JR東労組


鉄道業女性協議会 ソウルで水曜デモに参加
http://megalodon.jp/2013-0820-2300-34/www.jreu.or.jp/05international/page34.html
 5月18日~20日、9条連主幹韓国水曜デモに、鉄道表女性協議会から後藤議長と幹事の塚本さん2名が参加しました。
 ソウルにある日本大使館の前で日本軍慰安婦問題解決を訴え続けている「水曜デモ」に参加し、慰安婦だったハルモニたちと共に、大使館に向かってシュプレヒコールを上げながら、日本政府が公式に謝罪していない事に対し怒りと恥ずかしさが同時にこみ上げてきました。
 ハルモニたちが共同で生活しているナヌムの家も訪れ、歴史館で学習・交流会を行いました。

日本軍「慰安婦」問題の立法解決を求める国際署名提出行動開催
http://megalodon.jp/2013-0820-2303-11/www.jreu.or.jp/05international/page50.html
 11月25日(木)12時より衆議院第1議員会館大会議室において370名を越える仲間の参加の中「院内集会、内閣府への国際署名提出、記者会見」が行われました。また、15時頃より衆議院議員会館前でのスタンディングデモも行われました。この日の取り組みには、
韓国からも5名のハルモニと李美卿(イミギョン)国会議員、韓国挺身隊問題対策協議会、韓国内のハルモニと共に行動する市民の会のみなさん、ボランティアの方々など15名を超える方が参加しました。
また、田城かおる参議院議員、今野東参議院議員を含め多くの国会議員の方々も参加をしました。
 今年は、日韓強制併合100年、韓国が日帝から解放されて65年です。また、日本軍「慰安婦」問題を解決する為に「挺身隊対策協議会」を結成して20年になります。この様な節目の年に日本・韓国・国際社会で、日本軍「慰安婦」問題の解決に向けて、緊急署名運動を展開してきました。日本では関西を中心に「全国委員会」が組織され、人口の1%にあたる120万人署名を目指し取り組んできました。
 JR総連、JR東労組は、過去の戦争の真実を学び平和な社会を実現する為に国内外の労働者、市民と連帯した運動を創り出してきました。

JR総連革マルと松崎明
http://megalodon.jp/2013-0820-2306-38/www.doro-chiba.org/rekisi/rekisi_05/jrsoren.htm
 国鉄分割・民営化攻撃は、当初から動労革マルを手先として、国労、動労千葉を解体しようとする攻撃であったが、動労、鉄労、全施労などは、86年2月に鉄道労連を結成した(89年6月にJR総連と改称)。そしてその使命は、一企業一組合を一日も早く実現することにあった。
 しかし鉄道労連は、JR発足直後の87年春の時点で、すでに鉄労系の脱退騒動をひき起こすなど、最初から寄り合い所帯のお租末さをさらけだした。
 決定的な危機は90年3月の1047名の決起によって爆発した。政府は、清算事業団の雇用対策期限切れー2度目の解雇を前に四度目の広域採用を打ちだしたが、それがきっかけとなったのである。
JR総連における革マルの最大の牙城・東労組
は、「国労の再採用絶対反対」「ゴネ得を許すな」などのスローガンをかかげて、首切り要求の経決起集会を開き、そのための「スト権確立」を主張し始めたのだ。
  労使共同宣言でスト絶滅を誓ったはずのJR総連が、国労の首切りを要求して「スト」をやるというのである。これを契機に当局や鉄労系とのあつれきが再燃し、91年2月の西労組のJR総連脱退表明を皮切りに、91年5月の西労組分裂、八月の東海労組分裂をへて、西、東海、九州、四国はいずれもJR総連と決別、92年5月のJR連合結成にいたる。
 その彼、JRをめぐっては、JR東海社長葛西の愛人問題をめぐる怪文書の流布、『JRの妖怪』筆者宅への家宅侵入事件、202億円問題接の「国労が亀井に秘密献金」なるデマ宣伝、そして93年から始まり96年に頂点に達する一連の列車妨害事件などの怪事件が続発する。これらは、JR総連の崩壊がこれ以上拡大するのを阻止し、JR東日本における結託体制を維持するための革マルの手による犯行であることは明らかであった。
 98年に警察に摘発された革マルの豊玉アジトと同じマンション。
ここに松崎側近である林和美(東労組の書記であり現在執行委員)が住んでいた。松崎明と革マルの裏部隊とのパイプ役となっていた人物である。

解放 987号
