鏡台も鏡も無残な姿を晒していた。
壁にぶつかり、鏡は鏡台ごと、鼓膜を破るような音を上げて滅茶苦茶に壊れてしまった。
人一人の全身を映せるような鏡台を、○○は一息で部屋の端から端まで投げ飛ばしてしまった。
○○からすれば、それは意図していない事態だった。本来はあの投げ飛ばしてしまった鏡台を聖白蓮に浴びせ倒す目的で掴み取ったのだ。
投げ飛ばすなど、かけらも考えていない。
そんな事が出来るような大きさと重さでない事は、見た目で十分に分かるから。
しかし、○○はその鏡台を投げ飛ばせた。たった1人で。
それが何を意味するのか、○○はどんな言葉よりも深く理解できた。

「くぁっ・・・あっ・・・・・・っ」
その事実を前に、○○の足腰は砕け上手く息をする事が出来なかった。○○は頭のどこかでまだ謀られていると考えたかったから余計に。
しかしその考えは間違っている事を、○○は自分自身の手で証明してしまった。
自分の細腕にここまでの力が篭っていると言う事は。この細腕であそこまでの事が出来る存在がどういう物か。

「大丈夫よ、○○」
聖白蓮は狼狽を続ける○○に、それでも優しく声をかける。その○○から聖に向けられる目に、明らかな敵意と恐怖の色が篭っていようと。
老人の孫は鏡台と○○を交互にみくらべている。
「寄るな!寄るなぁ!!化け物が!俺は人間だ!人間のはずなんだ!!」
聖が差し伸べる手を払いのけ、涙声で○○は叫ぶ。
○○の叫ぶ人間と言う言葉に老人の孫は鼻で笑った風に見えた。老人の顔も渋かった。
お前は何を言っているんだ、と言われそうな。その嘲り笑うような顔と、渋い表情に。○○の心にまた刃がつき立てられる。
少なくとも、この2人は○○の事を人間とは思っていない。

○○は立つ事もできずズリズリと尻を床につけながら後ずさるような形で聖との距離を離そうとする。
泣きながら、喚きながら、涙と涎を撒き散らしながら。いつかの時と寸分違わぬ表情であった。
聖はオロオロとしながら、○○に近づこうとするが。聖が近づけば○○は当然喚きながら逃げようとする。
聖が近づけば、○○の狂乱はより一層強くなる。かといって、このまま放ったらかしにしておく事など、聖には出来るはずも無く。
付かず離れずの状態で、逃げる○○を泣きそうな顔で追いかけるばかりだった。

そんな聖の眼中に老人とその孫の事など捉えられてなどいなかった。しかし、○○は違った。
○○の恐怖の対象は聖白蓮だけでなく、老人とその孫も含まれていた。
○○はその二人を見るだけで無言の圧力と言う物を感じていた。
その圧力の向う先は。○○が、まだ自分は人間だと信じたい心を、容赦なく押しつぶそうとして来る。

二人の○○を見る目は人間が人間に対してするものではなかった。
どちらかと言うと獣を見る目に近かった。躾のされていない家畜を見る目だろうか。
軒先で訳も無くぎゃんぎゃんと吠える、うるさい駄犬を見る目。
そこにあるのは蔑みだけでなく。この躾のなされていない駄犬に、何かの拍子で噛まれやしないだろうか。
そんな感情が透けて見えるような気がして。

それに加えて、老人からはあの時と同じ。里から命蓮寺のあの蔵へと追い立てられたときに向けられたあの眼付き。
狩人が獣を捕らえる様なあの眼付きが、合った。体は弱りきっているのにその眼付きだけは強力な存在感が合った。
いつか見た、その目付きがあるから。老人を抱える孫からはそれが全く感じられないから特に。
否が応にも○○は認めざるを得ない。

あの男と思って殴り飛ばしたのは。実は違っていて。
その男に抱き抱えられている、最早余命幾ばくもないその老人こそが、あの男ではないのか。
その考えは、万に一つも違わないであろう。それは○○自身、最早否定しようの無い案件であった。
だがもし、否定する事をやめれば。○○は自分自身で認めてしまう事になる。
自分が化物だと言う事を。


「そんなはずが・・・そんな事が・・・合ってたまるかああぁぁ!!」
○○は逃げ出した。聖にも、老人と若い男にも背を向けて。大広間の外に向って走り出した。
何処に逃げるのか?そんな事考えてはいない。ただ○○は遠くに行きたかった。
今自分を見つめる聖白蓮からそしてもう二人からも。
ここにいると、いつか自分は認めてしまいそうで怖かったから。


逃げようとはするが、涙で○○の視界はぐしゃぐしゃだった。一寸先に何があるかも容易に判別できない。
その上、立って歩く事も間々ならないはずの混乱ぶり。幼児のヨチヨチ歩きの方がもう少し安心して見れる程の足の絡まり方。
○○の両足は先ほど自分が壊した、ふすまの破片程度で足を捕らわれ、地面を踏みしめる事ができずに空を切った。
「あ・・・!うああ!!」
そのまま二度ほど片足で跳ねて。
「ごがああ!!?」
壁に顔面から飛び込み。ほぼ垂直に接する形で顔を壁に叩きつけらてしまう格好となった。
○○は両足が空中にある為、そのままズズズと上から下へと顔を擦り続けた。
擦ったせいで○○の顔面の皮膚の一部がはがれたのか。壁にはべっとりと○○の血が縦に伸びていった。

