薔薇乙女《ローゼンメイデン》第一ドール。
 かつて、水銀燈は自分のことをそう名乗った。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》第五ドール。
 今日、アーチャーは自分のドールのことをそう言った。
 第二、第三、第四ドールのことは分からない……まだ聞いてないが、もしかしたら雛苺がいずれかに当てはまるのかもしれない。
 まだ見ぬドールは、少なくとも二人以上、ということか。

 とにかく、第五ドールの存在を知ってから、水銀燈の態度は一変してしまった。
 その相手に会いに行くか、行かないか。水銀燈は、楽しそうにしながらも、しばらく悩んでいたようだったが、やがてキッパリと決断した。

「決めたわ。決めたわ。
 あの子に会いに行きましょう。
 真紅に会いに行きましょう」


『銀剣物語 第五話 健康と美容のために、食後に一杯の紅茶』


「さあ、行くわよ士郎。
 もうこんな時間だもの、ぐずぐずしていたら、真紅が寝てしまうわ。
 せっかくの再会なのに、寝てしまっているなんて許せない」

 水銀燈はすっかりその気だ。かつてないほどうきうきしているのが見て取れる。
 そして俺には、それについていく以外の選択肢は与えられていないのだった。

「行くのはいいけど……なあ、水銀燈。
 その真紅って奴のところまで、どうやって行くつもりなんだ?」

 俺がせめてもの抵抗がわりに、ふと思いついたことを口にしてみると、水銀燈は鳥は何故空を飛ぶのか、と尋ねられたみたいに眉をひそめた。 

「……何を言ってるの、お馬鹿さぁん?
 nのフィールドを使えば簡単じゃない」

「いや、確かにnのフィールドなら、簡単だろうけどさ。
 わざわざnのフィールドを使わなくても、普通に歩いていける場所にいると思うんだ、そいつ」

 アーチャーと契約したドール……真紅。それが居るとすれば恐らく、遠坂邸に違いない。
 なにしろ、あの男の性質から考えれば、主である遠坂以上に屋敷のつくりを把握していることは想像に難くない。屋敷のどこか一室に、遠坂に気付かれないように匿うことはそう不可能じゃないだろう。

 それに……キャスターとの会話が脳裡をよぎる。
 夜。
 鏡。
 新都のドール。
 今から、この姿見の中に足を踏み入れるのは、何かよくないものと出会うような気がする。

「……ふぅん。
 そんなに近くに居たなんて、水銀燈知らなかったわぁ。
 うぅん、じゃあどうしようかしら……」

 少しだけ何かを考えた後、水銀燈は方針を決めた。
 それは……。



「――それじゃあ、明日、直接会いに行きましょう。
 そっちのほうが真紅をからかってるみたいで面白そうだしぃ」

 水銀燈が出した結論に、俺はほっと胸を撫で下ろした。
 水銀燈の思惑が挨拶にしろ宣戦布告にしろ、なるべくならば穏便な接触で済ませてほしいというのが俺の偽りない本心である。
 昼間、さらに正面からの訪問ならば……最悪でも闇討ち、不意打ちの類の危惧はしなくても済むだろう。

 ――そして、夜の姿見を越えた先に、何者かの影を見ることも無い。

「オッケー。明日から休日だし、丁度良かった」

 膝を打って了解する。
 明日は土曜日、学校も休みなので、部活動にも所属していない俺は一日自由に使えることになる。
 朝食を終えたら、早速出かけられるだろう。

「……そうねぇ、せっかくだから、色々準備しておこうかしら……」

 見れば、水銀燈も何やら考えているみたいだった。
 何か一人で頷いた後、俺に向かってこう尋ねた。

「士郎、人形を用意しなさい」

「人形? 人形って……」

 突然の質問に面食らう。
 とりあえず人形なら目の前に一体いるんだけど……。

「人形は人形よ。自分で動けない人形でも、私の力を込めれば、思うがままに動かせるようになるの。
 それを使って、真紅を驚かせてあげるわぁ」

「ああ、人形って、そういうことか」

 そういえば雛苺も、nのフィールドでアレだけの人形を操作していたっけ。
 水銀燈も同じような事が出来るってことか……って、待てよ?
 それって下手すると、俺が氷室の二の舞になるんじゃないのか?

「あの、それって俺から力を吸い取るってことだよな?
 間違って俺が消滅するなんてことは……」

「雛苺みたいに、って言いたいわけぇ? くだらなぁい。
 後先考えずにたくさんの人形を操るなんて、お馬鹿さんのすることよ。
 水銀燈は、あんな使い方はしないわぁ」

「そ、そっか、よかった」

 俺だって魔術師の端くれだし、普通の人よりもいくらかは耐えてみせる気ではあるが、流石に氷室が消滅しかけたのを見た後では不安にもなる。

「でもなぁ、人形かぁ……」

 俺にはとんと縁のないアイテムである。
 もちろん親父にもそんな趣味は無かったので、土蔵をひっくり返してもおそらくその類のものは出てこないだろう。
 しかし、人形……人形……フィギュア……ぬいぐるみ……?

「あ」

 そうだ、それならば――。

「確か、以前藤ねえがゲームセンターで大量に景品をゲットしてたな」

 UFOキャッチャーだかなんだかで、無闇矢鱈に押収してきた奴。
 両手に袋で二つも三つも持ち帰ってきたから、すごく印象に残ってる。
 教師としてそんな武勇伝を作ってていいのか、とはこの際言うまい。

「あれだけあるんだから、頼めばいくつか分けてもらえるだろ。
 よし、善は急げだ。今から行くけど、水銀燈はどうする?」

「ふぅん……いいわ、ついていってあげる。
 私もどんな人形なのか、興味があるしぃ」

 ――というわけで。
 俺と水銀燈は土蔵を出て、藤ねえの元へ。
 藤ねえは丁度、居間でテレビを見ている最中だった。
 連れだって入ってきた俺たちを見て、齧りかけのせんべいを咥えたまま振り返る。
 なんとも行儀が悪い。

「あれ? 士郎と水銀燈ちゃん、どうしたの?」

「あー、実はな藤ねえ。
 折り入って頼みがあるんだけど」

 むっくり起き上がる藤ねえを、上から見下ろしながら両手を合わせる。
 回りくどい言葉を使っても意味が無いので、さっくりと本題を持ち出した。

「頼み? なになに、お姉ちゃんに頼らざるを得ないような相談事?」

「や、そんな大層なもんじゃないんだけどな」

「あなたが人形を持っているって聞いたわ。
 それを私に寄越しなさぁい」

 俺が切り出すより早く。
 水銀燈がどこぞの金ぴかを連想させるような物言いで言い放った。

「え? 人形?」

 他人に物を頼むにしてはあんまりなその態度に、藤ねえの頭上にもクエスチョンが飛び交う。

「ほら、藤ねえこの前たくさん取ってきたのがあったじゃないか。
 あれを一つ分けてもらえないかな、って」

「あーあー、アレね。
 別に構わないけど、どこやったかなー。
 確か廊下に出しておいたはず……」

 よっこらしょ、と起き上がり、廊下においてある荷物を物色し始める藤ねえ。
 俺もとりあえず、その辺にある袋を漁ってみることにする。

「でもなんだか唐突だわね。
 なに? 水銀燈ちゃんもお仲間が欲しいの?」

「なっ、そんなわけ無いでしょう、くだらなぁい!」

 探しながら投げかけられた藤ねえの言葉に、思わず声を荒げる水銀燈。
 俺はと言うと、ああ確かにそういう発想もありだな、と密に納得していたりする。

「照れなくったっていいじゃない。
 そりゃあおんなじ人形が雛苺ちゃんだけじゃ、寂しくなるのも分かるわよねー」

「だぁから……!!」

 っと、のんびり納得している場合じゃ無い。
 これ以上ほっとくと、水銀燈が爆発してしまいそうだ。
 丁度そのとき、俺が手にした袋がなにやらもこもこした手触り……これか!

「あああ藤ねえ、探してる袋ってこれじゃないか!?」

 水銀燈が爆発する直前、ギリギリで目当ての袋を取り上げる俺。

「あ、そうそうそれそれ。
 いやー駄目ね、こうごたごたしてると見つけにくくって」

「その原因の九割九分五厘は藤ねえの所為だけどな。
 ……で、開けていいのか?」

「いいわよー、では、ご開帳!」

 袋の中に入っていた人形、真っ先に目に付いたそれは――



 大きなビニール袋の中は、所狭しと人形が押し込められていた。

「どう? これ全部、自力でゲットしたのよ?
 最後のほうなんか、店員さんのほうが筐体にキックかましてたんだから」

 ああ、そりゃあ店員さんも災難と言うか、厄日と言うか。
 いや、それはいいとしてだな。

「これって、確か……」

 一番最初に目に付いた人形を取り上げて見る。
 垂れた耳、短い手足、ぺろんと出した舌、どこか眠そうな目。
 蝶ネクタイをつけた犬のぬいぐるみ。
 これには見覚えがある。確か……。

「……それは!?」

「おわっ!?」

 いきなり後ろから、水銀燈が飛び込んできた!?
 そのまま俺の腕ごと、ぬいぐるみに飛びつく水銀燈。

「ちょっ、水銀燈!?」

「これは……くんくん!? くんくんじゃない!」

 水銀燈の言うとおり、これは大人気テレビ番組の、たんてい犬くんくんのぬいぐるみだった。
 特徴を捉えてある、よく出来たものだったが……やたら大きいな、このぬいぐるみ。

「ああ、それ、筐体に入ってたぬいぐるみの中でいっちばん大きかったやつね。
 あんまり大きいから出口につっかえるんじゃないかって心配だったけど」

 そりゃそうだろう。
 なにしろ水銀燈と同じくらいの大きさなのである。
 これがUFOキャッチャーの景品として鎮座していたとは思えない。
 当の水銀燈は、くんくんをじっと見つめているが……。

「おーい、水銀燈……?」

「………………」

 聞いてないし。
 なんだかここんとこ、水銀燈の新しい一面が色々出てくるなぁ。

「……そんなに気に入ったのか、ソレ?」

「……ハッ!?」

 ようやく我に返る水銀燈。
 しがみついていた俺の腕から飛び降りて、体裁を取り繕うが、顔が赤い。

「な、なにを言うのよ……この私がたかが犬の探偵を気に入るわけ無いじゃない……ほんと、つまんなぁい」

 あの、そう思うなら、その手に掴んで話さない犬のぬいぐるみをどうにかしたほうがいいと思いますが。
 それに、そういう態度を取られると、こちらとしても少し悪戯心が出てきてしまう。

「そうか。じゃあ他の人形のほうがいいかな?
 これなんかどうだ、装着変身シリーズ……」

「ま、待って!」

 くんくんを脇に寄せて、他の人形を取り出そうとする俺を、慌てて遮る水銀燈。
 目を逸らしながら言い訳を探すその姿は、実に新鮮でかわいらしかった。

「……け、けど良く見たら、他の人形よりははるかにマシみたいねぇ。
 仕方ないから、このくんくんでガマンしてあげるわぁ」

 ……それがいいなら素直に言えばいいのに。

「じゃあ、藤ねえ。このぬいぐるみ、貰ってもいいかな?」

「いいわよ。大事にしてあげてね、水銀燈ちゃん」

「……ふん」

 あくまでそっぽを向いて、しかしぬいぐるみを手放さない水銀燈。
 こうして俺たちは、くんくんの人形を手に入れたのである。


 * * *

「でもさ、そのぬいぐるみ、水銀燈の力で操るんだよな?」

 土蔵に戻る道すがら、俺は本来の目的を思い出した。
 隣では水銀燈が、くんくんのぬいぐるみを抱えながらふらふらと飛んでいる。
 代わりに持とうか、と言って見たのだが、頑なに断られた。

「いやぁよ。真紅なんかに見せたら、勿体無いじゃない。
 くんくんはここに、大事に置いておくんだから」

 ……おーい、それって本末転倒って言わないか?
 どうやら水銀燈は、本格的にそのぬいぐるみを気に入ってしまったらしい。

「じゃあどうする?
 もう一度藤ねえに分けてもらいに行くか?」

「必要ないわ。
 そもそもあの女が持っていた人形じゃ、意味がないもの」

 ……意味が、無い?

「どういうことだ?」

「そもそも、人形とは持ち主の思いが篭もるもの。
 それは長い時間をかければかけるほど積み重なっていくものなの。
 あそこにあった人形には、共にした時間が欠けていたわぁ」

 ああ、なるほど。
 神秘は時間をかけてより強い神秘になる。
 人形もまた、神秘の一種というわけか。

「そんな人形じゃ、真紅相手には役立たずだもの。
 持ってても持ってなくても、変わらないわぁ」

「……わかった。
 人形が欲しいなら、別の当てを探さなきゃ駄目ってことか……」

 ……それにしても。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》第五ドール、真紅。
 水銀燈がここまでこだわる相手とは、一体どんな奴なんだろう?
 真紅の名前を聞いてからの水銀燈の態度は、俺なんかには測りきれないほどの感情を秘めているようだし。
 何がそこまで、彼女を思いつめさせるのか……?

