巻二百一十八 列伝第一百四十三

唐書巻二百一十八

列伝第一百四十三

沙陀


  沙陀は西突厥の別部であって処月の系統に属する。はじめ、突厥は東・西部に分かれていたが、烏孫の故地をすべおさめた結果、処月・処蜜と雑居していた。貞観七年(633)、太宗は鼓(軍中に用いるつづみ)と纛(将軍の営に立てる大旗)とをもたらして奚利邲咄陸可汗を擁立したところが、その一族の中の歩真が怨んで、その弟の弥射とともに、べつに独立しようと謀った。しかし弥射はおそれて処月などを率いて唐に帰付し、歩真も勢力が衰えたために唐に降った。なお残留するものにたいしては、咄陸は、射匱特勒(特勤)劫越の子の阿史那賀魯をもってその統治にあたらせた。

  西突厥の勢力はいよいよ強化したが、内戦がつづき、その大酋長の乙毘咄陸可汗は、牙帳を鏃曷山の西にたてて北廷と号した。そして処月などもまた、これに隷属した。処月は、金娑山の南、蒲類海の東にいたが、沙陀と名づけられた大砂漠があったので、これによって沙陀突厥と称したといわれる。

  咄陸が伊州に入寇し、二部(処月・処蜜)の兵を率いて天山を囲んだので、安西都護の郭孝恪は、撃ってこれを奔らせ、処月の俟斤の城をおとしいれた。のちに乙毘咄陸可汗が敗れて吐火羅に奔り、阿史那賀魯は来たり降ったので、詔をもって瑤池都督に拝せられ、その部衆は廷州の莫賀城にされた。処月の朱邪闕俟斤阿厥もまた、内属を請うた。

  永徽のはじめ(651)、阿史那賀魯が抜いた。朱邪孤注もまた、招慰使を殺し、賀魯と結び、兵をひきいて牢山に拠った。これがために射脾俟斤渉陀那速も唐に従わなくなったので、高宗は、阿史那賀魯の領土をかれに与えた。翌年(652)、弓月道総管の梁建方、契苾何力は、兵をひきいて朱邪孤注を斬り、九千人を俘虜とした。また翌年(653)、瑤池都督府を廃したが、これはすなわち処月の故地であった。ここに金満・沙陀の二州をおき、いずれも都督の支配下においた。阿史那賀魯がなくなって、安撫大使の阿史那弥射は、伊麗水に駐屯したが、処月が帰付したので、崑陵都護府をおいて咄陸可汗の部族を統べさせ、弥射を都護に任じた。

  竜湖のはじめ(661)、処月の酋長の沙陀金山が、武衛将軍の薛仁貴に従って鉄勒を討ったので、墨離軍討撃使に任ぜられた。さらに長安二年(702)には金満州都督に昇進せられ、累進して張郡公に封ぜられた。金山が死んで、その子の輔国が後をついだが、先天のはじめ(712)、吐蕃の圧力を避けて部族を北廷に従し、その部衆をひきいて入朝した。開元二年(714)、かれもまた金満州都督に任ぜられ、その母の鼠尼施は鄯国夫人に封ぜられた。輔国は累進して永寿郡王となってのちに死に、子の骨咄支があとをついだ。

  天宝のはじめ(742)、回紇が内付して、骨咄支は回紇副都護を兼ねさせられたが、粛宗に従って安禄山の乱を平定し、特進驍衛上将軍に拝せられた。かれが死んで、その子の尽忠が後をつぎ、累進して金吾衛大将軍・酒泉県公となった。至徳・宝応年間(756-763)に入ると、中国にはいろいろと事件が多かったために、北廷・西州からのルートがふさがってしまい、奏上のための使節はすべて回鶻の中を通過することになったが、回鶻人がさかんに誅求したために、もっともこれに苦しんだ。沙陀の中で北廷の近くにいたものといえども、なおその掠奪に苦しんだ。

  貞元年間(785-805)に、沙陀部族七千帳が吐蕃につき、ともに北廷を攻めてこれをおとしいれた。吐蕃はこの部族を甘州に徙し、尽忠を軍の大論に任じた。吐蕃が中国の辺境に入寇するときには、つねに沙陀を先鋒とした。

  しばらくのち、回鶻が涼州を占領したために、吐蕃では尽忠が二心を抱いているのではないかと疑い、沙陀を黄河の西にうつすように画策するにいたり、沙陀の部衆一同としては、憂えおそれるのみであった。尽忠が朱邪執宜にたいして謀を求めたところ、「われらは代々唐朝に仕えてきたのに、いまや不幸にも賊(吐蕃)の中におちいってしまった。いまもし蕭関に赴いて唐に帰付することができるならば、座して種族の滅亡を招くよりはましではないか」とこたえ、尽忠はこれに賛成した。元和三年(808)、部衆全員三万落をあげて、鳥徳鞬山に沿うて東へと向かった。吐蕃はこれを追撃し、沙陀族は行進しながら戦闘をつづけ、洮水に沿うて石門にすすみ、転戦してやまず、部衆はほぼ尽き、尽忠も戦死した。執宜は傷ついた戦士たちを収拾し、二千人・騎士七百と雑畜・駱駝千頭ばかりとをひきつれて霊州に辿りついた。節度使の范希朝より事の次第を奏上したところ、詔をもって塩州に居住せしめられることとなり、陰山府が設置されて、執宜の兵馬使に任ぜられた。沙陀はもともと勇敢であったから、希朝はこれを使って外民族の侵入を防がせようとして、沙陀のために牛・羊を買い入れ、大いに畜牧をさせて民力を休養せしめた。沙陀の老幼の人々で鳳翔・興元・太原のルートを経て帰付したものは、みなほんらいの所属部に帰属せしめられた。尽忠の弟の葛勒阿波は、残った部衆七百人をひきいて振武軍にいたって降付し、左武衛大将軍に任ぜられ、陰山府都督をかねさせられた。

