浮気に脅えてるヤンデレ嫁に問い詰められたい人用。個人的には酔って帰ってからというところが至高。

例に似ず酒に酔った。我が家への帰路すら危うい。
その年、冷夏であった事から里では凶作が見込まれた。それ故に人里の小作農達から地主へ小作料一時減免の嘆願が相次ぐ小作争議となった。
小作人衆の代表ら、地主の各名家、双方から数名が出揃い長い議論が交わされる事となる。
その会合に稗田家の当主代行として出席せねばならなかった。稗田家の家格故に人里全体の問題に発展しかねない事態に顔を出さぬという訳にいかぬ。
また生活のため必死になった男たちが口角泡を飛ばしている場に文筆を本分とする妻を寄越すなどこちらからも願い下げである。阿求が本来の仕事以外に煩わされる事が無いよう俺がいるのだ。
金繰りも村政も阿求を無為に疲れさせる。
争議自体は夕刻になって小作人、地主両陣営共に程よく妥協され落着となった。騒ぎの大きさに見合う程にはこじれなかったと言って良い。と気を緩めたが辛いのはその後であった。
一件落着の後は両陣営の和解と交渉成立の証として無礼講の宴が待っていたのである。幻想郷の人間は妖怪同様良く飲む。年寄りどもは尚更だ。外の世界ですら強くはなかった俺には長い争議よりこちらの方が余程堪えた。
数刻の後にお偉方との宴もようやく竹縄となった。誠に煩わしかった。年寄りのおべっかを聞くよりはさっさと妻の待つ家に帰りたい。
其処此処に体をぶつけながら、情けないしっかりしろ、と己を叱責し夜道を歩き切り、ようやく妻の待つ我が家の明かりが見えたところで己の体が石の如くに疲労していることに気が付いた。
酒量を間違えたつもりはないが思っていたより酔いが回っているようだ。なんだか頭も鉛のようにぼうっとした。
いっそ少し休んでいこうかと思ったが、生憎妻は会合の後急遽決まった宴会については知る由も無い。俺の帰りが遅いのをさぞかし心配しているだろう。
この上もし眠り込んで朝帰りでもしようものなら刃傷沙汰となってもおかしくは無い。
痺れかけた脳髄に鞭打ってよろめきながら我が家の門前まで来た所でふと気が付いた。
暗い玄関の前に小さな提灯を持って阿求が一人立ち尽くしていた。
待っていたのか。ずっと外で。
そう声をかけると項垂れていた阿求がはっと顔を上げた。俺の姿を認めると驚いて目を見開いた。
やがてじわじわとその瞳に星のように輝くものが溢れ出し滑らかに頬を伝った。
すまん。遅くなった。
――…………っ……!
 阿求は何かを叫ぶのを堪えるように、安堵と寂しさが入り混じった、ほんの少し恨めしそうな顔で俺を見詰め。
――あなたあっ!
やがて堪え切れなくなったらしく俺の胸に飛び込んできた。
――……っ……もう!……本当にもう……!……っど、どこへ……!どこへ行って……いたのですか……。
阿求の体は冷え切っていた。どれ程の時間外に立っていたのだろう。
――く、暗く、暗くなる前には帰ってきてくれるって……いっ……いって。ぐすっ……。言っていたのに……。
 すまない。会合の後、突然酒に付き合わされる羽目になってな。
――し、知らない。聞いていません……っ。あなたは朝そんな事仰いませんでしたぁ……。
 阿求は背が足りぬ分、爪先立ちになってぐいぐいと体全体を摺り寄せ俺の背中を掻き抱き、耳元で餌をねだる雛鳥の如く囁くような抗議を続けた。赤子の肌のように弾力のある阿求の頬が俺の頬に密着した。
頬と頬が触れて重なっている部分だけ、ぞくりとする程冷たいような焼ける程に熱いような奇妙で心地よい感触があった。ただでさえ酔っているところに鼓膜に直接響く近さから愛らしい女の泣き声で俺への糾弾が続いた。
白い喉と瑞々しい唇が発する涙で濡れた声が耳元で俺の不義を詰って弾ける度に何とも言えず妙な気分になる。なかなか泣き止まない阿求を伴って玄関を潜る。
考え違いをしていた。本当に苦しい争議はたった今から始まる。少々暗澹とした気分になった。