「水銀燈。ちょっと聞いておきたいんだけど……」



「お前、そんなに真紅って子が好きなのか?」

 何故そう思ったのか、俺自身にもわからない。
 ただ、水銀燈の言葉の端々からにじみ出る、異常とも言えるほどの執着心。
 その原因はなんだろうか、と考えれば、普通は憎しみが挙げられるのだろうが……何故だか、俺にはそう思えなかったのだ。
 ……だが。

「ふざけたことを言わないで」

「っ!?」

 振り向きざまに放たれた水銀燈の言葉は、俺を竦めさせるのに充分なものだった。

「私が……真紅のことを、好いているですってぇ?
 くだらない……本当に、くだらなぁい」

 吐き捨てる。
 まるで言葉そのものが、汚らわしいものであるかのように。
 その、殺気立った瞳に、思わず気圧される。
 しかし、その瞳は俺ではなく、別の誰かに向けて焦点を結んでいた。
 その誰かが誰なのか……考えるまでも無いだろう。

「いい? 私は単純に、あの子が嫌いなの。
 あの子の顔も、態度も、性格も、本当に気に食わないったらないわぁ。
 そうよ、あの子なんかが……アリスに相応しいはずが無い」

 一言一言、相手に語りかけるように。
 あるいは、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「水銀燈、お前……」

「士郎。明日は忙しくなるわぁ。
 用意が出来次第すぐに出掛けるわよぉ。それと――」

 俺の言葉を遮り、水銀燈はくるりとこちらに背を向けた。
 そして、肩越しにちらりとこちらに目線を送ると、最後に言った。

「今度また、私にくだらないことを訊いたなら。
 そのときは士郎、貴方を……本当にジャンクにしてあげるから」

 そうして、水銀燈はそのまま、土蔵に向けて飛び去って行ってしまった。

「……なんなんだ、一体」

 一人きりになった中庭で、やり場の無い戸惑いが、口から零れ落ちた。
 なんだか、水銀燈が怒るところを初めて見たような気がする。
 今日は初めて尽くしの日だな……いや。

「俺が、気付いてなかっただけか」

 自分の間抜けさに呆れてしまう。
 俺は今日、水銀燈の新しい一面を見つけたんじゃない。
 今まで、水銀燈のいろんな顔を見てすらいなかったんだ。

「下僕失格、か。……はぁ」

 水銀燈ならそう言うだろう、と考えて、溜息をつく。
 今日はやけに寒い。溜息すらも、かすかな白い靄になっていく。

「……そういえば、水銀燈の息は白くなってなかったな」

 やはり、人形と人間では造りが違うからなのか。
 俺は、そんなことにも、初めて気付いた。
 もっと水銀燈の事が知りたい。
 アリスゲームのためじゃなく、もっと単純な理由で。
 そうでもしないと、俺は……。

 ――このままだと、水銀燈のことを、夢にでも見てしまいそうで。

「……ええい、やめだやめ」

 頭を振って気持ちを切り替える。
 俺一人で考えていても埒が明かない。
 これ以上理解しようとするのなら、当事者の話を聞かなきゃいけないだろう。
 だから、俺は頭の隅のほうにこの疑問を押しやった。

 そうして、俺は――



 そういえば、雛苺はどうしているのだろうか。
 さっき見に行った時は、居間には藤ねえしかいなかったし。
 と、いうことは、誰かの部屋に遊びに行っているのか?

「……少し、様子を見に行くか」

 ……雛苺を疑っているわけじゃないが、どうにも、氷室という前例があるからなぁ。
 契約の指輪を失ったんだから、無茶なことはしていないと思うが。
 とりあえず、一番近い部屋から順番に探してみよう。

「まずは、ライダーの部屋からかな」

 中庭から直接廊下に上がって、ライダーの部屋に向かう。
 一応、部屋の前でこんこん、とノックしてみる。

「ライダー?」

「士郎ですか?」

「え、先輩?」

「シロウ?」

 あれ?
 思いがけず、三人の声が返ってきたぞ。
 ライダーの部屋に、桜とセイバー……桜はともかく、何でセイバーが?

「丁度良かった。
 士郎に少し、訊きたい事があるのですが」

「は? いや、別にいいけど。
 その前に、雛苺が来てないか?
 居間にいなかったから探してるんだが」

「あ、雛苺ちゃんなら、今ここにいますけど……えっと」

 む、いきなりビンゴ。
 けどなんか、桜の返事が歯切れが悪いな。

「もしかして、呼んじゃまずかったか?」

「いえ、実は訊きたいことというのは、その雛苺に関することでして……。
 とりあえず入って来てくれませんか?」

 …………?
 よくわからないが、ライダーが入っていいと言ってるんだから入ってみるか。

「じゃ、お邪魔します……」

 そう断って、ドアを引いて中に入る。すると……。

「…………」

「えーと……」

「……むぅ」

 部屋の中には、揃って困りはてた顔をしたライダー、桜、セイバーの三人と。

「……うぅー」

 ベッドの上で不機嫌そうにむくれている、雛苺の姿があった。
 正直、どういう状況なのか、まったくもって分からない。

「なんだ? 一体どうしたんだ?」

「それが……さっきまで、雛苺ちゃんと遊んでいたんですが」

「なんと言いますか、お互いの意思疎通に齟齬がありまして……。
 それで、全員困り果ててしまったのです」

 意思疎通?
 何か分からないことでもあったのだろうか?

「その、雛苺ちゃん、表現が独創的なものですから」

「なんとか伝えようとしてくれているのは、分かるのですが……」

 揃って顔を見合わせる桜とセイバー。
 むう、雛苺は言葉足らずなところがあるから、それで分かりづらいのだろうか。

「で、なにが分からなかったんだ?」

「それが……雛苺の好物についてなのです」



「好物? 好きな食べ物か?」

「はい。名前は分からないらしいのですが……雛苺の説明だけでは、私たちにはそれがなんなのか皆目見当がつかないのです」

 無念そうに言うライダー。
 なるほど、それで俺にお呼びがかかったのか。

「それで、士郎に頼みたいのですが……」

「ああ、つまりそれがなんなのか、俺にも考えて欲しいってことだな?」

「はい。士郎も料理が得意ですから、もしかしたら分かるのではないかと」

 どうやら、桜の力だけでは解明できなかったらしい。
 そういうことなら、及ばずながら俺も力になろう。三人より四人だ。

「よし、わかった。
 それじゃあ雛苺、その好きな食べ物ってのはいったい何なんだ?」

 俺が目の高さをあわせながら尋ねると、雛苺は一瞬戸惑ったものの、大きな声ではっきりと説明してくれた。

「あのね、透明で、黄色くて、黒くて、すくって食べるの!」

「は?」

 あまりに抽象的な表現に、間の抜けた声を上げてしまった。

「それ、食べ物なんだよな?」

「そうよ。
 鐘が、雛苺に初めて食べさせてくれたのよ」

 氷室が、雛苺にあげた食べ物……?
 隣からライダーが声をかけてくる。

「分かりますか、士郎?
 私たちには、その、さっぱり……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。
 ええっとだな……」

 こ、これは思ったよりも難題だぞ……?
 透明で、黄色で、黒くてすくって食べるもの?
 なんなんだ、一体……?



 待てよ、もしかすると……。

「雛苺、その食べ物って黒いシロップをかけて食べるのか?」

「うんっ、そうよ! そのシロップが、とってもあまぁーいの!」

 やっぱり。
 透明は寒天、黄色はミカン、黒は蜜と餡子か。
 加えてすくって食べるとなると……。

「先輩、わかったんですか?」

「ああ。ひょっとして……あんみつじゃないか?」

「あ……!」

 俺の予想に、桜が思わず拍手を打つ。

「それです、確かにあんみつならぴったりですよ、先輩!」

 賛同してくれる桜とは対照的に、セイバーとライダーはいまひとつピンと来ない、という顔をしている。
 そっか、セイバーとライダーもあんみつを良く知らないのか。

「……シロウ、そのアンミツという食べ物はどんなものなのですか?」

「ええっと、寒天を使った和菓子だよ。器の中に寒天とか餡子とか、果物とかを盛り付けて、甘い黒蜜をかけて食べるんだ」

「ほほう……」

 セイバーが早速興味深そうに聞き入っている。
 そうか、セイバーもライダーも食べた事が無かったか。
 それじゃあ……。



「うーん……」

 一瞬、明日にでも買ってきてやろうかと考えたのだが。
 良く考えなくても、明日は水銀燈との先約がある。
 そっちがいつまでかかるか分からない以上、安請け合いをするわけには……。
 と、そのとき。

「わかりました。では雛苺、明日私がそのあんみつを買ってきましょう」

 そう名乗り出てくれたのは、ライダーだった。
 その提案に、雛苺の顔がぱっと明るくなる。

「ほんとう!?」

「ええ。明日はアルバイトがありますので。
 それが終わったら、あんみつを買って帰ります」

「C'est heureux!
 ライダー、ありがとう!」

 そのままライダーに抱きつく雛苺。
 流石と言うべきか、その突然の突撃にもよろめかずに受け止めるライダー。

「悪いな、ライダー」

「いえ。先ほども言いましたが、アルバイトのついでです。
 それにセイバーほどではないですが、私もそのあんみつに興味がありますから」

 そう言って俺の謝辞を断るライダーだったが、雛苺を見るその目はどこか優しげだ。
 ううむ、そういえばライダーは、女の子は可愛くあるべし、みたいな思い込みがあったっけ。
 その点、雛苺は存在自体が女の子の象徴みたいなもんだからな。
 案外、ライダーも雛苺のことを気に入ってるのかもしれない。

「ライダー、あんみつはどうか私の分も買ってきてくれるのでしょうか?」

「心配せずとも、人数分はしっかり買ってきます」

 そわそわと催促するセイバーに、冷静に返すライダー。
 ふと、時計を見れば、八時半を回ろうかという時間になっている。
 あと少しすれば、ドールは眠りにつく時間だ。
 俺は腰を上げて、部屋にいる面々を見渡した。

「じゃあ、俺はもう行くよ。
 雛苺も、そろそろ寝るんだぞ」

「はーい」

 俺も今日は早く寝ることにしよう。
 水銀燈も言っていた通り、明日はきっと忙しくなるだろうから。

 * * *

 ――翌日。
 玄関を出たところで、俺は雲ひとつない青空を振り仰いだ。

「うん、よく晴れてる。出掛けるには丁度いいな」

 本当に、気持ちいいくらいの晴天だ。
 これで、出かける用件がもうちょっと陽気なものだったら文句もなかったんだろうけど。

「……ちょっと、士郎」

 ……と、清々しい気分に浸っている俺に水を差すような声。
 いかにも不満、といいたげな、その声を上げたのは――。


「……なんなのよ、この恰好は?」

 底冷え、という単語がぴったり似合いそうな声。
 だがその声の出所はというと、実は俺の腕の中だったりする。
 片手を水銀燈の膝の裏、片手を水銀燈の腕周りに回して支え持つ。
 要するにお姫様抱っこ。
 本来ならば、身長の足りない俺がやるとてんで様にならないことベスト3に入る行為。
 なのに、先日は氷室、今日は水銀燈、と、ここのところ抱っこ率がやたら高いのはどういうわけなんだろうか。

「一体どういうつもり?
 いきなりこんなことをして……死にたいの?」

 相変わらず水銀燈は冗談を口にしない。つまり今の俺の命は風前の灯か。
 ともあれ、水銀燈はどうやらこの体勢がお気に召さないらしい。

「どういうつもりって言われてもなぁ。
 他に方法が思いつかなかったし。
 水銀燈をトランクに入れたまま運ぶのも失礼だろ?」

「だったら私は自分で飛んでいくわ。
 だからこの手を放しなさぁい」

「いや、動いてるところを他人に見られたらまずいって」

 まあそれでも、こんなに大きな人形を抱えて歩いているのはだいぶ目立つけどな。
 が、水銀燈はそれでもまだ納得していないようで、むー、と唸っている。

「それは貴方たち人間の都合でしょう?
 水銀燈は誇り高い薔薇乙女《ローゼンメイデン》の第一ドール。
 なにも隠すつもりはないわぁ」

 ううん、他人に迷惑……って、水銀燈に言っても通じないか。
 それじゃあ……。



「じゃあ、こうしよう。
 誇り高い主を歩かせたりなんかしたら、こりゃ従者の名折れだ。
 これも従者の務めだと思ってさ。これくらいはやらせてくれよ。
 それならいいだろ?」

 そうだ、俺は水銀燈の従者として契約した。
 なら、従者らしい振る舞いをしなければならないはずだ。
 ……だが、水銀燈は俺をじっと見つめた後、つまらなそうに鼻を鳴らした。

「……ふん。随分口が良く回るじゃない。
 そんなに下僕らしくしたって、今更だわ。
 ホント、くだらなぁい」

 勢いよく広がる漆黒の翼。
 ぱしん、と俺の手を打ち据えて、水銀燈の身体が宙に浮く。

「第一、あんな恰好を真紅に見られたら、何を言われるかわかったもんじゃないわ。
 つまり、余計なお世話。わかったらさっさと行くわよ」

 そう言い残すと、住宅街の空を率先して飛んでいく。
 ……駄目か。
 これを機に、水銀燈のことをもっと知る事が出来れば、と思ったんだけどな。

 ――それとも、昨日のうちに謝っておけば、少しは違ったんだろうか。

「なに、ぼうっとしてるの?
 遅れたら本当に置いていくわよ」

「あ……ああ」

 既に前方に小さく見える水銀燈に、そう言われて我に返った。
 そして、同時に気がつく。
 『まだ』前方に小さく見える……飛ぼうと思えばどこまでも飛んでいけるだろうに、水銀燈は追いかけることが出来るくらいの速度で飛んでくれているみたいだ。
 これは問答無用で置いていかれないだけ、マシと言うべきなんだろうか。

「って、遠坂の家の場所知らないんじゃないか、あいつ……?」

 俺は慌てて、水銀燈の背中を追いかけて、走り出した。

 さて、俺の家から遠坂の家までは、深山町を北から南へほぼ縦断することになる。
 水銀燈が自分で飛んでしまっている以上、他人に見られたら言い逃れは出来ない。
 『こちら側』の事情を分かってくれる奴ならともかく、何も知らない一般人に目撃されたらお手上げだ。
 さて、そうするとどういうルートを進むべきなんだろうか……?