  執宜は、長安に召されて、金幣・袍・馬万頭ばかりを賜わり、特進金吾衛将軍に任ぜられた。しかるに沙陀のことを問題にするものがいて、「霊武は吐蕃に接近しているから、沙陀がのちに吐蕃について離叛し事件をおこすおそれがあり、また、辺境の人口が増すと食糧の価格が騰貴する」と言った。しばらくして范希朝が太原に駐屯したので、これをきっかけに、詔して沙陀全軍をかれに従属せしめた。范希朝は、その中から精鋭千二百騎をぬき出して、沙陀軍と号して目付け役をおき、その余衆は定襄川においた。執宜は神武川の黄花堆にとどまって、さらに陰山北沙陀と号した。このとき、憲宗は鎮州を伐ち、執宜は軍士七百人をひきいて先鋒となったが、王承宗の兵数万が木刀溝において待ち伏せし、執宜の軍と激突し、矢の飛ぶさまは、まるで雨のふるようであった。執宜は、兵をひっさげ、敵陣を突破してこれを殲滅した。李光顔らはこれに乗じて首級一万をあげ、兵をひきいてすすんだ。蘭州刺史の王鍔は、太原の節度使に任ぜられ、献策して、「朱邪氏の部族はふえてさかんになり、北川に散居しているが、野心を抱くおそれがあるので、願わくはその部族を分かって諸州に隷属せしめられたい。さすれば、その勢力は分散して弱体化するであろう」と言った。そこでついに十府を設けて、沙陀を分散せしめた。元和八年(813)、回鶻が磧(ゴビ砂漠)をこえて南下し、西城・柳谷を占領したため、執宜に詔して、天徳軍にとどまらせた。翌年(814)、呉元済討伐にあたって、また執宜に詔して李光顔の部下に編入したが、かれは元済の軍を時曲に破って凌雲柵をおとしいれた。元済の乱が平らぐと、検校刑部尚書を授けられたが、いぜんとして李光顔の軍に所属した。長慶のはじめ(821-)、鎮州討伐にあたって、執宜は沙陀の兵を総動員し、易州・定州の軍とともに敵にあたり、深州において敵を破った。執宜は参内して宿衛として留められ、金吾衛将軍に拝せられた。太和年間(827-835)に柳公綽が河東節度使に任ぜられたさい、かれは奏上して、「陘北沙陀はもともと九姓回鶻ならびに六胡州にとって恐怖のまとであるから、請いねがわくば、執宜に委任して雲州・朔州の塞下の廃府十一ヵ所を修理させ、部下三千人をえらんで北辺防備にあたらせ、代北行営と名づけられんことを」と言った。かくして執宜は陰山府都督・代北行営招撫使に任ぜられて、河東節度使に所属せしめられた。

  執宜が死んで、子の赤心が後をついだ。開成四年(839)、回鶻が磧(ゴビ砂漠)の入口を突破して楡林の塞に迫った。回鶻の宰相の掘羅勿は、良馬三百匹を赤心におくって、ともに彰信可汗を攻めることを約した。かくして可汗は死んだ。節度使の劉沔は、沙陀の兵を動員して、殺胡山で回鶻を撃たせた。しばらくのちに潞州を伐って劉稹を誅したが、そのさい、赤心は、詔をうけて、代北の騎兵隊三千をひきい、石雄のもとでその先鋒となって、石会関を破り、王宰を助けて天井をこえ、太原の軍に合流して楡社にいたり、監軍使の呂義忠とともに揚弁をとらえた。かくして潞州は平定された。赤心は朔州刺史となり、さらに代北軍使となった。

  大中年間(847-860)のはじめ、吐蕃、党項(タングート)および回鶻の残衆と合流して河西に入寇した。太原の王宰は代北の諸軍をひきいて進み討ったが、沙陀は、つねに深く進撃すること諸軍のなかにあって最たるものがあった。赤心の向かうところ、敵兵はやぶれ去ったが、かれらは、「自分は、あの赤馬にうちまたがった将軍(朱邪赤心)の頭上に火の発したのを見た」と言って恐れた。はじめ沙陀は、吐蕃に隷属していて、老人をいやしみ壮年をたっとび、男女間の倫理の乱れることほぼ吐蕃と同じであったが、しかも馳射の技や勇敢なることは吐蕃よりもまさっていて、吐蕃はつねに沙陀の兵を前面におしたてて唐の辺境を劫掠した。沙陀が唐に帰服するにおよんで、吐蕃はために衰えた。宣宗はすでに三州(秦・原・安楽)および七関(石門・駅蔵・木峡・制勝・六盤・石峡・蕭の七関)を吐蕃より恢復したので、西方征伐の軍はことごとく撤収された。そこで赤心は、蔚州刺史・雲州守捉使に転ぜしめられた。

  龐勛の乱に際して、義成節度使の康承訓が行営招討使に任ぜられたが、赤心は、精鋭な騎兵三千をひきいて承訓の軍に従った。水をわたり、伏兵の中におちいって包囲され、ほとんどのものが戦歿したが、赤心は騎兵五百をひき出すのにようやく成功した。龐勛は、すみやかに勝敗を決しようとして、部下八万人をかりたて、刀剣をふるって攻めたてた。赤心は、強力な騎兵をひきいて突進し、官軍とともに夾撃して敵をうち破った。かれの弟の赤衷は、千騎をひきいて敵を亳州の東まで追撃した。龐勛の乱が平定されて、赤心は大同軍節度使に進められ、李氏の姓と国昌なる名とを賜わり、鄭王の籍をあたえられ、親仁里にりっぱな邸を賜わった。回鶻が楡林にいたり、霊州・塩州をさわがせたので、唐は国昌に詔して鄜延節度使に任じた。回鶻がまた天徳軍に入寇したので、振武軍節度使に転ぜられ、検校司徒に昇任せしめられた。王仙芝が荊州・襄州をおとしいれると、朝廷は諸州の兵を動員して討伐にあたらせたが、国昌は、劉遷をつかわし、雲中の精鋭な騎兵をもって賊をおいはらい、しばしば功をたてた。