袴を外し外行きの羽織を阿求に預けてゆるりとした着流しとなった。ふぅ少しは楽になった。
と息を吐いたところで未だべそを掻きながら俺の羽織の皺を丁寧に伸ばしていた阿求の手がぴたりと止まった。
――あなた……。どうして羽織に女性の白粉がついているのですか……。
 あの芸伎ども。余計な土産をくれたものだ。背中全体がぞくりと粟立ったが努めて気を落ち着けねばならない。この問いを違える訳にはいかぬ。
 正直に話す。落ち着いて聞け。争議に関わったのは上白沢先生の他は皆、脂の乗った親爺どもだ。息苦しい騒動が落着を見れば畢竟、綺麗どころの酌が必要になった。
勿論俺も止むを得ず同席したが、誓って言う。手も触れていない。
――……つまり。あなたは女の人がお酌をするお店で……おたのしみだったのですか……。
 悪いところだけ抜き出すな。落ち着いてくれ。
――いいえ。落ち着きません。あなたが。あなたがっ……。私以外の女の人と、……いっ……いい、いかがわしいお店で…なんて……。はぁ。はぁ。
……っ。そんな。そんなの考えただけで……私っ……。
羞恥と悲哀と、恐らくは興奮で。阿求の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。怒りなのか悲しみなのか、悔しさなのか背徳的な悦びなのか。
それらが入り混じった美しい泣き顔を恥ずかしがって阿求は顔を両手で覆った。
 お前が思っているような店ではない。女は酌をするだけだ。上白沢先生もご一緒だったのだぞ。
――そ、そう。そうでした。慧音先生も一緒だったのですね。
 どうやら解決の糸口を掴んだか。心中で胸を撫でた。
 その通りだ。疑わしいなら今度本人に直接聞いてみるが良い。先生の話も俺の話と違わぬはずだ。年寄り相手が煩わしいので大抵二人で飲んでいたのだ。
――……そうですね。ずっと二人で飲んでいたのでしたら……先生に聞けば……ずっと、二人で。
 嫌な予感がする。
――ちょっと待って下さいあなた。慧音先生と二人でずっと飲んでいたのですか?
 待て、待て待て。勘違いするな。仕事の話をしていただけだ。何も無かった。
――何を。何をお話になったのですか。
 大したことではない。以前、先生に寺子屋の運営資金について相談を受けていてな。それについて二、三確認する事があっただけだ。
――相談を受けた……?それはいつの事ですか……?
 先月の末だ。仕事の付き合いで遅くなると言ってあっただろう。
――で、ででで、ではあなたはあの晩、慧音先生の家で二人っきりで?
そんな馬鹿な。先生のご友人の焼き鳥屋台で一杯付き合って話を聞いただけだ。
途端に阿求が激しく詰め寄ってきた。
座っていた俺の膝の上で両肩に縋り付き爪を立てる阿求の姿は猫科の動物が獲物を逃がすまいと押さえつけている様を思わせた。
――……どういうことですか…………?
――説明して下さいっ!
――わ、私に隠れてっ……。妻を放って。未婚の女性とお酒だなんて……。
――い、いつですか。いつの間にそんなに親しく?
何度言えば分かる。『慧音』とは何も無いッ!
――あ、……あな、た。いつも。いつも慧音先生のこと、は……。『上白沢先生』って……。
とにかく落ち着かせようと強い言葉で否定したのが間違いであった。言い切ってしまった後でとんでもない失敗をやらかした事に気が付いた。
酔っているとはいえ迂闊であった。
 暫し呆然としていた阿求の瞳に見る見るうちに涙が溢れた。信じられぬ程脆く柔らかい阿求の心に焼けた鉄を落としたように俺の言葉がずぶずぶと沈み込んだのが良く分かった。
それでどれほど阿求が傷ついたのかも。
 証人も仲裁も一切無い。ただ言葉のみで阿求の疑いを晴らさねばならぬ。閻魔の裁定を弁舌のみで覆すに似る難事である。
強くもない酒に酔っている事が面倒だが話して分からぬ程では無いはずだ。
阿求の頭の中では既に俺と慧音は蜜月を過ごして将来を誓い合い自分を捨てて逃避行の算段を立てている段階までを疑っているのだろう。まずはその誤解を解かねばならない。
隠していたわけではない。今すぐに説明する。不安にさせてしまってすまない。




