749. 名無しモドキ 2011/01/03(月) 10:06:14
忘れられた戦場    −マニラの夕焼け−

  台風シーズンの終末、12月上旬にルソン島南部に上陸した台風は、各地
に甚大な被害を残して東シナ海へと去っていった。

マラカニアン宮殿

  フィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)の大統領マニュエル・ルイ
ス・ケソンは、スペイン系財閥のソリアノ家当主と、非公式な会食を行って
いた。

「私が、最後ですな。」

「ええ、アヤラ家、ロハス家とは先週、お話をさせていただきました。」

ケソンは、テーブルの周囲にいた給仕たちに目で合図した。給仕たちは部屋
を出て行った。

「さて、言うまでもないが、私はアメリカあってのフィリピン大統領です。」

「その基盤が危ういですな。」

「だが、フィリピン国民に選ばれた大統領でもある。フィリピンとアメリカ
の利益が相反する場合には、フィリピンを優先する気概は失っていません。」

ケソンはゆっくり息を吹き出した。

「ここからは、独り言だ。アメリカの保護下にあるが、我々が日本との戦
争を決断したわけではない。
  だが、日本軍の封鎖で我々の経済状況は苦しい。特にあなたのビール工場
などは、原料  が入ってこないからほぼ休業状態だ。」

「確かに、マレー経由で、細々、輸入はしてますがね。中華系のアキノ家が
マレーシアの華僑に船の世話を頼んでくれましてね。
  イギリス領マレーシア船籍、つまり中立国の船ということで、日本軍の臨
検を受けて航行しています。ただ、できたビールは、ほとんどが、軍票で強
制的にアメリカ軍が買い取っていく。まあ、アメリカ軍相手の慈善事業だと
思っています。」

「アメリカ軍が軍票を、更に1億ドル発行すると非公式に伝えてきました。」

「1億ドルですか。1億ドルと書いた紙切れだ。」

「そう、だがそれを強制的に、流通させる。アメリカ軍が購入する物資、ア
メリカ軍に雇用される人間の賃金は、その軍票が強制的に使用される。」

「ペソとの交換比率は?」

「今まで通り。実勢の交換比率なら、アメリカ軍の給与は、今や、フィリピ
ン人の平均収入とほぼ同じか、それ以下になってしまう。」

「それでは、遊びにも行けませんな。だが、無茶が過ぎる。」

「ただ、アメリカ軍が、それを強制できるのか。嫌がる商人に軍票を押しつ
けて物を奪っていく。そんな光景が日常茶飯事になるのか。」

「それは無理でしょう。暴動が起こる。反米ゲリラが跋扈しますよ。」

「だから、アメリカ軍は、我がフィリピン政府に対して、等価のペソとの交
換を要求しています。」

「1億ドルといえば、フィリピンの国家予算の2年分だ。言い換えれば、
1億ドルの負担を我々にしろと言っているに等しい。」

「ただでさえ、食糧をはじめ、物資の不足によるインフレで国民の生活は困
窮している。とても、フィリピン経済は耐えられないでしょう。
  アメリカとの戦争で60万以上のフィリピン人が殺された。だが、我々が、
アメリカに好意的なのは、植民地にも拘わらず、アメリカが公共部門を含め
た投資をしたからだ。
  学校教育も彼らの手で始まった。内政はフィリピン人の自治が認められて
アジアの植民地の中では、最も恵まれている。経済的な従属は免れないとし
ても、政治的な独立も約束されている。
  だが、付き合いにも限度はあるでしょう。」
750. 名無しモドキ 2011/01/03(月) 10:17:11
「しかし、経済混乱は、このフィリピンに多くの資産を持つマッカーサー元
帥も困るでしょう。」

「そこまで、窮しているのですよ。マッカーサーは、戦争終結時に、アメリ
カ政府が補償すると言っていますが、慣例的にも敗戦国の軍票は補償されま
せん。」

「どうされるおつもりですか。」

「断ります。で、ただ、現金で1000万ペソの借款を与えます。」

「当座を、凌ぐなら乗ってくるでしょうな。」

「帰国時には精算してもらいますがね。」

「彼らが更なる借金をしないことを祈ります。」

「また、現在、アメリカ軍の指揮下にあるフィリピン国軍のうち、2個師団
を我が政府の指揮下に戻します。」

「承知しますか。」

「承知しなければ、毎日何百人もの脱走兵が出るでしょうな。そして、脱走
兵による治安  悪化防止のために我々が作る治安部隊が、毎日何百人も増員
される。」

「そこまで、おっしゃるには、わたしが、アメリカ軍にご注進をしても、ど
うにもならないくらい計画ができあがったいるわけだ。」

「別にご注進して貰ってもいいのです。計画を阻止しようと私を拘束なり、
暗殺して軍政を引けますかな。フィリピン全土を、アメリカ軍が制圧できま
すか。
  日本軍が攻めてきたときは、フィリピン人部隊の前に立てなくなりますな。」

「で、二個師団を指揮下に入れてどうします。」

「まず、この大統領官邸周辺の警備ですかな。自国の軍隊が、政府機関を守っ
ているのは当たり前でしょうから。
  また、将来、ある集団を武装解除するときには、この程度の部隊は、最低
限、必要でしょうから。

  次に日本人収容所の警備をアメリカ軍から引き継ぎます。戦争直前に、か
なりのフィリピン在住の日本人が、帰国しましたが、数百名の日本人がアメ
リカ軍に拘束されました。
  収容所では、あまり快適な扱いを受けていないようです。特に初期には、
少なくない数の女性が不幸な体験をしたと聞いています。
  その日本人たちは民間人ですから、アメリカ軍ではなく我が国が収容管理
します。そして、日本人に、手厚い扱いを与えようと思います。」

「やはり、その方向ですか。」

「我が国は鉄鉱石の産出国だ。アメリカという遠方に輸出するより、輸送費
の関係で、日本はより高価に買いたがるでしょうな。
  それに、周囲を見渡してご覧なさい。上手く管理すれば半永久的に輸出で
きる資源が眠っている。」

「そうか、森林資源だ。」

「よろしいかな。」

「あなたは、この国の大統領だ。」

「この国は、数十家族の地主が土地の半分を支配している。問題はそれでは
ない。彼らがそれで満足していることだ。
私は革命を起こす気はない。その資産を、商業や工業に投資して、国民を
豊にして欲しい。そうすれば、市場が拡大してより多くの利益を手に入れら
れる。
その良い例が、アジアにはある。貴方には、その手本になって欲しいと思
っています。」

  ケソンは、窓からマニラの夕焼けを見た。パステル画のように、柔らかな、
それでいて、空一面に刷毛で刷いたような黄色が混じったピンクの夕焼けが、
黄昏を告げている。

「まるでターナーの絵ですね。」

(注:ターナーは19世紀前半に「夏のない年」をもたらしたタンボラ山噴
火の時、火山灰のため見られた異常な夕焼けを描いたとされる。)
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最終更新:2012年01月03日 21:40