  乾符三年(876)、段文楚が代北水陸発運・雲州防禦使となったが、この年は凶年であったのに、段文楚がその対策に要する費用を減らしたために、しもじものものはみなかれを怨んでいた。辺将の程懐信・王行審・蓋寓・李存璋・薛鉄山・康君立らのともがらは、相談した結果、「世はいまや多難であり、大丈夫たるものは、まさに身を谷に投ずるような危険をおかしてでも功をたてるべきである。段文楚は儒者であり、ともに大事を計りがたい。沙陀は勇猛で、振武の李国昌・克用父子は勇武絶倫であり、われわれがかれらを上に推戴するならば、応じて立たぬものとてはなく、代北の地は手に唾して定めることができよう。富貴を手中にとり収めるのはどうであろうか」という結論にたっし、全員がこれに賛成した。そこで夜、李国昌の子で雲中守捉使たる李克用に謁して、「今年は暮らしに困っており、官より給与される扶持米も削られてしまった。しかし、われわれは餓死するにしのびない。われわれの主家たる李氏の威徳は天下にあらわれきこえているが、あの情け容赦のない長官(段文楚)を誅して、みなのものを安んぜられんことをお願いする」と申し立てた。李克用はこの願いをうけいれ、戦士一万人を募って雲州におもむき、闘鶏台の城中にいたり、段文楚をとらえて惨殺した。将士らは、雲州にたてこもって事の次第を奏上し、李国昌もともどもに、李克用を大同防禦留後に任ぜられんことを請うた。この事件に関して諸道の兵を発して進捕することの許されなかったのは、諸道そのものがきわめて非協力的であったからである。そして、黄巣がまさに長江を渡って進撃せんとするにあたって、朝廷では李氏父子をとうてい抑えきれぬのをとって、これを赦しを大同軍防禦使に任じた。李国昌がこの命令を受諾しなかったために、河東節度使の崔彦昭と幽州節度使の張公素とにして、ともにかれを撃たしめたが、成果はあがらなかった。

  李国昌が党項と戦っていまだ勝敗の決しない際に、大同川にいた吐谷渾の赫連鐸が、振武をおそって、その財貨・武器をことごとく奪ったために、窮地におちいった李国昌は、五百騎をひきいて雲州に帰還したが、城内に入ることができず、雲州は逆に、赫連鐸に奪取せられた。李克用は蔚州・朔州の間を去来してわずかに兵士三千人をあつめて新城に陣し、赫連鐸は一万人の軍勢をひきいて包囲し、攻めること三日におよんだが、抜くことができなかったばかりか、赫連鐸の兵士の死傷はおびただしいものがあった。李国昌が蔚州より来攻するにおよんで、鐸は退き去った。僖宗は赫連鐸を大同節度使に任じて李国昌を討たせた。乾符六年(879)、昭義節度使の李鈞に詔して北面招討使に任じ、潞州・太原の兵をひきいて代州にとどまらせた。幽州節度使の李可挙は、赫連鐸に合流して蔚州を攻めたが、李国昌は一部隊をもってこれに対抗させた。李克用は、兵を分かち、遮虞城にいたって李鈞の軍を防がせたが、大雪がふり、兵士は狂ったようになって倒れ、李鈞の部下は潰えて代州に還り、軍はついに混乱し、李鈞は戦死した。広明元年(880)、李琢は蔚朔招討都統に任ぜられ、兵数万をひきいて代州にとどまった。李克用は傅文達をして蔚州・朔州の兵を徴集せしめたが、朔州刺史の高文集は、傅文達を縛りあげて李琢のもとに送りつけた。李琢は進んで蔚州を攻め、李国昌は敗れて李克用とともに一族をひきつれて達靼(タタール)のもとへ奔った。赫連鐸はひそかに、達靼の酋長をしてから李国昌父子をなきものにせしめようと計った。李克用はその計略をさとったので、達靼の勇士たちが大ぜい集まった際に、百歩もはなれた針や木の葉を射てかならず命中させた。達靼の人々は、それを見て大いにおどろいた。そこで李克用は、かれらに向かって、「いまや黄巣は、北方の地を乱して、中原の思いとなっている。ひとたび天子が自分を赦されたならば、願わくばあなた方とともに南方へ進撃して天下を平定したい。どうしてこの砂漠の中に老い朽ちられようか」と言ったので、達靼の人々は、かれがいつまでも留まるつもりではないのを知って、かれにたいする陰謀を中止した。

  黄巣が潼関より攻めこんで長安へ進入したので、河東監軍の陳景思に詔して、代北の軍を動員させた。ときに沙陀都督の李友金は、興唐軍にとどまり、薩葛首領の米海万ならび安慶都督の史敬存は、感義軍にとどまっていた。李克用が塞下に寄留していたために、数千の部衆は直属先をもたなかった。陳景思は、天子が西に向かわれたのを聞いて、友金とともに騎兵五千をひきつれて絳州に入ったが、兵士らがほしいままに金ぐらをおそって着服したので、代州に帰り、兵士三万人を増募して崞県の西にとどまった。兵士らは、かまびすしく、かって気ままで、李友金はこれを制しえなかった。そこで謀ったあげくに、「いま多くの人々を集めながら、声威を張ることもできないし、老功の大将ですら、さっぱりてがらを立てられぬ始末である。わが兄国昌の父子は、有能でありまた勇敢でもあって、人々の畏敬するところとなっている。さきごろ、朝廷にたいして罪をおかしたために、北辺に仮ずまいしながら守りについているが、あえて引き揚げようともしない。いまもしかれを召しだして兵をひきいさせたならば、代北の豪傑たちはたちどころに集めることができ、軍列をととのえ、鼓をうちならして南進すれば、賊軍の平定も易々たるものであろう」と述べ、陳景思はこれに賛成した。そこで、李国昌を赦し、賊を討って自身の罪をあがなわしめられんことを請うた。かくして詔によって、李克用は代州刺史・忻代兵馬留後に拝せられ、その軍には賊軍討伐が督促せられることになった。李克用は、達靼一万人を募って代州におもむき、南方へ進軍しようとしたが、太原節度使の鄭従讜が石嶺関をふさいだために進むことができなかった。李克用は、ぬけみちをして太原にいたり、城下に陣をはること五日におよび、兵糧をもとめたが、鄭従讜が応じなかったために、大いに掠めて引きあげ、代州にとどまった。

