【バレンタイン企画】苦さと甘さは紙一重

Not failure , but low aim , is a crime.  ― James Russel Lowell

 小さな町の小さなチョコレート専門―Bitter。その名の通り、日曜だというのに中には客が空っぽという苦々しい光景が繰り広げられている。
 この店を経営しているのは、20代中盤の女性だ。
「はぁ…」
 カウンターで頬杖を付き溜息を1つ。
「…私、何してんだろ…?」
 哀愁を帯びた声色で尋ねるが返事はない。終いには顔を伏せてしまった。
「…父さん…母さん…ごめん…」
 彼女の両親は2年前、不幸かな、鉄道事故により他界した。
 あまりにも突然のことで、ショックのあまりに両親の死という事実を受け入れられず、抜け殻のように呆ける日々を過ごしていた。
 しかしながら、Bitter―つまり両親の店を売るという話が持ち上がった時分、彼女は生気を取り戻す。

『この店は…両親の宝なんです!…私が必ず継ぎますから!…だから、売れません!』
 親族の前で啖呵を切った…まではよかったのだが。その結果がこのザマである。

 両親が生きていた頃には少なくとも家族全員が食っていき、尚且つささやかな貯蓄が出来る程には繁盛していた。
 それでも、彼女のチョコレートの味が決して不味いという訳ではない。
 彼女は幼い頃から店の手伝いをしてきた。もちろん、チョコレート作りも含まれる。
 そのため、味自体は父親の作ったものと遜色がない。いや、寧ろ忠実なる生き写しと形容するのが適当であろう。

 ならば、どうして客足が途絶えたのか。理由はこの店の向かいにある。
「…こうなったのもあのでっかいのが原因よね…」
 “でっかいの”とは、彼女が店を再開する少し前に他のチョコレート店―Heavenが参入してきたのだ。
 大きさは実にBitterの5倍以上。カフェのように店内でチョコレートを食べることができる。
 そして、何より世界でも有名なチョコレート職人が作っていることが最大の魅力だった。

 彼女はこれで不味かったら文句を言ってやろうと思い店に乗り込んだことがあるのだが。完膚までに叩きのめされた。
 まず見た目の美しさだ。人、動物、花など様々な形を細部まで再現したチョコレートが並んでいた。最早、食べ物と言うよりは芸術そのものだった。
 問題は中身だと気を取り直し口にしてみる。その瞬間、甘美が作り出す無限の世界が広がった。が、特別に強調することもなく、ゆっくりと深く染み込んでゆく。
 衝撃的だった。こんなチョコレートは食べたことがない。完敗だ。
 彼女はただの客と成り下がり、そのまま帰る他しかなかった。

 悔しかった。認めたくなかった。彼女にとって父の味は誇りであった。だが、彼女は味を変えようとはしなかった。
 それをしてしまえば父の味を守れなくなるから。父を否定することになるから。




 と、店の入り口が開く。彼女は顔をあげ、笑顔を作り客を向かい入れようとした。
「いらしゃ……」
 が、相手を認識するとすぐに顔が険しくなる。
「よう、相変わらずシケてる店だな。」
 茶髪にサングラス。日焼けした肌。口にはタバコとお世辞にもガラは良いとは言えない男が1人。
「冷かしなら帰って…」
 鋭く、冷たく、それでも努めて冷静さを保ち言い放った。
「おうおうおう。お客様にとんだ言い草だな。チョコレートを1箱買おうと思ったのによお。」
 すると、彼女はいきなりショーケースの中のチョコレートを片付け始めた。
「…残念でした。裏切り者に売るチョコレートはたった今売れきれた所です。」
 険悪な空気が場を支配する。彼女は下唇を噛みながら鋭く睨みつけた。

「姉ちゃん…あんたがこの店を守ろうとすんのは構わねえさ。だがな…オレにはそんな義務、1mmもねぇんだ。」
 姉から発せられる強い憤りにも、我関せずという口調で返す。
「こんなぼろっちいモン守るくれぇなら、向かいさんでしっかり金稼ぐね。オレは頑固な誰かさんと違って賢いんだ。」
 その言葉に、彼女は俯き、蚊が鳴くように一言呟いた。
「………帰って………」
「は?何か言っ…」
 聞き取れなかったのか、眉間にしわを寄せて耳に手を当てて訊こうとするが、遮られた。
「帰ってって言ってるでしょ!!このスットンキョー!!恥知らず!!腰抜け!!!二度と来ないで!!!」
 悲鳴交じりに叫びながら伝票を投げつけた。
「ちょ、おい…あぶね…ちっ…はいはい、分かりましたよ。こんなゴリラ女がいる店なんざ、こっちから願い下げだ!!」
 そう捨てゼリフを吐くと乱暴にドアを開け、去って行った。

