないが、荷台が尻に食い込んで痛いんだよな。背中で佐々木が溜息を漏らした。
俺の腰に回された腕に力が籠もる。
「こうしてね。腕で、キミの体温を感じて、キミの匂いを嗅ぐとね、僕はとても、そうとても安らぐのさ」
 人の匂いを嗅ぐなよ、恥ずかしいな、おい。それに、そんな告白をされては、自然に体温が上がる。佐々木が後ろで助かった。今、俺はゆでダコのようになっているに違いない。こんな顔を知り合いのしかも女の子に見られたくはない。
「いいじゃないか、僕はキミの匂いが好きなのだ。知っているかい。好意や恋する気持ちは、大体二年で、その神経接続が断たれて終わってしまうのだそうだ。多くの恋や結婚生活にとって三年目がキーになるのは最初に始まった恋が終わっているからなのだ。言い方が悪いかもしれないが動物としての人間にとって、同じ雌雄でつがいでいられるのは二年で十分だということなのかもしれないね」
 いきなり、なんだよ。例の本能と精神的な疾病の一種の話か。
「そうだよ。例の本能と精神的な疾病の一種の話、さ。恋とは、特定の人物、嗜好のことを記憶した大脳が快楽物質を放出する作用のことだ。この作用は永続的なものではないし、個々人によって、強かったり弱かったりするだろう。僕は、知りたかったんだ。僕のこの気持ちがどんなふうに変化するのか、知りたかった。キミと触れ合わなければ、キミのことを忘れれば、僕はキミと出会う前の僕に戻れるのではないかと、そう思ったんだよ」
 何だよ、俺のことを忘れたかったのか? 連れないな、親友なんだろ。
「忘れることができたのならこんなことは言いはしないさ。……キョン、キミはいま酷いことを言ったのだぞ。僕は大いに傷ついたからな。この精神的な慰謝料は後ほど、一年分のツケを加えて払って貰う」
 なんだよ、怖いこと言うなよ、お前はハルヒか。
「……今の発言も、きっちり加算するからな。キミには遠回しに言っても通じないから言っておくがね。僕との会話の中で涼宮さんや長門さんや朝比奈さんや橘さんや周防さんや、妹さんや、この間の先輩や、妹さんの親友、とにかく僕とキミとの間の共通の知り合いの女性を引き合いに出してはいけない。その度にペナルティを課すからな」
 じゃあ、何を言えばいいんだ。俺は半ば自棄になってそう言った。
「キョン、僕といる時は僕のことだけ見て、僕のことだけ話しておくれよ、それでいいんだ」
 俺は、ペダルを動かす足を止めた。街灯の中、自転車は自然に停車する。
 ……すまん、佐々木。さっきから聞いていると、何やら話の焦点が致命的にずれているような気がするんだが。
 軽い溜息と共に、佐々木は自転車から降りた。そのまま前に回ってくる。ハンドルを握る俺の手の上に、佐々木は自分の手を置いて、強く握った。佐々木の肩口で切りそろえられた髪から、シトラス系の香りが漂っていた。正面から見上げる瞳はしっとりと濡れ、輝いていた、淡いピンクのリップがなんとも艶めかしい。
 佐々木は俺を見つめながら、口を開いた。
「キョン、大事な話なんだ。黙って、聞いてくれ。僕とキミが出会って、二年が経った。初めてキミを見て、知ってしまった感情は、僕の脳からは、もう薄れて消えてしまったはずだ。だけど、こうしてキミを見ていると、変わらぬその感情が僕を支配しようとする。僕は……キョン、僕はキミに恋している、恋し続けている。毎朝、毎日、毎晩、僕はキミに恋している、恋し続けている。この気持ちはここまで来るともう精神の病のひとつ、そう断言しても構わないだろう。一年離れても、僕の病は治らなかった。だったら、離れることに意味なんかない。キミに触れたい。僕がそう思った時に、キミがそばにいないのはね。正直、つらいんだ」
 時間が止まったように、感じた。何時も静かに理知的で落ち着いた雰囲気を持っていた少女は、炎のような情熱をその身に宿していた。俺はそれに気がつかなかった……いいや、これは言い訳だな。二年前、気がつこうと思えば、多分いつでも気が付けたはずだった。だけど、俺は、彼女とのぬるま湯のような関係が気持ちよくて、気分が良くて、その隠された炎を見つめようとはしなかっただけのことなのだ。
「だからといって、僕はキミに何かしてほしいと思っている訳じゃないのだ。熱烈にキミに何かしたいのでもないのだ。だけど、こんな僕を、こんなさもしい気持ちでいる僕を、キミが嫌悪しないというなら……僕は」

 初夏の風の中、俺と佐々木は静かに口づけを交わした。

「ありがとう、一年分のツケからさっきのペナルティまですべて帳消しだよ」
 俺から離れた佐々木はそんなダイナシな事を言った。
 おい、コラ。俺とキスして、最初の一言がそれか。
 そう言った、瞬間、佐々木は顔を真っ赤に染めた。慌てて俺に背中を向ける。
「し、仕方がないじゃないか。僕の中の気持ちを逆なでするような事ばかり言うキミが悪いのだ。い、言っておくけどね、こうなった以上、僕は相手が誰でも引く気はないからね。そりゃあ、キミの気持ちは最大限尊重するが、それはキミが、僕のことしか見えないようにするだけの話なのだ。そのためのプランはこの一年でずいぶんと溜まっているのだ」
 そう言って、再び振り返り、挑み掛かるように俺を見た。……女って……スゲエ。
 そして、佐々木は幸せそうに微笑んだ。

「ねぇ、キョン」
 なんだよ。
「……大好き」

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最終更新:2007年07月20日 07:49
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