  中和二年(882)、蔚州刺史の蘇祐は、赫連鐸の兵をあわせて、まさに代州を攻めようとした。李克用は、騎兵五百をひきいて、まず蔚州をおそってこれを下した。蘇祐は美女谷に陣し、赫連鐸は幽州の李可挙の部下七万人とともに蔚州を攻め、物見のやぐらや柵が相つらねられた。李克用は、まっすぐに敵陣をつき破って州に入り、役所の庫を焼きすてて立ち去り、鴈門に陣をとった。李国昌は、達靼より兵をひきいて代州に帰り、汾州ならびに楼煩をさわがせ、鎧をとくひまもないありさまであった。帝は、李克用にたいして、軍を朔州に還すようにと詔した。

  ここで義武節度使の王処存ならびに河中節度使の王重栄は、詔を李克用につたえて、ともどもに黄巣討伐にあたるようにと求めた。李克用は、よろこんで、ただちに鴈門において大いに兵をあつめ、忻州・代州・蔚州・朔州および達靼の兵をあわせて三万人・騎兵五千をえて南下し、ここにおいて李国昌は、代州を守ることとなった。鄭従讜が道をかさなかったので、李克用の軍は太原にいたって陣をはり、おくりものの馬匹を鄭従讜にとどけ、李克用みずからは数騎を従えたのみでかれに呼びかけて、「自分はまさに西に向かおうとしているが、願わくは貴君に一言申し上げたい」と言ったので、鄭従讜は城のひめ垣の上にのぼり、なぐさめはげまして貨幣・饔(殺した牲)・餼(生きている牲)をおくった。李克用は陰地関より晋州におもむき、河中府にいたった。帝はそのことを聞いて、克用を鴈門節度・神策天寧軍鎮遏・忻代観察使に抜擢した。翌年(883)、宰相の王鐸は、君命をうけて、李克用を東北面行営都統に、河東監軍の陳景思を監軍使に、それぞれ任した。李克用は、弟の李克修に弓をもった騎兵五百を授けて黄河をわたらせ、李克用には夏陽より黄河をわたり、薛阿檀をとどめて橋頭堡をおさえさせた。ついで同州に進み、乾阬にとりでをつくって、賊軍と梁田坡に戦ってこれを破り、進んで渭橋にとりでをつくり、ついに長安を恢復した。その功は最たるもので、同中書門下平章事・隴西郡公に進められ、李国昌は代北軍節度使となった。まもなく李克用は河東節度使に任ぜられた。

  黄巣は、秦宗権と連合して河南に入寇した。中和四年(884)、李克用は河東代北の兵をひきいて、沢州・潞州より天井関に進もうとしたが、河陽節度使の諸葛爽は、井戸をうずめ水を得られぬようにして、行く手をふさいだ。そこで李克用は、河中より黄河をわたって許州におもむき、徐州・汴州の兵をあわせて、尚譲を太康に破り、ついで西華に戦ってまた撃破した。賊軍は敗走して、河南の地は平定された。

  李克用は敗走する敵を追うて曹州の北にいたり、引きあげて汴を通ったところ、朱全忠に迎えられた。李克用は、兵士を城外にとどめ、上源駅の館にとまった。夜に入って、送別の宴が催されて、朱全忠みずから料理をすすめ、宝ものを進呈し、握手して労をねぎらった。しかしながら、このとき、朱全忠は李克用がすぐれ秀でていて制しがたいのを嫌って、車を外まわりにつらね、兵士を道の左右につらねておいて、李克用の酔ったのをみすまし、上源の館を攻めたてた。防戦がおこなわれ、親近の部将である郭景銖は、燈火を消し、李克用を抜けささえながら、おもむろに事の次第を告げた。李克用はなお酒気をおびていたが、敵を射た。たまたま、煙や人声があつまりかさなったうえに、大雷が鳴った。李克用は、薛志勤らとともに、とりしまりの隙をうかがって南門にのぼり、城壁にすがりついて脱出し、陣営に走りかえった。部下の死者は数百人にたっし、さきに鹵獲した賊軍の軍馬の類はことごとく失われた。李克用は、部下をととのえて太原に帰り、いちだんと兵士の訓練にはげんで、もって仇を報ぜんとし、弟の李克勤に一万を授けて河中に陣をはらせ、朱全忠を撃つための請願の使節が八回も出されるありさまで、内外の人々はふるえおののくばかりであった。皇帝は、内謁者(宮中の雑事をつかさどる役人)をつかわして、李克用をなだめさとさせ、ついで位を検校太傅・隴西郡王に進められた。