 一人残された彼女の頬には…雫が伝っていた。
「うう…ぐ…なんであんた、向こうに行っちゃったの…?一人ぼっちは寂しいんだよ…」

 彼は現在の彼女の唯一の肉親で、両親の生前には一端のチョコレート職人として彼女同様に店を手伝っていた。
『いつか店を継いで、親父を越えて引導を渡してやる』と豪語して。野心が輝き、満ち足りていた。
 彼女が鬱病になりかけていた時にはいつも傍で支えていた。店の再開も、姉弟の2人でやっていこうと決めた。
 それが…客が奪われ、売り上げは伸びず、彼はいつしかBitterをふらふらと出て行き、Heavenで働くようになっていた。
 ただし、チョコレートを作るのではなく、ただのレジ係なのだが。

 彼女は膝をつき、泣き崩れた。
 己の人生を呪い、両親に謝罪し。そうすることしか出来なかった。


 どれ位の時間が経ったのだろう。泣き疲れた彼女はそのまま眠りに入っていた。が、それを妨げる声がする。
「―――さん、お―――さん!」
 朦朧とする意識の中、頭を上げると、そこには―――黒い帽子、鮮やかで美しい金髪、整然とした三つ編み―――ゆっくりまりさがいた。
「おねえさん、おきて、おねえさん!」
 状況が良く分からず周りを見る。Bitterの中であることは確認できた。入り口の方へ目を向けると見事に開いていた。
 …手動である筈なのに、どのように開けたのかが甚だ疑問だ。

 とにかく、店に迷い込んで来たらしい。何故か一生懸命に呼びかける。
「どうしたの?私に何か用?」
「ゆ!おねえさんはちょこれーとやさんだよね?」
 恐らくチョコレートでも食べたいのだろうと察した。
「ええ、そうよ。食べたいの?待ってて、今もってくるから。」
 立ち上がり、先程片付けかけたチョコレートを持って来ようとするとまりさに止められた。
「ゆ!ち、ちがうの!まりさ、たべたいんじゃないの!」
 彼女は首を傾げた。雑食でなんでも食べてしまうゆっくりがチョコレート屋に来てチョコレートを食べたい訳ではない。中々に解せなかった。
「ん?食べたいんじゃないの?…うーん、じゃあ、どうしたいの?」
 再度尋ねると、まりさは途端に顔を赤らめ下を向き何やらモジモジしている。
「ゆ…あの…その…」
 言葉もどこかはっきりしない。
「早くいいなよ。言ってくれないとどうしていいか分からないわ。」
 催促すると相変わらず恥ずかしそうにしてるが、ようやく喋り始めた。
「ゆ…ま、まりさに…ちょこれーとのつくりかたをおしえてほしいの…」



                 “チョコレートの作り方を教わりたい”


 まさかの展開だった。手もないゆっくりがチョコレート…いや、その前に料理を作るいう概念が果たしてあるのか。どうしたものかと悩む。
「…作るって…まりさ、あんた手がないのにどうやって作るのさ?」
 指摘するが、自信満々に胸を張って答える。
「ゆ!おててがないぶんは『きあい』と『こんじょう』と『あい』でかばーするよ!」
 気合と根性と愛でカバー…?

 どうカバーするのかが全くもって謎ではあるが、まりさは真剣な目をしていた。それにしても…一体、何がまりさを突き動かしているのだろう。
「えーっと…まりさはどうしてチョコレートを作りたいの?目的を教えてくれないかな。」
 そう訊くと、またもや顔が火照り、俯き始めた。
「ゆっと…えっと…」
 どうも言いにくいらしい。彼女はだんだんまりさに興味が沸いてきた。
「言えないなら仕方が無いね。目的が分からないのにチョコレートの作り方は教えられないなあ。いやー、残念だなあー。」
 わざとらしく振舞うが、まりさが慌てふためいた。まりさにとって教えてもらう・もらえないは死活問題なのだろう。