「○○!!」
その鮮血にまず聖は顔面が青くなり、言葉を失った。そして○○が地面に顎を打ち付け手から数瞬。やっと○○の名を叫ぶ事ができた。
「○○!○○!」
そして眼にも留まらぬ速さで。聖は○○の下へと駆けた。痛みでうなる○○の名を何度も口にしながら。
「ざわるなぁ!!」
○○は顎を打ちつけた衝撃で舌を始めとした口内にも傷を負ったのだろうか。いささか呂律が回っていなかった。

「くふふ・・・赤い・・・ぢゃんろ赤いじゃらいか!!」
口から、顔から、鼻から。顔面の至る所から血を流しながらも○○は何故か喜んでいた。
特に流れ落ちる血の赤さに喜んでいた。

「俺の血はまら赤いぞ!!と言うころは・・・俺はふるうのまだ人間なんら!!!」
回らない呂律、焦点の合ってない目でも。○○が喜んでいる事は一目瞭然だった。
「それに物凄く痛いぞ!!ちゃんろ怪我もするし痛みもあるし!何より血が赤い!!」
○○は血の赤さと怪我の痛みに、自分が人間である可能性を見出していたのだ。
ぐりぐりと両手で顔面の傷を揉みしだきながら、口に手を突っ込み舌に出来た傷を確認しながら。
○○は不気味なほどに明るい声で大笑いしていた。

「俺はまら人間なんら!!」
しかし、それはかなり強引な解釈であった。確かに人外や妖怪の体が人間とは比べ物にならないくらい丈夫であることは珍しくも無い。

それでも。聖や他の命蓮寺の面々もそうだが。
殴られれば痛いし、斬られれば傷も出来る、血も流す。傷を触ればやっぱり痛い。
それは命蓮寺勢以外の人外や妖怪だって同じである。
そして何より血の色も、人間と同じ赤である。血の色だけならば、犬や猫や鳥だって同じ色をしている。


「あははは!!ははははは・・・は・・・・・・・・・?」
しかし1つだけ人間と大きく違う点がある。
その違いは、人外や妖怪としての存在が強力な程、顕著に見る事が出来る。
「あれ・・・?何で・・・・・・?痛くない」
体の異変を感じ取った○○は、ガリガリと血に濡れた手で自分の顔面を掻きむしる。
「痛くない・・・・・・顔も・・・・・・・・・口の中も」
いつの間にか口内に感じていた痛みも消えていた。それと同時に呂律もちゃんと回るようになっていた。

「え・・・・・・何で?」
先ほどまで感じていた痛みは。もう嘘のように消えていた。
そして、顔面全体に合ったヌルヌルとした血の感触も徐々に少なくっていき。段々と乾き、粘度を失い顔や手に薄く張り付いていく。

○○の顔から笑顔は消えて。また先ほどまで見せていたように体を震わせながら、目に涙を浮かべながら、今回は自分の両手を見つめる。
「・・・・・・っ!?」

乾いた血が張り付いた手を見ながら○○はあることを思い出した。
庭に置かれた大きな釜を見て○○は記憶の片鱗を思い起こしていた。
あの時は全身に広がる悪寒と、吐き気と、頭の鈍痛で。○○はすぐに倒れこんでしまった。
それでも、片方は手のひらに爪が食い込むほど握り込み。もう片方は縁側の淵を爪が折れるほどに握り締め。
爪が食い込む痛みも折れる痛みも確かに感じた。

そして、昨晩あのついたての中で、○○は土を掘った。
土はとても固かった、とても素手では掘れない。着ている物を手に巻きつけたが、それでもやっぱり固かった。
ガリガリと固い土と小石で皮膚が破ける痛みを。確かに感じた。
どちらの痛みも、幻ではない。現実にあったものだ。


「・・・・・・見てない・・・・・・ない・・・どこにも・・・ない・・・無かった」
手を上げ、光にかざすように。手の甲と平を丁寧に丁寧に、何度も何度も○○は確認していく。
どちらの傷も、一晩寝た程度では治るはずが無い。
仮に血が止まっても、折れた爪は元には戻らないし、食い込んだ痕があるはずだし、破れた皮膚は元の厚さではないはずだ。
だが、その傷跡を。○○は見た記憶が無い。
その事を、○○は思い出してしまった。今回の事で。



○○の中にあった。○○が必死で見たくなかった事実が。今○○の目をこじ開けた。



「あ・・・・・・ああああああああああ!!!!!!!」
その長い叫びは何処まで聞こえていただろうか。
里の外にまで聞こえていたのではないのだろうか。
「○○!!」
長く、大きく、何処までにも聞こえそうな叫びを上げる○○を聖は必死に抱きしめた。
「○○!大丈夫だから!!私はずっと貴方のそばにいるから!!」
そんな聖の声も○○の大きな叫びにはかき消され、○○の耳には入らなかった。
そしてまた○○は。その叫びの中で、意識を失った。あの時の蔵と同じように。

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最終更新:2012年03月14日 21:25