「士郎、交差点だけど」

「ああ、そこを右に曲がってくれ」

 バス停のある交差点を右に折れる。まっすぐ進めば、大橋に到る道だ。
 ……遠坂邸に向かうには、商店街を突っ切るのが一番早い。けど、商店街は午前中でも人が多いし、流石に駆け抜けるには分が悪い。
 なので、少し回り道になるが、まず大橋側に向かってから、遠坂邸を目指す。
 学園側に迂回することも考えたが、休日とはいえ、部活動をしている生徒もいる。なにより、知り合いに遭遇する確率で言えば商店街よりも高い。恐ろしくて近寄れない、というのが本音なのだ。

「…………」

「…………」

 俺も水銀燈も、互いに無言。
 道を尋ねること以外は、何も口にしないまま、走り続ける。
 息が苦しい。
 運動のせいじゃない。水銀燈に合わせて走るペースはそれほどキツくはない。
 だから、この息苦しさは、横たわる沈黙のせい。
 置いていかれているわけじゃないのに、話をするわけでもない、微妙な距離感。
 昨日の夜から……いや、昨日の夜に初めて明確に示された境界線。

「士郎、次の道はぁ?」

「左に。その後はしばらくまっすぐだから……」

「そう」

 俺の先を飛ぶ水銀燈の背中。
 小さく、そして美しいそれを追いかけて走る。
 俺が追いかけるのは水銀燈の背中。
 水銀燈が向かう先はドールの住処。
 目指しているところは同じだが、見ているものは違っている。
 ……ふと、水銀燈が言っていた言葉を思い出す。

『アリスになるのは、この私』

 水銀燈は、アリスになるのが最たる願いだという。
 アリス……人形師ローゼンが求め続けた究極の少女。
 だが、そのためには他のドールを倒し、その命とも言えるローザミスティカを奪わなければならない。

「…………なんか、ひっかかるなぁ」

 言いたいことはあるんだが、それが上手く言葉にできない。
 そうしている間にも、どんどん沈黙という名の重圧は増していく。
 
 この状況を変えるには、何かきっかけが必要なんだろうけど……。




「あれ? あそこにいるのは、バゼット?」

 道の向こう、新都のほうから歩いてくるスーツ姿の女性は、間違いなくバゼット・フラガ・マクレミッツ。
 元、魔術協会の封印指定執行者という、凄い肩書きを持っているのだが……実は少し前までは、ウチに居候していた人だったりする。
 今は郊外の幽霊屋敷を私物化……もとい、住居として生活してるようだ。
 新しい働き口を探すのが大変らしく、ここしばらく姿を見てなかったのだが。

「士郎くん?」

 っと、向こうも俺に気がついたみたいだ。
 こちらを見て、なにやら怪訝そうな顔をしている。
 ううむ、まあ当然か。空を飛ぶ小人と、それを追いかけて必死に走っている男を見れば、魔術師だって眉くらいはひそめるだろう。
 走る足を一旦緩めて……って、まずい、水銀燈の奴、先に行っちまうじゃないか。

「水銀燈、悪い、ちょっと待っててくれないか?」

「はぁ?」

 呼び止めると、水銀燈は「何を言い出すのこのグズは」とでも言いたそうな視線を俺に向けてきた。

「何を言い出すの……」

「いやあのほら、あそこにいる人、俺の知り合いなんだ」

 なんか想像していた台詞を本当で言われそうだったので、慌ててバゼットのほうを指し示す。
 ううむ、俺もだんだん水銀燈の言いたい事が理解できるようになってきたってことかなぁ。あんまり嬉しくないけど。

「あそこ?」

 そこでようやく、水銀燈はその道の先にバゼットの姿があることを認識したらしい。
 どうも水銀燈は、自分に関係ない、興味がないことに関しては知覚すらしないようなところがあるなぁ。

「へぇ……」

 って、うわっ!?
 なんだ、水銀燈の瞳がより一層細められた、様な気がした、けど?

「まぁた、女……貴方ってほんとに女にばっかり顔が広いのねぇ……つまんなぁい」

 いや、そんな軽蔑したみたいな顔でそっぽ向かれても。
 第一、女ばっかりに顔が広いというのは間違いだ。

「そんなわけあるか、俺はそんなに交友関係が偏ってるわけじゃないぞ。
 男友達だって……一成だろ、慎二だろ……………………いや、友達っていうのは数で計るようなもんじゃないだろ、うん」

「……説得力が無いわよぉ、士郎」

 うるさいな。
 一瞬英霊の男性陣が脳裡をよぎったけど、流石にあの赤いのとか金ぴかとかをカウントするのは俺の沽券に関わりそうなので自粛したんだよ。

「あの、士郎くん?」

「え?」

 いかん。水銀燈と話し込んでいたら、いつの間にかバゼットがすぐそこに。

「あ、バゼット、久しぶり。こんなところで会うなんて奇遇だな」

「いえ、奇遇というわけでもないですよ。
 これから、士郎くんの家にお邪魔するつもりでしたから」

「俺の家にって……また泊まりに来るのか?」

 新しい住居が決まった後も、バゼットはちょくちょくウチにやってきている。
 それは、遠坂への報告義務を果たすためだったり、セイバーとの手合わせするためだったり、単なる茶飲み話するためだったりと様々だ。
 その都度、一緒に飯を食べたり、時には泊まっていったりするのだが。


 だが、バゼットの告げた言葉は、そのいずれでもなかった。

「いえ。就職先が決まったことを、ご報告しに行こうかと」

「え」

 バゼットの、就職先だって?
 言っちゃ悪いが、バゼットの労働は長続きした試しが無い。
 なにしろ、喫茶店で働けば、水道管を破壊してクビになるような人なのだ。
 だから、魔術協会を辞めてからというもの、バゼットはずっとフリーランス……悪く言えば無職、という状況に甘んじてきたわけだけど。
 ……そう考えると、俄然と不安になってきた。
 バゼット、今度は一体どんなところに就職したっていうんだ?

 だが、俺がそれを尋ねる前に、バゼットが機先を制してきた。

「ところで、士郎くんは……なにやら急いでいるように見受けましたが、どこかへお出かけですか?」

「あ、ああ……ちょっとひとっ走り、遠坂の家までな」

「ほう、冬木のセカンドオーナーの家に? それはひょっとして……」

 バゼットが先ほどからずっと、不審そうな目でじっくりと見つめている、その先には……当然と言うか何と言うか、水銀燈の姿があるわけで。
 ……やっぱりそこは突っ込まれるよなぁ。うう、封印指定執行者に睨まれるのって、こういう気分になるんだなぁ。

「そちらにいる人形と、何か関係が?」

「ええっとだな……」

 さて、どうしたものか。
 俺は、バゼットに――


 決して話をはぐらかそうとしたわけじゃない、のだが。
 俺はどうしても尋ねてみたくて仕方なかった。
 そう、バゼットの就職先というものを!!

「確かに、今日の用事は水銀燈に関係あるんだけどさ。
 そんなことより、俺はバゼットの仕事のほうが気になるぞ」

「え? 私の仕事場、ですか?」

 バゼットがきょとん、としている。
 こういう切り返しは想定していなかったのか、虚を突かれたらしい。

「ああ。何しろ今までが今までだからな。
 今度こそ真っ当に働いてくれよ?
 いつぞやみたいに半日持たないなんて事はないようにな」

「なっ、士郎くんまでそんなことを言うのですか!?
 確かに今までは、私の過失があったことは認めますが、私だって好きこのんで長続きしなかったわけじゃありません!」

 猛然と反論してくるバゼット。
 そりゃそうだ、好きこのんで職場荒らしをしていたらそれは立派な営業妨害だ。

 と、今まで会話に入ってこられなかった水銀燈が、俺に耳打ちしてきた。

「士郎。いつまでこの女の相手をしているつもりぃ?」

「ああ、悪い。
 もうちょっと、もうちょっとだけ待っててくれ……痛っ!?」

 ぎゅむ。
 こっ、こめかみ付近の髪の毛を思いっきり引っ張られた!

「今は真紅のところに行かなきゃならないのよ?
 こんなところで遊んでいる暇は、な・い・の。
 本当にわかってるのぉ?」

 ぎりぎりと俺の髪を引き絞りながら、恫喝するように囁いてくる。
 そ、そういや忘れてたけど、今の水銀燈は実はかなり不機嫌なんだった!

「わ、わかってる、わかってます!
 だからあとちょっとだけ、もうすぐに話も終わるから……っ!」

「ふん……あと2分だけ待ってあげるわ。それ以上もたもたしているようなら……」

 それ以上のことは言わずに、じっと俺を見つめて確認する水銀燈。
 もちろん俺は首を縦に振って了解の意思を示すしかない。
 それでようやく満足したのか、水銀燈は近くに立っていたカーブミラーの上に飛んでいった。やれやれ……。

 そんな俺たちのやり取りを、バゼットは興味深そうに……そして若干、疑わしそうに見ていた。
 カーブミラーに片手を添えて、もう片方を口元に当てて何かを考えるポーズを取る。

「……やはり、士郎くんはアイツとどこか似ている。
 言動だけではなく、そんなおかしな共通点まで……」

「ん? なんか言ったか、バゼット」

「あ、いえ……士郎くんに言われたようなことを、別の人物からも言われていまして」

「なんだ、他の奴にもなんか言われてたのか?」

 俺以外にもバゼットにそんなことを言う人間がいたとは。
 ひょっとしてあの毒シスターだろうか、あいつなら確かに言いそうだけど。



「ええ、人が失業するたびに、やれ求職テロリストだの、フロアクラッシャーだの……。
 今回も『せいぜい頑張れよバゼット、俺も頑張って人間凶器より上の称号を考えておくからさ、ヒヒヒヒ』などと……!!」

 あれ? バゼットの話を聞く限り、相手はどうやら毒シスターじゃないらしい。
 あいつならもっと懇切丁寧な言い回しで人を逆撫でするし。
 じゃあ一体誰だろう……って、おい。

「ちょ、バゼットストップ!
 手、手に力込めすぎ!!」

「きゃああっ!?」

 ミチミチミチ、という音を立てて曲がっていくカーブミラー。その上にいた水銀燈ごと、角度を水平に近づけていく。
 ヤバイ。
 何がヤバイって、バゼットをからかった奴がそのカーブミラーと同じ末路を辿ったかもしれないという事実が。

「あ、す、すみません」

 慌ててカーブミラーを立て直す。
 が、一度曲がった鉄の棒は曲げなおしたところで元に戻るはずもない。

「あ……また、やってしまいました」

「また、って……日常的にやってるわけぇ?
 とんでもない女ねぇ」

 俺の肩にとまった水銀燈の呆れ声も、今回は確かに的を得ていた。

「そうだな……新しい職場で生かせればいいんだけどな、その力」

「そ、それならば大丈夫ですっ。
 意外と腕力の要る仕事のようですし、私にぴったりだと、先方も言っていましたから」

 勇気あるなぁ採用担当者。
 この腕力をどうやって利用する気なのか。

「……で、結局なんなのさ、バゼットの新しい仕事って」

「はい、アルコール販売業です。時間帯によってはバーも開いているらしいですが」

 ほうほう、酒屋さん兼居酒屋さんということか……いやちょっと待て。
 なんだかひどくどこかで聞いたような業種じゃないか?

