紅魔館内に存在する王の間。紅魔館の主とその許可を得た従者以外入室することを許されない禁断の領域。
だが王の間と呼ばれているにもかかわらずその内部構造は西洋の王室と言うよりも教会の聖堂に酷似している。
キリスト像の代わりに悪魔の像が掘り込まれた柱。気が遠くなるほど高いドーム状の天井。
祭壇の代わりに存在する床と一体化した豪奢な玉座。その後ろから月光以外を通さない紅のステンドグラスが光を放つ。
そしてその光を背に一人の少女が玉座の上に座っていた。
その少女を一言で表すなら紅という言葉がしっくり来るだろう。
桃色と赤色を基調としアクセントに黒い悪魔の羽のような模様の入ったドレス。それと同色のナイトキャップ。
病的なまでに青白い肌。そして中でも目を引くのがその瞳だ。
血のように鮮やかな紅い色の瞳。闇の中でも爛々と輝くそれが少女は人ならざるものであるということを主張している。
少女の名はレミリア・スカーレット。紅魔館の主にして幻想郷の中でも屈指の力を持つ吸血鬼の貴族。
人間はもちろんのこと妖怪からも恐怖の視線を向けられるレミリアだが今はどこか物憂げな表情で自身の前髪をいじっていた。
指で毛先を引っ張ると少し癖のある髪が伸び、指を離すと緩やかにウェーブをえがいて元に戻る。
そんな行為を何回か行った後だろうか。
レミリアが再び前髪を伸ばそうとしたそのとき、何も存在しないはずの空間に突如として人が現れた。
それはとても美しい少女だった。怜悧で整った顔立ちに月光を反射して鈍く輝く銀色のショートヘア。
少女の華奢でしなやかな肢体は紺色を基調としたメイド服に包み込まれ隙のない完全な美しさを醸し出している。
だが完全であるはずの少女には一つだけ欠けているものがあった。
それは表情だ。切れ長の青い瞳も薄く結ばれた唇もまったく微動だにしない、喜怒哀楽すべての感情をどこかに置き忘れてきたかのような完全な無表情。
完全な美しさを持つがゆえにその表情は見るものに少女が人形であるかのような印象を与える。
少女はレミリアにかしずきながらどこか鈴の音色を思わせる凛とした声で言った。

「十六夜咲夜。参上しました」

「遅かったわね。いや、早かったのか?まぁ時を操るお前にはどちらも同じことか」

レミリアは少しからかいの混じった軽口をたたく。そのとき鋭くとがった犬歯がちらりと見えるが咲夜は気おされることもなくまったく表情を崩さない。
そんな咲夜の様子を見てレミリアはつまらなさそうにフンと鼻を鳴らした。

「ご用件はなんでしょうか?」

「使用人集団失踪事件」

使用人集団失踪事件。約二年前に紅魔館で起こった怪事件だ。
当時紅魔館で使用人筆頭、つまり使用人のリーダーを勤めていた者とその部下数人がある日忽然と姿を消したという事件で
いまだにその真相は解明されておらず紅魔館内にさまざまな憶測が飛び交っている。

「それがなにか?」

「お前がメイドとしての頭角を現し始めたのもちょうどその頃だったわね」

そう言うとレミリアはゆるりとした動作で玉座から立ち上がった。その瞬間玉座に押し込められていた大小二対の黒翼がばさりと広がる。
そしてゆっくりと一歩一歩踏みしめるような足取りで咲夜に近づいていく。

「メイドとしての頭角を現し始めたお前の仕事ぶりは実にすばらしかった。失踪した使用人たちの穴を埋めるだけにとどまらず
紅魔館をさらに発展させ繁栄させた。これでも私はお前に感謝しているのよ……だから……」

レミリアは咲夜の正面で立ち止まり右手をゆっくりとさしだし、咲夜の目の前で握り締めた手を開いた。
その瞬間、今までまったく表情を浮かべなかった咲夜の顔が一瞬驚愕に染まった。
それを見てレミリアは吸血鬼特有の獰猛な笑みを浮かべる。

「……これは」

「受け取りなさい。お前が求めていたものでしょう?」

レミリアの手にあったのはチェーンのついた銀色の懐中時計だった。
表面には魔方陣のような奇怪な文様が施されており一目で高価な品であるということがわかるのだが
それはどこかくすんだ色をしており傍から見れば唯の年季の入った骨董品のようにしか見えない。
しかしこの古ぼけた懐中時計は紅魔館にいるものにとって大きな意味を持つ。
レミリアの従者の中で最も優秀な人物、使用人筆頭。
執事長やメイド長と呼ばれるその面々が代々受け継いできた使用人筆頭である証がこの銀色の懐中時計だった。
そしてそれが大きな意味を持つのは咲夜にとっても例外ではない。
咲夜は震える手で時計を受け取ると愛しむ様に優しくその表面をなでる。奇怪な装飾の凹凸の感触が咲夜にこの懐中時計が幻ではないことを実感させた。
ひとしきり確認するように触れた後、咲夜は壊れ物でも扱うように懐中時計をそっとポケットに滑り込ませた。