http://megalodon.jp/2013-0820-2312-28/policy.ken-nyo.com/kaihou-987-1-kakumaru.html
 七月国労大会の「国鉄闘争終結」宣言と闘争団解散攻撃は、国労本部が国家権力・JR会社と組んでおこなったものだ。国労本部は、国鉄労働者-闘争団労働者の敵であり、戦後の戦闘的国鉄労働運動を清算・解体し帝国主義労働運動への合流・一体化をめざしている。
 第一に、われわれは、「和解」を拒否し「国鉄闘争終結」に反対し闘う国鉄労働者とともに闘う。この闘う国鉄労働者は〇九年反安保労研全国研究交流集会につぎのような感動的なアピールを寄せている。このアピールは、われわれのこの闘いの確信だ。「四者四団体はブルジョア政権にお願いして政治解決をというが解雇撤回が実現するわけがない。 『いくらかの解決金をもらって闘争終結したい』が四者四団体の本音である。しかしこれは許されることではない。二十年以上解雇撤回闘争を支えてくれた多数の労働者の支援をうらぎって闘争終結はできない。一〇四七名闘争は当該だけの闘争ではない。労働者階級全体の闘いなのだ。この闘争にどれだけ多くの労働者が励まされてきたかはかりしれない。今の四者四団体の行っている政治解決に反対する。私は国鉄闘争の再生そして労働運動の前進のために闘います」(「解放」九四八号掲載)。
 第二に、いま国鉄職場では大合理化攻撃がかけられている。これを許してはならない。新人事・賃金制度や全面的な業務の外注化攻撃であり、競争と分断で労働者の闘う団結をバラバラにし、資本のもとへのさらなる搾取・隷属を強いる攻撃だ。これはかならず第二、第三の「福知山線事故」をひきおこし、国鉄労働者を列車事故で虐殺する攻撃だ。
 第三に、JR総連革マルを打倒しよう。
JR総連革マルはいま使い捨ての危機にある。
国労本部はJR東日本資本に取り入りJR総連革マルの代わりに自分たちを「労働代官」として売りこもうとしている。この国労本部を打倒し、松崎の死で混乱の極みにあるJR総連革マルをせん滅せよ。まさに「おぼれる狗の頭を叩き」、JR総連革マルを完全に解体しなければならない。
絶望死した松崎
 二〇一〇年十二月九日、反革命革マル最高指導部・松崎明が死んだ。われわれは同志中原虐殺指令者の一人、松崎の打倒をこの三十四年間追求してきた。
松崎は「一九七八年までは革マルだった」と公言し、みずから同志中原虐殺を指令したことをみとめていた。松崎は生涯現役の革マルであり、革マル最高指導部として死んだ。
松崎を打倒できないままに死なせたことは〇六年六月、反革命頭目黒田寛一を打倒できずに死なせたことにつづく、プロレタリア革命運動にとっての痛恨の事態であり、われわれはこの悔しさを二・一一報復、革マル解体・絶滅の戦意に変え、全労働署人民にその完遂を誓う。
 反革命革マルは松崎の死にさいし、文字どおり一言も発しないという異様な対応をとつている。
 革マルは黒田の死にさいしては、個人崇拝の限りを尽くして「地上の太陽」だの「現代のマルクス」だのと喧伝してきた。打倒された革マルに対しては反革命通信に追悼文を掲載してきたが、それ以外の革マル分子の死に対しては一切沈黙してきた。周年ごとの追悼辞もない。
 松崎の死に対しても同様だった。革マルは一切言及せず、革マル組織の決定としてすべての革マル分子が沈黙した。これこそ松崎が現役の革マルとして死んだことの証左であろう。
 木元グループは、松崎が「革マル中央と組織的に決別」し、「政治組織と位置づけた『国際労働総研』」を松崎派独自の党として作ってきたと言うが、そのデマ性、革マルの「松崎・JR総連革マルは革マルではない」論のお先棒を担ぐ、親革マル、第二革マルぶりが、これで明らかになったとも言える。
本年三月三日、「松崎明さんを偲ぷ会」がもたれた
 JR東日本経営陣からは、常務の参列にとどまった。
八八年の同じ三月三日に中核派にせん滅された東鉄労高崎地本委員長松下勝の葬儀には、当時の副社長山之内、高崎支社長原山らJR東日本幹部が多数参列していた。
これはJR東日本の東労組に対する労政の変化を象徴している。
一水会のファシスト木村三浩が参列し、公安調査庁のスパイ宮崎学が弔辞を読む。
「JR総連聞き取り研究会」を組織し「松崎は革マルではない」とデマ宣伝を重ねてきた戸塚秀夫が[松崎は革マルではない」とくりかえすはなから
元外交官の佐藤優が「松崎は黒田の反スタ思想と疎外論は生涯捨てなかった」と「松崎=革マル」論をえん曲に語る。
 松崎の死は、松崎-JR総連革マルの総破産のすえの絶望死であった。