「あのさ。そのお店の名前って……」

 恐る恐る聞いてみると、バゼットはあっさりと口を割った。

「ええ、コペンハーゲン、と」

「あ、やっぱり」

 なんだかもはや驚きもしねえよ、もう。
 てことは、勇気ある採用担当者は間違いなく親父さんなんだろうな。

「あれ、士郎くん知ってるんですか?」

「知ってるも何も、俺のバイト先だよ、そこ」

「なんと。凄い偶然ですね」

 どうだろ、凄い偶然で片付けちゃっていいのかな、それ。

「しかし、急な話だな。
 新しい店員を雇うなんて、初めて聞いたぞ、俺」

「今回も、新規採用者を私を含めて二人も雇い入れたわけですし」

「え、まだ他にもいるの、新しい店員さん……?」

 なんか、色々新しい情報が入ってきて混乱してきたなぁ……。


 とりあえず、コペンハーゲンの新しい店員というのが気になった。
 何しろ自分のバイト先だ、これから関わることも多いだろう。

「バゼット、新しい店員って、知り合いか?」

 知り合いと書いて危険牌と読む。
 バゼットが店員になっただけでもメンタンピンドラドラの満貫状態なのだ。
 コレに更に知り合いが加わったりしたら、裏ドラが乗って跳満になりかねない。

「いえ、初めて見る方でしたが」

 だが、意外にもその危険牌はあっさり通った。

「え、違うのか?
 じゃあ、普通の人?」

「そうですね……私も挨拶程度しかしていませんから、よくわかりませんが」

 そう前置きしてから、バゼットは自分の所感を述べた。

「眼鏡をかけた、線の細い若い男性でした。
 性格的には、割と軽い方で、オーナーたちともすぐに打ち解けていました。
 あまり力仕事に向いているようには見えませんでしたね。
 むしろ、バーのカウンターで接客をしているほうが似合いそうな雰囲気でした」

 つまり……少し悪い言い方をすれば、優男、ということか。
 女なのに力仕事が得意なバゼットとは正反対だ……げふんげふん。

「ふうん。普通の人みたいだな。
 大丈夫なのかバゼット?
 一般人の前でカウンターとか破壊しちゃったら絶対引かれるぞ?」

 主に給料とかな。

「だっ、だから隙でしているわけではないと言ったじゃないですか!
 ……本当に、こういうところだけ似ているんですから……」

 ああ、そうだそうだ、そっちの人のことも聞こうと思ってたんだ。
 続けてバゼットをからかった人について尋ねようとした、が……。

「……士郎、そろそろいい加減に……」

 ふと隣を見れば、腕組みしている水銀燈のジト目が。
 マズイ、もう時間切れか。

「わかった、悪い、水銀燈。
 ……バゼット。俺はもう行かなきゃならないから。
 バゼットは……これから俺の家に?」

「あ、はい。そのつもりでしたが」

「じゃあ、悪いけど、家で待っててくれ。
 用事が済み次第、俺もすぐに戻るから」

「わかりました。では、お邪魔させていただきます」

 頷くバゼット。
 それに軽く手を振って、背を向けて走り出……そうとして、いきなり踏み止まった。

「っと、そうだ、肝心なことを聞き忘れてた。
 そのコペンハーゲンの新しい店員さん、名前はなんていうんだ?」

 いかんいかん。
 よりによって一番大切なところを忘れるところだった。
 振り返った俺に、バゼットは相手の名前を告げた。

「白崎、と名乗っていましたが」

「白崎か……わかった、ありがとう」

 白崎。
 次にバイトに行く時は、その名前を覚えておこう。
 そう心に決めてから、俺は再度、水銀燈を伴って走り出した。

**********

 走ることしばし。
 俺と水銀燈は、眼前に遠坂邸を仰ぐ場所に立っていた。

「……ふう。着いたか」

「ここが真紅のハウスね……」

 走り詰めで少し息を切らせる俺と、どこかで聞いたようなフレーズを呟く水銀燈。
 そんな俺たちに――。


 遠坂邸の門の前に立つ。
 ここから一歩踏み込めば、遠坂の敷地……魔術師のテリトリーだ。
 とは言っても、今回は遠坂と喧嘩をするためにやってきたわけではないので、そんなにピリピリする必要はないのだが。

「ふ、ふふふふふふ……」

 隣で必要以上にピリピリしている水銀燈さんには言っても聞かないんだろうなぁ。

「あのさ水銀燈、最初っから喧嘩腰じゃあ、まとまる話もまとまらなくなるぞ?」

「あらぁ、私はただ、真紅をからかいに来ただけよぉ?
 仲良くするなんて真っ平だし、あの子の話なんか知ったことじゃないわ。
 そんなことより、早く呼び出しなさいよぉ」

「……わかったよ」

 本当に、それでいいのか、水銀燈?
 そう心の中で呟きながら、俺は門の脇に備え付けられた呼び鈴を指で押した。

 リーン、という音が館に響く。

 ……ここで安っぽい電子音じゃなくて、本物の鈴っぽい音が鳴るあたり、流石魔術師と言うべきか、流石金持ちと言うべきか。

「とうとう会えるのね……真紅ぅ」

「……結局、今まで聞きそびれてたんだけどさ。
 その真紅ってドールは、一体どんな奴なんだ?」

 かなり今更な気がするが、気になっていたことを尋ねてみる。
 水銀燈は不愉快そうに、ふん、と鼻を鳴らした。

「……えらそうな態度の、生意気で不細工な人形よ。
 他人を見下して、自分だけは特別だと思ってるお馬鹿さん。
 レディを装ってるけど、所詮見せかけだけ。虫唾が走るわぁ」

 なんとも酷い言いようだな。
 どうも水銀燈の人物評を聞いていると、会ってもいない相手のイメージがどんどん悪くなっていく。

「……聞いた限りだと、随分仲が悪そうだけど。
 なにかあったのか?」

 再び疑問を投げかけると、水銀燈はふと、俯いて。

「………………貴方には、関係ないわぁ」

 そう言い捨てるまで、随分と間が合ったのが気になった。

「一つだけ言える事があるわ。
 真紅を壊すのはこの私。
 今まで、幾つもの時間で戦って、いずれも決着は付かなかったけど。
 今度こそ、この水銀燈の手で……。だから、士郎」

 俯いていた顔を、ゆっくりと持ち上げる。

「今回はからかいに来ただけだけど……雛苺のときみたいな『気まぐれ』は無いわぁ。
 また『正義の味方』とか言って、真紅に肩入れなんてしたら……赦さないんだから」

 相変わらず、真紅って奴に関しては水銀燈は本気だ。
 口ではなく、冷たい瞳がそう語っていた。
 なので、俺は小さく頷いて見せる。

「わかってる。
 もしその真紅って奴が、お前の言うような奴なら、俺も倒すことに反対しない。
 それに、俺のほうも、ちょっと馴れ合いたくない事情がある」

 なんせ、ミーディアムがアイツだしな。

「それにしても……」

 呼び鈴を鳴らしてから数十秒経ったが、いまだに沈黙したままの館を見上げた。

「おかしいな?
 誰も出てくる様子が無いぞ?」

 念のため、もう一度呼び鈴を鳴らしてみるが、反応は無い。
 誰も居ないのか? でも、まだ午前中なのに……。

「鍵は……あれ、開いてるのか」

 門を押してみたところ、あっさりとそれは開いた。
 少なくとも、だれも居ない、というわけでは無さそうだが。

「……よし、遠坂には悪いけど、中に入らせてもらおう。
 いいか、水銀燈?」

「ええ、もちろんよ」

 門をくぐり、敷地に入る。
 一瞬、来た道を引き返すということも考えたのだが、鍵が開いているのに誰も出ないという状況はちょっと不審だし、なにより水銀燈が納得しないだろう。

「……なんだか、へんな感じぃ。
 入った途端に、空気が濃くなったみたい」

 遠坂邸の空気を敏感に感じ取ったのか、水銀燈が訝しげに眉をひそめている。

「まあ、一流の魔術師の陣地だからな。
 俺の家なんかとは違って、土地の魔力も強いみたいだし」

 遠坂なんかは、この敷地の土で傷を癒すこともあるらしいしな。

「ふぅん……でも、それだけじゃないような気がするけど……。
 まぁいいわ。早く行きましょう」

「……? ああ」

 門から玄関までは、さほど距離は遠くない。
 玄関の扉のノブをひねると、やはり鍵がかかっていなかった。

「行くぞ……」

 扉を開けて、中の様子を窺う。
 外観と同じく、洋風な造りの廊下はしん、と静まっている。
 ここには何度も来た事があるが、こんなに静かなのは一人で掃除しに来たとき以来だ。

「おーい、誰も居ないのかー?」

 呼びかけてみても、やっぱり反応無し。
 やはり誰も居ないのか?
 でも、だとしたらなんで鍵がかかってなかったんだ?
 不信感を募らせながら、さらに奥へ。
 この先には、居間と台所がある。
 誰かがいるなら、一目でわかるはずだけど……。

「あ……」

 居間に足を踏み入れたとき、そこで俺が目にしたものは――。


 それは、目を疑うような、美しい惨状だった。
 絨毯は輝きに引き裂かれて。
 長机は煌きに砕かれて。
 椅子は照り返しを受けて見るも無残。
 床から、壁から、天井から……屹立した紫の水晶が、居間を蹂躙していた。

「あ、え……? なんだ、これ……」

 あまりの光景に、頭が上手く回転しない。
 当たり前だ、だれがこんな光景を想像できるって言うんだ。
 ……いや。

「ふぅん……やっぱりそうだったのねぇ」

 水銀燈は特に驚くこともなく、散々な有様の居間を見回している。
 もしかして、この状況を予測していたのか……?

「水銀燈、これは一体……?」

「士郎、気をつけなさい。
 ……ここは、既にnのフィールドの中よ」

「な――――」

 驚く暇もあればこそ。
 足元から伝わってくる微細な振動、そして異音。
 ――嫌な予感が背筋を走る。

「――に、ぃ!?」

 床が抜けた。
 いや、床どころじゃない、根本的な異常事態。
 まるで今の今まで俺が見ていた空間が、ガラス細工だったかのように、壁が、床が微細な欠片に砕け散っていく。
 これは……お、落ちる!?
 咄嗟に目を瞑り、歯を食いしばる。

「く、うぅ……って、あれ?」

 てっきり落ちるだろうと覚悟してたのだが、その予想は外れた。
 どういうことか、床が砕け散った後の空間に、そのまま身体が浮いていたのだ。

「……そう、そういうこと。
 この館の領地に入った時点で、既にnのフィールドに入ってたってわけねぇ」

「……なんてこった……」

 nのフィールド。
 以前入った時は、雛苺に無理矢理付いていった結果だったけど。
 今回は、その逆。
 知らないうちに、無理矢理連れ込まれていたってことか。

「それにしても、これは真紅の力ではないわねぇ。
 だとすると、誰か他のドールが……」

「そ、それより水銀燈。
 ここは、前に来たところと随分雰囲気が違うぞ?」

 ぬいぐるみの山だった前回の場所とは違って、ここには何も存在しない。
 落ちる事は無いみたいだが、足場が無いという状況は、なんだかとても落ち着かない。
 だが、水銀燈から帰ってきたのは、呆れを主成分とした視線だった。

「……はぁ、お馬鹿さぁん。
 nのフィールドはどこでも在るしどこでも無いのよぉ。
 全てと繋がって、全てと断絶した狭間なの。
 繋げる鍵は、渡り手の無意識。
 貴方が行きたい場所への扉を見つけない限り、どこにも辿り着くことはできないわぁ」

「え? えっと……」

 いきなり真面目で難しい話をされて戸惑ったが、なんとか仕組みは理解した。

「つまり、ここから行きたい場所を探し出せ、ってことか?」

「そうよ。
 ここには他人の無意識も流れ込んでくるの。
 それを捕まえて、手繰り寄せる事が出来れば、扉に辿り着けるのよぉ。
 わかったらそんな無様をしてないで、さっさと見つけなさぁい」

「……わかった。けど、いきなりなんだから、上手くいかなくても恨むなよ」

 他人の意識、か……ええい、習うより慣れろだ。
 目を軽く閉じて、意識を集中させてみる。
 魔術回路を起動させるような感覚。
 撃鉄をなぞるように、何も無い空間に意識を這わせていく。
 すると……。

「…………あ。これ、かな?」

 ここから近いところから、ナニカ映像のようなものが流れ込んできている。
 それをゆっくりと、手繰り寄せていく。

 俺が掴んだ映像、それは――。



 赤い薔薇と、紫の水晶。
 吹き荒れ、ぶつかり、砕け散る二つの意思は、それ自体が映像であるかのように、強烈に流れてくる。
 故に、その出所を探るのは、俺ごときにでも出来ることで……。

