眼が覚めたのは午後、片隅に鎮座している時針が三時を指す
ここ最近の幽香にとって午後三時からは一日の中で最も貴重で重要な時間である。
普段通り黙々と着替え、歩きなれた道を辿る
そして見慣れた風見鶏が留まる、淡いセピアカラーの喫茶店へと入って行く。


「いらっしゃい」


するといつも通りの声が、幽香を迎えてくれるのだ。


本日は、お寝坊ですかな?

あら、どうしてそう思うのかしらね?

……髪、梳かしましょうか?

……あら


この、少々老けこみ、物腰穏やかで、かと言って謙りすぎてもいない物言いの、喫茶店の主。
彼と過ごす際に感じる流れは幽香には心地いい物なのだ
正確に言えば、この喫茶店で味わう雰囲気が、幽香を毎日ここに通わせる、彼女にしてみればもう一つの自宅感覚だ。


櫛を掛ける前に、何か注文は?

意地悪ね、私がここで頼むものは一つよ

お客様、ご注文は?


幽香はいつもこのフレーズに苦笑する、もう何年も繰り返す応酬に、巧いかえしが未だに見つからないものだから
そして彼のひねくれた内面の不変具合にも、老けこんだ男の笑顔には、悪童のそれが混ざっているのだから。


じゃあ……


幽香は決して口下手では無い、ただ何故かこれにだけは素直にオーダーする以外無い


珈琲を、一杯



─────────────



貴方は、老けたわね


何度も何度も飲んだ珈琲は、いつものように幽香の口内にほろ苦さと酸味を送り込む
ここ最近その一杯を含んだ余韻とともに、いつもの台詞が溢れるのだ


ははは……老いの実感は指の痛みと、その一言で強まりますなぁ


年季の見える手でカップを磨く男は、その台詞の度にこう返し、また若々しい笑顔を幽香に向ける。
ニッと歯を見せる笑い方で、頬にシワが寄る仕草、だがそれが幽香の目に普段より男を若く見せた


いつもそれ、貴方は変わらないのね


その顔が見たくて、幽香は毎日繰り返すのかもしれない
きっと幽香は、この男に惚れていた、間違いなく。


しかしそれを理解する程に感じてしまう、距離がある
昔何気なしに目を通した情報によれば、人間は生きて120そこらで一生を終える
寿命の概念が薄い妖怪とは違う、目に見える様な有限が、惚れた男にあったのだ

当時の幽香としてはまさに天と地が反転したかのような、大驚愕だった、余裕の無い自分を初めて出した
全速力で喫茶の入口を巨人用にリフォームしたことは、消したい過去である
ただ、その必死は自己の感情に気付いた瞬間でもあるから、留めておきたい過去でもある。


幽香は何気なく遠まわしかき回し、男に妖怪変化を勧めたことがある、いじらしい精一杯で
それはもう何十年も前、晴れて幽香が常連扱いになった日から、解答は無い
なのに幽香がそれから再び勧めることをしないのは、男の性格を汲み取ってからなのか

彼は『その時』が来てから決めるハラなのだろう、幽香はそう確信している。



幽香は なのに や らしくない といった先入観や概念が嫌いになった
元から快く思っていなかったのかもしれないが、そうなら俄然それに対する嫌悪は増した。

がしゃり、と男が痺れる指先から落としたであろうカップの音
あたかもそれは張り詰めていた幽香の緊張が切れるのと時を同じくして鳴ったかの様に、部屋に響いた


……手伝うけど?

いえいえ、女性に破片を渡すほどには、まだ大丈夫ですよ

……そう。

ははは、すみませんね、静かな午後に雑音を送ってしまいました


このやりとりは自然に行われた、と幽香は己にけたたましく鳴り響く心音が漏れていないかと共に自己に暗示した。
寿命にしては、折り返し地点に近い齢ではあるのだけれども、彼の衰えから来る些細な失敗に異常な過敏さを示す自分を見つける。
焦燥、緊張、らしくない、それは己にらしくないじゃないかと、怒鳴りつけても消えはしない
答えはかならず出ると、待つと決め、覚悟した日を想起し落ち着かせ、内心の普段の自分を取り戻す。

同時に、その日はいつかはやってくることも自覚して、彼の選択の、あくまで妄想にすぎないが、選択を猜疑心が盛り上げる。
彼のものになったわけでもつもりでも無いはずの幽香は 捨てられる と思った自分に驚愕する。
惚れた弱みか否か、置き去りにされる童の心境を思い出せば、幽香の孤独は加速したのだ。

何故彼は元から同じでなかったのか、自己嫌悪とこれを、らしくなさ とともに暗闇に捨てた。





─────────────




定時であるのだが、本日幽香が扉を叩きに来なかった。

倒れたのだ。幽香が?彼が。

男には知り合い以上がいなかった。ここの人間には珍しい根無し草。
おかげで親しい幽香が彼のいない店内へ行かず、真先に彼がいる診療所へとたどり着けたと言える。
幽香の情が分かる話。だったのだ、促さなければ。