 『われらのインター』四〇号(一一年二月号)に松崎が死の床で詠んだ俳句が掲載されている。「D型もD民同へ涸谷に」
 この句を編集部のJR総連革マル分子は、「松崎さんの創りあげてきた動労型労働運動の伝統は、国鉄民営化の試練やその後の激しい弾圧に耐え、未来に受け継がれるはずだった。それが今、ややもするとかつての輝きを失い、岩屑の転がる涸れ谷のような日本労働運動の現状に埋没しようとしている。病の中で松崎さんの心を苛んだこの深刻な危機感」を詠っていると解説する。
 死を目前にした松崎を襲った絶望感は「深刻な危機感」といったものではすまされなかった。松崎が生涯かけて作ってきた動労型労働運動が、いまは水が干上がった冬枯れの涸れ谷のように衰微し、かつて豊かな水がとうとうと流れ下った緑なす渓流の面影はすでにないという絶望感を詠っている。その「豊かな水」がしょせん、国家権力とJR資本が日本労働運動破壊の反革命にあてがった臭いカネであり新採用社員のJR東労組への優先振り向けなどであったことをよく知る松崎が、開始されたJR東日本労政の転換を察し絶望して詠んだ句だ。
松崎の「偽装転向」の片棒を担ぎ、「松崎は革マルではない」「JR総連革マルは革マル中央派と分裂・絶縁した」と触れ回って、党派としての革マル、JR総連革マルの延命に手を貸してきたのが、木元グループだ。
松崎が現役の革マルであり、JR総連革マルが党派としての革マルの労働戦線の中核的部隊である
ことは、この論考でこれから具体的に明らかにするにして、ここではこの松崎・JR総連革マルと黒田・革マル中央派が分裂したと主張することの、論理的帰結を指摘しておく。
 「松崎は革マルではない」「JR総連・松崎革マルは革マル中央から離反・分裂した」と主張することは、少なくとも松崎・JR総連革マルはすでに革マルではなくなったのだから解体戦の対象ではない、ということを意味する。またこの主張は、革マル解体・絶減戦の「基本的勝利論」であり、そこには革マル解体・絶滅戦からの召還、革マルとの停戦と親革マル分子としての共存を願うという利害がふくまれている。
 われわれはこの連載の第三回で、木元グループの対革マル投降と親革マル分子としての析出・転落の事実を暴き出すだろう。
松崎・JR総連革マルの破産と反革命敵対
 いまJR総連革マルはJR東日本資本から使い捨ての危機にある。元JR東労組委員長の石川尚吾は『われらのインター』一一年二月号でつぎのように語る。
 「昨年九月ころ、突如として労働組合活動の規制が顕在化したんです。たとえば、組合員が転勤時に『お世話になりました』という意味でお菓子を職場においていく。これを組合掲示で知らせたら『組合活動だ』『外せ』と会社がいってくるんです。
 あるいは日勤職場で十七時三十分以降は助役がいないから会議室は貸せないと会社はいうんです。…今まででは考えられません。それが今起きているんです。まるで七〇年前後のマル生当時かと錯覚します。だとしたら堂々と受けて闘うしかないですね。これが国鉄改革を共にした労使関係なのかと思いますが」。
この労働組合活動の規制強化の背後にあるのが、JR職場でかけられている新人事・賃金制度の攻撃だ。
JR東日本は、今年一月にこの新人事・賃金制度を提案し四月実施を通告していたが東日本大震災で延期され、新たに来年四月実施を通告してきている。この新人事・賃金制度は基本給をなくし出来高払いの低賃金を強制し、労働者相互の競争をあおりたててその団結を解体する攻撃だ。攻撃対象は青年労働者であり、競争と分断を強い、低賃金でこき使おうとするものだ。
 JR東日本はこの間、JR東労組の反撃力がなくなっていることを見透かしており、かさにかかった攻撃を重ねている。
 JR東日本がJR東労組をなめる転機になったのが、〇八年三月に妥結した「ライフサイクルの深度化」攻撃だ。首都圏七支社の運転士職の労働者全員を四十歳までに駅に異動させ、駅での五年間勤務後、六~八割を運転士に復帰させるが、残りの二~四割を駅に配属するという合理化攻撃だ。運転士職の削減と駅勤務への配転攻撃であり、運転士職を拠点とするJR東労組の強い抵抗が予想されたが、JR東労組はこの攻撃に易々と屈し配転に応じた。
 この春から「ライフサイクルの深度化」施策を担った第一陣が職場に復帰しはじめたが、運転士職に戻れない労働者が続出し、現場には不満が渦巻いている。
嶋田グループとの組織的対立と混乱、JR連合の追い上げと組織人員の減少に追いつめられた東労組-JR総連革マルは、JR東日本の合理化攻撃につぎつぎと屈服し、まさに使い捨ての危機にさらされている。
