○○という男が、ある日何かの幼虫らしきものを捕まえた。
数日前にあった土砂崩れで澱んだ川にいたそれは、どう見ても弱っているようだった。
手を近づけても、直に触れても、ふるふると力なく震えるだけで、逃げることすらしなかった。
男はなんとなしに、近くにあった水のきれいな川までそいつを運んでやった。
透き通った水にぽちゃりと落としてやると、そいつはぴくぴくと嬉しそうに震えていた。
男は興味もうせたので、すぐにそこから立ち去った。

里に帰って寺子屋の先生に聞いたところ、「それはきっと蛍の子だよ。いいことをしたな、○○」と言われた。
きれいな川では小さな虫が、その尾をぼんやり光らせていた。





それから、何年か経って。男が伴侶をもらい、赤子をさずかり、虫一匹のことなどとうに忘れてしまった頃。
ある夏の夜、○○はカサカサ、ブンブンという音で目が覚めた。

幻想郷には自然が多い。当然、虫だって多いことになる。なのでこんなことは日常茶飯事だ。
男もそのあたりは慣れたもの、隣に寝ているの妻と子供を起こさぬようにそっと立ちあが―――ろうとして。

体が、動かぬことに、気が付いた。

「――――こんばんわ、素敵なお兄さん」
鈴虫が鳴くような、高くきれいなおなごの声。
何とか目線をそちらに向けると、緑の髪に黒い外套。
不思議な少女が、そこにいた。

「わ、嬉しいなあ。今、一瞬だけど私に見とれてくれてたでしょう?わあ、嬉しいなあ」
ころころと笑うその少女。一般的には美少女といっていいだろう。男が見とれたのも無理はない。
しかし○○は、ずっと見とれるなどという間抜けは犯さなかった。

男の目に映るは、少女のきれいな緑髪の間から覗く、二本の黒い触角。
少女は、間違いなく妖怪だった。
幻想郷の住人として妖怪をある程度知る○○は、目の前の少女を脅威ととらえた。

「…あー、やっぱり怖がられちゃうかぁ…。逃げられないようにしておいたのは正解だったかなあ…」

――体が動かないのは、お前のせいか。

「そうだよ。ごめんね…。本当はこんなことしたくないんだけど、人間は妖怪ってだけで逃げたり退治に来たりするから。落ち着いて話がしたかったの。…あ、大丈夫よ。私は人食いじゃない、絶対危害は加えないから」
落ち着いて話がしたい、と。人食いではないと、目の前の少女のような妖怪は言った。
ならばどうせこの体では逃げられぬのだし、妻と子は少々不安だがなるようにしかならぬ。幸い、隣の布団はしっかり盛り上がっている。ならば大丈夫か…。
そう、○○は考えた。

「えっと…まず、自己紹介するね。私はリグル。リグル・ナイトバグ。…蛍だよ。―――ほら、人は食べない」

―――蛍?
そういえば、と、過去の記憶がよみがえる。
確かずっと昔、川で小さな虫を助けてやったことがあったような。


―――まさか。
「思い出してくれたかな?…そう、私があの蛍の子供。あの時あなたに救われなければ、あのまま濁った水の中で惨めに腐って死んでいた、弱くて愚かだった虫けら」

蛍の少女――リグルは話を続ける。ほほは赤く色づいて、瞳は夢見るように潤んでおり、その表情はまさに恋する乙女そのもの。
「あの時あなたに救われて、私はあなたに恋をした」
「もろい私をやさしく包む、おおきなおおきなあなたの手。きれいに澄んだ水のむこう、月の明かりに照らされて、よかったなと笑うあなたの顔。そのすべてにちっぽけな私は心奪われた」
「種族なんて関係ない。大きさの差だってなんとかしてみせる。私のつがいはあなたしかいない―――そう思って、想って、おもいつづけて―――そしたらいつの間にか、こうなった」
「…ね、どうかな…?私の体、あなたの好みに合っているかな…?」

少女の独白を呆然と聞いていた○○は、そこでふと我に返る。
見れば少女は、不安げに返事を返さない○○のほうを覗き込んでいた。

…なるほど、と○○は考える。
なるほど、そういった事情であれば危険はないだろう。この少女が嘘をついているという危険もなくはないが、この不安げに揺れる瞳を見るにどうやらそうでもなさそうだ。
そして少女は、とても綺麗だ。確かに女性的な起伏には乏しいかもしれないが、人里に出れば十人の男のうち八人は声をかけるだろう、というほどに可憐だった。
○○としても、先ほどの求婚まがいの台詞で少々心が揺らいでいたところだ。