「――あそこだ!
 水銀燈、あそこに扉が!」

 その場所――と言っても何もない虚空なのだが――を指すと、水銀燈がその方向へ手を翳した。
 何かをなぞるように指を滑らせると、なるほど、とでも言うように頷いた。

「確かに……アソコね」

 そう言って、翳していた手をさっと翻す。
 すると、何もなかった空間から、まるでガラスにヒビが入るかのように、ギシィッ、と裂け目が現れた。

「あれが扉なのか……?」

「ええ。さあ、行くわよ」

 先行して扉へと降りていく水銀燈。
 その動作が余りに自然だったから……ここが虚空の中だということに気がついたのは、水銀燈の後を追いかけて扉まで降下した後だった。
 どうやら、この空間では、本人の進みたいという意思に従って身体を移動させられるらしい。
 ……なるほど、これが『渡り手の無意識』、ってことか。

「……居たわ」

 と、早くも扉に到着していた水銀燈は、その中を覗きこんで呟いていた。
 遅れて俺も、扉の中を覗き見る。

「あれは……」

 ガラスの裂け目の向こう側は、薔薇の花が咲く庭園だった。
 一面に咲く赤い薔薇の花たち。
 その上で舞い踊る、ひときわ赤い大輪の薔薇。
 いや、薔薇のように鮮やかな、赤色のドール。

「……全く。
 いきなり押しかけてきて、無礼なお客ね。
 あまつさえ、居間をめちゃくちゃにするだなんて。
 せっかくのお茶の時間が台無しだわ」

 赤いドレスに、赤い帽子。
 その長髪は金細工、瞳は空の色だろうか。
 真剣に前方を見据えるその表情は、凛々しさと上品さを兼ね備えた、貴人と呼ぶに相応しい風格を持っていた。

「一体何の用事なのかしら。
 私は、あなたのようなお客を招待した覚えはないのだけれど?」

 その言葉は、水銀燈に向けられたものではない。
 おそらく、相手はまだ水銀燈に気付いてすらいないだろう。
 だが、それでも。

「……真紅……」

 応じるように囁いたその声は、憎悪か歓喜か。
 水銀燈のその呼びかけに、あのドールこそが真紅……薔薇乙女《ローゼンメイデン》第五ドールなのだと、確信した。

「あれが真紅か……想像してたよりも、なんか……」

 薔薇乙女、第五ドール……真紅。
 彼女に対して、俺の抱いた初印象は……。


 いやまて、アーチャーはどこ行った?
 あいつも真紅のミーディアムなら、近くにいるんじゃないのか?
 そう思って見回してみたが、薔薇の庭のどこにもアーチャーの姿は無かった。

「居ない……?」

 アーチャーが居ない……ということの意味は、実際のところかなり大きい。
 水銀燈が、あの真紅というドールと戦うつもりでいる以上、そのミーディアムであるアーチャーとも戦わなくてはならない。
 だが、はっきり言って、まともにやりあったらアーチャーに勝てるわけが無い。
 認めたくはないが、なにしろ相手は英霊、世界に認められた超人だ。
 俺とアーチャーがやりあえば、アーチャーが勝つ。
 そして、ミーディアムを失ったドールは力を使う事が出来ないのだ。

「ふぅん……真紅ったら、なんだかとぉっても隙だらけ。
 こっちに背中を見せてるし、今なら呆気なく壊せちゃいそう」

 水銀燈の言葉は、ある意味正しい。
 アーチャーが傍に居たならば、ここから奇襲を仕掛けたとしても確実に阻止されてしまうだろう。
 それほど、人間と英霊の能力差は圧倒的なのだ。
 だが、そのアーチャーが、今は居ない。 
 そう、つまり今のような状況は、まさに千載一遇の機会。
 奇襲を仕掛けるのなら、今しかない、と言ってもいい。
 強いて不安要素を挙げるとするならば……。

「あのドール、か……」

 俺の目は、真紅と同時に、もう一人の姿も捉えていた。
 紫のドレスを纏った、未だに一言も発しない謎のドール。
 なによりも特徴的なのが、その左目を覆う眼帯。
 薔薇をあしらったそれは、謎のドールの持つ異様な雰囲気を、より一層際立たせていた。

 この場にアーチャーがいない、ということは、真紅だけがあの眼帯のドールに誘き出されたのか?
 とすると、今、アーチャーは……?

「さて、それじゃあ……」

 ゆらり、と身体を浮かび上がらせる水銀燈。
 二人のドールは、恐らく俺と水銀燈には気付いていない。
 奇襲するには絶好の機会、そして水銀燈は……。


「……まぁ、しばらくはお手並み拝見ね」

 そう呟くと、裂け目を越えて庭園の中へ。
 意外なことに、水銀燈は二人に介入しようとはしなかった。
 すい、と高い柵の上に停まると、そのまま、ゆったりと脚を組んで腰掛ける。
 眼下の二人の対峙を、まるで面白い見世物であるかのようだ。
 続いて俺も、柵の影に隠れるように身を寄せる。

「……いいのか? 真紅ってのは、お前の敵なんだろ?」

 てっきり、攻撃を仕掛けるだろうと思っていたのだが。
 しかし、水銀燈は二人から目を逸らさないまま、俺の言葉を鼻で笑った。

「お馬鹿さぁん。バカ正直に真紅の相手をしてたら、こっちが疲れちゃうじゃない。
 せっかく勝手に潰しあってくれてるんだしぃ、水銀燈はここで高みの見物よぉ」

「漁夫の利を待つ、ってことか。
 ……なんか、意外だな」

「なにが意外なのよぉ?」

「いや、まさかそういうしっかりした作戦を考えてるとは思わなかっt「死にたいの?」俺、水銀燈の聡明さって好きだよ」

 言い終わる前に前言撤回。
 なぁんだ意外とよく切れるんですねその不思議羽根ったら。

 薄皮一枚切られた首筋を押さえながら、水銀燈と共に二人のドールを見守る。
 まあ、冷静に考えれば、水銀燈の言葉は戦略的には正しいと思う。
 わざわざ割り込まなくとも、二人が戦い合って消耗したところを見計らって仕掛ければ、こちらの勝率はぐっと増える。
 なにより俺にしてみれば、あの二人の力は全くの未知数だ。
 最初は見ることに徹したほうが賢いだろう。

「でも、あの相手のドールが真紅を倒したときは?」

 因縁の相手を、別のドールに倒されてしまってもいいのか?
 そう尋ねると、水銀燈は一瞬、眉を動かしたが、すぐになんでもないように表情を戻した。

「……ふん。
 そうなったら水銀燈があのドールを倒しておしまいよ。
 所詮、真紅なんか私が相手をするまでもなかった……それだけの話よ」

 そっけなく言い切るが、果たしてその言葉は額面どおりに受け取っていいものなのだろうか。
 少なくとも、謎のドールのほうを倒すことに関しては、躊躇いがなさそうだけど。

「ふうん……って、そういえば、真紅のほうはともかく、相手のドールは一体何者なんだ?」

 どうも昨日から、真紅のほうばかり気にしていて、もう片方のドールのことは眼中になかったみたいだけど、水銀燈なら謎のドールのことも知っているはず……と、思ったのだが。

「……さぁ?」

「へ?」

 予想外の答えが返ってきたので、思わず間の抜けた声を上げてしまった。
 それを気にした様子もなく、水銀燈は小首をかしげて言葉を続ける。

「知らないわ。あんなドール、今まで見たこともないもの」

「な……」

 なんでさ、と俺が尋ねようとした瞬間。

「アリスゲームに参加している薔薇乙女《ローゼンメイデン》は7体。
 その内、今までの時間の中で見たのは6体まで。
 最後のドールは、目覚めたという話すら聞いたことがなかったわ」

 下から聞こえてきた真紅の声に、思わずぎくりとしてしまう。
 まるで水銀燈の言葉を継いだようなタイミングだ。

「そ、そうなのか?」

「……ええ」

 つまらなそうに頷く水銀燈。
 どうも、真紅の言葉を肯定するのは癪であるらしい。

「じゃあ、あのドールが……最後の薔薇乙女《ローゼンメイデン》なのか?」

 謎のドールを注視する。
 紫のドレスを身に纏ったそのドールは、真紅の言葉が聞こえていないかのように、微動だにしない。

「もう一度聞くわ。
 貴女は、誰?」

「……あなたは、だれ?」

 真紅の誰何の言葉に、ようやく、謎のドールは口を開いた。
 オウム返しに呟いたその声は、ひどく平坦で、抑揚がない。
 言葉を返された真紅は、すぐに自分から名乗りをあげた。

「私は――薔薇乙女《ローゼンメイデン》第5ドール、真紅」

「真紅……」

 平坦で、しかし含みを持った声が、真紅の名前を確認するように繰り返す。
 そして、その名乗りを真似るように、自らもまた名乗り返した。

「私は、薔薇乙女《ローゼンメイデン》の第7ドール……薔薇水晶」

「薔薇水晶……」

 それが、あのドールの名前か。
 薔薇水晶、と名乗ったドールは、そのまま片手を――。


「あなたの望みを叶えましょう、真紅」

 手は、掌を上にして、真紅へ向けて差し出された。
 なんだ?
 あの薔薇水晶っていうドール、真紅と戦いに来たんじゃないのか?

「……私の、望み?」

 当の真紅も薔薇水晶の言葉は予想外だったのか、眉をひそめて差し出された手を見つめる。
 当然、安易にその手をとるような真似はしない。

「おかしなことを言うのだわ。
 私たちの望むことなど、あるとしたらそれは――」

「アリスに、なること」

 薔薇水晶が真紅の言葉にかぶせるように、後を継ぐ。
 真紅も、さしたる驚きも見せずにその言葉を肯定してみせる。

「そうよ。
 それが薔薇乙女《ローゼンメイデン》の宿命。
 あなたも薔薇乙女《ローゼンメイデン》ならば、この意味がわかるでしょう?」

 アリスになれるのは、一人だけ。
 全てのローザミスティカを集めた薔薇乙女《ローゼンメイデン》だけが、アリスを待っているローゼンに会う事が出来る……か。

 だが、薔薇水晶は、真紅の言葉を理解しているのかいないのか、それでもなお差し伸べた手を下げようとはしなかった。

「かわいそう……真紅、貴女はかわいそう。
 貴女の望みは目的じゃなくて、その方法……アリスゲームを変えることでしょう?」

「!?」

 初めて。
 初めて真紅が驚きに目を見開いた。
 俺がこの場からやりとりを見始めてから、一度も崩れることのなかった表情が、薔薇水晶の一言で大きく揺らいだ。

「な、なにを、一体……」

「貴女はアリスゲームに疑いを抱いている」

「っ!」

 持ち直そうとしらを切る真紅に、追い討ちをかけるように言葉を放つ薔薇水晶。
 アリスゲームに疑いを、だと……どういうことだ?

「戦うのは構わない。
 けれど、果たしてそれは命を奪うことと同義なの?
 命を奪うことが、優れた薔薇乙女《ローゼンメイデン》の証になり得るの?
 ナゼ、お父様はこのような宿命を私たちに?」

 次々と薔薇水晶が投げかける疑問。
 それらは皆、おそらくは真紅が抱いていた疑問なのだろう。
 その証拠に、真紅は顔を俯かせ、かすかに拳を震わせている。

「かわいそうな真紅。
 殺さずに済むなら、その方がいいと思っているのね。
 ……それが叶わぬ望みだと、本当は諦めているのに」

「……っ!
 貴女に、そんなことを言われるような……!!」

「でも、私は貴女の望みを叶えましょう」

 ついに真紅の感情の糸が切れた……が、それすらも予測していたかのように、薔薇水晶が言葉を遮る。
 相変わらず抑揚のない声だったが、今の真紅には大声よりもよく響いたに違いない。

「……なんですって?」

「もう誰も、貴女が究極の少女に至る過程で、傷つかない為に。
 真紅……私が、貴女を導いていく」

 そう言うと、今までずっと差し出していた手を、改めて前へ出す。

「さあ、この手を……」

 真紅は、薔薇水晶に向けていた視線を、次第に下に落としていく。
 その心中は、俺には察することは出来ない。

 そして、次の瞬間、俺の耳に聞こえてきたのは――。


「耳を貸す必要はあるまい、真紅」

 聞こえてきたのは、俺にとって非常に聞き覚えのある――が、決して聞きたかったわけじゃない声。
 なんだよアイツ居たのかよ。

「――――!?」

 突如響いたその声に、薔薇水晶が弾かれたように視線を空へ向ける。
 同時に聞こえてくる空を裂く風切り音。
 左右から交差する軌道で、二本の剣が薔薇水晶に迫る!