 死の床で松崎の「心を苛んだこの深刻な危機感」は、この使い捨ての危機であった。この危機を生んだのは、ほかならぬ松崎自身だ。
権力・資本のJR総連革マルへの強まる包囲網に対し、松崎はいっそうの権力・資本への屈服とその走狗化でこたえてきた。
松崎は〇七年、JR総連内に「国際労働総研」なる組織をたちあげその会長職に納まり、機関誌『われらのインター』を発行しはじめた。
『われらのインター』は、生涯「黒田の弟子」を自認した松崎が五十数年にわたる反革命活動のすえにたどりついた反革命としての思想的荒廃のきわみを如実に示している。
 第一に、その核心は民族主義的愛国主義であり、天皇主義である。松崎ぱ戦前の皇道派ファシストにおのが心情を重ね次の句を詠んでいる。「雪が降る、二・二六の『義』を想う」(『われらのインター』〇九年四月号)。「義」とは、皇道派ファシストが唱えた天皇親政の天皇主義国家樹立の「義」であり、戦争とファシズムで労働者人民の闘いと団結を解体し血の海にたたきこむ「義」である。
さらに九三年十月、朝日新聞社東京本社で拳銃自殺した野村秋介を「野村烈士」と呼んで敬愛し
一水会のファシスト鈴木邦男らと親交を重ね一水会機関紙「レコンキスタ」の定期購読をJR東労組組合員に勧めている。
 ついには皇后ミチコを尊崇し、ミチコの子守歌を「とても素晴らしかった」と激賞するにいたる。
「うまい、とか、へた、とかいう問題ではない。そこに美智子さんを見た。母を見た。人間を見た。ということ。」と褒めそやしている。
「いま、問われているのは、日本の独立であり自立である」と語り、反米をかかげ日本の独立をかちとろうとしているから彼らファシストを支持するのだという。
ここで、松崎は晩年の黒田の露骨な反米愛国思想-日本民族主義とすっぽりと接合する。
 反米愛国の民族主義として出発した黒田は五十年間の反革命活動を経て、いままた反米主義的愛国主義を煽動する。かつて五一年十二月 めることによって目覚めさせられた一青年」(「まえがき」)として反米愛国を称揚した黒田は、この駄本で「アメリカ国家こそは、現代技術文明の悪の権化」であり「ヤンキー精神」の「自己過信」「傲岸な言辞」に「天罰」(!)が下るだろうと反米民族主義を煽動する(本紙〇七年四月十五日付第八八三号掲載多岐川走署名論文参照)。
 第二に、戦闘的闘いを解体し革マル組織の延命のために、右翼ファシストと元左翼転向分子の「左右融合」策動を進めている。
ファシスト鈴木邦男や大村三浩などの一水会人脈、元日共の公調スパイ宮崎堂や、元「労働情報」の樋口篤三、元協会派山崎耕一郎や元日共新日和見主義派川上徹などを『われらのインター』に呼び集め、「松崎は革マルではない」「JR総連革マルは革マルではない」 「浦和電車区事件(JR連合系組合と接触したJR東労組組合員を、JR総連革マルがつるしあげたということで逮捕、起訴された事件。
一審、二審とも有罪で、現在最高裁に上告中)は冤罪だ」といった、松崎・JR総連革マル擁護の論陣を張らせている。
 かつて国鉄分割民営化を目前とした一九八七年二月に
松崎は、元警視総監秦野章と対談し、転向を表明し、分割民営化推進を宣言した。
また同じ二月にファシスト勝共連合機関紙『世界日報』のインタビューに応じ、社会主義との決別宣言、スト絶滅と「自衛隊・核・原発」容認を明らかにする。
そしてその七月には再度『世界日報』で、「ストはやらない」「組合も日の丸を掲げるべきだ」と発言している。
 このことは、これが分割民営化推進のための「偽装転向」宣言だったのではなく、権力の手先、右翼ファシストと一体の愛国主義、民族主義の労働運動が松崎の信条だったということである。
 第三に、戦後日本階級闘争の拠点・国鉄労働運動を廃墟化しようとした松崎は、『われらのインター』によって意識的に新左翼運動の歴史的拠点の破壊を策謀した。
 まず足繁く沖縄に通い沖縄の戦闘的人士に接近し、その取りこみと解体・破壊を策動した。とりわけ沖縄戦で「集団自決の強制はなかった」という教科書検定意見の撤回を求め闘ってきた沖縄の戦闘的人士に接近し撹乱をはかっている。
 さらに三里塚闘争の破壊・撹乱をはかっている。松崎は、三里塚闘争を「否定した自分を反省しなければいけない。私が皆さんとお会いした時に、済まなかったとお詫びしなければと思った」と語る。しかし、「成田の農民たちの生きる権利を奪う土地収用法による農民たちの土地の暴力的収奪。そしてそれは軍事大国化にも反対する心ある人民の闘い」に対して、革マルは、松崎・動労革マル自身は何をしてきたのか?