  光啓元年(885)、幽州の李可拳と鎮州の王景崇とは、「易州・定州はもとの燕・趙の土地だから、取って分けようではないか」と言い立てて、李可挙は易州を攻め下した。王景崇は無極を攻めたので、易定節度使の王処存は、李克用に救いをもとめた。李克用は、みずから兵をひきいて無極の救援に向かい、王景崇の軍を破り、馬頭鎮を攻め、新城を固めたので、王景崇の兵は敗走した。王処存はまた易州を恢復した。鳳翔の李昌符と邠寧の朱玫とは、朱全忠と和をむすんだ。観軍容使の田令孜は、李克用をにくみ、王重栄と結託して、「李克用は国都の近くにおくべきではない。請いねがわくば、王処存を河中節度使に任じ、王重栄を易定節度使に徙されんことを。さすれば、克用は孤立するであろう」と献言し、帝はこれに従った。王重栄は事の次第を李克用に告げたので、李克用は怒って、「自分はまさに貴君に従い、軍鼓を打ちならしつつ、汜水関を出で立ち、朱全忠を誅して穴中の鼠を殲滅するのみである」と言ったが、王重栄は一計を案じて、「貴君の軍が朝に汜水関を出るならば、邠寧の朱玫・岐州の李昌符の兵士らは、その夕にはわれわれの城壁のひめ垣のもとにかしずくことになるのだから、願わくばまず邠・岐二州を安んぜられよ」と言った。そこで李克用は上奏して、「朱孜と李昌符とは、朱全忠と連合して乱をおこしているから、願わくば兵十五万人をひきいて黄河をわたり、あの朱玫と李昌符の二豎どもを梟首したのち、朱全忠を平らげてさきにうけた大恥辱を雪ぎたい。陛下におかれては、なにとぞ用心をかさねられて、賊のために動揺されることのないように」と言った。帝は、そのような行動に出ることを思い止まらすべく、盛んに使者をつかわしたが、李克用は応じなかった。朱玫もまた、邠寧・鳳翔の兵をひきいて沙苑に陣した。李克用は肉薄攻撃をおこない、これに敗れた朱玫は、夜に入って逃亡したので、李克用は河中にひきあげた。

  天子は鳳翔に出でおもむき、道みち、兵のまさにいたらんとする旨をつたえつつ、ただちに宝鶏におもむいた。李克用は王重栄とともに上奏文をつらねて、宮殿に還御されんことを請い、「兵士を留めて京師をまもらせるゆえ、ただちに皇居に還られるように」と願った。帝はこの申し出を危ぶみうたがって、大散関に走り、興元府にとどまったので、李克用はひきあげた。そこへ、襄王熅の偽詔が太原にとどいたが、克用はこれを焼きすて、その使者をとらえ、間道伝いに興元にいる皇帝にあてて上奏文を奉呈した。はじめ朝廷では、朱玫が李克用と結託して行幸中の天子をくるしめるのではないかと疑っていたが、この上奏がなされるにおよんで、群臣に示され、よって山南道の諸鎮にもその内容がつたえられ明らかにされたので、行在所においても、すこしく安堵のいろがみうけられた。王行瑜は朱玫を斬り、李克用は千騎をしたがえて京畿を経略した。光啓三年(887)、李国昌は死んだ。ほどなく昭宗が即位し、李克用は検校太師兼侍中に進められた。

  大順のはじめ(890)、李克用はみずから赫連鐸を雲州に攻めて、東の外城をおとしいれた。幽州の李匡威は、三万人の兵をひきいて赫連鐸を救援し、李克用の部将の安金俊を殺した。李克用は敗走した。赫連鐸は、李匡威とともに献言して、「山南道が乱れるのは、李克用がその中心となっているからであり、いまこそかれの敗戦につけいって伐ちとるべきである」と言い、朱全忠もまた河北三鎮(盧竜節度使の李国威、成徳節度使の王鎔、魏博節度使の羅弘信)とともに、かれを討たんことを請うた。宰相の張濬は、この計略をただしいものとして賛成した。制が下されて、李克用の官爵属籍は奪されたが、張濬は兵馬招討制置宣慰使に、京兆尹の孫揆はその副に、枢密使の駱全詮は行営都監に、それぞれ任ぜられ、華州節度使の韓建は行営馬歩都虞候となり、供軍糧料使を兼ねた。王鎔は河東の東面の、朱全忠は南面の、李匡威は北面の、それぞれの行営招討使に任ぜられた。

  赫連鐸は、李匡威をたすけ他にさきがけてせまり戦ったが、李克用はこれを追いはらった。しかし潞州の兵は戦いに出るのを承知せず、力をあわせて守将の李克恭を殺して汴の朱全忠に款を通じ、李克恭の首を朝廷に献じた。さらに孫揆は詔をうけて昭義節度使に任ぜられたが、李克用の将の李存孝は、孫揆の長子をむかえうって殺した。李匡威と赫連鐸とは、吐蕃・黠憂斯(キルギス)の兵十万人をあわせて、遮虜軍を攻めて、その地の守将の劉胡子を殺した。そこで李克用は、渾河川のほとりに陣をかまえた。李存孝は赫連鐸と楽安鎮において戦い、赫連鐸は敗走した。張濬は、陰地関に進入して汾州・隰州の線に陣とったが、薛鉄山・李承嗣は、洪洞に陣してむかえ戦った。李存孝は趙城に陣したが、韓建は、夜陰に乗じて、壮士三百名をつかわしてその本陣を襲撃させた。李存孝が伏兵をおいて待ちぶせしたため、韓建の兵は大いに敗れて逃げはしった。李存孝が絳州を攻めてまだおとしいれぬときに、晋州の刺史の張行恭が城をすてて逃げ去ったので、韓建は張濬とともににげかえった。翌年、李克用は上奏して申しひらきをしたので、また検校太師守中書令隴西郡王に拝せられた。

  李克用は、全兵力をあげて赫連鐸を雲州に攻め、騎兵隊長の薛阿檀を先鋒として黄河のほとりに伏兵をおいた。赫連鐸は、騎兵隊をはなって薛阿檀を追撃させたが、伏兵にあって逃げはしった。赫連鐸は、のがれて吐谷渾族の中に逃げこんだ。李克用は、雲州を占領して、部将の石善友を刺史・大同軍防禦使に任じた。