「おめでとう十六夜咲夜。今日からお前はこの紅魔館の使用人筆頭よ」

「十六夜咲夜。使用人筆頭。確かに拝命しました」

レミリアの言葉に咲夜はかしずき使用人筆頭の任を受ける。その姿に満足したのかレミリアは咲夜に面を上げるように命じた。
言葉通り面を上げた咲夜の顔には先ほどと寸分たがわぬ能面のような無表情が張り付いていた。

「しかしお前が使用人筆頭になるとわね。天国にいるあいつも鼻が高いだろう」

そう言ってレミリアはくつくつと笑う。しかし咲夜は返答をすることなく沈黙を保った。

「話はそれだけだ。もう行っていいわ。メイド長」

「では、失礼します」

咲夜はレミリアに一礼するとその空間から忽然と姿を消した。その瞬間王の間は先ほどと同じ静寂に包まれる。
王の間に一人残ったレミリアは咲夜のいなくなった空間を少しの間見つめた後視線をステンドグラスの方に向けた。
相変わらず月光を放つその中心でステンドグラスの色に染まった月がまるで血の色のような光を放っている。
それを見つめながらレミリアはどこか物憂げな表情のまま笑みを浮かべる。
その心に宿るのは憐憫か嘲りか、どちらとも取れるようでどちらとも取れない奇妙な薄ら笑い。
そんな不可思議な笑みを浮かべたままレミリアはつぶやく。

「あいつはいつになったら気付くんだろうな……」

怪しく輝く紅の月の光を受けてレミリアの紅い瞳が輝いていた。



* *




十六夜咲夜は紅魔館の廊下を歩いていた。
普段なら吸血鬼の住処である紅魔館は今の時間帯がもっとも活気に満ち溢れるのだが、今その館内は不気味なほど静まり返っている。
話し声や喧騒はもちろんのこと布の擦る音や靴音すら聞こえてこず、動くものの気配すら感じられない。
そんな館内の廊下にただ一つ咲夜の靴音だけが響く。コツコツコツコツと普段の落ち着いた足取りとは違うどこか浮ついた足取り。
その足取りにあわせて懐中時計のチェーンがちゃりちゃりと金属的な音を立てる。
コツコツちゃりちゃり、コツコツちゃりちゃりとせわしなく鳴る音が彼女の内面の様子を表しているように聞こえた。
しばらくすると不意にその音が止む。立ち止まった咲夜の目の前にあるのは何の変哲も無い壁だ。
咲夜は軽く呼吸を整えるとその壁に手をかざした。その瞬間、ぐにゃりと目の前の壁がまるで石を投げ入れられた水面のように歪んだ。
その歪みは波紋を生みながら壁しか存在しないはずの空間に新しいものを形作る。
朱色の紅魔館の壁に暗い茶色が混じり長方形の形に集まっていく。
ぼんやりとしていた形が鮮明になり始め、波紋が完全に収まったとき、壁には古めかしい木製の扉が出現していた。
扉が完全に出現したのを見ると咲夜は真鍮製のドアノブを回し扉を開け、部屋の中に入る。
部屋に入ると咲夜は静かに扉を閉め、ドアノブから手を離す。すると扉は再び波紋を描き、ゆっくりと壁に溶けていった。
部屋の中はとても薄暗い。窓から差し込む月光だけが唯一の光として部屋を照らし、その姿を浮き彫りにする。
匠の技を感じさせる芸術的な家具が位置を考えて設置され、中心には華やかだがどこか荘厳な印象を与える天蓋付のベッドが置かれている。
そしてそのベッドの上、月光を反射して白く光る純白のシーツの上に一人の男が横たわっていた。
暗闇の中に男の姿を見つけた瞬間、咲夜の表情ががらりと変わった。
怜悧で無機質だった双眸には優しげな光が宿り、白い肌はほんのりと朱に染まる。顔の表情は緩み、笑みを形作る。
それは普段咲夜が他人に向ける能面のような無表情とはまったく違う、年相応の少女の無邪気でかわいらしい笑顔だった。