 七一年には野戦病院車両を襲撃し、七七年三里塚全国闘争の当日には京葉道路に鉄クギをばらまいて三里塚決起を妨害した。戸村委員長の死去に対しては「戸村が死んでおめでとう」なる黒枠葉書を送りつけ北原事務局長を「権力のスパイ」呼ばわりした。その三里塚闘争に対する敵対・破壊は数知れず、革マルは三里塚闘争から永久に放逐された。
なによりもジェット燃料貨車輸送阻止を闘う動労千葉に対して、執ような襲撃を加えたのは松崎・動労革マルである。
 反革命革マルは、狭山-部落解放闘争の歴史的な敵対者であり、部落抹殺論をもってする差別主義者である。七七年八・九上告棄却をうけて、反革命革マルは「未解放部落の存在に起因する種々の差別事件」と、”部落かあるから差別かある”という極悪な部落抹殺論を展開した。
いま、JR総連革マル-反革命革マルはJR革マル分子田城郁(たしろかおる)などをとおして、狭山闘争への差別主義破壊潜入を策している。
 東大安田砦決戦から逃亡・敵対した革マルは、東大闘争-全国教育学園闘争の敵として全国・全戦線でたたき出された。いまになって松崎は、「東大闘争に参加しなかった」反省を語る。機動隊の背後から、東大闘争に敵対した革マルが、歴史を偽造・歪曲しようとしているのだ。
沖縄人民解放闘争、三里塚闘争、狭山-部落解放闘争、そして東大闘争に対して、松崎が言うように「革マルが闘わなかった」だけではない、闘いの破壊をねらって執ように介入と敵対をくり返してきたのだ。
一〇年五月二十三日、九州でおこなわれた最後の講演で松崎は、国鉄分割民営化当時の金丸信はじめ権力者との交友を自慢し、一水会鈴木邦男と野村秋介との親交を語る。そして、「いまこそ日本の独立が必要だ」と公言している。
 これが松崎最後の言葉であった。松崎は労働者階級人民に敵対して、権力・資本と右翼ファシストと隊列を組み、日本の独立のために闘おうと訴えた。死せる黒田と同じく、反米愛国の日本民族主義の泥沼におぼれ絶望死をとげた松崎は、労働者階級の敵として打倒されるべき骨の髄からの反革命であった。
 松崎-JR総連革マルの反革命敵対の数々を白日のもとにさらし暴き出し、その怒りを二・一一同志中原虐殺報復、革マル解体・絶滅の戦意へと転化させ、解体・絶滅戦の爆発-完全打倒戦闘を闘いとろう。

解放 987号
http://megalodon.jp/2013-0820-2328-29/policy.ken-nyo.com/kaihou-987-2-kakumaru.html
革共同第三次分裂と動労革マル
一九六三年革共同第三次分裂によって誕生した革マル派は、学生部隊のほかは労働戦線では国鉄労働運動-動力車労組に一定の部隊を持っていた。
六一年に初代動労青年部長になった松崎は、第三次分裂に際し革マル派副議長に就任した。
 第三次分裂の中核・革マル両派の対立点の一つが、六二年五月の三河島事故をうけての動労運転保安闘争における二段階戦術をめぐる論争だったとされている(黒田『日本の反スタⅡ』)。「広く大衆運動として運転保安闘争を闘い、闘争の一定の集約段階で指導部の裏切りを暴露し革共同の立場・方針を公然と訴える闘争方針」は大衆運動主義的誤りであると黒田・松崎が批判し、その是非をめぐり、分裂した。この批判のなかから、革マルは「組織戦術」を緻密化していく。
 動労革マルは動労内社民左派の「政研」に加入戦術をとり、もうひとつの社民フラク「労運研」を排除して動労内多数派になりあがっていく。松崎は動労関東地評事務局長として機関助手廃止反対闘争、マル生粉砕闘争を組織し、東京地本書記長として六九-七〇安保闘争を組織する。
 七五年のスト権ストでは動労東京地本委員長として八日間の空前のストライキを組織するが、敗北する。スト権スト敗北を機に、動労本部中執に占める革マル派の数は急増し、最終的には七七年の水上大会で「政研」派が動労本部の多数を制する。七九年には中執全員が革マルないしは「政研」メンバーで占められるにいたる。スト権スト後、革マル派は動労青年部、東京地本のみならず動労本部におけるヘゲモニーを確立していった。
大衆運動が敗北し後退すると革マル組織が拡大するという事態は、六九-七〇安保闘争敗北ののちにも起こった。
対権力・対資本の闘いで労働者人民が敗北すれば、その敗北した労働者人民の背後から革マルが襲いかかり、弾圧とテロで傷ついた部分をたたき出して機関をのっとり、「革マル拠点」にしてしまう。
こうして権力・資本の攻撃といっしょになって戒厳令を敷き、権力・資本と闘わない路線に転換させ闘いを廃墟化させるのが革マル派だ。
 八○年には革マルの解放派労働者襲撃に対する報復戦として、九・二二動労小谷せん滅戦を闘いとった。小谷せん滅は異様な衝撃をもって権力、国鉄当局、革マル、諸派にうけとめられ、以降の動労革マル(-JR総連革マル)打倒戦闘の突破口を切りひらく戦闘となった。