「くっ!!」

 慌てて地面を蹴る薔薇水晶。
 一瞬前まで立っていた場所を黒い刃が、続いて白い刃が薙ぎ払う。
 ……夫婦剣・干将莫耶。
 俺も良く知っている、二本一対のその剣は、そのまま交差すると大きく旋回し、再び吸い寄せられるように一箇所に帰っていく。
 そして、その帰っていく先に立っているのは……。

「ほう、避けたか……まあ、声をかけてから投げたのだから、当然か」

 二本の剣をなんなく受け止めながら、アーチャーは何の気負いもなく庭園に現れた。
 ……そこら一面薔薇の花だというのに、場違いにならないってのは、男として、そして俺の将来としてどうなんだそこんとこ。

「あなた……」

「アーチャー!」

 同時に声を上げる薔薇水晶と真紅。
 アーチャーはチラリと薔薇水晶に視線を向けるも、すぐに興味を失くしたかのように、真紅のほうに向き直る。
 そして、いかにもやれやれ、という仕草で頭を振って見せる。

「真紅。
 あんな言葉の誘惑に動揺するなんて君らしくないな。
 『人間などよりずっと高貴な存在』の自称が泣くぞ?
 まあ、君のすまし顔以外の表情が見られたのは僥倖だったが」

「あ、貴方、見ていたの?」

 真紅の顔が驚きと羞恥に染まる。
 対してアーチャーは涼しい顔で、そうそうその顔だ、と満足そうに頷いた。

「なに、姉妹水入らずの語り合いに水を差すのも悪いと思ったのだがな。
 マスターがあんな甘言に容易く心動かされそうになっていたので、思わず身体が動いてしまった。
 いや、我ながら行き過ぎた忠義心だ」

「む……」

 白々しいことこの上ないが、真紅は睨みつけるだけで、何も言い返せない。

「士郎……あれが真紅のミーディアムね?」

 その光景を見て、今まで静観していた水銀燈が、チラリと俺に視線を向ける。

「ああ。疑ってたわけじゃないが、あいつの話は本当だったってことだ」

「ふぅん」

 水銀燈は、初めて目にしたアーチャーに対して――


「……なんかあの男、士郎に似てなぁい?」

「は?」

 水銀燈の言葉は、俺にとっては意外で、予想外で、そして心外だった。

「……なんでさ。
 俺はあんなにキザじゃないし、捻くれてもいない。
 高いところが好きでもないし釣りで大人気なくなったりもしないぞ。
 一体どこが似ているって言うんだ?」

 まったくもって不本意だ。
 アイツはあくまで俺が将来的になりえる可能性の一つであって、確定した俺の未来予想図2ではない。
 しかし、水銀燈は俺の抗議を受け入れてはくれなかった。

「だって、士郎もあの男も、同じ武器を使ってるじゃない」

「ぐっ……」

 分かりやすい類似点を挙げられて、思わず言葉に詰まる俺。
 そ、そりゃまあ、アーチャーの使う干将莫耶は俺にとっても使いやすいのは道理なわけで、俺が愛用するようになるのも必然なんだけど。

「ぶ、武器ぐらいは似ていてもだっ。
 それ以外のところじゃ、俺とあいつとは絶対に相容れないぞ!」

「なに、ムキになっちゃって……逆に怪しいわぁ」

「怪しくなんかないっ!
 そんなこと言ったら、水銀燈だってあの真紅って奴にそっくりじゃ……」

「ふざけたことを言うのはこのお口かしらぁ?」

「ほ、ほほをふえうはっ!!(頬をつねるなっ!!)
 りふいんらぞ!?(理不尽だぞ!?)」

 速攻で水銀燈に顔面引っ張られる俺。
 ……あれ、でも、このリアクションから察するに、似ているってところは案外図星だったのか?
 って、今はそれどころじゃなかった!

「ほ、ほんなころおり、いははあっちおようふを……!(そ、そんなことより、今はあっちの様子を……!)」

「む……そうだったわね」

 なんとか俺の頬がオープンゲットする前に、引き伸ばす手を離してもらえた。
 そして再びいそいそとアーチャーたちの観察に戻る。
 でも水銀燈、よく俺の言いたい事がわかったなぁ……以心伝心って奴か?

「それで、真紅。
 まさか、まだ心が揺らいでいるなどというのではあるまいな?」

 向こうの三人の立ち位置は、先ほどと変わらず。
 しかしアーチャーに尋ねられた真紅の表情は、最初と同じ平然としたものに戻っていた。

「アーチャー、貴方に言われるまでもないのだわ。
 私が進む道ならば、私の手で拓かなければ意味がない。
 ましてや薔薇水晶の手によって、進む道になどは……」

「叶う望みなどあるはずがない、か。
 私のマスターはやはり賢明だな。
 出来れば私が手を出す前に、その結論を出して欲しかったが」

 いちいち茶々を入れるアーチャーに、わずかにムッとする真紅。

「……そういう訳だから、薔薇水晶。
 私は自分の意思と力に拠って、壊し合う以外の方法でアリスゲームを制してみせる。
 貴女が何を考えていようと、それは変わらないのだわ」

 毅然とした拒絶。
 それに対して、薔薇水晶は……。


「無駄なこと……貴女はいつか必ず、私の手を取ることになる」

 そう、予言めいた言葉を言い放つと、薔薇水晶は大きく飛び退り、庭園の入り口……大きな石造りのアーチをくぐった。
 すると、唐突にアーチは鏡のように輝きだし、薔薇水晶の身体を光の中へと飲み込んでしまった。
 アーチの輝きが完全に消えるのを見届けてから、アーチャーは軽く息を吐いた。

「……逃げたか。
 あの様子では、今回もあちらのミーディアムの顔は拝めそうにないな」

 追っても無駄だ、と悟っているのだろう、アーチャーが一瞬で干将莫耶を消滅させる。
 その隣では、薔薇水晶が去ったことで、若干肩の力が抜けた真紅がアーチャーを見上げている。

「朝のお茶の時間が、とんだ騒ぎになってしまったのだわ。
 ……それにしても、アーチャー。
 一体いつから見ていたの?
 私がnのフィールドに入ったとき、貴方は確かに居なかったわよね?」

「ん? なに、実世界とは異なる世界へ埋没する手段があったのでね。
 館の異変を察知してからすぐにそれを行い、そこから君とのパスラインを頼りにこちらへ侵入してきただけのことだ」

 こともなげに、あっさりと言ってのけるアーチャー。
 だが、その言葉を聞いた真紅は引っ掛かりを覚えたらしく、怪訝そうに眉をひそめた。

「世界に埋没する手段……?
 アーチャー、それは一体……」

「ふむ、話すのは別に構わんが。
 だが、その話はまた別の機会にしたらどうだ?」

 言いながら、アーチャーは首を巡らせてこちらを――俺たちのほうへ視線を寄越した。

「一人目の客は帰ったが……次の来客の応対をしなければならんからな」

 げ……。
 アーチャーめ、俺たちがここで見ていることにとっくに気がついて居やがったのか。
 まあ、アーチャーの鷹の目を持ってすれば、誰かが隠れていることなんてお見通しなんだろうが。
 そのアーチャーの視線に導かれるようにして、真紅もこちらを振り向き……俺と水銀燈の姿を認めて、目を大きく見開かせた。

「……貴女は!」

 ついに見つかってしまった。
 どうするんだ、水銀燈……と尋ねるよりも早く、水銀燈は愉しげに笑いながら、柵の上からふわりと飛び降りた。
 一体なにを?
 まさか、いきなり戦うつもりか?

「……うふふ。
 見つかっちゃった、見つかっちゃったぁ」

 音もなく、土の上に降り立つ。
 そして、何一つ悪びれることもなく、まっすぐに真紅を見据えた。

「お久しぶりね、真紅。
 こうして会うのは、何万時間ぶりかしら」

「水銀燈っ!?
 貴女、いつから其処に!?」

「ずぅっと見てたわよぉ?
 貴女があのドール……薔薇水晶だっけ? あの子と話してる間、ずぅっと。
 ……なのに全然気がつかないなんて、ホントに真紅ったらお馬鹿さぁん」

 くすくすと、心から相手を侮蔑するための笑い声。

「遠くからでも、貴女の不細工な顔はよぉく見えたわ。
 本当は、いつでもその顔を吹き飛ばしてあげられたんだけど……面白そうだったから、見物させてもらったわぁ」

 ……口ではああいっているが、水銀燈からは本気の殺意は感じられなかった。
 おそらく、アレは本当に真紅をからかっているだけなのだろう。
 ……そう、この時までは。

「でも、てっきり二人で戦い合うんだと思って見てたのに、なぁにアレ?
 アリスゲームを変える?
 殺さないならその方がいい?
 くだらないわぁ、とうとう頭の中身まで錆付いちゃったのかしら、真紅ぅ?」

 そのとき、じっと水銀燈の言葉を聞いていた真紅が、ようやく口を開いた。

「……私はいたって正常よ、水銀燈。
 誰だって傷つきたくはないし、相手を傷つけることも望まない。
 だから……くだらないと思うなら、それは貴女が――」


「それは貴女が一人ぼっちだから」

「一人ぼっち……?」

 予期せぬ指摘に、眉をひそめる水銀燈。
 そして、あれほど罵倒されたと言うのに、真紅の瞳には水銀燈に対する怒りは感じられない。

「他人と触れ合う事がなければ、傷つけあうこともないのだわ。
 痛みを理解しようとしない貴女は、だからずっと一人ぼっちなのよ」

「ふん、何を言い出すのかと思えば……くだらなぁい。
 私は貴女なんかとは違って、他の誰かの助けなんか借りなくても戦えるもの。
 他人と触れ合うなんて、必要ないじゃなぁい」

「誰の力も借りず、自分一人の力で生きる。
 ……それが本当に、お父様の望みだと?」

「当然よぉ。
 私たちは、そのお父様の願いを叶えるために、今までの時間を過ごしてきたのだから」

 鼻で笑い飛ばす水銀燈。
 すい、と人差し指を真紅に突きつけ、見下した目で更に言い募る。

「そもそも、究極の少女、アリスに至る事が出来るドールはたった一人。
 なら、薔薇乙女《ローゼンメイデン》たるもの、一人で戦い、勝ち残るべきなのよぉ。
 それが出来ない貴女は、やっぱり三流ってことよねぇ……みっともなぁい」

「そう?
 ならば……あなたの後ろに立っている人間は一体なんなのかしら?」

「え……?」

 弾かれたように、後ろに立っている人間……つまり俺に目を向ける水銀燈。

「確かに貴女の言う通り、究極の少女アリスはたった一人しか選ばれない特別な存在なのだわ。
 でも、私たちが孤独である事がお父様のご意思であるならば、なぜ私たちは、ミーディアムを必要とするの?

「……私は貴女とは違う。
 ミーディアム無しでも、貴方達、他のドールよりも優れているわ」

 再び真紅に向き直り、呻くように言葉を搾り出す水銀燈。
 だが、そこにはさっきまでの高圧的な勢いは無い。
 そんな水銀燈を、さらに問い詰めていく真紅。

「では、なぜ契約したの?
 アリスゲームにミーディアムが必要ないなら、契約したのはアリスゲームとは関係ない、別の理由があったということよね?」

「り……理由なんか、無いわ。
 士郎と契約したのは、ほんの気まぐれよぉ。
 残念ねぇ真紅、貴女の言ってること、てんで見当違い。ほんと、くだらなぁい」

「人工精霊がミーディアムに相応しい人間を選定する理由を、考えた事がないの?
 契約したことは気まぐれだったとしても、出会ったことには意味があるのよ。
 ……私がこの時代で、アーチャーと出会ったように」

 一瞬、真紅の目がアーチャーに向けられる。
 だがアーチャーは、まるでその視線に気付いていないかのように――気付いていないはずが無いのだが――何も答えず、動じない。

