何度でも言うがヤンデレに責められるよりこちらからいじって愛でるのが個人的なジャスティスだ。

永遠亭で阿求の診察を終えた日のことである。この所元々細い食がさらに細り顔色も悪い妻の容態について俺だけが詳細な説明を受けた。
家へ帰った後も俺は診察結果を妻に告げることが出来なかった。何と言って切り出せば良い物か。
「綺麗なお薬ですねぇ」阿求はこちらの煩悶など知らず無邪気な顔を浮かべ永遠亭で処方された薬を眺めている。
病状を心配する俺への配慮であろう。努めて明るく振舞っている。その顔をこれから曇らせなければならない。
「あなた」
 顔を上げると阿求が柔らかく微笑んでいた。深い。何よりも深い微笑だ。阿求がこうやって微笑む度に俺はこの幼い妻の背後に海を錯覚する。
「八意先生は何と仰っていたのですか。教えてください」
 俺は口の中で頬の肉を噛み締めながらじっと黙っていた。舌は凍りついたように固く俺の喉に張り付いていた。
言わなければならない事を答えることが出来ないままの俺を阿求の澄んだ瞳が見詰め続けた。
「大丈夫です。あなたが居てくれれば恐くありません」
 可憐な声が、健気な響きが耳朶を打った瞬間不覚にも涙が出そうになった。俺は知っている。
重なる九代の永い記憶と知識を受け継いでいても毎夜阿求が己の業病に年相応に怯えている事を知っている。
季節が巡るたび増える咳に、重くなる熱に本当は生まれを呪う夜があることも知っている。これからの痛苦を思う布団の中で今にも折れそうになる朝がある事も。
その阿求が、愛しい妻が他ならぬ俺の隣ならば耐えられる。
そう言ってくれている。
 ここで応えなければ男ではない。俺は居住まいを正し妻に向き直った。
「阿求」「はい」
「包み隠さず全てを話す。八意先生が仰るには」「はい」
「今夜から暫く――」「はい」
固唾を呑む間があった。
「『営み』を控える」「はい? 」
 間の抜けた間があった。見計らったようにうぐいすが鳴いたので余計に間が抜けた。
「おお。春よなぁ」
「ええ。新しい命の季節ですね。それでもう一度言って貰えますか?……その。ええと……雄しべと雌しべ云々と聞こえたのですが」
 何とも気恥ずかしく気まずい。これだから言いたくなかったのだ。自棄になって答えた。
「その通りだ。ここ最近のお前の体調不良は雄しべが新しい命を孕ませんと雌しべに熱を注ぎすぎ夜の営みに於いてまぐわい過ぎた故に起こるべくして起こった不幸だそうだ。それ故に暫くお前を抱けん! 」
 見る見る阿求の顔が面白い程に赤くなった。
「わわわ、分かった、分かりましたからぁ、声を落としてください。あなたぁ」
 それはそうだ。家屋敷中に夫婦生活が円満であると知らせてやる必要は無い。
「ははは。その慌てよう。さては重病で余命でも宣告されると思ったな」
 八意医師は仲が良くていい事だけど、と苦笑いをした。阿求の体にはいつ新たな病巣が見つかるかも分からぬから今回は笑い事で済んで確かにまだ良かっただろう。しかし懸念は別の所にある。
 阿求がそそくさと立ち上がり開け放していた襖を全て閉めた。未だ頬が赤い。
「ええと。それであなた。先生はそのどれぐらい…………私たちの――その……ええ、『ごにょごにょ』を控えるように言われたのですか? 」
「うん。『子作り』に励みたいならなるべく負担をかけぬように――」
きゃああ、と叫びながら阿求が俺の口を押さえた。
「もう。わざとやっているのですか。あなた」
「もがもが」(すまん、すまん。怒るな)
 ぷにぷにとした弾力のあるしっとりと熱い掌が唇から離された。