「ゆ!わ、わかったよ!ちゃんと言うよ…あ、あ、あのね…まりさね…ぱちゅりーに…ちょこれーとをあげたいの!!」
 決心し、開き直って言い放った。
「ぱちゅりーに?…どういうこと?」
 聞けたはいいが、よく理解出来なかった。なぜ、そんな必要があるのか。
「ぱちゅりーはここさいきん、びょうきでねこんでるんだよ…もうすぐ、ばれんたいんでしょ?だから、ばれんたいんの日にちょこれーとをあげてげんきだしてもらいたいの…」
 成る程。そういえばもう如月だ。大体把握できた。
「つまり、愛するぱちゅりーにチョコレートをプレゼントしたいってことね。」
 すると、まりさの顔がとうとう真っ赤になってしまった。
「あ、あいするなんて…そ、そそそ、そんなんじゃないよ…ただ、ぱちゅりーに…げんきに…なってほしくてその…」
 こんなあからさまな慌て方を見た彼女は悪戯っぽく笑う。
「へぇ~…じゃあ、ぱちゅりーのことは愛してないのね?」
「ゆ!そ、そんなこと…ないけど、きらいじゃないような…その…むしろともだちとして…すき…というか…」
 語気は徐々に弱くなってゆき、最後には消え入りそうな息にしか聞こえなかった。
「はいはい。分かったから…教えてあげるわよ。」
 ウインクを沿えて了承した瞬間、まりさの顔は晴れあがった。
「ゆゆ!!ホント?おねえさん、ありがとう!!」

「その代わり!」
 喜びこちらへ向かおうとするまりさを遮るように掌で制する。
「そ…その代わり…?」
 まりさは緊張気味におずおずと訊き返した。
「美味しいチョコレート作るのって結構大変だよ。血が滲む努力しても上手く作れずに泣いちゃって、夜も寝れない。うつ病になって、ゆっくりできないかも。特にあんたは手がないんだから尚更苦労するよ、絶対。それでも、途中で投げ出さないって約束できる?」
 誇張して言うがこれもまりさの覚悟を確かめる術に違いない。
「ゆぎぎ…や、やくそくする!ぱちゅりーのためだもん!」
 少々渋ったものの、その決意に偽りは感じられなかった。
「よろしい!では、早速修行といきますか。」
「ゆ♪ゆ♪ゆ♪」


 興味本位なのか…それとも一人でいることから生じる苦を紛らわすためなのか、あるいはその両方か。
 彼女の心理を読み取ることは難しいが、とにかく、まりさにチョコレートのレシピを伝授することとなった。

「う~ん…あんまり難易度が高いのは…流石に無理よね…」
 古びたノートを持ってきて開く。そこにはチョコレートのレシピが手書きで載っていた。
「ゆ!、ちょこれーとけーきとか、くっきーがいいよ!」
 その難易度の高い注文に苦笑を浮かべる。
「あのねぇ…初心者なんだから大人しく溶かして固めときなさいよ…」
 まりさは完成写真を見ながら涎を垂らしていた。今にも写真にかぶりつこうとせんとする獰猛な目をしている。
「こらこら!これは写真なんだから…がっつかないの!」
 暴れるまりさを抑え込む。
「まりさもはやくつくりたいよ!」
「焦らないの!…あ、ほらこれなんてどう?」
 そこに写っていたのは古典的なハート型のチョコレートだった。
「ゆゆ!…なんだかしょうわのにおいがするよ…」
 白けたような哀れむような色を浮かべている。
「うっさい!どうせ私は昭和生まれのおばさんですよ。ケッ!」
「ゆう…で、でもこれはこれで…その、あいがなんとかつたわりそうだよ!すこしはゆっくりしてるよ!」
 何やらフォローし始めた。
「あんたね…それ皮肉って言うのよ…まあいいわ。これでいい?」
「ゆ、わるくはないよ!」


 さて、場所は調理場へと変わる。帽子の上から三角巾を被りやる気も満々だ。
「いい?まずはこの板チョコを…って、食うなこら!」
「むーしゃ♪むーしゃ♪しあわせ~♪おねえさん、まりさ、このままこれをわたすことにするよ!」
 その甘味に一目惚れしたのか、もともこうもないことを言い出した。
「あんた!それでいいの!?」
 今までも突っ込みを入れてきた彼女だが、今回ばかりは醸す感じが異なる。
「いいよ!これならぱちゅりーもよろこんでくれるよ!」
 確かに『チョコレートを渡す』ことには変わりはなく、板チョコであっても美味しい。
「…見損なったわ…そんなことしてもぱちゅりーは何にも喜んでくれないわよ…」
 呆れたように首を横に振る。 
「ゆ!うそはやめてね!こんなにもおいしいんだからよろこぶにきまってるでしょ!?」
 頬を膨らませ威嚇する。
「バカヤロー!!!」
 怒りのこもった声がこだまし、まりさはその場で固まった。
「その板チョコにはね…あんたの愛が入ってないんだよ!!」
 独立宣言をするかの如く力強く高々とその事実を言い放った。
「ゆがーん!!」

