輝夜の放つ怒声の音圧たるや、凄まじいの一言であった。ふすまや戸棚に障子、まめに手入れなされている盆栽の枝葉。
とにかく室内にある全ての物がガタガタと震えるほどであった。
正確には、この大気の震えは声による物ではなく彼女からの内からあふれ出した妖力がそうさせるのだが。
声のほうも妖力の助けを借りて、およそ人が出せる大きさを遥かに超えていた。

それなりの力を持つてゐは。両耳を手で固く閉じ、身を縮こまらせて。この凄まじい妖力にあてられる事無く、何とか耐える事ができたが。
外で疲労の余り崩れ落ちていた遊郭の門番は、その意識すら崩れ落とし。白目を剥き、泡を吹いてしまっていた。イナバも何割か倒れてしまった。
蓬莱山輝夜との付き合いが最も長い八意永琳ですら、これほどに自重せずに、憤怒の感情を爆発させる姿を見るのはそう無いのではないのか。
それほどまでの怒りだった、てゐに至っては、勿論始めてみる姿である。
ただし、その怒りの矛先は。永琳と同じく、遊郭の方へと殆どが向っていた。


「し・・・師匠なら、姫様が乗る牛車を準備中だよ・・・・・・」
恐らく、この事を伝えなければ。中々来ない従者に業を煮やして飛び出していくだろう。
そうすれば、ちゃんと移動手段を用意している事を輝夜に伝えなかった事に対して。てゐは永琳からきつい仕置きを受けるだろう。
悪戯に情熱を捧げるてゐではあったが。今回だけは、少しの軽口も命に関わるほどの重大事であった。

「そうなの。それならてゐ!貴女が着替えを手伝いなさい!!」
自身の従者の手早さに、喜びを表す時間すら惜しいのか。てゐに自分の着替えの手伝いを指示した。
普段なら、着衣の紐等を緩めるのは。永琳が恭しく執り行うが、今はそんな悠長な事はしれいられない。
てゐが輝夜の召し物がどのタンスに仕舞われていたか。それを思い出すために使った数秒で、もう着衣を留める紐など、半分以上解かれていた。

「ちょっと待って・・・今こうしてる間にも、私たちから見る○○は普通に動いてるじゃない!!」
てゐがやっと思い出した輝夜の召し物が仕舞われているタンスから。季節に合ったものを投げるように取り出している。
乱暴に扱っているが、傷む事などきにしていないし。そもそも○○を助けるのに必死で見えていない。

その折に、輝夜は重要な事に気づいた。そして、輝夜は力を使う為に精神を集中させた。
「もう大丈夫だからね・・・○○。貴方から見れば、もう一秒とかからないから」
その力の高まり具合は。いつかの永夜異変で、明けない夜を明けさせる為に使った物の比ではなかった。
弾幕ごっこでは絶対に用いない。全身全霊を持って使う、求聞史記のように“程度”などと言う冠の付かない。
月人が用いる、地上の民には絶対に手の届かない。本気の力だった。


タンスの中身をひっくり返すてゐも、背中越しにこの月の力を感じた。
地上出身のてゐにとって、本気で放たれる月の力を感じ取ったのはこれが初めてだった。
いきなりぶつけられた月の力に、てゐは呼吸すら滑らかに行うことが出来なくなった。
ただ、てゐはまだ耐える事が出来ている方である。月の賢者・八意永琳はともかく、月出身のウドンゲですら、この力に強烈な威圧感を感じるほどの威力である。
永遠亭の方々を飛び回るイナバ達が、耐えれるはずはない。
最初の怒声を耐えれたイナバ達も、軒先で倒れた門番の男と同じように。一匹残らずバタバタと倒れていった。

そして、力が永遠亭の敷地を覆いきると同時に。空気が変わるのをてゐは感じた。
それは比喩等ではなく、本当に空気が変わったのだ。空間の質が変化したと言った方がより正確な表現であった。