 松崎は国鉄分割民営化の反革命先兵として突撃し、「冬の時代の労働運動」基調のもと、”「国策」としての国鉄分割民営化には反対しても勝てっこない、分割民営化に反対するのは敗北主義だ”として、分割民営化を積極的に推進し国鉄労働者を大量に解雇する攻撃の手先となって国鉄労働運動に敵対し、そのなかで革マル組織の拡大をめざす方針をとった。分割民営化反対を闘う国労、動労千葉、全動労などの組合に権力・資本と一体となって暴力的に襲いかかった。
松崎は党派としての革マル内部でも合理化推進の「日の丸労働運動」を推進し、松崎を見ならって「酒とゴルフの労働運動」に明け暮れる「ダラ幹」どもで革マル労働戦線は満たされた。
八七年四月、国鉄分割民営化が強行された。反対する国鉄労働者はJR各社から一斉に排除され、動労革マルが優先的に選別雇用された。
自殺した国鉄労働者は二百名を超え、二十万を超す国鉄労働者が職場を追われた。革マルは労働者階級の裏切り者として、だれにも明らかになり、プロレタリア革命闘争にとっての革マル解体戦の死活的重要性が鮮明になった。七三年以降の対革マル死闘戦に対して「内ゲバ」としてどちらかといえば批判的に見ていた労働者人民の中にも、対革マル戦支持が圧倒的に拡大していった。
 革命軍は八七年十月、JR総連革マル分子荒川をせん滅(のちに死亡)し、以降の連続的なJR総連革マルせん滅戦の口火を切った。
「賃プロ主義」の台頭
 革命軍は八九年十二月、JR総連総務部長田中豊徳を打倒した。さらに九三年八月には、JR貨物労革マル中村辰夫をせん滅・打倒した。
 この時期に、松崎-JR総連革マルが進める「酒とゴルフの労働運動」に反発するグループが、革マル労働者組織内部に形成されていく。やがて黒田から[反スタ魂の抜けた賃プロ魂注入主義(賃プロ主義)」と呼ばれることになるグループである。
 八九年三月春闘総決起供会で、”原則的な思想闘争を拒否し組織の「厳格さ」に反発する傾向”への批判が提起された(「三・五提起)。「賃プロ主義」の初期の現れであった。
 「賃プロ主義」は九一年春ころから革マル組織を制圧し、九三年夏ころまで革マル組織の実権を掌握しつづけた。「賃プロ主義」は、JR総連革マルにならって「冬の時代の労働運動」の名のもと合理化反対の姿勢すら示さず合理化を積極的に推進する部分を、「組合主義的偏向」と規定しその打倒を推進した。その標的は松崎であり、JR総連革マルであった。
 九一年六月には反革命通信紙上に「ダラ幹松崎」と松崎を罵倒する論文が掲され、「組合主義的偏向」と見なされた産別革マルが拉致・監禁されて自己批判を強制される事態が続発した。九二年三月には沖縄の教労革マル高橋利雄が内部テロで殺害された。九二年五月反革命政治集会では、森茂、土門、朝倉、山里、西條の五人の中枢指導部が演壇にひき出され、それぞれ自己批判を強制された。九二年七月には沖縄革マルの創始者=山里が拉致・監禁され自己批判を強制される。沖縄の革マルはこれに一斉に反発、山里救出に動き沖縄派遣の中央派革マル革マルと沖縄現地で暴力的に衝突する事態となった。
 「賃プロ主義」の革マル支配は、九三年七月、突然終わった。黒田が松崎路線支持を表明して、「一匹オオカミ的・はねあがり的闘争スタイル」の「左翼急進主義的傾向」と批判された「賃プロ主義」者は一掃された。
革マル「非公然」アジト摘発と神戸謀略運動
 九六年八月、警視庁は革マル「非公然」アジト=綾瀬アジトを摘発した。押収資料を分析した権力は、いぜんとして松崎が黒田と並ぷ革マルの最高指導部であると発表した。
革マルの「非公然」アジトが、九八年一月の豊玉アジトにつづき、同年四月浦安アジトも摘発された。ともに革マル「非公然」部隊の軍事アジトであり、豊玉アジトはJR総連革マル専従林和美が居住していたマンションであった。この後も毎年のように革マル「非公然」アジトが摘発されつづけ、革マル組織は権力の手のひらで丸裸にされ、その分、革命派破壊のために権力に忠誠を示すことでよりいっそうの屈服と走狗化を深めた。
 革マルは、九七年五月に神戸市で発生した「連続児童殺傷事件」を権力の謀略だとでっちあげ、「神戸謀略」論デマ運動を党派の総力をあげ組織した。「神戸謀略」論のあまりの荒唐無稽ぶりに、革マルは労働者人民から総スカンを食らった。「謀略」論でっちあげのための住居侵入や窃盗などをくりかえした革マル「非公然」部隊は指名手配され、革マル中央の軍事担当「鬼塚龍三」=塩田明男も逮捕された。指名手配された「非公然」メンバー全員が、逮捕されるかないしはその多くは自首して逮捕された。