「いい、バレンタインってのはね、好きな人のためにいかに愛を込めるかが重要なのよ!最近は金にもの言わせ、高級なチョコレート買って渡すセレブ気取りのアマがいるけど…
 何それ、美味しいの?そんなの渡しても誰も喜んでくれないわ!重要なのはいかに頑張ったか、努力したか、どれ程の愛が詰まっているのかよ!
 たとえ形が悪くても、たとえ味がまずくても、『手作り』に敵うバレンタインチョコはあるのだろうか?いや、ない!ここに断言する!なんなら我の命を賭けてもよい!
 買って渡したチョコなんぞ、コップ一杯…いや、ヤクルト一杯以下の愛しかないわ!それに比べて手作りはどう?意中の人のことを思い浮かべて作るのよ!
 『ちゃんと食べてくれるかな?』とか、『ライバルには負けたくない!』とか不安や対抗心を抱きながらも一生懸命に作る。
 そこにはガンジーの慈愛よりもエジソンの努力よりもモーツァルトの繊細さ以上の莫大な財産が眠っているのだ!その愛の値は実に7000L!
 これぞ人間の神秘と言うものだ。なんという希望の溢れ具合だ…もうこれだけで飯が4杯は食える!!2020年問題がなんだ!少子高齢化社会がなんだ!そんなことなどまるでどうでもよくなってくる!
 (中略)
 素晴らしい…素晴らしいぞ…その渦に飲み込まれる光景を想像しただけで気絶してしまいそうだ…あぁ…」

 恍惚とした表情で涎を垂らしている。いわゆる、ヘブン状態というやつか。このままどこか遠くの世界へと旅立っていきそうだ。
 きっと今なら自由に空も飛べるはず。

 放置されていたまりさだが涙で溢れていた。
「おねえさん…まりさは…かんどうしたよ…」
 ………マジで………?
 世界がシンクロしたアッー。2人の目が宝玉のように光光軍く。
「まりさ、まりさ、まりさああああああああああ!!!」
「おねえさん、おねえさん、おねえさああああん!!!」
 熱く抱きしめあい、価値観を共有しあう。常人にはついていけないが何、気にすることはない。


「はっ!いけない、また暴走してしまったわ…」
 急に我に返った彼女は取り繕いたいのか誤魔化したいのか咳払いをコホンと一つして、まりさから離れる。
「と、とにかく愛が大切なのは伝わったわよね!…それじゃあ、本題に戻って…まずはこの板チョコを細かく切るのよ。」
「ゆ、らじゃー!…でもどうやって?」
「この包丁を使ってね…」
 テンポよく板チョコを刻み始めた。その小気味良さは実に手馴れたものだ。流石は幼い頃から店の手伝いをしてきたというだけある。
「ゆ!すごい、どんどんちいさくなってゆくよ!」
 はしゃぎながらその包丁捌きを見つめる。
「ほら、あんたもやってみなさ…って、包丁持てないか…」
 包丁を渡そうとするが、早速詰んだ。
「ゆ!だいじょうぶだよ!まりさには…まだくちがのこってるんだから!」
 口…某海賊漫画には真剣咥えた3刀流剣士もいるし…確かに持てないこともないが…
「まりさ、包丁って案外重いよ。大丈夫なの?」
 そう、幾分、顎力のいる仕事だった。持つだけなら何とかなるかもしれないが…それを咥えて物を切るなど気が遠くなるような作業だ。