答えを聞きに来たわ

幽香さん、私は確かに若くはないですが……流石に貧血では死にませんよ

~~~ッ!!!


とんだ先走りが生み出した、喜劇である。


夜であるのだが、幽香は未だここに居た。
何のために、と言えば口では監視と言う、その心中は心配であるから




ねえ。

なんでしょう

なんで貴方は人間なのかしら

さあ……人間の親が産んだからでしょうか

ほんとに、夢の無い……夢の無い人ね

じゃあ、貴女に会う為に人として産まれたことにしましょう

………………そう…………

……………………………………ねえ

なんでしょう

……なんでもないわ…………

……そうですか



私と生きる為ではないのだとしたら、それは──

それは──私が望むものに向かうのかそれとも──私を離す、意味なのかしら

聞け、そう聞いてしまえと訴える自分がいる。聞いてしまえば、何かが終わると言う自分がいる
それと同時に馬鹿な、決めごとも守れん齢じゃないと意固地な自分も声を張る
不安、不安。ふとした恐怖に負けそうで、持ち直し、折れかける
はやく その日 が訪れないものか、訪れてくれるな。今よ、今よ。どうか今が続いてほしい
叶わぬ我が儘、危なかしい考えで今に依存しても、止まらぬ時間は幽香と彼を無遠慮に引きずりながら歩を進めていった




─────────────



……幽香さん

…………なに?

これから花を、束ねる花を選んでいただきたいのです……

…………



長屋の一室で、前にも増して齢を重ね乾燥し、皺が覚束無く波打つ口で彼は弱弱しく幽香に言った。
閊えが取れたかな、悲しいかな、複雑な心境で幽香はその日が来た。と確信した

幽香はここで自分に花を頼むあたりが、彼の意地悪で捻くれている部分の現れだと、気抜けした
こんな男が自分を持ち得ていないことなどありえないのだ、恐らく自分が望む結果も持ちつつ、それでいて幽香に託してみたのだろう。

そんな男だ、どこまでもそんな男なのだから、惚れたのだ。
そんな男に惚れたのに、今はそんな彼が、疎ましく、妬ましかった。


…………正直ね。

………………。

今あなたに宛てる気持ちはムスカリ一色よ。
でもね、今を見てただけじゃない、前も知ってるもの。そうだった、ああだったあなただって知ってるんですもの。
だから、大目にみてムスカリ一輪。知らないあなたにフジ一輪……

…………。

それと今日、あなたの答えもわかってきて……ストックは黄色一輪。
加えて、しなびたクチナシも一輪ね……

……………………。

ねえ、あなたに、私の中ではこんなにも大きくなったあなたに。
私がマツムシソウを送ったらあなたは、私をわがままだと思うかしら?重たい女に思うかしら?

…………………………。

……今、貴方の顔は今までのそれよりも清々しいのね、こんな時に、こんな状況で見せるなんてシクラメンが咲いてしまう
ねえ、紫陽花の様ないとし人、最後の花は、どちらか決めて
私は貴方に向ける情熱を、決して彼岸花にしたくない、決して。

……。

私は貴方にホトトギスを捧げます、良くも悪くもホオズキはもうたくさん
……ミヤコワスレと、ホトトギス、どちらか一輪、手に持って
ほんの少し、外に居るわ、その間に。


軋む床を越え、幽香は行く
彼は微かに笑む、答えは決まった、迷う道は無い

彼は優しく、静かに…………




.ホトトギスを差し抱えた。

幽香は泣き晴らす、永遠の熱、不変の理、願望の集大成が入り乱れた

世界で一番歓喜した、世界で一番笑った、世界で一番感謝した、ありとあらゆる世界一を拡げた。

世界はこんなにも晴れていたと、内なる曇りは晴天へと、万感の幸福は潰えない

幽香の晴れは永劫照らす、愛しきものよ、壊れぬ愛よ今ここに

絶頂、最高のクライマックス

愛の果実を実らせた幸福な幽香、互いが互いの幸の幽香よ

恋を失った憐れな幽香は、最高最低のフィナーレで主役を終えた。






.ミヤコワスレに触れた。

静寂だったが、哀は無かった。

ただただ愛が、そこに残った

幽香は笑む、知っていた、人間の彼を愛してる

妖怪の彼も好きになる、愛するヒトは消えるが

ただ眼前の抜け殻が、愛したものの容が、相愛を示した

最初で最期の告白であったのだ、愛を残して、消えた。

なのにどうして泣けようか、幽香は幸福で泣かぬ、幸福で笑う

暖かなものが包む中、なにを泣くのか

恋は終わった、愛もまるで泡沫のように薄れるだろう




─────────────



男の店は今は無い、買われてまた別のものへと変わるのだ
外装は変わらない、あのぎこちない入口も。
誰も気づかない、古ぼけた風見鶏が圧し折られていることには


初恋は終わり、午後である
恋に焦がれた幽香は一人、恋の証を手に入れた
名を、頂いた、恋の始まった場所で、変わらぬ木片から

口に含んだ、木と、青臭さと、カビ臭さを味わった
咀嚼、含んだ味覚と、男の愛をと、飲みこんだ
喉に刺さろうと構わない、誰にも渡さない、誰にも奪われない

すべてが自分の物、体験も、感情も、現在もだ。

呆けた鶏から鶏を取り、幽香は一人風を見る

曇っていたが、それがよかった
今は曇りだ、雨も降る、しばらく晴れはしないのだ
世界が代わりに泣いたので、幽香は内で泣いている。

世界も、心もドシャ降りだった。

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最終更新:2012年08月05日 21:37