  景福(891-)のはじめ、鎮州の王鎔が堯山を攻めたので、李克用は李嗣勲に命じてこれを撃たせ、斬首三万の戦果をあげた。李克用はついに天長鎮を抜き、常山をとり、滹沱河をわたり、城郭を焼きはらい、あまねく説き降しつつ、趙州にいたり、鼓城・藁城をとった。赫連鐸の部下八万人が天成軍を攻めたので、克用は檄をとばして太原より軍を進発せしめたが、李匡威はすでに雲州の北郊にとりでを築いていた。李克用は、神堆より軍をひきいてすすみ、夜に入って雲州に進入し、死闘ののち、李匡威を敗走させた。乾寧元年(894)、李克用は新城に陣をはった。赫連鐸は、膝行してその軍門に降り、李克用はかれを鞭うったのち追いやった。李克用は進んで武州を下し、新州を攻めた。李匡籌は歩騎合計七万人をひきいて救援におもむいたが、李克用が迎うって斬首万級をあげ、捕虜は少なかった。李克用は三百人に手分けして城下をあまねく説かせ、かくして新州は降った。ついで媯州を攻めとった。李匡籌は、幽州をすてて敗走した。翌年(895)、幽州は降り、李克用は劉仁恭を留後に任じてひきあげた。

  王行瑜・韓建・李茂貞は、皇城の南に兵をつらねて李谿を殺した。李克用は、北部の兵すなわち代北の諸蕃落の兵をことごとく徴発して、黄河をわたって絳州に出で、刺史王瑤を斬って河中にとどまった。王珂は路上において李克用に謁し、同州の王行約は長安にはしり、李克用は韓建を華州に包囲した。長安の人々は震えおののくばかりであった。そのため、帝は石門県・茨城鎮に行幸し、内謁者の郗廷昱をつかわして李克用を慰労させ、また李茂貞は盩厔に、王行瑜は興平に、それぞれ陣とった旨を伝えさせた。そこで李克用は、進んで渭橋に陣をしいた。帝は、延王戒丕・丹王允をして詔を李克用にもたらさしめ、邠州・鳳州を撃たしめた。李克用は、詔を奉じて渭水の北に陣し、史儼に勇猛な騎兵三千をさずけて石門をまもらせ、また王珂に河中の粟を行在所に送らせて備えさせた。帝は詔をもって嘉し、李克用を諸道兵馬都招討使に進め、二人の王には李克用を兄として事えるように命じ、王行喩を討つようにと李克用を促した。李克用は帝に長安に還されるように請願し、二千騎をもって皇帝をまもらせた。ときに宮室は焼け損なわれ、帝は尚書省の建物に滞在し、百官たちは乗馬を失っていた。李克用は帝に乗輿と金具でよそおった四頭だての馬車二組を献上し、また百輛の兵車を進呈して、供の役人たちに供給し、太師・兼中書令・邠寧四面行営都統に進められた。

  王行瑜は、梨園にとりでをかため、李茂貞は、みずから三万人の兵をひきいて咸陽に接近して陣をしいた。李克用は帝にたいして、李茂貞を責めて戦闘を停止させ、なおその官爵を削るようにと請願し、河中節度使の王珂とともにかれを討たしめられんことを願った。帝は李克用に詔して、王行瑜に弟として事えさせ、また李茂貞を許して、よしみを結ばせようとし、詔をもって魏国夫人陳氏を李克用に賜わった。陳氏は、襄陽の人で、書をよくし、帝の寵愛するところであったが、いそいで賊を平らげんと欲したがために賜わったのであった。李茂貞は兵を派して竜泉鎮を救援させたが、李克用が、李罕之・李存審をして夜陰に乗じ、兵をひきいてその兵糧を奪わしめたので、李茂貞の援兵はにげ去り、王行瑜の軍も潰走し、李克用は追撃して敵を殺すこと一万人ばかりにおよんだ。王行瑜は邠州に入り、李克用に投降を請うたので、李克用は史儼に命じて邠州を占領させた。邠州城をすてて逃げた行瑜は、慶州で部下のために殺され、その首級は長安に伝えられた。帝は官署の役人および諸子の功績をことごとくはかって、領地を与え、官爵を授けたが、李克用は忠貞平難功臣という名号を賜わり、晋王に進封された。

  李克用は、雲陽城に陣をしき、李習吉をつかわして入朝させ、王珂とともに力をつくして李茂貞を討たしめられんことを請願したが、帝は許さなかった。李克用は使者に耳うちして、「叛乱の根本が除かれないかぎり、憂患はたえない」と言った。帝は度支銭三十万緡を出させて李克用の軍をねぎらった。ときに、郷州の朱宣兄弟が、朱全忠にくるしめられて、使者を李克用のもとにおくり、魏州を経由して救援におもむかれるようにと請願した。かくして、さきにいったん戦いが止んだのに、ここにまた戦いがはじまり、李克用みずから軍をひきいて進発し、李存信に兵三万人をさずけて史儼らとともに莘県にいたらせたが、魏博節度使の羅弘信の軍に破られた。李克用は怒って、大いに相州・魏州を掠奪してたち去った。

  はじめ李茂貞は、李克用がいまにも攻めよせそうなことをおそれて、朝廷への貢献を行なうこと、まるで藩鎮のようであったが、李克用がひきあげると、貢献をたち、韓建とともに兵をひきいて入朝しようと謀った。帝はこれをおそれて、李克用に詔して、長安に進駐させて守りにつかせ、さらに黄河をわたって太原に行幸しようと謀って、延王を李克用の軍営につかわし、皇帝自身を迎えるように督促させた。やがて帝が渭水の北にいたったとき、韓建は、華州に行幸するようにつよく請願した。李克用は延王にたいして、「思いのもとは、優柔不断なやりかたにある。おもうに、皇帝自身、事にあたって断行せられよ」と言った。李存信は魏州を攻めたが、葛従周が部下三万人をひきいて来援し、洹水のほとりで戦った。朱全忠の軍は、夜陰に乗じて、いたるところに穴を掘ったうえで、ときの声を合わせた。李克用の子の李落落の馬は、その声におどろいて穴におちこんでたおれ、李克用はこれを救おうとしてまたたおれた。追いせまった敵兵が近づいてこれを射たが、やっと免れた。李存信はすでに魏州の城にせまっており、李克用はこれに力をあわせた。羅弘信は、捕虜を前面におし立てて迎え戦ったが、李克用に撃破され、李克用は追うて外城にいたり、城門の扉を叩くまでに肉迫したのち、ひきあげた。ここにおいて、陝州の王珙は河中を攻め、李嗣昭は王珂をたすけて二度戦ってともに勝ち、王珙の包囲はとかれた。