「…おねえさん…たいせつなのは…“あい”なんだよ!」
 荘厳に口を動かした。
「がーん・・・わ、わたしとしたことが…まさか弟子に愛について教わることになるとは…まだまだ…未熟だということなのか…?」
 綺麗なorzの姿勢を形成する。まりさは早速包丁の柄を咥えた。
「ゆーしょ、ゆーしょ…ゆ…なかなかおもいよ…」
 彼女はまりさの健闘するまりさの声に反応し応援を始めた。
「まりさ、逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ!!!!闘うんだ!!愛だよ、愛!ぱちゅりーのことを考えるんだ!!」
 何か、最早狂人に近い。
「ゆ…そうだよ、すべては…あいするぱちゅりーのため!!ゆりゃああああ!!」
 気合の入った掛け声と共にまりさが超高速で包丁を上下に振り回す。きめえ丸の首振りよりも…カールルイスよりも…はぐれメタルよりも速く逞しく美しく。
「これが…愛の力…」
 彼女はそのまりさが繰り広げる激闘に眩暈を覚え始めた。だが…
「ゆ…こんなもんだz…ゆがーん!!どうしてまったくきれてないのおおおおおぉぉぉ!!!???」
 チョコレートは…生きていた。粉々になる所か…全くの無傷と言っていいほどダメージがない。そう、丁度、アストロンがかけられたように。
「これは一体…」
 彼女も不気味に思ったのだろう。呪われているのではないかと訝しげにチョコレートを覗き込む。そして…まりさの包丁を見たとき…答えは導かれた。
「まりさー!逆、逆!」


 気を取り直してもう一度トライ。
 まりさは先程の奮闘で疲れてしまったのだろう。今回は実にゆっくりとした包丁捌きを披露する。
「ゆ…ゆ…ゆ…あんまりきれいにきれないよ…」
 己の拙さにしょんぼりするまりさ。
 形は不揃いだが、切るという目的はあくまでチョコレートを溶かし易くすることだ。均等に刻めた方が良いに越したことはないが。
「う~ん、別に大した問題じゃないんだけどね…と、そろそろいいよ。」
 さてさて第一段階はクリアした訳だが。

「じゃあ、次は湯せんしましょうか。」
「ゆ…せん…?ゆ!わかった、ゆっくりせんようのりゃくだね!」
 的外れな発言に微笑みを返した。
「ふふ…実際にやってみながら説明した方が早いわ。」
 大小のボールとゴムべら、温度計を取り出すと、大きい方のボールにポットの湯を注ぎ込んだ。
「いい、湯せんっていうのはね…簡単に言うとチョコレートを溶かす作業のことよ。」
「どうやってやるの?」
「55度位のお湯が入った大きいボールの中で、さっき刻んだチョコレートが入った小さいボールを…ほら、こんな風にね…」
 手本を見せたが、まりさは首を傾げる。
「ゆ…どうして55どなの?もっとあついおんどじゃだめなの?そのほうがはやくとけるよ!」
 まりさの意見は最もだその方がきっと効率は上がるだろう。
「んーとねー。あんまり熱過ぎるとチョコが不味くなるっていうか…味が薄くなるっていうか…とにかくゆっくりできなくなるのよ。」
 顎に人指し指を当てて、どうしたもんかと考えながら説明する。…後半、若干の誤魔化しが入っているが。それでもゆっくりできないというのは有効な脅し文句だ。実際、まりさはその言葉に対して敏感に反応する。
「ゆ!それはこまるよ!ゆっくりしたあじになってほしいよ!」
 懇願するように喋った。
「そうね。その為にこの温度計で常に温度を把握するのよ。ほら…この赤い目盛りがこの辺を指してればいいの。」
 指で大体の範囲を示した。
「ゆっへん、まりさにまかせてね!」
 早くやってみたいのか急かすまりさ。しかし、彼女はそれを制止する。
「もちつけって…これやる時にお湯がチョコと混ざらないように気をつけてよ。水分が入っちゃうと固める時にムラになるのよね~。」
「むら…?」
「そう、簡単に言うとゆっくりできなくなるってことよ。」
「ゆ!ゆっくりできないのはいやだよ!」

 …恐るべし、ゆっくりできない効果…

「だけど…今回ばかりは愛で乗り切れないわね…」
 確かに、手がなければボールが固定できずに不安定になる。先程のようにゴムべらを咥えてかき混ぜるのはいいが、どうしてもお湯が浸入して風味が損なわれてしまいそうだ。
「ほら、私がボールを支えてあげるから…その間に掻き混ぜな。」
 その申し出に何故か不敵に笑みを浮かべるまりさ
「おねえさん…まりさのとくしゅのうりょくがあれば、てつだいはむようだよ。」
 何やら自信ありげだ。
「まりさ…なにをしようというの…?」
「おねえさんはそこでみててね。ゆっゆっゆっ…ぼーるさん…ゆっくりしていってね!!」
 まりさが叫ぶと、どうしたことか。どんぶらこっこと揺られ揺れていた小ボールの動きが中央に収束し始める。まるで、コマのように。but,回転はない。
「これは…奇跡だ…“愛”が巻き起こした奇跡だ…」
 驚愕のあまり空いた口が塞がらないといった様子だ。
「…おまえはもうゆっくりしている。」
 決めゼリフ的な何かも吐き出した。

