牛車を車止めに留め置いて、てゐは思わず付きそうになった深い溜め息を、口に手を当てて無理矢理飲み込んだ。
危なかった。牛車を止めた瞬間、ドッとした疲れが押し寄せたが、安堵するのはまだ早すぎた。
自分のすぐ近くには。籠の中には、蓬莱山輝夜が未だ鎮座しているのだから。

「うふふふふ」
聞き耳を向けた籠の中からは、輝夜の嬌声が漏れ聞こえる。一体○○に何をやらせているのだろうか。
被虐嗜好のある人間に対して、虐めないと言う虐め方。これはかなり高度な虐め方なのかもしれないが。
どうしても、輝夜の独りよがりの感じは否めない。

「あんっ」
それに、先ほどから聞こえてくる輝夜の嬌声も。無理に作っていると言うのは大前提として、何だか妙に大きい。
これは、てゐに対しての挑発なのだろうか。
確かに、腹は立つ。何となしにではなく、腹が立っていることをはっきりと自覚できるくらいに、腸が煮える思いだ。

だが、ここで行動は起こせない。
てゐ自身、輝夜とまともに戦って勝てる自身は無かった。ここで激情に任せた拳を振り上げてしまえば、自分の首を絞めてしまうだけだ。
きっと輝夜はそれを狙っているのだろう。もしも激情のままに行動すれば、ただでさえキツイ○○との接触における制限。
これが更に窮屈な物に。謀反を考えなければならない程度にまで締め上げられてしまうと考えていいだろう。

(○○・・・!少しでいいから!我慢してて!!)
「・・・・・・姫様。てゐはもう行くからね・・・・・・精々やってるといいウサ」
ワナワナと震える握り拳を、もう片方の手で握り抑えながら。辛酸を舐める思いで、出来る限りいつも通りの声で対応をする。
但し、言葉遣いまでは気にかける余裕は無かった。
「あ、てゐ~。ついでにお風呂沸かしといて、○○と一緒に入るから」
「・・・分かったウサ」
口ではそう言ったが、今の輝夜の為に自ら働いてやる事など。出来る限りしたくなかった。
だから、押し付けられたほうには悪いとは思ったが。一番初めに出会ったイナバに、風呂焚きの役目を押し付けた。


もう聞こえないだろう。牛車からある程度の距離まで離れた所で、てゐは深い溜め息を付いて。更に屈み込んで頭も抱えた。
そしてギリギリと歯を軋ませながら、これからの事を考えていた。
出し抜けるのか・・・?最大の不安はそこだった。基本的にてゐは悪戯の準備段階から、全てを一人で行ってきた。
それがてゐの美学だった。共同作業などが嫌なわけではないが。
細部に至るまで自分好みの作品を作るには、多少苦労しても一人でやった方が何かと都合が良かったからだ。
それに、永琳や輝夜がこの悪戯稼業に余り良い顔をしていない為。目を付けられたくないと言う思いから、イナバの協力も余り望めなかった事もある。

しかも今回は輝夜からの圧力は、今までで最高の物である。
○○への加虐願望を確かに内包している永琳にでさえ。自分が立てようとしている計画は、みだりに明かすべきではないと考えていた。
今の永琳は輝夜への忠誠との間で揺れ惑っている。機を見れば、篭絡出来ない事はないだろうが、下手に刺激も出来ない。
○○を虐めたい願望を永琳が忘れている訳ではないようだが。まだギリギリ輝夜への忠誠心が勝っている。
下手に刺激すれば、鈴仙のように引きずり回されるであろう。そんな展開はごめんだ。

○○を虐めたいが、輝夜からその旨を留め置かれている。自分はそんな状況なのに、○○を虐めることを夢想して愉しむ鈴仙が許せなかった。
大方そんな所だろう。永琳がやたらと激情的に動いていた理由と言うのは。

「てゐ」
考え事に夢中で、てゐは永琳が目の間に立っていたのにも気付かなかった。
顔を上げ、目にした永琳の顔は悲しみで一杯だった。少しばかり頭が冷えたら、それはそれで絶望的な感情が込みあがってきたのだろう。

小脇にはいくつかの書物を大事そうに抱えている。
誰かの目にも触れられたくないのか。てゐがその書物の方向に視線をやると、もう片方の手で覆うようにしながら後ずさった。
「駄目よ、これは。これだけは・・・絶対に駄目」
てゐには、永琳が後生大事に抱えるその書物に見覚えがあった。それは忘れたくても忘れられないだろう。
永琳が抱えているのは、○○秘蔵の春画本だった。

やはり、付け入る隙はありそうだった。あの春画本を大事にするのは、未練たらたらの証拠だった。
「・・・・・・師匠、これで良いの?」
直接的な表現は避けつつも、てゐは永琳に対してカマを掛ける事にした。
出来るだけ冷静な声の調子で。決して鈴仙のように感情的にはならずに、表情も声も淡々とさせる。

「・・・・・・」
永琳は何も喋らなかった。ただ過剰なほどの瞬きと表情筋の変化を見せているので、その心中が穏やかでないことだけはすぐに分かった。

「てゐ、私の部屋に来なさい。鈴仙はもう行っているわ」
ようやく出てきた言葉も、てゐの質問とは全く関係のない物だった。しかしこんな物で良いだろう、多少冷えたとは言え、今の永琳は平時の状態ではないのだから。
深入り深追いは禁物である。自身の一挙一動に注意を向けているのは、輝夜だけで十分だった。永琳の注意までは引きたくない。
鈴仙には悪いが、永琳の鬱憤は全て彼女に被ってもらう事にした。二対一となればいよいよ勝機が無くなる