「ただいま。遅くなってごめんなさい」

咲夜はベッドに上がると微笑みながら男のそばに擦り寄り、優しく包み込むようにそっと男の腕を抱きしめた。
咲夜の腕に男の腕の硬い感触が伝わり、いやおうなしに胸の鼓動が激しさを増す。
とくん、とくん、と波打つ心臓の鼓動が彼女に自分が男のそばにいるのだということをこれ以上なく感じさせた。
顔が、体が、胸が、心が、焼けるように熱い。まるで体の中の血を溶岩と入れ替えてしまったよう。
胸が締め付けられるようで、息がうまくできない。本当に苦しい。苦しくてしょうがない。でも嫌じゃない。嬉しいんだ。だってこんなに苦しいのにすごく幸せなんだもの。
やはり、彼は特別。彼の隣にいるだけでこんなにも幸せになれる。彼と過ごす時間は世界で一番大切でもっとも幸せな時間だ。
そして、今日からその時間はもっとすばらしいものになるはずだ。

「ねぇ、聞いて。今日、お嬢様から呼び出されたの」

咲夜は穏やかな口調で男に語りかける。しかし男は返事を返すことはない。

「それで、これを貰ったわ」

そう言って咲夜はメイド服のポケットから静かに銀色の懐中時計を取り出し、嬉しそうに男に見せた。

「見て。私、使用人筆頭になったの。長かった。本当に長かった。けど……やっとあなたが昔いた立場になることができた……」

誰よりも技術を身につけ、誰よりも賢くあり、誰よりも働き、誰よりも洗練され、誰よりも戦い続け、誰よりも上を目指した。
数え切れないほどの努力の上に努力を重ね、血反吐を吐いてもなお努力を続け、ようやく手に入れた証。
これなら彼も認めてくれる。だってもうあの頃の未熟だった自分とは違うのだから。

「紅魔館の面々は私を認めている。お嬢様も私を買っている。紅魔館の中で私以上に完全な人物はいないわ。
……これで私はあなたにふさわしい女になれたわよね?あなたの隣にずっと居ていいわよね?そうでしょう?ねぇ?」

だから笑って?笑ってよ。あなたの笑顔が見たいの。ねぇ。早く。早く。早く。
千切れんばかりに尻尾を振り飼い主を見つめる犬のような、希望に満ち溢れた、期待するような目で咲夜は男を見つめる。
だが咲夜の思いをよそに男は咲夜に返事一つ返さなかった。

「どうしたの?」

返事をしない男を不思議に思い、咲夜は男の瞳を覗き込む。
そこには咲夜の好きだった優しげな瞳はなく、あるのはただ、どこまでも暗い虚無を思わせるようながらんどうだけだった。

「ねぇ……どうして何も答えてくれないの?」

咲夜は男の肩を揺する。
それに合わせて男の細い体がゆれるが、男は不平一つ言わず、なされるがままにされるだけで何も反応しなかった。
無感動、無感情、無関心。それはまるで咲夜のことなどどうでもいいと言外に告げているようで、咲夜のことを拒絶しているようで。
そんな男の姿が咲夜の心をぐちゃぐちゃにかき乱した。

「おかしい。こんなのおかしいわ。私、メイド長になったよ?誰からも認められてるのよ?
実質紅魔館のトップよ?ねぇ、どうして?どうして?やっぱりあのメイドたちのほうがいいの?私ではだめなの?ねぇ、ねぇ、ねぇ」

男の肩を激しく揺らしながら、呪詛をつぶやくように、すがるように、咲夜は男に問いかける。
だがそれでも男は咲夜の問いかけに答えない。咲夜の言葉が男に届くことはない。
その事実を認識した時、悔しさと、悲しさと、無力感と、絶望と、様々な感情がないまぜになり咲夜の視界が涙で歪んだ。

「ねぇ、何か言って……お願い……お願いよ……」

咲夜は男の胸に顔をうずめ、声を殺して泣く。熱い涙が頬を伝い、男の胸をぬらした。
どうして、どうして、どうして何も言ってくれないのだろう。やっと紅魔館のメイド長になったのに。
彼が認めてくれると思ったのに。彼が振り向いてくれると思ったのに。
咲夜は今まで男に振り向いてもらいたいがために様々な努力を重ねてきた。
男が欲しがっていたものは全て用意した。男にとって過ごしやすい環境を作り上げた。男が望むことは全てしてきた。
男のことについて何から何まで理解した。男の好みの女になる努力も怠らなかった。
だが咲夜の努力をよそに男は振り向かなかった。だから咲夜は自分の質をより高めるために地位を、名声を、権力を求めた。
誰からも認められるような存在に、完全な存在に、彼に釣り合うような女になれば、今度こそ彼は自分を認めてくれて、自分に振り向いてくれると、そう信じて。
でも結局、男は咲夜に振り向かなかった。男はベッドに横たわったまま。何も変わらない。何も変わらなかった。
悔しくて、悲しくて、咲夜は懐中時計を握り締める。すると、かちゃり、と留め金が外れるような音が部屋に響いた。
握り締めた懐中時計のふたが開き、時計の内面があらわになっていた。
外側の装飾と同様に奇妙な装飾が施された時計盤。だがその針は壊れて微動だにせず、二度と時を刻むことはないことを語っている。
そして時計盤の上、装飾の存在しないふたの裏側に小さな写真が貼り付けてあった。
その写真の中には快活に笑う在りし日の男の姿と、恥かしそうにしかしどこか嬉しそうに微笑む咲夜の姿があった。