「どう、お姉さん?」
 ゴムべらを持ち上げてチョコレートを垂らした。
「…うん、ダマは…残ってないわね。オッけーねよ。」
「…さむい、さすがさむい。しょうわのおんな。」
 冷ややかな視線が彼女を攻撃する。
「…わるかったわね…そんなことより、次のステップよ。次は…テンパリングよ。」
「ゆ!わかった、てんねんぱーまのいやりんぐのりゃくだね!」
「はい、テンパリングとは、そうね…まぁ、簡単に言うとゆっくりしたチョコを作る為の仕上げね。」
 面倒なのか、まりさのボケにも突っ込むことなくかつ、実に簡潔な説明で済ました。
「ぐたいてきには?」
「そうね…固めるときになめらかで艶やかにするための作業よ。さっきは温めたけど今度は冷やしながらするのよ。」
 大ボールの湯を捨て、今度は水に切り替えると、棚へと向かった。
「今回は…オードソックスにココアでいこうかしら。」
 まりさはその光景を不思議そうに見つめている。
「まりさ、今度はテンパリングのアキレス腱は温度よ。チョコレートの温度を常に30度に保つ必要があるの。」
 まりさが恐る恐る尋ねた。
「ゆ…も、もしも…もしも、温度を守れなかったら…?」
 ニコニコ笑みを振り向きながら親指を突きたてた。が…ゆっくりとひっくり返す。
「ジ・エンド。その瞬間…そのチョコはゆっくりできなくなる。」
 天国から地獄へ堕ちるような動作だった。
「ゆぎゃああああ!!それはこまるよ!」
「温度はくれぐれにも慎重にね。で、30度になったらこのココアを…そうね…小さじ1杯分加えるの。そして、後は満遍なくかきまぜる。途中で温度が冷め始めたら…ほら、こっちにお湯用意してるから大ボールに足せばいいわ。」
「ゆ…こんかいはなんいどSらんくだね…」
 まりさが眉を顰めた。
「まりさ…自分を信じなさい。そして…今一度、愛の力を放出するのよ。あなたならできる。」
 優しい口調で語りかけた。
「ゆ…おねえさん…まりさ、まけないよ!」


 さあ、テンパリングへと突入。
「たいちょう!げんざいちょこれーとのおんど、38、37…35どまでさがりました!」
 …現場に只ならぬ緊張感が漂う。
「うぬ。ゆめゆめ焦るでないぞ、30度まで待つのじゃ。」
 いかにもベテランの臭いで固められた口調だ。さしずめ、司令官と言ったところか。
「ゆ!…33…32……たいちょう、まもなく30どです!ほうげききょかを!」
 物騒な単語が聞こえてくるが何、気にすることはない。
「…よし、許可する。ココア砲構え!!」
「31…30!ここあほう、はっしゃ!!」
 口からゴゴゴゴゴゴゴゴという震度2程の微妙な揺れが鳴り響いた。
「たいちょう、ここあ、とうにゅうしました、おいしそうです。たべるきょかを!」
「だめだ!まだだめだ!本当の地獄はここからだ…まりさ、掻き混ぜなさい!」
「ゆ、らじゃー!!」
 ゴムべらを巧みに駆使して、ボールの底を剥がすかの如く掻き混ぜる。その度にぐわんぐわん、洗濯機のように回るまりさの首は滑稽だ。
「いいぞ、まりさ…そのままココアの粉がなくなるまでやるんだ…そう、出来る限り逆回転でも掻き混ぜるんだ。」
「ゆっゆっゆっ!」
「まりさ!温度が下がり始めたぞ!私が小ボールを持ち上げている間に大ボールにお湯を足すんだあああああ!!」
「ゆ、らじゃー!」
 見事な連携で死線を潜り抜けた。

「たいちょう、ここあのこな、かんぜんにしょうめつしました!」
「よし!では仕上げに入る!このハートの型にそのチョコレートの流し込むのだああああ!!!お前の愛を全力で込めて!お前の愛する者の名を叫びながら!!」
 さらにヒートアップする。
「ゆ!ぱちゅりいいいいいいいいい!!!」
「まだだ、叫べ!愛してると!!もっと自分を曝け出すんだああああああああ!!!」
「ぱちゅりいいいいいいい!!!あいしてるよおおおお!!!」
「まだだ、まだ足りない!!まだ、愛が足りない!!このままでは世界は滅びてしまうぞ!お前の手で、お前の愛でこの世界に希望を灯すのだあああああああ!!!」
「ぱちゅりいいいいいい!!まりさは、せかいをすくうよおおおお!ぱちゅりいいいいいいいい!!!」