彼女も多分諦めていないはずだから、適当に煽っておいた方がいいかもしれない。永琳の注意をより強く引く為にも。


てゐが永琳の横を通り過ぎる際。サッと小脇に抱えていた春画本をてゐに見えないように、立ち居地を変えてまた隠した。
別にてゐはもう春画本に興味は無かった。なので、永琳のその反応は過剰な物だった。
「てゐ、これは・・・・・・資料だから!」
去り行くてゐに、何となくピントのずれた言い訳を永琳は投げかけた。

歩きながら「分かってるよ」とだけ答え。そのまま振り向かず、永琳から十分に離れた所で、てゐはふっと笑った。
「未練たらたら・・・・・・諦め切れないっての丸分かり。この分なら、敵は姫様だけだね」


輝夜は慎重に外の様子を伺っていた。すだれの隙間から微かに見える籠の外と、辺りの気配を。
その両方を慎重に探っていた。
外の様子を探るその時だけ、輝夜の顔に真顔が戻っていた。
「いないわね・・・・・・大人しく風呂焚きに行ったのかしら?まぁいいわ、焚いてないなら“姫”の権力を大活用してやるわ」
○○は出来ればもっと長く、その真顔を見ていたかった。
○○の乾いた心に、輝夜の理知的な真顔はとても○○の被虐感情をくすぐる物だったからだ。
ジッと、すだれの隙間から、可能な限り外を伺い見る輝夜の真顔。
少し感の良い物が見れば、すぐに分かる。迂闊に触れるべきではないと。
そんな針のような危うさが、○○にとってはとてつもなく心地が良かった。いつ爆発するとも知れないこの緊張感がただただ気持ちが良いと感じていた。
最も、爆発してしまっても。それはそれで、また違った趣があって良い物である事には、違いはないのだが。

「じゃ、○○。お風呂場に行きましょうか」
だが、パッと振り向いた輝夜の顔には。もう先ほどのような面影は微塵も残っていない。綺麗に消えうせてしまっていたのだ。
「・・・・・・輝夜」
無論、分かってはいた。輝夜がいつまでもこの顔をするはずが無い事など。
○○は当の昔に気付いている。輝夜が被虐嗜好に敢えて手を触れず、弄り回さず。
いたぶられる事を渇望する自分の姿に、輝夜は大層な愉悦を感じているのだ。

その渇望をより強くする為には、何をすればいいか。それに対して出した輝夜の答えはこうだった。
「○○、それじゃあ今から一緒にお風呂に入りましょうね~」
徹底的に優しくする事である。そして、それは輝夜の想像以上に大きな効果を上げていた。
気付いていないのならともかく、気付いていてわざとそうしている為に。
○○は自分の中で納得させる事ができずに。カラカラに乾燥しきった満足と言う感情に、なおも太陽が照りつけるような気持ちだった。


「さぁ、○○行くわよ。動かないでね」
そりゃ。と言う掛け声と共に、○○は抱きかかえられてしまった。想像以上にあった輝夜の力強さに驚いた。
そのまま○○は輝夜に抱きかかえられて、風呂場に向っていた。
途中、全力で駆けるイナバが、輝夜と○○の横を。数歩程度走りぬけた後、盛大にずっこけて、廊下を滑っていくのを見かけた。

「あら・・・どうしたの?貴女」
そのイナバはゴロゴロと転がりながらも、勢いがなくなる頃には器用に正座の体制になっていた。
○○はそんな、ある種曲芸じみた動きに目を丸くするばかりだったが。輝夜は別段気にしなかった。
「はい・・・姫様の風呂焚きをするようにてゐ様から言伝を貰いまして」
「そうなの、てゐは?」
「さぁ・・・・・・私には今何処にいるかは」
ほんの少しの間だけ、輝夜は思考することを優先していた。○○の被虐嗜好を徹底的に満足させない為に、表情に至るまで気を使ってはいたが。
表情に関してはかなり意識しないとすぐに崩れてしまう。思考に対して頭の動きを割り振りつつも、と言う離れ業は出来なかった。
抱きかかえている為、目と鼻の先にいる○○に表情の変化を見られるが・・・その為、チラつかせる程度で済ませたかった

(てゐに言ったのはお風呂沸かしてだけだったから・・・そうね、てゐにやれとは言ってない)
「そうなの、まぁいいわ。じゃ、風呂焚きお願いね」
逃げられた事に対する悔しさは多少合ったが。そこまで拘る事例ではない。
それよりも○○の被虐嗜好に、今は余り手を加えたくない。出来る限り干上がらせたかった。だからてゐの事は、今回は置いておいた。
目の前のイナバに風呂焚きを一任する事を伝えると、イナバはぺこりと頭を下げて。立ち上がり、くるりと背を向けて。
今度はずっこけることなく、風呂焚き場の方向に走り去っていった。

イナバが背を向けた頃には、もう輝夜の顔は元に戻っていた。
先ほどまでと同じように。晴れやかで爽やかな笑顔を向けられる○○は、がくりと肩を落とすだけであった。

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最終更新:2012年04月22日 04:54