「それで、そう回数の話だったな」
 阿求は切羽詰った真剣な表情で聞いている。その視線のせいでどうしても言い淀んでしまう。
「お前の体調がもう少し良くなるまでは、何と言おうかまあ。十日に一度。無理ならその半分の五日に一度程度にしておけという事だ」
ふぅっ、と息を吐いたような音がしたので見ると阿求が目眩を起こしたようにぐらついて畳に手を付いた所だった。
顔が青ざめ目は虚空を見詰めている。普段細かい身形に気を使う阿求には珍しく口の端に一筋髪が引っ掛っていてそれが何とも艶めいていた。
「いくらなんでも大袈裟すぎるぞ。阿求」
 助け起こそうとした俺の腕を阿求が掴んだ。目には涙まで浮かんでいる。
「む、むむむ。無理です。あなた。そんな五日間だなんて私。一日だって嫌です。そ、そもそも夫婦生活においてはとても大切な事のはずです。五日も愛を確かめ合わないなんて常軌を逸しています」
「そんなに俺との閨事を気に入ってくれているのは嬉しいが常軌を逸しているのは一日も耐えられない俺たちではないか? 」
「じゃあ常軌など忘れて下さい。それに自分の体の事は自分で良く分かっています。断言しますが五日もあなたと触れ合えないなら逆に私の病状は悪化する事請け合いです」
「駄目だ。医者の言いつけは守れ」
「そんなぁ。あなた後生ですから」
「駄目と言ったら駄目だ」
「あなたぁ……」
 阿求はどうにも承服せず何としても俺に『その気』になって欲しいらしい。
俺だって当然『その気』に是非とも何を差し置いても獣のようになってしまいたい所だが他ならぬ妻の健康の為だ。忍耐為らずして何の日本男児か。
結局押し問答が夜まで続いた。


一日目
一組しか出されていない布団に仰向けになるとすぐに阿求がぷくりとした頬を俺の胸に乗せた。白い猫の尾のような二本の手がしゅるしゅると俺の首に巻き付き固く結合した。
春先でよかった。季節が夏となると起きた時には汗だくになっている。しがみ付かれたまま眠ろうと思ったがどうにも阿求の吐息の熱さが気に掛かる。胸の辺りがこそばゆい。
――あ、あなた。ふ、ふふ。い……いいですよね? す、すぐに済ませますから……。我慢は明日からでもいいでしょう?
ね、あなた。あなたぁ。起きてください。ちょっとだけ。ちょっとだけですから。あ、怒ってらっしゃるんですか、あなた。うふふふ。はぁ、はぁ。か、可愛い人ですね。
す、すぐに気持ち良くして差し上げますからね。エヘへ。…………あなた。ね。無視しないで下さいよぅ。お願いですからぁ。あなた。あなたぁ。起きてくださいぃ……。


二日目
 昨日と同じでは押し切られかねない。策を講じよう。
今日は布団に入ってすぐに阿求に背を向けた。
――あなたぁ……。
 背を向けて横になった俺の背に何ともいじらしい声が掛かった。無心に目を閉じる。
夜半過ぎ。悶々としながら眠れないでいると蚊の鳴くような阿求の声がした。
――あなた……?もうお休みになられましたか?
起きてはいたが何故か返事をする気になれず俺はじっと寝た振りをしていた。背後で阿求が起き上がる気配がした。
じっと阿求が俺の顔を覗き込んで眠っているか確認している。俺は薄目を開けて寝た振りを続けていた。念入りな確認だった。
ようやく俺が寝ていると信じたのか阿求はゆっくり俺の背中に体を寄せた。柔らかいものが背中に密着したと思うとふーふーという音と共に熱を感じる。匂いを嗅いでいるらしい。
……何故か水音が聞こえ始めた。
――んっ……はぁ……。あなたぁ。あなたぁ。愛してますぅ……。
蚊の鳴くような声は一刻ほども続いたように思う。


三日目
 意馬心猿とはこの事であった。新たな策が必要である。
久方ぶりに二組の布団を出した。
寝室に仲良く二つ並んだ寝床を見て阿求は愕然とした表情で固まった。
――ど、どういうお積りですか、あなた。布団は一組で十分でしょう。
 何を言う。これが本来あるべき夫婦の寝室の姿だ。おい、落ち着け。泣く様な事か。
 明かりを消してすぐ隣の布団から声がした。
――あなた、お側へ行って構いませんか…?
意味が無いではないか。
――だってこれでは寒々しくて眠れません。
仕方ない。昨日のような事をしないなら良いだろう。
――な、な何の事でせう?
お前が考えている事で間違いない。
 長い沈黙の返事の後ごそごそという音を伴って俺の布団に熱が一つ増えた。
――ねぇ。あなた。私のことを聞き分けのない女だと思っていますか?
 いや、愛しい妻だと思っている。
――……えへへ。堪らなくもどかしいですがやっぱり嬉しくもありますね。あなたが私を気にかけて下さるのは。
――こうしているとあなたもご無理をしてくれているのが良く分かります。
伝わっていたか。以心伝心というやつだな。感動したぞ、阿求。お前の手が俺の股座をまさぐっていなければな。