「これって……」

咲夜の瞳が驚きで見開かれる。
それは二人が共に過ごしていた頃の思い出の写真だった。
いつだって忘れたことはない。どんなときだって思い出せる、彼と過ごしたかけがえのない日々。
嬉しいときも、楽しいときも、どんなときでも彼と一緒だった。
苦しいときも、悲しいときも、どんなときでも彼といればつらくなかった。
どんなときでも彼と一緒なら幸せだった。
彼がいて、私がいる。他のものなど必要なかった。だってかけがえのないものは全て彼が……

「……っくふふ……ふふふふふふふふふっあははははははははははははははははははっ」

そこまで考えて咲夜は、笑った。どこまでも無邪気に、涙を流しながら、狂ったように笑った。
気付いた。気付いてしまった。どうして彼が自分に振り向いてくれないのか、自分に笑いかけてくれないのか。
簡単なことだった。何でこんな簡単なことに気が付かなかったのか不思議に思う。
そういえば彼も昔、私のことを真面目だけどどこか抜けてるって言ってたっけ。本当に昔から変わっていない。

「ふふふっ、そうよ。そうよね。あなたがしてくれたことに比べて私がしたことなんて小さすぎる」

ああ、そうだ。たかだかメイド長になった程度で彼に振り向いてもらえるなんて思うこと自体がおこがましい。
なんて傲慢なんだろう。なんて無様なんだろう。メイド長になれば振り向いてくれるなんて勝手に思い込んで。
思い上がっていた。自惚れていた。彼がしてくれたこと、与えてくれたものの大きさに比べれば自分が今までしてきたことなど些事に過ぎない。
嬉しいということも、楽しいということも、幸せだということも、人を好きになるということも、愛するということも、なにもかも彼が教えてくれたのに。
彼のおかげで、私は生きていられる。彼がいてくれるから、私が私であり続けられるというのに。

「ごめんなさい。あなたの気持ちも考えずに勝手なことばかり言ってしまって」

咲夜は男の頬を愛しげになでる。彼女の顔には先ほどまでの悲痛な悲しみの色はなく、喜びと未来への希望に満ちあふれていた。
彼もあの思い出の写真を持っていてくれた。
私との思い出がどうでもいいものであるのならわざわざ写真を懐中時計のふたの裏に貼り付けておくなんてことはしないはずなのに。
だから考えてしまう。もしかしたら彼も私のことを少しは思ってくれていたのかもしれないと。
自惚れなのかもしれない。思い上がりはなはだしいものかもしれない。
でも、それでもいい。自惚れでも、思い上がりでも、それを糧に私はただ走り続けるだけ。

「私、頑張るわ。あなたが認めてくれるまで、あなたが振り向いてくれるまで、ずっとずっと頑張るから」

どれほどの時間がかかるか分からない。どれだけの苦難が待ち受けているのかも分からない。
でも、どれほどの時が過ぎようとも、どれだけの困難に出会っても、私の思いは変わらない。
私は彼のことが好き。好きで、好きで、好きで、好きで、どうしようもないくらいに大好きで、
彼のことを思うだけで心がつぶれてしまいそうになって、涙があふれそうになってしまう。
でも涙があふれそうなのに全然辛くなくて、心がつぶれそうなくらいに苦しいのに、嬉しくて、幸せで、温かくて……。
咲夜はぎゅっと男を抱きしめる。男がどこにも行かないように、もう離さないという思いをこめて。
咲夜は思う。自分は狂っているのかもしれないと。
でも、それでもかまわない。狂っていても、狂っていなくても、彼のことが大好きだという気持ちは本当なんだから。

「大好きよ……ずっと……ずぅっと……」

ただ一言、されど咲夜の思いの全てを込めた一言。それだけ咲夜はつぶやくと男の顔を眺めながら静かに目を閉じた。
窓から降り注ぐ月明かりは今も昔も変わらずに二人を照らし続ける。変わってしまったのは彼と彼女だけ。
薄暗い部屋の中、巨大な棺のようなベッドの上、『かつて男だったもの』に寄り添う咲夜の横で、壊れてしまった銀時計と二人の思い出の写真が月明かりを受けて輝いていた。

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最終更新:2011年11月17日 12:56