「他人と触れ合い、痛みを知るというのはそういうこと。
 それが分からないようでは……究極の少女とは言えないのだわ」

「っ……いちいち屁理屈を……!!」

 真紅の言い聞かせるような言葉に、反発して苛立つ水銀燈。

 俺は――。


 真紅の言うとおり、ドールが孤独だというのは間違いだと思う。
 そう考えた俺は、今にも攻撃を仕掛けそうな水銀燈を思いとどまらせることにした。

「もうやめよう、水銀燈。
 今日は戦いに来たんじゃなかっただろ?
 これ以上は、言い争いだけじゃすまなくなる」

「なによ、黙ってなさい士郎!
 真紅なんかに見下されたまま、黙っていられるほど、私はお人好しじゃあないのよ!」

 水銀燈は、興奮で周りが見えていない。
 俺は、なるべく刺激しないように、水銀燈に語りかける。

「そういう問題じゃないだろ。
 先に喧嘩を売った側が、まず謝るのが筋ってもんだ。
 なら、先に言い出した水銀燈が、手を引くべきだろう?」

 ちらりと、真紅のほうを見る。
 真紅は俺が水銀燈を止めるのを、感心したような目で見ていた。

「ふうん、人間にしては利口な方のようね。
 ……貴方、名前は?」

「ああ、名乗ってなかったっけ。
 俺の名前は衛宮士郎。
 水銀燈の……その、一応ミーディアムをやってる」

 尋ねられた名を、馬鹿正直に答える。
 それが、俺と真紅が最初に交わした会話だった。

「そう。
 私の名は真紅、誇り高き薔薇乙女《ローゼンメイデン》の第5ドール。
 水銀燈とは敵同士だけど……貴方とは仲良く出来そうね、士郎」

「あ……そ、そうか?」

 名乗り返す真紅は、ほんの少しだけ微笑んで見せた。
 俺はそれを見て……不覚にも、ドキリとしてしまった。

「なに馴れ合ってるの、士郎!
 貴方も真紅の肩を持つつもり!?」

 しかしそれも束の間。
 水銀燈が間に割って入り、俺の顔を睨みつけてくる。

「な、馴れ合ってるわけじゃないぞ!
 それに、どっちの肩を持つとか、何でそんな話になるんだよ!?
 俺は水銀燈のミーディアムだぞ?」

「ふん、どうかしら?
 戦うのが嫌いな臆病者同士、意外と気が合うんじゃないのぉ?」

「そりゃあ……戦わないなら、それに越したことは無いと思うけどさ」

 確かにその点に関しては、真紅の言うことには賛成だった。
 俺がそう答えると、水銀燈は軽蔑するように頭を振った。

「ほら見なさい。
 雛苺のマスターの時もそうだったけど、ホント、女には節操がないのねぇ。
 しかも揃いも揃って不細工ばっかり。みっともなぁい」

 その言い草に、正直ムッとした。
 俺のことはともかく、氷室のことを悪く言われるのは、不愉快だ。

「今話してるのは、これ以上お前が無意味な戦いをしようとするのをやめてくれってことだろう。
 関係の無い氷室のことは、持ち出さないでくれ」

「無意味な戦いですってぇ?
 アリスゲームは私たちの生きる目的、生きる理由なのよ。
 それを貴方は、侮辱するつもりなの?」

「違う、そうじゃない。
 俺はただ、真紅の言い分にも一理あると思って……!」

「じゃあ士郎は、水銀燈が間違ってるって言いたいわけ!?
 ふざけるのもいい加減にしなさい!!」

 話が噛み合わない。
 人の話を聞かない水銀燈に、俺もだんだんとイライラしてくる。

「ああもう、だから、そうじゃないって!
 なんでそうなるんだ!?
 考えが極端すぎるぞ、水銀燈は!」
「じゃあ、何なのよ!?
 言いたい事があるなら、はっきり言ってごらんなさい!」

「ああ、じゃあ言わせて貰うけどな!
 『アリス』を目指すのに、なんで姉妹で戦い合うなんて馬鹿な真似をしたがるんだ、水銀燈は!!」

「なんですってぇ……!?」

 それは、今さっき思いついたことではなく、もっと前から……水銀燈に、アリスゲームについて教えてもらったときから、ずっと頭の片隅に引っかかっていたこと。
 それを、感情が高ぶるままに、水銀燈にぶちまけた。

「お前が一人で戦えるって言うなら、俺は手出ししない。
 ああ、『アリス』になるって言うなら、それもいいだろうさ。
 でもな!
 自分の姉妹を切り捨てて、一人だけ高みを目指して、それで究極の少女になれると思ったら大間違いだぞ!!
 目的のために手段を選ばないような奴は、いずれ自分の目的にすら裏切られるんだ!!」

 それは、例えば。
 憧れた夢を追い続けて、最後には、夢にすら裏切られた男のように。

 ふと、背後から視線を感じた。
 気になって振り返ると、そこには、我関せずと沈黙を守っているアーチャーが居た。

 ――フン、まるで自分が経験してきたかのように語るじゃないか、衛宮士郎。
 だが、それ以上は止めておけ。
 お前にも、そして私にも、それ以上のことを言う資格はないのだからな。

 アーチャーは無言のまま、俺にそう語りかけているようだった。
 その視線を感じた俺は、頭に上った血が徐々に収まっていくのを感じた。
 ……そうだな、アーチャー。
 今回ばかりは、お前の意見を尊重してやるよ。

 俺は、一回大きく深呼吸をして、再度水銀燈に語りかける。

「……なぁ、水銀燈。
 さっきお前は、一人で戦って、一人で勝ち残るって言ってたけどさ。
 もっと、他の方法はないのかな?
 そんなんじゃ、いつか、壊れちまうぞ?」

 ……あとになってから考えれば。
 あるいはその一言が、決定的なトドメだったのか。

「………………………………さい……」

 ぽつり。
 水銀燈の口から、低く、暗いナニカが微かにこぼれた。
 こぼれたナニカは、徐々に徐々に増えていき、そして……臨界を越えた。

「……さい……るさい……うるさい、うるさいうるさい五月蝿い!!
 私は壊れない、壊れてなんか無いっ!!」

 瞬間、最大限まで展開される黒い翼。
 呆気に取られていた俺を、漆黒の奔流が襲う!

「がっ……!?」

 抗うことも出来ず、俺の身体は黒羽の嵐の中に飲み込まれる!
 腕、脚、胴、首、指、頭……その全てが拘束される。
 身動き一つ取れなくなった俺をキッ、と睨みつける水銀燈。
 その目に宿っているのは、明確な……殺意!?

「私は完璧なドールよ……!
 お父様は言ってくれた!
 私にも『アリス』になる資格があると!
 だから私は『アリス』にならなきゃいけないの!!
 そのためには、他の子たちが邪魔なのよ!!
 馴れ合いなんて、冗談じゃないわ!!」

 自分の肩を抱き、自分に言い聞かせるように、絶叫する水銀燈。
 これは……殺意だけじゃない。
 ほんのわずか、混じっているのは……怯え、なのか?

「ばっ……バカを言うなっ……!
 自分の娘に殺し合いを命じる父親を、どうしてそこまで信じられるんだっ……!」

 かろうじて動かせる口で、なんとか言葉を紡ぐ。
 自分の身体のことよりも、今は水銀燈の心のほうが心配だった。
 だが、水銀燈はかぶりを振って俺を拒絶する。

「うるさいって言ったでしょう……!
 下僕のくせに、どこまで私に楯突くつもりぃ!?
 その首を切り落とされたいの!?」

 身体を拘束が、更にきつくなる!
 首が絞まって、息が出来ない……!
 こ、このままじゃ……!?


 吹き荒れる黒羽の嵐は、ますますその勢いを増していく。
 まるで、水銀燈の怒りを反映しているようだ。
 このままじゃ、死ぬ、か……?

「すい、ぎんとう……っ!!」

 必死に呼びかけてみても、拘束は一向に緩む気配は無い。
 やっぱり、水銀燈は、本気で俺を殺しにかかっている……!

「士郎、貴方のいい子ぶった考え方には、もううんざりなのよ……!
 私を侮辱した罪、そしてお父様の意思を侮辱した罪!!
 今ここで、死んで償いなさぁい!!」

「は、ぐあ……っ!」

 憎悪の篭った瞳で、俺を睨みつける水銀燈。
 全身を締め付けられた俺は、もはや声を出すことすら禁じられた。

(く、空気が、足りない……!!)

 酸素の不足した脳が悲鳴をあげている。
 死ぬ。
 冗談でも誇張でもなく、俺はこの場で水銀燈に殺される。

(俺は……死ぬ?)

 意外なことに、俺はひたひたと近寄ってくる死を、冷静に受け入れていた。
 窒息寸前の頭では、死に対する恐怖が麻痺してしまったのだろうか?
 その代わりに、俺が考えていたのは、目の前に居る小さな少女のことだった。

(……水銀燈……)

 自分を殺そうとしている相手の心配をするなんて、とことん俺は馬鹿だ。
 でも、仕方ない。
 俺は衛宮士郎だからな、歪なことにかけては筋金入りだ。
 何しろ死ぬまで治らなかったんだもんな、アーチャー。
 ……あぁ、そういえば、あの時アーチャーに言われた事があったっけ。

(俺が戦うのは、他の誰かじゃない……本当に戦うべきなのは)

 そうだ、せめて、あの言葉を水銀燈に……。

「う、が……」

 ガツン、と、頭の中で激鉄を起こす。
 輪転し始める魔力回路。
 かき集めた魔力を、全て俺の喉の防護に使う。
 魔術とはとても呼べない、ただの魔力の寄せ集め。
 こんなんじゃ、ただの一時しのぎにしかならないのはわかってる。
 でも、最後に、あれだけは言わないと。
 そのために、少しだけでいい、俺に時間を与えてくれ……!

「す、い、ぎ、ん、と、う」

「……っ!
 まだ、戯言を言うつもり!?」

 水銀燈の翼が一際大きく羽ばたくと、それに反応して俺の身体を縛る羽根も力を増す。
 喉の魔力が急激に消耗していく。
 だが、まだだ。

「ほん、とうに……かた、な、きゃ、いけない、のは……っ」

「くっ、見苦しいわよ……とっとと逝きなさい!」

 更に引き絞られる。
 喉を守る魔力が、一気に尽きた。
 再び黒い羽根が俺の首を締め付ける。
 あと一言でいい。
 肺の空気を搾りつくして、気管を全てねじ切って、舌がカラカラに枯れても構わない。
 言え。
 言うんだ。
 あと、一言――!!

「じぶん……じしん……なん…………」

 それが限界だった。
 全身の力が抜けていく。
 もう俺は、声を出すことも出来ない。
 これで、終わりか。
 なんだか、凄く些細なことに、最後の力を使ってしまった気がするが……まあ、満足だ。

 ……でも、水銀燈。
 俺を殺して、姉妹を殺して、誰も居ない自分だけの世界の果てで。
 お前は、自分が一番優れていると、満足して笑えるのか?
 今まで歩いてきた道が、間違いなんかじゃなかったって、胸を張って言えるのか?

 それだけが……俺は……心配だよ…………。



 俺の意識は、そこで途絶えた。



 ……気がついた時、俺はベッドの上にいた。

「…………?」

 なぜ、自分がこうして寝ているのか理解できない。
 確かに俺は、水銀燈の怒りを買って、殺されたはず……。

「水銀燈……」

 声に出して、その名前を呟いてみる。
 今こうして俺が生きているってことは、水銀燈はあの後、俺に止めを刺さなかったということだ。
 俺のことを赦してくれた……?
 いや、あの水銀燈の怒りから考えて、そんなことは有り得ないだろう。
 じゃあ、一体何故……?

「目が覚めたか」

「っ!?
 アーチャー!?」

 不意に声をかけられ、思わずそちらに目をやると、そこには開かれたドアの前に立つアーチャーの姿があった。

「アーチャー……そうか、あの場にはお前たちもいたんだったな」

 アーチャーがいるということは、ここはもしかして、遠坂の館か?
 寝た姿勢のまま、首を周囲に巡らせる。
 そこには椅子、机、箪笥……見覚えのある格調高い家具が揃っていた。
 どうやらここは確かに、遠坂の館らしい。
 俺は、改めてアーチャーに視線を戻す。

「……ってことは、俺を助けてくれたのはお前……な、わけないよな」

「分かっているなら一々聞くな。
 私がお前を殺すならともかく、その逆の行為を率先してやったりするものか」

 俺が途中まで口にしかけた推理を否定すると、アーチャーは当然とでも言いたげに肩をすくめて見せた。
 くっ、やっぱりこいつとは絶対そりが合わない。

「……そりゃどうも。
 じゃ、俺がここで寝てるのは、やっぱり真紅の方の意向なんだな?」

「そういうことだ。
 それより、目が覚めたのならさっさとベッドから降りろ。
 元々そのベッドは、お前を寝かせるためにセットしたわけじゃないからな」

「げ、これベッドメイクしたの、お前かよ……」

 途端にイメージが悪くなったぞ。
 俺だって、アーチャーのセットしたベッドに、いつまでも寝ていたくは無い。
 そう考えて、ベッドの横に降り立とうとした瞬間。

「いぎっ……!?」

 身体の節々に、一斉に鈍痛が走った。
 思わず、バランスを崩して床に突っ伏しそうになりかける。

「な、なんだこりゃ?」

 体中が、ジンジン痺れるような痛みを訴えている。
 そんな俺の姿を見て、アーチャーめ、軽く笑いやがった。

「ふん。
 ま、あれだけ強力に拘束されていれば、そうなるのも当然だが……無様な姿だな、衛宮士郎」

 そこのハウスキーパー、うるさい。
 しかしそうか、この痛みは水銀燈の羽根に縛られてたせいか……。
 まあ、痛みを覚悟していれば、耐えられないほどじゃないだろう。
 気合を入れなおして、今度はしっかりと立ち上がる。