 これだけの打撃を受けても革マルが神戸謀略運動を組織するのには理由があった。それは、九六年五・一四戦闘で五十風が打倒されたこと、黒田が議長を「辞任」したこと、 「非公然」アジトがつぎつぎに摘発されたこと、そしてJR総連革マルが危機におちいり、JR東日本労政が松崎-JR総連革マルをかならずしも偏重するものではなくなる動きがでてきたといった事情のためである。
 さらに、九五年九月「マロウドイン大宮秘密会議」が革マルに察知され、JR総連-JR東労組内の旧鉄労系組合役員の革マルからの離反の動きが明らかになった。十二月には旧鉄労系組合員がJR東日本新潟支社を中心に集団脱退し、新組合「JRグリーンユニオン」を結成した。JR東日本の「リーダー研修」が反JR東労組の内容でやられているとしてJR総連が中止を要求するなど、
革マルとJR東日本資本との蜜月関係が崩れはじめていたことがある。
 革マルには、鉄道事故を謀略だとでっちあげて(中には革マルの自作自演と思われる「鉄道事故」もあった)、戦後の三大鉄道謀略事件(下山、三鷹、松川事件)のように革マルが謀略でねらわれている、弾圧されている、だからJR総連を守れという、その事例として神戸謀略運動をでっちあげる必要があった。
神戸謀略運動は、党派としての革マルがJR総連革マルを総力をあげて支援するためにでっちあげたデマ運動である。松崎は黒田なき後の革マル中枢に位置して、このデマ運動を精力的に指令し組織し、JR総連革マル組織の延命をはかった。
第三回 革マル労働運動論批判と解体戦方針
http://megalodon.jp/2013-0820-2342-50/policy.ken-nyo.com/kaihou-987-3-kakumaru.html
革マル労働運動論
 革マルは、合理化攻撃に対して闘う方針-反合闘争方針がない。一応、合理化とは「生産過程の客体的側面における合理化に見合った形態での主体的側面の合理化」であり、「反合闘争においては生産過程の合理化反対だけではなく、組合組織の防衛を反合闘争の課題としなければならない」とはいう。
これが組合組織の防衛のためには、生産過程の合理化を受け入れていい、という方針につながる。
革マル自身にとっては、反合闘争が闘う確信ではない。労働組合組織の防衛とその過程での組合内革マル組織の拡大が自分たちの確信になっている。
だから反合闘争の中味は、社民や連合のそれとまったく変わらない、いやそれでいいのだというのが黒田-松崎が合理化について言っていることである。
 ここからかの悪名高き「A=B方針」が生まれる。
 反革命通信一二〇七号(九二年三月二日付)で「賃プロ主義者」=「長浜精一」はつぎのように言っている。
 合理化攻撃に対してあくまでもこれに反対して闘うという方針(A)と「冬の時代の労働運動」という情勢下で譲歩して合理化を認めるという方針(B)がある。
分割民営化攻撃に対して動労革マルは「組合組織を守りぬくために自覚的に一歩後退するというような内容を持つ方針を、つまり、一歩後退しながらも前進するかまえを堅持するというような特別な方針」をとった。これを長浜は「A(=B)」方針と表現している。
 ところが、「組合主義的偏向」に陥った部分は、Aの部分を取り払い事実上Bの部分だけの方針に切りつめた(「A=B方針」)。
つまり、反合理化で闘っても勝てないから、積極的に合理化を推進し当局の合理化攻撃の手先になることで延命しようとする産別革マルが続出したのである。
長浜は「組合主義的偏向」に陥った産別革マルを、組織戦術を没却している、組織現実論の体得がなってない、と説教するが、「組合主義的偏向」に陥った産別革マルは、松崎がやったことをちょびっとまねただけであり、長浜が彼らに説教するなら、最大の「組合主義的偏向」は松崎ではないか、動労革マル(JR総連革マル)ではないか、なぜ松崎-動労革マル(JR総連革マル)には説教しないのだ、という反発が出てくる。
 しかし、革マルにはそれはできない。松崎とその背後にいるJR総連革マルが革マルの本隊なのであり、革マルの組織力はすべて彼らに頼っている。組織財政も、機関紙誌や黒田本の売りあげも、政治動員もすべてJR総連革マルがいるから成立しているのである。まさに「背に腹は代えられない」のだ。
 黒田亡き後は、松崎が革マル組織の事実上のトップとなった。六三年革共同第三次分裂当時の政治局員は黒田が死に、森茂が失脚し、松崎しか残っていない。残された植田や前原などの政治組織局員が束になってかかっても、松崎ひとりに対抗できない。
 その松崎が死んだ。JR総連革マルにとって、また革マル組織そのものにとって、その穴は誰にも埋められない。二・一一報復、革マル解体・絶滅戦の好機である。革命的テロルで打倒せよ。
革マルの危機
