824 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/21(火) 20:27:10 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [161/218]
――征独日本世界ネタ 「主力空母狂奏曲」その1


1936年12月、帝国海軍のごく一部は大荒れ状態となっていた
ところは艦政本部。帝国海軍の軍艦設計を一手に担うエリートたちの牙城である
そんな場所は朝から二つの話題でもちきりだった。
ひとつは、一週間前に乗用車の飲酒運転事故に巻き込まれて殉職した日本造船界最大の実力者 平賀譲の葬儀について
そしてもうひとつは、その席上で犬猿の仲のはずの二人の技術者が固い握手をしたことだった
福田啓二と江崎岩吉
平賀譲と、彼と犬猿の仲であった藤本喜久雄という造船の大家の弟子筋にあたる造船技術者である
そんな彼らには、ロンドン条約明けを見越して設計が進む新型戦艦の設計主任の座を巡り当初は藤本と江崎のコンビで設計が進んでいたものの藤本の死によって復権した平賀の圧力により福田が取って代わることになり江崎が呉海軍工廠に左遷されるという一方ならぬ因縁が生じていたのだが…
そんな様子など感じさせずに、二人がその舎弟である牧野茂を引き連れて登庁してきたのである
どうやら劇的な和解に至ったというのは本当のようであった
三人ともが平賀が事故死した日に突然倒れ、「今は何年だ?」と同じボケをかましたあたりもともと波長が合うものがあったのかもしれない

そして艦政本部長の執務室に入ったかと思えば数刻の怒鳴りあいの声が響き――緊急会議が開催された
その席上も同じく怒号に満ちた
三人の技術者が述べたのは

「既存の主力艦の設計の欠陥」
「今後建造予定の新型艦の設計大改訂」

という主張だったのだから
当然喧々諤々の議論が発生する。三人はまるで用意してきたかのように議論内容に介入
特に牧野茂が暴露した「第四艦隊事件前の警鐘を平賀が握りつぶしていた」という艦政本部の責任問題にもなりかねない事実をタテにされ、その要求に渋々従わざるを得なくなってしまったのだった
特に旧平賀派にとっては福田の唐突な変節にも映ったこの動きの結果、特に帝国海軍がロンドン海軍軍縮条約の失効を見越して計画していた大型艦艇には大きな変更が加えられることになってしまった
特に大きな問題となったのが、のちに「翔鶴」型と呼ばれることになる航空母艦だった
艦政本部は、時間と技術開発上の難点から退けられたはずの飛行甲板の装甲化を再び提起したのである
それは、要求された航空機搭載能力が削られることを意味し、極端なことをいえば艦政本部の用兵側に対する反乱に等しかった
同時に再検討が海軍省に報告された「大和」型戦艦についてはまだよかった
さらなる攻防性能の強化が行われると報告されていたし、もともとが呉の建造ドック拡張に加えて横須賀には新ドックの建設すら行われる大計画だったのだ。予定を少し変更すれば済むと用兵側は考えたし、性能向上には彼らは鷹揚だった
(大和型戦艦については別の機会に記すことにする)
だが「翔鶴」型は攻撃力が減少するという点で用兵側にとって問題とされたのだ

渋る海軍省には、連日の再検討と図面引き直しで徹夜続きの三人の技術屋が乗り込んだ
彼らはひとつの切り札を持っていた
翔鶴型で採用予定だった防御構造、ある個所の隔壁を意図的に弱い構造にすることで爆発の威力を一方向へ逃がすという基本構想が役に立たないことを証明した呉海軍工廠(江崎と牧野の影響力の強い職場)での実験結果だった
簡単にいえばガソリンの爆発と爆弾の爆発では爆発の質が違ったのだ
従来空母のごとく、一撃で航空母艦が使用不能になるという危惧が再燃したことで海軍省も折れた
艦政本部の多くの部員の血と汗とナニかを犠牲にしさえすれば、12月末に閣議決定予定の第三次海軍軍備拡充計画(マル3計画)への影響は最小限で済むのだ
何より、予算獲得が決まるであろうときに大きなもめごとはごめんだった
(なお、計画改定に伴い新規調達を削減された潜水艦隊から怒鳴り込まれるという椿事も起きている)

825 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/21(火) 20:27:45 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [162/218]
こうして改設計が開始された「翔鶴」型は日本初の「装甲空母」へと変貌することになる
計画よりも幅広な30メートルの船体と、新開発予定の舷側エレベータ、そして特徴的な2本目の飛行甲板を船体後部に斜めに組み合わせた斜め飛行甲板(英名アングルドデッキ)の採用がその大きな外見的特徴となる
さらには装甲化により下へ折り曲げられていた従来の煙突構造が採用できなくなったことから島型艦橋と呼ばれる斜め煙突と一体化した艦橋も採用された
艦首は飛行甲板と一体化した密閉型のエンクローズドバウ構造が採用
これらの措置により航空機搭載力は65機とひとつ前の飛龍型航空母艦と同等となったが、これは艦載機の大型化傾向をも考慮に入れられて格納庫の大きさに対して相対的に定数が減少しただけであると押し切られた
何より、飛行甲板の広大化に伴い米海軍でも行われている露天係止を採用すればこの減少を大きく上回る数を搭載可能であるという点で用兵側は矛を収めたのだった
当初は、あまりに新機軸を連続することから建造が危ぶまれた翔鶴型だったが、当の提唱者たちはまるで知っていたかのように発生した各種問題を解決してのけ、反対者を黙らせた
この過程で、予備計画としてねじ込まれていた改飛龍型航空母艦の大量建造という構想は息の根を止められることになる
唯一問題とされたのが、搭載を予定していた油圧カタパルトの開発難航による後日装備化であったがこれについては後述する

翔鶴型航空母艦はこうして1937年12月に1番艦翔鶴が横須賀海軍工廠において起工。翌年5月には川崎造船所において2番艦瑞鶴が起工された
大方の予想に反し、建造は順調に進捗し、それに比例して海軍の期待は大きなものへと変わっていった
そんな彼女らに追い風が吹く
1938年11月、海軍軍人であった米内光政の首相就任である
そして米内は、海軍次官であった山本五十六を海軍大臣に据えた
彼は航空機を将来の海軍の主力と認める生粋の航空屋だった

(続く)

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最終更新:2023年05月27日 19:24