永遠と須臾(しゅゆ)を操る程度の能力。それが求聞史記に掲載された蓬莱山輝夜の能力であった。
輝夜は今、この能力から“程度”を外した力を使っていた。
須臾とは、時間の概念で本当に小さな小さな単位を表している。こんな物を気にするのは、よほど高度な学問を生業とする人間位の物である。
実生活では、誤差ですらない程に小さな小さな。観測できるかどうかも怪しい程の小ささだ。

いつかの永夜異変。輝夜はこの能力の永遠を操る部分を使い、明けなくなった夜の時間の針を無理矢理突き動かさせ。強制的に日の出を迎えさせた。
そして今回輝夜が使っているのは、須臾の部分であった。

輝夜は、須臾を操る力で。永遠亭全体を、須臾の時間空間の中に閉じ込めたのだった。
この須臾の時間空間の中に置いての一秒は、この空間の外における。普通の世界の一秒とは全く違う。
須臾の時間空間中に閉じ込められた永遠亭で、一年過ごそうが十年過ごそうが、それこそ百年過ごそうが。外の世界では、一秒もたっていない。
輝夜が本気でこの須臾の能力使用している今。この永遠亭の中で、外の世界における一秒の時間経過を待とうとすれば・・・・・・
それは、もしかしたら八意永琳が今日まで過ごした一生を持ってしても、足りないかもしれない。


「ぷはぁ・・・!!」
永遠亭に、輝夜流の結界を張り終えた輝夜は、汗でびっしょりだった。
「はぁ・・・はぁ・・・・・・てゐ、早くして。これを維持するのもかなり疲れるのよ」
手の先、髪の先からポタポタと汗を垂らし。足元の布団には、大きな染みが出来上がっていた。
だが、凄味は増すばかりであった。
「は・・・・・・はい、只今ぁ!!」
軽口はおろか、どんくさい動きをしていても命が危ない。そうてゐの本能が直感した瞬間に、やっとまともな呼吸をする事が出来た。



着付け中の輝夜は全く何も喋らなかった。
ただ、須臾の時間空間の維持がよほど体に堪えるのか。「はぁー、はぁー」と伏せた目でドスの利いた呼吸を繰り返すだけであった。
しかし、伏せた目の奥に光る殺気は。全く衰える事はなかった。
永琳に比べれば、明らかに上手くない。ぐちゃぐちゃな部分の多い着付けであったが、そんな事は気にしていられない。
とにかく、必要最低限でもいいから。服を着せる、この作業を一秒でも早く終えねば、てゐ自身の命が危なかった。
ジリジリ、ジリジリと。一秒たつごとに短くなっていく命のろうそくを感じながら。

「んぐぁ!」
しかし、雑な仕事は着る方の体を顧みない仕事になる。
てゐの結んだ紐が、輝夜の体に勢い良く、尚且つ深く食い込み。輝夜が苦しそうな声を短く上げる。
「姫さ―
それにてゐが、手を緩め。慌てて謝罪の言葉を出そうとするが。
「手緩めないで!早く!!」
「は、は、はいいい!!」
今の輝夜にも。着付けの出来など気にする余裕は無かった。


どんどんどん、と。誰かが駆ける様な足取りで輝夜の部屋に近づいていた。
      • 師匠だ!!
しかし、見栄えを気にしていないとは言え、てゐにとっては慣れない着付け作業。てゐも余程急いだが、残念ながらまだ紐が一本残っていた。
「姫様!思いっきり絞めるよ!!」
「いいから早く手動かせ!!」
滅多に聞けない輝夜の命令口調が飛ぶのが少し早いくらいで、てゐの紐を結ぶ手が最後の動きを見せた。
永琳がこの部屋に来て、まだ着付けが終わってない等と言う事。間違いなく命にかかわる事柄である。
先ほどからの輝夜の言葉から、痛いとか見栄えなど気にしていないのは明らか。
ならば、間違っててもいいから。とにかく結ぶしかなかった、それしか生き残れる道はなかった。
「終わったぁ!!」「姫様!牛車の準備が出来ました!」
全くの同時であった。着付けの終了と、永琳が声を上げながらふすまを開けるのは。