  帝は延王に符信をさずけて太原にいたらせ、李克用に伝えて、「汝の計略を用いなかったために、このようなありさまとなってしまい、なんとも言いようもない。いま自分は華州に身をよせているが、多くの役人たちは身をよせるところがない。汝でなければ、ともに憂いをわかつものがあろうか。そうするのでなければ、自分としてはふたたび宗廟にまみえることはないであろう」と言わせた。延王が太原にいたると、李克用はかれを引きとどめること数ヵ月におよんだ。しばしば盛大な酒宴をはったが、そのたび延王は、かならず舞にかこつけて李克用に国事をのべ、落涙数行におよび、かれの心をゆり動かそうとした。ときに劉仁恭は、幽州に拠って李克用にそむき、しばしば兵を徴集しても応じなかった。李克用が書面をもって責めたところ、劉仁恭は、手にした書面を地になげうって、ついに李克用との古い交わりを絶つことを明らかにした。李克用は内心、幽州の劉仁恭を憂うるのあまり、延王には好辞をもってこたえたけれども、ふたたび西方をうかがう意志はなかったのであるが、にわかにして、李克用はみずから兵をひきいて蔚州に陣とった。たまたま夜明けに大いに霧がかかって天地が暗くなったときに劉仁恭が来襲したために、李克用は大敗して太原に逃げかえり、その部将らの多くは死んだ。朱全忠は、邢州・磁州・洺州を奪取した。

  李茂貞は、李克用が戦いに敗れて弱くなり、軍を出しえないものと推測した。そこで韓建とともに言葉たくみに李克用に手紙をよこして、「帝は宮殿の外に出られて風雨にさらされること何年にもおよんでいる。ともどもに宮殿を修理して帝をお迎えしようではないか」と言ってよこした。はじめ、長安では、帝が石門に行幸されてより、宮殿は焼けこわされ、岐人(李茂貞)がふたたび叛いてより、町々は火にかかって焼けはててしまい、皇城の中は夜になると狐狸が鳴き、人の行き来もなかった。帝は、華州の西の谷に行幸して、長安を望んではかならずさめざめと涙をながし、左右の臣下たちも悲しみふさいで話すこともできなかった。王建が両川(東川と西川)を盗みとるにあたって、李茂貞は、かれがみだりに私した事件の数々をあばこうとした。南方にいた軍隊は東へ向かういとまはなかったし、また朱全忠は洛陽の補修に忙殺されていたので、李茂貞は李克用にたいして、労苦をともにすることを約束しようとしたのであった。李克用は李茂貞のさきの書面にたいして返答に窮した結果、財貨を出して援助を行なった。

  光化のはじめ(898)、帝は長安に還り、李克用に詔して、朱全忠との仇敵関係を解消するようにさとした。宰相の徐彦若・崔胤もみなそのように勧めた。李克用は、その勢力こそすでに衰えていたけれども、しかもなお功労は朱全忠よりも高いことをおもって、さきに頭を下げるのを恥辱と考えていた。ときに王鎔がちょうど汴(朱全忠)と親しかったので、李克用は書面を王鎔におくって工作させた結果、朱全忠はただちに李克用に使者をつかわして、書状と幣物とを奉呈することはなはだうやうやしく、李克用もまたこれにこたえた。しかしながら、朱全忠は日ごとにますます闘いぬかんとする姿勢をしめし、それを改めようとはしなかった。王珙は、朱全忠の兵をもとめて河中を攻めたが、李克用が李嗣昭・張漢瑜に救援させたので、朱全忠の兵は敗走した、葛従間は承天軍を攻めとり、氏叔琮は遼州・楽平郡をとり、すすんで楡次にとりでを築いたが、李克用は周徳威をして駆逐せしめた。李嗣昭は、歩騎三万人をひきいて太行山を下り、河内郡をとり、懐州を抜き、すすんで河陽県を攻めた。朱全忠の部下の閻宝がその救援におもむいたので、李嗣昭は退いて懐州に拠った。天復元年(901)、朱全忠は晋州・絳州をとり、河中にせまった。王珂は事態の急を李克用に告げ、その使者があいついだ。しかし朱全忠の軍は孔を穿って通じた道をおさえたために、李克用の軍は前進できず、ついに王珂は朱全忠の軍に捕えられた。王珂の妻は李克用の娘であったが、救うことができなかった。朱全忠がついに河中を占領したために、李克用の朝貢の道もまたふさがれてしまった。朱全忠は、李克用が萎縮してふるわぬのを知って、大挙して太原を攻め、勇将の氏叔琮らをつかわし、魏博節度使・兗州・鄆州・邢州・洺州・義武軍節度使・晋州・絳州の兵を投入して包囲しつつ進入した。李克用側の城邑の多くが投降した。しかし、たまたま大雨が降って朱全忠軍の兵糧が欠乏し、兵士の間に瘧癘(おこり)がはやったため、ついに包囲をといた。

  李克用は、内心ではいきどおりうれいていたけれども、朱全忠が強盛で対抗しがたいのをはばかって、丁重に幣物と馬匹とを贈り、詫びをいれてまたよしみを修めんことを請うた。朱全忠はついに同州・華州をとって、渭水のほとりに陣をはった。帝は鳳翔に行幸し、李茂貞・韓全誨は、李克用を召して入朝させ守りにつかせるようにと誘うた。李克用は、間道より使者をおくって急ぎ帝の安否をたずね、また一方、朱全忠に書面をおくって汴にひきあげるように勧告したが、朱全忠の答えはなかった。