 …普通に流し込めよ…

「ふう…後は冷やすだけね…」
 ここまで2時間掛かってないのだが…3日間徹夜で仕事をやりきったような疲労感が二人を生暖かく包んだ。
 冷凍庫に入れ、ここからは辛抱強く待つ作業だ。
「ゆ…おいしく…できてるかな…」
 まりさが不安気な影を落す。
「大丈夫よ。まりさの愛を全て込めたんだから…不味い筈がないわ。私が保証する。」
 安っぽいウインクを作るが、今のまりさには宇宙一頼もしく感じられたことだろう。


 すると、彼女が俯いた。

「わたしね…思い出したよ。」

 話が見えず、まりさは戸惑う。

「ゆ…?どうしたの、おねえさん…」

「実は今日までずっとずっと忘れてたんだ。大切なこと。…チョコ作りに最も大切なのは食べてくれるお客さんへの“愛”だってこと。」

 まりさは黙って聞くしかなかった。

「私ね、父さんと母さんが死んで…この店を守ろうってこだわり過ぎたのかな…売り上げ伸ばすことや…向かいのでっかいチョコレート屋への対抗心しか持ってなかった。」

 先程までの熱く、元気な彼女が嘘みたいだ。別の仮面を被っていたのだろうか。

「お父さんの『お客様への愛を第一に』って教えをずっと忘れて…必死にもがいても、からまわりばっかでさ…だから…こんなんだから…弟にも見捨てられちゃったのかな…?」

 いつしか…その目には涙が溜まっていた。

 悔しい。情けない。

 己が愚かで…ちっぽけな人間だということが。

「おねえさん…まりさは、おねえさんすごいとおもうよ。」

「…え…?」

「おねえさん、たったひとりでいままでがんばってきたんでしょ?それに…まりさにたいせつなことおしえてくれたよ!」

 沈黙の時が訪れた。だが、そこにはどこか温かみがあって…居心地の良いまろやかさと共に溶けてしまいそうだった。

「あ、いけない…そろそろチョコレート、完成した頃ね…」

 名残惜しい表情を浮かべながらも冷凍庫へと向かった。

「うわあ…これは…どんなチョコレートよりも美味しそうだね。まりさの愛が…詰まってるわ…」
 そのチョコはどこか眩しく見えた。
「ゆ…ほんとうだね!とってもゆっくりしてるよ!」
 まりさにも何か感じるものがあるらしい。
「さてと…この箱の中に入れるけどいい?」
「ゆ!かまわないよ!」

 とうとう、まりさのチョコレートは完成した。後は…ぱちゅりーに渡すのみだ。そして…お別れの時が来た。
「ゆ!おねえさん!まりさにいろいろおしえてくれてありがとう!このごおんはいっしょうわすれないよ!」
 文句のつけようのない100点満点の笑みだった。
「いいのよ。私こそ、あなたに感謝してるわ。お陰で…大切なことを思い出せた。…今度、遊びにおいで、こんどはもっと難しいチョコレートを一緒に作りましょ。」
「ゆ!わかったよ!おねえさん、それじゃあね…ほんとうにありがとう!」
 気がつけばもう夕方だった。まりさが地平線の彼方へと消え去るまで彼女は見送った。それが、まりさへの礼儀となるから。
「…まりさが遊びに来るまでに潰れてなきゃいいけどね…」
 軽く冗談めかして呟くが切実な願いだった。
「父さん…また、1から出直します。」
 沈みゆく橙赤に向かい静かに誓った。




―――バレンタインデー当日―――


 カップルが溢れ、冬だというのにピンク色の艶やかなオーラが街全体を覆っていた。
 今年は男が女にチョコを渡す等という光景も多分に見られる変則的な年ではあるが、その恋色の雰囲気は例年と変わることがない。

 おっと、例のまりさが箱を担いで移動してる。ぱちゅりーにチョコレートを渡しに行く途中だろうか。追いかけてみよう。
 街外れの林へとまりさは向かった。そして、巣らしき穴へと入ってゆく。どうやら、ここがぱちゅりーの家らしい。