四日目
今日から寝室を別にする。
――そ、そんな。いくらなんでも横暴です。あなた。妻として当然の権利の侵害です。
 仕方あるまい。俺の理性にも限界はある。
――そんな嘘でしょうあなた。これは狂気の沙汰です。私たちは夫婦なのですよ。夫婦が別々の部屋で休むなんて自然の理に反します!
 それではな。暖かくして寝ろよ阿求。
――待ってください!今晩はどうやってあなたを誘惑しようかと熟考に熟考を重ねて来たのに……
 ぴしゃりと襖を閉めて寝室から出た。今夜は俺の書斎で休むとしよう。
 ……どれぐらい時が経ったか。冷え切った書斎で目を開けた。何度寝返りを打っても眠れない。何となしに厠へ立った。
 厠へ向かって廊下を歩いていると台所で何やら物音がした。賊ならばひっ捕らえねばならん。
そっと物陰から台所を窺うと阿求が一人暗い台所に立っていた。手に持った何かをしきりに舐めている様子である。
――ぴちゃ。ぴちゃ。はぁはぁ。あなた、あなた……私をいっぱい飲み込んでください……。ぴちゃ。ぴちゃ。はぁはぁ。
手に持っているのは俺の茶碗である。道理でたまに俺の生活用品から女の匂いがすると思った。
翌朝阿求が茶碗に飯をよそう前に水洗いをすると、ああっ!と叫んで何やら酷く落胆していた。


五日目
 今日でこの苦行も最後である。
また昨晩のような事をされては敵わない。同じ部屋で見張るしかないようだ。
――あ、あなた。
 寝室へ入るとすぐに阿求が荒い息を吐きながら血走った目で近付いてきた。まるで肉食獣だ。待て待て落ち着け阿求。今日で五日目。最後ではないか。
――無理です。もう一分だって耐えられません。さぁ、あなた。こちらへ。…………どうして離れて行くのですかあなた?
 勝負事において間合いというのは大事だぞ阿求。
――はぐらかさないで下さい。私が側にいて欲しい時はいつでも側にいてくれるというのは嘘だったのですか。
 さて、そんな事を言ったか。
――私たちが出会ってから百八十七日目の夜。師走の初めの事、十四回目の逢瀬の時です。
 阿求にいい加減な事は言えないものだ。諸兄も記憶に関する能力者を口説く際には細心の注意を払われたい。
――なのに……なのに……ぐすっ。
 いかん。本当に泣き始めた。子供のようにぐずり出した阿求を抱き寄せて慌てて撫でた。こうしてやれば大概泣き止む。
 良いかよく聞けよ、阿求。今夜はこうしてずっと撫でていてやるからそれで何とか眠ってくれ。
――ひっく。……ぐすっ……。体の何処を撫でて貰えるかは私に決めさせていただけるのですか……。
 いや、頭と背中だけだが。
――うわぁん。
 待て、待て。まだ話しは途中だ。いいか。今日さえ我慢できたら明日の晩は褒美をやろう。
――ご、ご褒美……ですか?
 その通りだ。何でもお前の望むままにしてやろう。赤子のように甘やかしてやっても良いし、一晩中優しく苛めてやっても良い。
俺をお前の好きにしても構わん。いくらでも付き合ってやろう。
――い、いくらでも……。
 ごくり、と真っ白な阿求の喉が鳴った。
 我が事成就なり。交渉が成った事を確信して俺は阿求に見えぬようにやりと笑った。後は俺の問題だ。
俺が今晩この妻を抱きしめつつも犯さないという難事を成し遂げ初めて阿求の苦労も報われるというものだ。ようやく落ち着いた阿求を抱きしめたまま俺は気合を入れ直した。
 寝床に入って暫く経った。抱きしめた阿求の体は何より柔らかく芳しい香りがした。これは辛い。最終日が最も悩ましいとは思わなんだ。
そうだ。こういう時は素数を数えると良いと聞く。どれ、一、三、五、七……。
――あなた。
何だ阿求。十一……十三……。
――あなたのお陰で何とか耐えられそうです。五日もの間、随分ご無理をさせてしまいました。それで、ええと。あ、愛しています……あなた……。お、おやすみなさいっ!
 そう言って阿求は真っ赤な顔を俺の胸に埋めてしまった。心臓がどくどくと高鳴っていた。とても眠れそうに無い。おのれ阿求最後の最後に。
十四、十五、十六。十七。十八……。
……。
一万九千百六十一。一万九千百六十二。一万九千……。
昇る朝日を見ながら俺は思った。何を数えていたのだったか。


六日目
さて良く頑張ったな。何かして欲しい事は無いか。阿求。
――そうですね。色々ありますが……。何よりもまずは……。
ぱさり、と軽い音を追うと、そこに阿求の着物が脱ぎ捨てられていた。俺が顔を上げる前に寝室の明かりがふっと消えた。
暖かい闇の中に阿求の声が響く。
――御種を下さいませ。
最終更新:2012年07月08日 14:00