  李克用は、兵をひきいて平陽郡におもむいて吉上堡を攻め、朱全忠の軍を晋州に破った。李嗣昭・周徳威は、慈州・隰州を攻め下し、進んで河中に陣した。朱全忠の部将の朱友寧は、兵十万人をひきいてその南にとりでを築き、朱全忠みずからは、晋州に陣した。李克用側では、朱全忠みずからがやってきたと聞いて、みな色を失った。ときに虹がかかって周徳威の陣営をつらぬき、氏叔琮はとりでに肉迫して息もつかせぬほどに戦ったので、李克用軍は大敗し、兵器やたくわえた軍需品はことごとく失われた。朱友寧は、長駆して汾州・慈州・隰州などの諸州を攻め下し、ついに太原を包囲してその西門を攻めた。周徳威や李嗣昭は、山にそって残兵をともない、ようやくにしてひきあげた。李克用は、大いに朱全忠をおそれて、みずから城壁を築くのに用いる道具をかつぎ、兵士をひきいて防ぎまもりながら、しかもひそかに李嗣昭・周徳威とともに雲州に逃げはしろうと謀った。李存信は、「北族を頼るにしくはない」と言った。ところが、李国昌の妻の劉氏は、克用にたいして、「聞くところでは、あなたはこの城をすてて蕃族の中に身を投じようとしているというが、この計略が、いったいだれの手になるかをつまびらかにしているのか」と言ったので、李克用が、「李存信らのねりあげた計略です」とこたえたところ、劉氏はさらに、「あの羊飼い奴などに、どうして遠大な計略が立てられようか。あなたはいつも、あの王行瑜が城を失って逃げはしり、ついに死んだ一件を一笑に付していたのに、どうしてそれに倣えようか。また、あなたはさきに達靼の中にいて、そこからのがれられぬのではないかと危ぶんだのではなかったか。いったいこの城を出たならば、禍いはたちどころにやって来よう。どうして北族のところに行きつくことができようか」と言った。李克用はその意味をとって、脱出するのは中止した。ここにとどまること数日にして、散り散りになった兵士たちもまた集まってきた。李嗣昭が夜に乗じて朱友寧の陣営をおそったので、朱全忠軍はおどろいて退去したが、周徳威は追撃して白壁関にいたり、また慈州・隰州・汾州の三州を手中に収めた。

  天復三年(903)、李克用は雲州を攻めたが、帝が鳳翔より長安に還ったと聞いて立ち去った。雲州の都将の王敬暉は、刺史の劉再立を殺して、その地を劉仁恭に与えた。李嗣昭がこれを討ったが、劉仁恭は王敬暉をたすけた。李嗣昭は楽安鎮にとりでを築いて戦おうとしたが、劉仁恭は王敬暉をともない、城をすてて去った。

  帝は東遷して、詔は太原にもたらされた。李克用は泣いてその部下に、「帝はこんごふたたび長安にかえることはないであろう」と言った。そして使者をつかわして急ぎ行在所に安否をたずねさせたので、にわかに協盟同力功臣という号を追加された。李茂貞と王建は、邠州の楊崇本とともに使者をつかわし来たって義挙を約したけれども、李克用は、「諸藩鎮はみな朱全忠にくみしているから、ともに功業をたてるべきではないが、ただひとり契丹の耶律阿保機のみはなお役に立つ」と考えて、辞を卑うして阿保機を呼びよせた。阿保機は、自身で雲中に来て李克用に会い、兄弟となることを約し、とどまること十日にして去った。そして馬千匹、牛・羊一万匹ばかりをおくり、冬には大挙して黄河をわたって進撃する旨を約束したが、たまたま昭宗が弑されたために中止された。

  天復四年(904)、王建と李茂貞は、李克用に大挙を約し、王建の部将の康晏は、歩騎二万人をひきいて李克用の監軍の張承業とともに鳳翔に集結したが、このとき、朱全忠の部将の王重師は長安を劉知俊は同州をそれぞれ守っており、長安の西で戦闘がはじまったが、王建の兵は敗れてついにふるわず、唐朝は亡んだ。王建は淮南の楊渥とともに、李克用にたいし、みずから一方面の王となり賊の平らぐのをまって唐朝の宗室をたずねもとめて擁立されんことを請い、また王建は、四川の職人をことごとく集めて天子の乗輿と御物を製作されんことを請うたが、李克用はこれに答えて、「みずから王となるのは、本来の志ではない」と言った。王建はまた李茂貞にたいし、岐州の地で王となるように勧めたが、李茂貞はおろかなうえに度量がせまく、またあえて王になろうとはしなかった。ただ、みだりに役所を飾りたてて天子の宮殿になぞらえただけであった。王建と楊渥とは、みずから王となった。この年、李克用は病にかかり、城門がひとりでにこわれるという事件があった。翌年(905)にかれはなくなった。

  賛にいう、沙陀は、はじめて唐に帰付してより、辺境で生計をいとなみ、唐のために代々血を流して征討をたすけ、辺境の兵士たちの中にあってつねに最強であった。李克用にいたって、王室の騒乱にあい、ついに太原を手中に収めた。かれは、性質が重厚で、もとよりめったに二心を抱くことはなかったが、みずからの能力を自負して天下を経営しようとして、しかもなしえなかった。兵士たちはすぐれていたが、しかもしばしば戦いに敗れ、土地を手に入れたが、しかもまたこれを失った。このような次第なので、皇帝がむりに都の外に遷されるのを目前にしても、くびをちぢめ、はずかしく思って汗をかき、日をなおざりにしてそのたおれるのを待つありさまであった。そのやりくちはまた、なんといやしいではないか。沙陀の人々が勇敢なるによって、また勢いをふるうようになった。このとき、兵をひきいて君主に心をよせて努力したのは、五家の人々であったが、しかも朱氏(朱全忠)のために唐は亡んでしまった。唐のために恥辱をすすいだのは、沙陀であった。李克用がすこしく古今の事柄を知っていたならば、斉の桓公や晋の文公のように行動しえたであろうし、それなれば、唐もにわかに亡びることはなかったであろう。

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最終更新:2022年09月26日 00:38
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