最速で誤解を解こうと選び抜いた三語であった。が、それを耳にした途端、さらに深い悲しみのせいで阿求の瞳がまるで日陰の花のようにしおしおと濡れていった。
――……や、やめてください。あ。あやまったりしないで……ぐす……。そんな。まさか。ほんとうに、けいね……せんせい、と……?
有り得ぬ事だ。無論違う。俺はお前を愛しているのだ。
――な。ならどうして謝ったりなんて、すっ……ぐすっ……するんですか。
こんな風に泣かせてしまってすまないと思ったからだよ。お前が心配しているような理由ではないのだ。
――それなら……それならどうして何も言ってくれなかったんですかぁ……。
ふっ夫婦なのに……ぃ。あなた、あなたはわたしのなのに……。
無駄な心労を負って欲しくなかった。それだけの理由だ。やましい事は何も無い。
――うそ。嘘嘘嘘。嘘です。だって。だってお名前で呼び合う仲なのでしょう。
確かに。今まではお前に気を使っていたが確かに慧音とは名前で呼び合う仲だ。何度も里の会合で顔を合わせるうちにそういう仲になった。
だが、それだけだ。ただ気心が知れた仕事仲間というだけの事なのだ。
――いやぁあっ。あなた。お願いですから。そんな……。他の女性と親しくなるいきさつなんて。聞かせないで下さいっ!
阿求。俺の話を聞け。頼むから俺の声を聞いてくれ。
そう言って呼び掛けても最早阿求の耳には入らなかった。俺の腕の中で暴れ何も聞きたくないと言うように激しく身を捩る。
そうして誰の声も届かない孤独な暗闇の中で子供のように震えて泣いている。
――やだやだやだやだ……いやぁ……。捨てないで下さい……あなたぁ。
――どうしてぇ……。ちゃんと毎日八意先生の惚れ薬飲ませてるのにぃ……。紫さまに習った通りにデートしたのにぃ……。なんでぇ……。なんで慧音せんせいがぁ……。
 少々聞き捨てならない不穏な言葉が聞こえてきた。
 待て待て。ここ最近お前を想うと頭に霞が掛かったように他の事が考えられなくなったり、夜でもないのにお前の匂いがたまらなく嗅ぎたくなるのはそのせいか。
逢瀬の時に妙に艶かしい仕草をするのもそのせいか?
 聞いた瞬間、泣きべそを掻いていた阿求が顔を上げた。美しい睫毛が涙で濡れそぼっているが泣き止んで何やらぽかんとした顔をしている。
――えっ……。そ、そんな……。か、片時も私への劣情が止まらず何も手が付かない程に効果が?
 いや、そこまでは言っていないが。
――で、では。慧音先生に気持ちが移ったりはしていないのですね?
最初からそう言ったろう。で。どうなのだ阿求。俺に一服盛っていたのか。
――い、一服盛るだなんて…………。私はただあなたが素直になって二十四時間私と触れ合っていないと気が済まなくなればいいな。と思っただけで……。
いつだ?
――……あなたの夕食に毎日……あの。そのう……わ、私の『愛』と一緒に……。えへへ……。
 俺の食事に毎回混入している『愛』とやらが何を指すのかは今はいい。問題はいつからその八意印の惚れ薬とやらを盛り続けていたかだ。
まだまだ他にも余罪が有りそうだな。説明してもらうぞ。
――あの。あの。それはそのう……。ひ、ひみつですっ……。
 ほう。秘密と来たか。尋問のやり甲斐が有りそうだ。俺を問い詰める前に普段の行いを省みるべきだったな。
 言いながら阿求の着物に手を掛けた。




――あ、あなた。目が怖いです。こっ。ここでは駄目です!
 多少目付きも悪くなる。久し振りに少しだけ怒っているのだ。
――あ、あなた?ひょっとして、私はっ……これから、大事に守ってきた、お、女の、ひっ、秘密を……あ、あなたに無理矢理に……ぜっ……全部暴かれてしまうの、ですか……?
 なんだか嬉しそうなのが気に掛かるがその通りだ。全部吐くまで責め続けてやる。
俺に一服盛っていたのか?それで俺にどうして欲しかったのだ?逢瀬の間ずっと俺を誘っていたのか?さぁ、お前の口から言ってみろ阿求。今ならお仕置きは軽めで済ませてやる。
 『お仕置き』と聞いた途端、阿求の顔がぽやぁんと紅くなった。そして見せ掛けだけの吹けば飛ぶような虚勢でむっつりと黙り込んだ。
――いっ……言いません。そんなっ……恥ずかしい、ことっ……。隠し事をしていた悪い人には教えてあげませんっ……。
 左様か。お前が言わんなら俺も外で何があったかは今後も説明せん。
――そっ。それは他にも親しい女性がいるという意味ですかっ!
 さて、どうだろうな。お前も上手く俺の口を割らせてみろ。責められる事を悦んでいるようでは出来ると思えないが。
 阿求は真っ赤な顔でぷるぷると震える花弁のような唇を真一文字に引き結び泣きそうなくせに俺を弱弱しく睨んで見せた。
――で、できます! す、助平なことばかり考えているあなたにお話ししていただくなんて簡単ですっ!
 愛しい妻は何とも健気な形ばかりの抵抗を見せ今にも壊れそうな城門に閉じこもってしまった。そうしてその守りを俺に強引に崩されるのを今か今かと心待ちにしている。
こうなっては最早言葉では無意味である。ゆっくり長い時間を掛けて二人きりでじっくりと固くなった心を開かせてやらねばならぬ。
ほらおいで。仲直りしよう阿求。
鞭の前に飴をやると阿求はおずおずと俺の首に手を回した。借りてきた猫のように大人しい阿求を抱え上げて、寝室に運んだ。俺に抱え上げられている間、阿求はずっと涙声で俺の耳元を啄ばんでいた。
――ちゅ……はぁ。あなたっ……ま、負けませんからねっ……ぜったいに洗いざらいお話しして……はぁ……いただきますからね。
――んっ……っちゅ……ゆるしません。わたしに、はぁ。はぁ。はぁ。黙ってちゅっ……。遅くなるなんて。他の女性とお話するなんて……ぷはっ……。
 また考え違いをしていた。本当に苦しい争議はたった今から始まる。少々暗澹とした気持ちになった。


ところでな阿求。八意先生の薬はともかくスキマ妖怪の誘い方は真似しないほうが得策だぞ。
――何故ですか?
 あれはな。胸の豊かな女にこそ栄えるものだ。
――あ。な。た?やはり胸の大きい女性のほうがお好きなのですか……。
 思い切り尻を抓られつつまた新たな争議の種を蒔いてしまった事に気が付いた。
最終更新:2012年07月17日 00:46