 JR総連革マルはJR資本による使い捨ての危機にある。自治会非公認化と学生会館からの革マルボックスたたき出しで早稲田大革マルは拠点喪失の危機にあり、学生革マルも大阪経済大や沖縄国際大など地方拠点大学の失陥が続いている。沖縄革マルは九四~九五年問題=沖縄革マルの集団脱走の組織的打撃を回復できていない。「私の後継者は組織そのものだ」と語った黒田は、スターリン主義組織の常としてナンバーツーを排除してきた。黒田死亡後の革マル中枢には、こうして課題山積の革マル組織を束ねていける力を持った指導部は不在である。
 革マルの解体的危機をとらえて、いまこそ革マル解体・絶滅の革命的テロルをたたきこめ。
革マル解体戦総決起を
 いま革マルは、朝鮮反革命戦争突撃下の反革命として、対朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、対中国排外主義を扇動し、解放派に対する組対法-破防法型弾圧に乗じて、三・一一東日本大震災後の冶安弾圧強化の先兵として自衛隊・警察応援団となっている。
 三里塚、狭山、国鉄、沖縄の闘いは、反革命革マルとの闘い、その解体打倒をもってしか、戦闘的大衆運動として一歩前に出ることはできない。日本階級闘争は革マルとの闘いのなかから、このような戦闘的で大衆的な闘いを生みだしている。徹底してこの闘いの戦闘的推進力として闘いぬくことをとおして、戦闘的で大衆的な闘う拠点の建設を対革マル死闘戦のなかから闘いとらねばならない。
 革マル中枢、白色テロ部隊、JR総連革マルのせん滅を闘いとれ。二・一一同志中原虐殺の敗北をこえる革命党指導部防衛の闘いの飛躍を闘いとろう。同志中原虐殺報復、革マル解体・絶滅戦の総決起にむけて、革マル批判の思想闘争と学習活動を重ね、対革マル死闘戦を闘いぬく組織戦をもって革マル打倒の戦意と組織的集中力を鍛えあげ、反革命革マルを革命的テロルで打倒しょう。
対革マル戦逃亡分子=木元グループ
 木元グループの九九年五・四~五革命党本部襲撃は、そうなれば革マル解体戦が困難になりもっとも喜ぷのが権力と革マルであることを十分わかったうえで しかけられた解放派分裂・破壊攻撃であった。
「ゴスペルと闘わなければ革マルとも闘えなくなる」という、五・四~五直前の解放派分裂・破壊への警告的批判は、まさに図星だったのだ。
こんにち木元グループは、「松崎は革マルではない」「JR総連・松崎革マルは革マル中央から離反・分裂した」とキャンペーンしている。
 浅子の書く「革マル批判」は、革マルからの情報や嶋田グループなどのインターネット情報、動労と組んで国労高崎つぶしに奔走した宗形明の怪しげな情報(警察、JR資本からの情報)などに依拠し、すべて「松崎は革マルではない」「JR総連・松崎革マルは革マル中央から離反・分裂した」という視点から整序し直した雑文にすぎない。
 最近の「崩壊」九七六号(六月十六日付)でも「松崎は革マルではない」「JR総連・松崎革マルは革マル中央から離反・分裂した」論を維持しているが、われわれの「松崎は革マルとして死んだ」「JR総連革マルと革マル中央は、同じ革マル。役割分担にすぎない」という暴露・批判に浅子はグラグラになりながら「離反・分裂」論はアリバイ証明的にこっそりと一回しかふれていない(〇七年ころの浅子「革マル批判」雑文中では、四回も五回も「離反・分裂」論を書いている)。
 松崎は思想的にも,の弟子」であることを自認していた。革マル中央は決して松崎を批判せず、「会長」=松崎擁護で首尾一貫していた。両者は革マル中央派の反革命暴力と松崎-JR総連革マルの財政・機関紙誌購入・動員力などの相互利用にとどまらない。党派としての革マルと一体であり、両者の違い・対立には、党派活動と党派の影響力の強い組合活動の間にあるどの党派・潮流でもある「役割分担」以上のことは、存在しない。
それを「離反・分裂」したとでっちあげるのは木元グループにでっちあげる利害があるからだ。
それは、対革マル戦を闘わない利害、革マルと共存して大衆運動を平穏に展開したいという利害、木元グループ解体戦を戦略的課題として公然とかかげ五同志虐殺に報復すると宣言している解放派に対して革マルに守ってもらいたいという利害、対革マル死闘戦を戦わないことをもって国家権力に選別的に庇護され解放派への弾圧をこいねがうという利害である。
その利害の帰結は、「JR総連革マルは革マルではないから打倒しない」ということであり、これはJR革マル解体戦をその重大な戦場とする革マル解体・絶滅戦の戦略的放棄を意味する。
 革マル解体・根絶戦を徹底して闘いぬきその戦果をもって、言葉の本当の意味で対革マル戦逃亡分子である木元グループを、報復・根絶の革命的テロルで打倒しよう。二・一一同志中原虐殺報復、革マル解体・絶滅の闘いにたち、革マル中枢、白色テロ部隊、JR総連革マルを打倒しよう。

最終更新:2013年08月20日 23:55