しかし。

―――俺は、○○という。
「あ…!へ、へー!○○っていうんだぁ!初めて知った!…ふふ、よかったぁ。返事してくれないから嫌われちゃったのかと思ったよ…」

だからこそ、

―――それと、お前はとても綺麗だ。男ならだれもが放っておかないだろう。現に、俺も少々見とれていた。
「う、うん!…う、嬉しい…!じゃあ!」

断ることしか出来ないのが、心苦しい。

―――だがその、夫婦になるということだが…。すまんが、俺には人間の妻と子供がいる。こればかりはどうしようもない、他をあたってくれ…。
「…え?」

目を真ん丸に見開いたリグルから、○○はそっと視線を外す。
これでいいのだ。自分は妻を愛しているし、リグルにしても二股など掛けられてはたまったものではないだろう。
だからこれでいい―――そう、○○が自分に言い聞かせていると。

「…えっと、何言ってるの?だって―――」
リグルが、妙なことを言い出した。


「―――この家に今住んでいるニンゲンは、あなた一人だけだよ?」
そんな、ことを。


ふ、と。
ここに至ってようやく、○○は気が付いた。
先ほどから自分とリグルがそこそこ大きな音を立てているというのに、妻も子供もまったく起きる気配がなく。
それどころか、虫の足音と羽音はうるさいほどに聞こえるのに――――二人の寝息すら聞こえてこない、ということに。

――――おい、起きろっ!

ばさりと、隣の布団をめくる○○。
しかし。

「あ、ごめんね○○。私はべつに大丈夫だったんだけど―――」
そこにいたのは、―――いや、「あった」のは。

「『みんな』がおなかすいたっていうからさー―――」
○○が愛した人間の寝顔などではなく。

「私としても、○○の近くで寝るなんてこと、許せなかったし――――」
がさがさかさかさはい回る、数えきれないほどの虫たちと。

「―――――食べさせちゃった」
どす黒いなにか、だけ、だった。



○○の全身の力が抜け、がくりと布団に倒れ込む。
リグルはそれを「不思議そうに」眺めながら、明るい調子で言葉を続ける。

「『まあそんな些細なことはどうでもいいとして』さ…。ひどいじゃない、○○!そんな嘘ついて!しばらく前からみんなにここを監視してもらってたから知ってるのよ!」

―――なにを、だ。
震える声でそう問うた。

「勿論、この家にほかの妖怪や魔法使いなんかが入り込んでないか、をよ!私は妖怪の中では弱いから、強いやつらが横取りに来てたらまずかったんだけど…誰も来てなかったからね!」
目の前の存在が、何を言っているのかわからない。

「さすがにそんな奴らがいたら、『駆除』するのも大変だからねー。その点、そこにいた人間は弱くてラッキーだったわ。片方なんてまだ子供だし」
なんだ。なんなんだ、これは。

「だって、ニンゲンだって邪魔な虫とか『駆除』するでしょ?…あ、あなたは特別っていうかもう種族なんて関係ないし。もう身も心も捧げていいっていうか…ね。…あう、何恥ずかしいこと言ってるんだろ私」
目の前にいるこの赤面するかわいらしい少女のような「何か」は、なんなんだ。


「…ま、まあそれはそれとして。そういうわけで、私も大好きなあなたの家に邪魔なニンゲンがいたから『駆除』してあげたんだけど…」
そして目の前の「少女のような何か」は、邪気のかけらも感じられない―――それこそ、人間が羽虫一匹ひねりつぶした程度の罪悪感も感じていないような顔で、こういった。



「―――あ、もしかして褒めてくれるの?じゃあ私、キスしてほしいな…なんて!きゃー!」




翌日、人里のはずれにあった家から、住人三人が消えた。
家の中に被害者の痕跡などは何も―――それこそ、何かにきれいに掃除されたかのように―――存在せず。
神隠しと思うしかない、と片づけられた。
まあ、幻想郷ではよくある話。その一つ。

幻想郷の、夏の夜。
たくさんの蛍たちは、今夜も元気に瞬いていた。

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最終更新:2013年04月01日 20:13