「じゃあ行きましょう」
輝夜の見た目はかなり酷かった。豪奢できらびやかな着物である意味が全く無い、ただ単に肌を隠すための布切れと化している着付けであったが。
「姫様、牛車までおぶりましょう。この空間の維持で辛いはずですから」
着ている方の輝夜も、いつも輝夜の着付けをしている永琳も。どちらとも全く気にせず、話を進めていた。
山を越えた、そう思えたから。永琳と、彼女におぶられながら移動する輝夜、二人の後を追いながらてゐは泣きそうになった。

永琳は何も喋らなかった。牛車の準備中に感じた、月の力と。肌に触る空気が、そして空間が豹変した事。
輝夜が全身全霊を持って、須臾の力を使ったのは明白であった。
力を広げるのも大変なはずなのに、それを維持するなど。言葉に表さなくても、永琳には輝夜の濁りなき一念が感じ取れた。
喋るのはおろか、立って歩くのも辛いはず。その意を汲んだ永琳は、これ以上時間をかけぬよう。
道中も無言でただ足早に、止めてある牛車まで向った。

玄関前で泡を吹いて倒れている男をまたぎ、永琳は輝夜を牛車が引く籠に乗せた。
そして、永琳が牛を操る為の席に座ったかと思うと。
二人を乗せた牛車はパッと姿を消した。恐らく、輝夜が須臾の時間空間の範囲を、牛車の周りだけに狭めたのだろう。

今頃はもう、永琳と輝夜は○○の眼前に立っているだろう。そしてもう1つだけ、確かな事柄がある。
「の・・・・・・乗り切れ・・・・・・た・・・た、た、助かっ・・・・・・・・・」
てゐがこの状況を乗り切り。命をながらえさせる事が出来た、という事である。
ばたんと仰向けに倒れるてゐの表情は、悪戯が上手く行った時とは違う。
邪念の無い、爽やかな笑顔であった。




「ああ・・・・・・すまないねぇ、お客さん」
番台の男はようやく目を覚ましてくれた。寝ぼけているのか、それとも地の性格なのか。その男の話し方は非常にゆっくりとしていた。
「門番さんから始めての人用の説明と記帳を済ませろと言われたのですが」
「いやぁ・・・・・・初めての方なんて久しぶりだからねぇ、ご無沙汰で手形を無くしたって奴はまぁまぁいるけど」
「ええ・・・ですから、説明の方を早く」

「私が始めて春を買ったのは・・・元服の時だったね、兄貴分に無理矢理連れてこられてね」
そして無駄話が多そうだった。興味の欠片も存在しない身の上話まで始められそうだった。
イライラが募る事この上なかった。
「貴方の身の上話は、またの機会にしてください」
「それもそうですなぁ・・・・・・酒すら入ってないのにこんな話聞くなんて・・・私なら寝てしまいそうです」
そして、あくびを大きくかく番台の男。
「ああ、失礼。昨日ちょっと遊女と遊んでた物で」
「ええ、私も遊女と遊ぶ為にここに来たんです。早く遊べるようになる為の説明と、記帳をお願いしたいのですが」

どこまでもどこまでも。その男は自分に心地良い流れを優先していた。
しかもこちらを見る目も、○○の奥にある入り口を見ているかのような目の動きだった。この年でもうろくするには早そうなのだが。
まるで、何かの力が自分がこれ以上前に進まないように、押し止めているような気分だった。

「そうですなぁ・・・・・・」
ようやく話を進めてくれるのか。
とは思ったが、ゴソゴソと。さっきまで頭を預けていた机の、棚の中身を空けたり閉めたり。
資料だか何かを探すのにまた時間を取られそうだった。


そして、何度目か。○○の方を・・・否。○○の背中にある入り口を見た時だった。
それまでの緩慢で、鈍いと行ってしまって構わない動きからでは、想像もできない俊敏さで。
番台から飛び降り、○○を無視して、横を駆け抜けて行ったのだった。
「おい!!ちょっと待・・・・・・―
男を追おうと、後ろを振り向いた。そこにいたのは、絶対にいて欲しくない人物だった。
心の底から、物凄く不快な物を見るように、周りを見渡す。
蓬莱山輝夜が、そこにいたのだった。

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最終更新:2023年01月31日 23:57