「ふう……。
 それでアーチャー、水銀燈は?」

 これこそ、俺にとっての本題だ。
 しかし、アーチャーは俺の問いには答えなかった。

「……そのことについて、真紅がお前と話がしたいらしい。
 下の階の居間でお前を待っている……ついて来い」

 そう言うとアーチャーは、俺に一瞥もくれずに部屋から出て行こうとする。
 慌てて俺も、節々の痛みを堪えながら、小走りに付いていく。

「おい、待てよアーチャー。
 水銀燈は? どこにいるんだ?」

「………………」

 アーチャーは無言で先を歩く。
 階段にさしかかると、変わらぬ歩調でそれを下りていく。
 その態度に、自然と腹が立った。
 思わず、階段の上から怒鳴りつけてしまった。

「おい、お前なら知ってるだろ!
 水銀燈はどうしたんだって聞いてるんだ!」

「ここには居ない」

 簡潔に。
 アーチャーはいともあっさりと、俺の問いかけを切って捨てた。

「え……どういう、ことだ?」

「分からんか。
 ならばはっきり言おう」

 階段を下りきったところで、アーチャーは足を止めた。
 一階のフロアから、階段の上に立つ俺を見上げる。
 そして、言った。

「あのドールは、お前を見限ったのだ」

「……………………」

 じわじわと。
 大地が水を吸収するように、その言葉は、俺の真っ白になった頭にゆっくりと浸透して言った。
 そして、それはどろりとした焼け付く塊となって、俺の胸の中に重くのしかかった。
 水銀燈が、俺を、見限った。

「…………そっ、か」

 呻くように呟く。
 だが、頭の片隅では、ああ、やっぱりな、と、どこか納得もしていた。
 あれだけの仲違いをしてしまったのだ、殺されなかったにせよ、見限られるくらいは当然だ。
 俯き、手すりをぎゅっと握り締める。

 その時、ドアが開く音が聞こえた。
 見れば、居間に通じる扉が開き、その中から一人の少女が姿を現していた。

「真紅」

 赤いドレスに身を包んだ薔薇乙女《ローゼンメイデン》……真紅は、俺の姿を認めると、小さく一つ頷いてみせた。

「目が覚めたようね。
 丁度、これからお茶の時間にするところなの。
 せっかくだから、ご一緒して欲しいのだけど?」

「え? あ、いや、でも、今は……」

「どんな時でも落ち着いた振る舞いをするのが、レディのたしなみよ。
 それは紳士でも同じこと。
 ……アーチャー」

 俺に否を言わせないまま、真紅は近くに立っていたアーチャーにこう言った。

「紅茶を淹れて頂戴」


「了解した。この小僧のために淹れてやるのは遺憾だがね」

 アーチャーはそう言うと、即座に霊体化して消えた。
 恐らく、そのまま台所に向かったんだろう。

「あ、ちょっと待てよ、俺はまだ飲むとは一言も……!」

「士郎」

 俺は思わずアーチャーに文句を言いかけたが、真紅の言葉がそれを遮った。

「あせっても水銀燈は帰ってこないわ。
 今の貴方に必要なのは、身体と心を落ち着けることよ。
 アーチャーの紅茶の腕前は、私が保証するわ。
 彼の事が嫌いなようだけど、だからと言って彼の淹れた紅茶まで嫌うのはお門違いよ。
 いいわね?」

「あ……ああ、わかったよ」

 本当はまだ少し、納得してはいなかったのだが、真紅に強く念を押されたので、思わず頷いてしまった。

「そう。いい子ね、士郎」

「いっ、いい子?」

 いい子って……藤ねえ以外の人にそんな風に言われるとは。
 しかも、人形であることを差し引いても、真紅はどう見ても俺より幼い少女だぞ。

「では、居間でアーチャーを待ちましょう。
 こっちよ」

 そう言って手招きする真紅に、俺は大人しく付いていった。
 そのまま、遠坂邸の居間に足を踏み入れる……って、勝手知ったる他人の家なんだけど。
 真紅はまっすぐに、部屋に置かれた椅子に向かった。
 そして、小さい身体で器用に座席に上り、きちんと席に着いた。

「士郎も座りなさい。
 ……紅茶がやってくるまで、少し話し相手になって欲しいのだわ」

「あ、ああ、わかった」

 真紅に勧められて、俺も椅子に腰掛ける。
 俺と真紅は、丁度、テーブルを挟んで対面に座る格好になった。
 しかし、話と言っても、なにから話せばいいものか……。
 俺が話しあぐねていると、真紅のほうから話を切り出してきた。

「……まずは、謝らなければならないわね。
 私はあの時、士郎が水銀燈に殺されそうになっていたのに、それをすぐに止めようとしなかった。
 その結果、貴方をとても危険な状態においこんでしまった……」

 真紅はそこで言葉を切ると、俺に向かって深々と頭を下げた。

「……ごめんなさい。
 私が、もっと早く、水銀燈を止めるべきだったのだわ」

 それは恐らく、心からの謝罪。
 しかし、そんなことされても困るのは俺のほうだ。

「や、やめてくれ真紅。
 結局助けてくれたことには変わりないんだから、こっちが感謝することはあっても、そっちから感謝される筋合いはないぞ」

「しかし……」

「いいから、頭を上げてくれ。
 この件に関しては、真紅が謝ることなんか何も無い」

「……わかったわ。
 貴方、意外と頑固な人間ね」

 ようやく真紅が折れてくれた。
 頭を上げると、再び椅子に座りなおす。

「…………」

「…………」

 ……会話が途切れる。
 部屋に備え付けられた、柱時計の刻む振り子の音だけが聞こえてくる。
 このまま黙っていても仕方ないので、俺は思い切って、今一番気になっていることを聞いてみることにした。

「えっと、それで、水銀燈はあの後、一体どうなったんだ?」

 すると真紅は、辛そうに目を伏せた。
 まるで自分自身が傷つけられたみたいな表情だ。
 そして、ぽつりぽつりと、俺が意識を失った後のことを話し始めた。


「実を言えば、私は、水銀燈が自分から束縛を解くのを期待していたの……。
 ギリギリまで士郎を助けなかったのも、それが理由。
 でも、あの子は最後まで、士郎を殺すのを止めようとはしなかったのだわ」

 そう言って、真紅はぎゅっと拳を握り締めた。

「あの時、士郎の最後の言葉を聞いた後、水銀燈は一瞬力を緩めたわ。
 私はその隙を突いて、力を使って、士郎を縛る羽根を払い飛ばしたのだわ」

 ……そう言われてみれば……確かに最後の瞬間、身体が軽くなったような気がした。
 てっきり、俺が死んだから楽になったんだと思ってたけど……あれは幻覚じゃなかったのか。

「水銀燈はとても怒ったわ。
 どこまでも邪魔をするつもりか、って。
 私は、士郎を殺したら水銀燈は絶対に後悔する、と言ったのだけど……あの子の心には届かなかったみたい」

 真紅は……最後まで、水銀燈のことを心配してくれていたのか。
 そう思うと、俺の胸は少し、熱くなった。

「結局、水銀燈は……士郎なんか自分とはもうなんの関係も無い、って……。
 そのまま、nのフィールドから出て行ってしまったのだわ」


 語り終えた真紅は、沈痛な面持ちをしている。
 恐らく、水銀燈が他人を完全に拒絶してしまったことを悲しんでいるのだろう。

 ……だが、俺はそうは思わなかった。
 もし、水銀燈が本当に他人を拒絶しているのなら。
 今の真紅の話の中で、明らかに『ムジュン』している箇所があったからだ。
 その『ムジュン』が実際に起こったことならば、まだ希望は残っているかもしれない。

 その、『ムジュン』とは……。



 真紅は、水銀燈が最後まで俺を殺そうとしていたと言った。
 だが、そうするとおかしな事がある。
 そう、それは……。

「待った、真紅。
 でも、水銀燈は、最後は力を緩めたんだろ?
 これは俺の自惚れかも知れないけどさ、それってつまり、俺を殺すことを一瞬だけでも躊躇ったってことじゃないか?」

「……あ……そう言われれば、確かに……!」

 俺の指摘に、真紅は初めてその事実に気がついたらしい。
 そして、その真紅のリアクションで、俺は自分の推理に自信が持てた。

「そっか。
 だったら、俺が死ぬ気で伝えた言葉も、あながち骨折り損じゃなかったんだな」

 あの時、俺は死を覚悟した。
 死ぬことは恐ろしかったが、それ以上に嫌だったのが、水銀燈が誰かを殺してしまうことだった。
 だから、俺の言葉で水銀燈が一瞬でも躊躇ってくれたというのなら、それだけで命を懸けた甲斐があった……そんな気がした。

「ん?
 どうしたんだ、真紅」

 ふと気がつくと、真紅が俺のことをじっと見つめている。
 なんだか、息子を見つめる母親のような、そんな目だ。

「……水銀燈は……幸せね」

 唐突で脈略がない真紅の言葉に、俺は首をかしげた。

「幸せ?
 なんでさ?」

「だって、こんなに自分を思ってくれる人が居るんですもの。
 それは、とても幸せなことなのだわ。
 でも……あの子は、それに応える事が出来ない」

 真紅の表情が、一転して悼む者のそれになった。

「あの子は強く在ろうとしすぎたのだわ。
 独りで居ることに慣れすぎて、それが当たり前になってしまっている。
 ……本当は、それがとても寂しいことだと気付かずに」

「………………」

 俺は、真紅の言葉を聞きながら、自分の薬指をじっと見つめていた。
 そこには、変わらずに咲き誇る、金属の薔薇があった。
 水銀燈は、俺の元を去ったが……俺との契約は、まだ続いている。
 この指輪が、その証拠だ。

「待たせたな。
 ふむ……どうやら二人とも、話に花が咲いていたらしいな」

 その場の空気を払拭するかのように、台所からアーチャーがやってきた。

「アーチャー。
 まるで私たちの話が一段落するまで、待っていたみたいなタイミングね?」

 全くだ。
 真紅の言うとおり、この男のことだから、その辺で出るタイミングを窺っていたに違いない。
 だが、アーチャーは表情一つ変えずに、いけしゃあしゃあと言ってのけた。

「いや、私は良い紅茶を淹れるために必要な時間をかけていただけだ。
 もしタイミングが良かったと言うのなら、それは逆に……相談事というのは、紅茶を淹れるくらいの時間で片付けるのが一番だ、ということではないかね?」

 屁理屈だ。
 俺は脊髄反射でそう結論付けたが、真紅はなぜか感心したように頷いている。
 ……なんでさ。

「……なるほど、一理あるわね。
 じゃあアーチャー、その苦心して淹れたという紅茶を、楽しませて頂戴」

「ふ、心得た」

 アーチャーは手際よく、トレイの中からティーセットを並べていく。
 並べたティーセットは3つ……あのヤロウ、ちゃっかり自分も飲む気でいやがる。
 アーチャーは3つのカップに、順番に紅茶を注いでいった。
 一番最初のカップは真紅に。
 そして……。

「ほら、お前の分だ」

 そう言って、俺の前にも紅茶の入ったティーカップが置かれた。

「……サンキュ」

 自分でも愛想悪いと思うくらいの態度で礼を言ってやる。
 アーチャーはそれを気にするそぶりすら見せずに、自分の分の紅茶を淹れ始めている。

 アーチャーが淹れた紅茶に、ミルクポットを傾ける。
 ミルクと紅茶が混じりあって、カップの中は白く濁った。
 俺は、ティースプーンでそれをかき混ぜながら、居なくなってしまった自分のドールのことを思った。

(……水銀燈)

 お前はきっと、純粋だから、カップの中が濁る事が赦せないんだろうな。
 でも、紅茶はミルクと触れ合うことで、口当たりが良くなるんだ。
 俺が言いたかったのは、そんな紅茶もおいしいんだって、たったそれだけの簡単なことなんだよ。

 ゆっくりカップに口をつける。
 まろやかなはずのその液体は、なぜかひどく苦く感じた。


『銀剣物語 第五話 了』

さーて、来週の銀剣物語はー?

 ごきげんよう、私は真紅。
 水銀燈が士郎と決別してから、一夜が明けたのだわ。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》の中でも特に気難しいあの子のことだから、今頃どこでなにをしていることやら……。
 でも、私はそんなに心配してはいないわ。
 だって、水銀燈のミーディアムである士郎が、きっとなんとかしてくれるから。
 ……あら、アーチャー、やきもちを焼いてるの?

 さて次回は、

「月のワルツ」
「夢であるように」
「どうしようもない僕に天使が降りてきた」

 の三本よ。
 来週もまた、見て頂戴。
 じゃん、けん、ぽんっ!

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最終更新:2007年05月21日 03:18