「ぱちゅりー!」
 そこには…ぐったりとしたぱちゅりーがいた。まりさに呼ばれ、声のする方向へと顔を向けるが焦点が合っていない。
「…む…きゅ…まりさ…なの…ね…」

 声も途切れ途切れにしか聞こえない。まりさは悲しげな表情を一瞬浮かべるが、すぐさま笑顔になる。

「ぱちゅりー、きょうはね、ぷれぜんとがあるんだよ。」
 果たして喜んでいるのか…それすらも読み取れない程反応が薄い。それでもまりさは笑顔を崩さなかった。
「はい、まりさがにんげんのおねえさんのところでしゅぎょうしてつくったちょこれーとだよ!きょうは、ばれんたいんだから…そ、その…だいすきなぱちゅりーにこれをおくるよ!ゆっくりあじわってね!」
 すると、ぱちゅりーは薄らと笑みを浮かべた。

「ま…りさ………あ…りが…と…」

 ゆっくり、本当にゆっくりだがお礼の言葉を述べた。
「ゆ!…まりさが…あの…えっと…く、くくく、くちうつしでたべさせてあげるね…!」

 顔を赤らめながらも一口千切ってぱちゅりーの口の中へと受け渡す。
 そしゃくしているかも分からないが、幸せそうに…本当に幸せそうに目を瞑った。
「…お…い…しい…よ…」

「そうでしょ!まりさ、ぱちゅりーにたべてもらいたくて…いっしょうけんめい、あいをこめてつくったんだよ!せかいをすくういきおいで、ぜんしんぜんれいをかけて!!…ぱ…ちゅり…?」

 先程まであったわずかな返事は…途絶えた。

「…ぱちゅりー?ねぇ、ぱちゅりーったら!ねぇ!」

 あれ…?
 なんだか…かおがあついよ…

「もっとたべてよ!おいしいんだよ!」

 あれ…?
 あまいちょこれーとが…にがくなってるよ…

「そうだ!ぱちゅりーがげんきになったらおそとでいっしょにあそぼうね!それから…けっこんもしようね!」

 あれ…?
 どうして…へんじしてくれないの…

「ぱちゅり…?…ねぇ、おねがいだから、めをあけてよ!!!!ねぇったら!!ぱちゅりー!!!!!」


 ぱちゅりーは仏様のように笑っていた。
 愛するまりさにチョコレートを貰い。
 愛するまりさの傍らでゆっくりと眠りについた。




 ―――数週間後、Bitterにて―――

 その後も店内には彼女1人という殺風景な光景が繰り広げられている。初心に帰りチョコレート作りに励むが一度取られたお客さんを取り戻すのは難しいという現実的な向かい風に邪魔されている。
 それでも、彼女は弱音を吐くことはもうない。
「さて、今日も1日頑張りますか!」
 大きく背伸びしこの日が始まる。いよいよこの日も開店時間だ。
 しかし…この日は勝手が違った。

「おじゃまします!!」
 元気の良い声が聞こえてくると思うと、あのまりさが入ってきた。
「あれ…あんた、あの時の…まりさ!?遊びに来てくれたんだ!」
 彼女は驚きと喜びの声をあげた。
「ゆ!おねえさん、ひさしぶりだね!でも、きょうはあそびにきたんじゃないよ!」
「…ん?じゃあ、一体…?」
 不審に思う彼女を背に、まりさは大声を張り上げた。
「みんな!はいってきて!!」

 すると…れいむが、まりさが、ありすが、ぱちゅりーが、ちぇんが、みょんが、めーりんが、さくやが、れみりゃが、ふらんが…ともかくあらゆる種類のゆっくりが中へと入ってきた。
 その数は悠に100を越えていた。
「きょうは、まりさはおんがえしにきたんだよ!むれのみんなとそうだんしたら、みんなでてつだうことになったんだよ!」
 彼女は、呆気に取られ、声すら出なかったが徐々に乾いた笑い声をあげる。

「あんた律儀ねぇ…そんな大きな恩売った覚えはないのに…」
「ゆ!みんなでいっちだんけつすれば、きっとだいはんじょうまちがいなしだよ!!」

 ゆっくりたちによる掛け声の大合唱が始まった。



 この後、Bitterは奇跡の復活を遂げることになる。
『ゆっくりたちがチョコレートを作り、宣伝し、売る店がある』という噂は日本中を駆け巡ったのだ。


                                            ―FIN―

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最終更新:2009年02月16日 10:29