弥助(信長近習)

弥助
 宣教師がアフリカより連れてきた奴隷。宣教師が信長の歓心を得るために献上
されたが余りにも黒いので信長の怒りをかい無礼討ちにあう。宣教師に彼の黒さ
は生まれつきであることを聞かされた信長は己の無知を恥じ、その償いとして
「弥助」の称号を与えた。


弥助(?-?)
本能寺にて主人である織田信長が討たれたのち、諸国を放浪。
新たな舞の流派である段須を創設する。また邪図と呼ばれる独特な音色を考案したことでも有名である。
なお現在の駄洒落は弥助の言葉遊びに端を発しているという説が有力視されている。



ヤスケ一世
近世モザンビーク初代国王。
元は王族の身でありながら奴隷として日本に連れてこられた奴隷であったが、
織田信長に気に入られヤスケという名を与えられ、刀持ちとして仕える。
その後、織田家中でメキメキと頭角を表し、織田政権の日本統一に貢献した。
やがて織田政権の世界進出の過程でアフリカ方面軍の軍団長に任命され、
故郷モザンビークから白人勢力を見事駆逐してみせた。
信長の命によりヤスケはモザンビーク国王ヤスケ一世に即位する。
主であり恩師でもある信長の薫陶を受けた彼の治世は
白人の搾取で荒れ果てた国を見事に復興させた。
現在でもヤスケの名は代々国王に襲名され、
モザンビーク王家と織田家の交流は続いている。



YASUKE(生没年不詳)
もともと宣教師ヴァリニャーノの所有物で、日本に連れて来られて織田信長の目に留まった。
信長はその姿を理解できず疑ったが、いろいろと調べ上げたすえにその存在を理解したという。
ヴァリニャーノは信長にYASUKEを献上。信長はYASUKEを弥助と呼び側近くに置いた。
ヴァリニャーノの下では人間扱いされなかったが、信長の下では人間として扱われたといい、
YASUKEはかいがいしく務めを果たしたという。
本能寺の変の後に捕らえられたが、光秀はYASUKEを「人間ではない」として殺さず、
インドのバテレンのもとに放逐した。その後の消息は不明である。

YASUKEのエピソードは、懐中時計を解体して修理するなど好奇心旺盛な信長の一面を伝える。
現在失われたオートマトンの技術は、「キリシタンバテレンの魔術」として伝説化されている。



ヤスケ(?~?)
元々は宣教師ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正9年(1581年)、
ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れていた奴隷。
信長は、ヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。
年齢は26・7歳、身長は6尺2分(約182.4cm)であったという。
信長は彼を「ヤスケ」と名づけ、武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように
取り計らわれた。
ヤスケは投げ槍を得意とし、視力は4.0あったといわれ、甲斐平定戦では大将の小山田備中を
約800メートルの距離から槍を投げて討取る殊勲をあげた。
その際光秀が「かのくろやっこ(弥助のこと)の投げ槍は犬槍にて卑怯なり」と抗議したのに
対して、信長は光秀を足蹴りにしたとの記録が残っている。
弥助を激賞した信長は自ら着用していた真紅のビロードマントを褒美として与え、近江坂本
5万石の大名に抜擢した。これは光秀へのあてつけとの説が近時有力である。
他方、もともと「黒人は動物であって人ではない」と弥助の出世をねたむ光秀は本領を取り
上げた信長の措置に対して大きな不満を抱き、6月2日に弥助が滞在する京都の南蛮寺を13000
の軍勢で囲み弥助の引き渡しを宣教師に要求した(南蛮寺の変)。
このときの宣教師バリニャーノが引き渡しに応じたときの「是非には及ばず」のセリフはあま
りに有名である。
ところが、明智軍の兵卒が誤ってとなりの本能寺に放火したため、信長は明智の謀反と勘違い
し、日本の3代悲劇の1つとなる「本能寺の変」が勃発した。
そして、肝心の弥助はそのどさくさに行方不明となった。
だが、17世紀にモザンビークにてオダヤスケと名乗る人物がポルトガルと戦い続け、日本式
の砦を築いて立てこもり、最後まで降伏せずに徹底抗戦するも、仲間は全員逃がしてオダ
ヤスケなる人物は 砦の中で一人割腹して死んでいたという記録が近時発見された。
オダヤスケは赤いビロードマントがトレードマークと言われているのので、この男こそ
その後の弥輔ではないかと言われている。

山内一豊

山内一豊(1546-1600)
対馬守。織田信長に仕え、羽柴秀吉の配下として活躍する。
彼の妻・千代は頭の良いことで知られ、槍働き一辺倒の夫を盛り立てていく。
しかし、一豊が出世するにつれてそのことを鼻にかけるようになった千代は
北政所を通じて豊臣家の政策に口を出すようになり、
それは転じて諸将から一豊への風当たりにつながる。
秀吉死後の関ヶ原で徳川家康が勝つことを確信した千代は、
夫に居城を差し出させて心証を良くしようと画策する。
だが東軍は敗れ、一豊は許しを請うべく寝返った福島正則らによって討たれてしまう。
混乱の中、千代は北政所を頼って逃亡を試みるも相手にされず、
以前、千代の讒言で謹慎の憂き目にあった小早川秀秋の軍に捕まって嬲り殺しにされた。
戦後、大谷吉継は自らが記した「越前軍記」の中で、敗軍の総大将である家康を差し置いてまで、
「家を滅ぼすものまず二つあり。甲斐性なき男と、身の程を弁えぬ毒婦である」
と批判している。このことから、だらしないヒモのことを指す「腑抜け対馬」、
小知恵の働く女が才に溺れて身を滅ぼすことを指す「千代の浅知恵」という言葉が生まれた。

山中鹿之介

山中鹿之介幸盛

尼子氏の家臣。
毛利配下の勇将・品川大膳との一騎討ちにて首を獲られる。

政治5 戦闘52 智謀21

ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン(1556?~1623)

豊後出身の船乗り。当時の中国語文献には「耶楊子」と記載されるが日本名は不詳。
八重洲氏とする説、名を弥右衛門とする説もあるが推測の域を出ない。
1600年、朱印船でアユタヤに向かう途中遭難し、現在のインドネシアに漂着。
1602年にオランダ東インド会社が結成されるとその傭兵兼外交顧問として召抱えられ、
ヤン・ヨーステンというオランダ名を得た。
現在のジャカルタ駅の近くにある「ヤエス」の地名は、彼の邸宅があったことに由来する。

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最終更新:2017年01月18日 08:03