ハンティングを趣味とする青年○○にとって山とは異界であり、常世とは異なる場所である。
「山や森は異界である」と言う英国人の祖父の教えは、幻想の郷に紛れ込んでから一層強くなった。
しかし、文明社会から引き離され限られた田畑しか無い郷で生きていくに辺り山や森との関係も切り離す事が出来ないのは事実。
青年は他の外来人とは一緒に過ごさず、里外れの炭焼き小屋跡を再利用し、猟師として身を立てていた。
里の猟師の縄張りは既に決まっているので、必然的に彼らの立ち入らない危険な狩り場まで出なければならない。
だが、その分獲物も豊富であり、死ぬリスクが高い事を除けば里近くの外来人よりも裕福な生活を送る事が出来た。

そんなある日、彼はいつもの様に人里で獲物の皮と肉を売り捌き、行きつけの雑貨屋で弾と油を購入し家路についていた。
ふと、道ばたの草むらに丸々と太った山鼠が数匹屯しているのが目に映った。

「そう言えば、最近肉を食べてなかったな」

肉を食べ過ぎれば体臭が強くなる。
体臭が強くなれば獣には存在を悟られ、人食い妖怪には餌が此処に居ると告げるようなもの。
だが、現代育ちの彼にとって、脂が滴る肉をかぶりつきながら晩酌というのは耐え難い誘惑でもあるのだ。

次の猟までは期間があるし、その間肉断ちしておけば問題ないだろう。
鼠の群れに気配を殺し風下から近付き、投げ網を投げ付けながら○○はそう思った。

良い具合にぷっくりと肥えた3匹の山鼠を〆て残りは逃がし、帰り掛けに摘んできた山菜や茸を水洗いしておく。
今日は山の幸の天ぷらにしようと、彼はツボに入っていた菜種油を鉄鍋にかける。
この間帰還する外来人を神社まで護衛した時、巫女と友人が茸を天ぷらにして食べているのを思い出したからだ。

(貴方は帰らないの? 稼ぎが良いって霖之助さんに聞いたけど)

炭火をおこす手が止まる。
そう言えば何故こんな危険極まりない幻想の郷に留まり、元の居場所である現代社会へと帰らないのだろうか。
祖父が口酸っぱく注意していた『山に魅入られてしまった』のかもしれない。
実際、リスクの高い仕事をしているだけに彼は稼ぎが良い。
外来人に高いと言われる帰還用のお布施の代金を軽く超える金子を持っていた。
なのに、彼は何故か他の外来人が何よりも望む、外界への帰還をしようとはしなかった。

「この郷の山や森が気に入ったとでも言うのかな……魅入られるか、爺さんが警戒する訳だ」

そんな事を深々と考えても詮無い事だと決めつけ、彼は溶いた衣に食材をドンドン付けて揚げ出し始めた。
揚がるのが早い山菜や茸を塩や醤油で食べながら、晩酌用に里で購入した酒を軽く呷る。
家の周りには賽銭と引き替えに神社で購入した低級妖怪避けの符が幾つか張ってあり、こうして酒を呑んでも問題はない。
わざわざ高位の妖怪が攻め寄せてくる程のものが、この猟師小屋にある訳でもない。
だから彼は安心してほろ酔い気分になり、身の厚い山菜と肉故に揚げるのに時間がかかる山鼠を鍋の中で転がす事が出来る。

酒瓶も半分程になり、山菜も食べ尽くした頃に鼠の天ぷらは出来た。
わざわざ二度揚げまでした天ぷらはこんがりと揚がり、鼠であるという先入観さえ無ければ実に美味そうだった。
三匹の内一番先に揚がった天ぷらにかぶりつく。サクサクとした衣とジュワっとした肉汁が口内に溢れる。
雑貨屋で買った瓶入りの粗挽き胡椒を擦り込んでおいた為か、懸念していた肉の臭みは殆ど感じられない。
ああ、美味い。無性に肉が食いたくなる時ってのは、本当に堪らないよなぁ。
骨の隅々までしゃぶり尽くし、口内の脂を流す為に漬け物を囓りぐい呑みの酒をキュッと呷る。
さあ、二匹目と参ろうと手を伸ばした時、彼が幻想の郷で得た能力がそれに待ったをかけた。

天ぷらの臭いを逃がす為に開けた窓。
シンと静まり返り、時折獣の遠吠えしか聞こえない森の暗闇から気配が近付いてくる。
すっと酔いが遠のき、傍らに立てかけてある祖父から譲り受けた猟銃に手が伸びる。
気配は符が張ってある地点すら通り過ぎ、真っ直ぐに猟師小屋に迫っている。
更に強くなる気配を感じ、○○は無意識に守り弾である銀の銃弾を薬室に装填しコッキングする。
気配はやがて草を踏み分ける音を伴い、窓からすっとこちらを覗きこんできた。

それは、狐だった。
一度見た事がある山犬の化生よりも大きな、大きな金色の毛並みを誇る狐が窓から顔を突き出している。
無理矢理に這入り込もうとしたら、窓と壁をぶち破る事になるだろう。

(やばい……高位の妖怪だ。でも、なんでここに?)

喉がカラカラになり、生唾をゴクリと飲む。
彼の耳にゴクリと喉がなる音が聞こえた。はて、と思うとまたゴクリと鳴る音が聞こえた。
狐の方を見やる。○○の頭をマルカジリ出来そうな大きな口からダラダラと涎が流れ落ちている。
そして、その視線は残り二本となった鼠の天ぷらにしっかりと釘付けになっていた。

「……その天ぷらが食べたいのか?」

そう問いかけると、狐はブンブンと首を縦に振った。

ゴン

強く振りすぎた所為か、窓枠に頭をぶつけて少し涙目になっていた。
銃を床に置き何とか震える足を御して立ち上がると、二本の天ぷらが載った皿を手に狐へと近付く。
奴が自分を食う気ならとっくに家を破壊して押し入っている筈だ。
それならば、まだ押し入られてない間に、奴が求めているものを差し出せばいい。

狐は嬉しそうに天ぷらを、噛み締めるようにして食べた。
あっという間に二本の天ぷらを食い尽くすと、毛並みより深い金色の瞳が○○をじっと見詰めてきた。

食われるのか?
そうは思ったが、そうはならなかった。
暫く○○を見詰めていた狐はコクリと頷くと、窓から首を引き抜いて去っていった。
サクリ、サクリという草をかきわける音が遠のいていった後。
○○の家に残されたのは空の皿と少し歪んだ窓枠、そして唾液の水溜まりのみだった。




「それはお前が悪いな。森の中で迂闊に狐の好物の臭いを立てれば寄ってくるさ」

数日後、里へ買い出しに行った時に里の賢人へその晩の事を尋ねるとこう返事が返ってきた。

「稲荷の好物は本来鼠の揚げ物だ。手間と日持ちの問題で代用品として油揚げが供えられるようになったんだよ。
 勿論油揚げも狐の好む食べ物だが、鼠の天ぷらとなればそれこそ人を化かしたりどんな手を使ってでも食べようとするらしい」

昔話では天ぷらを揚げる代わりに山川の珍味を対価に持ってこさせた、とかいう笑い話もあると賢人は話を締めくくった。

「お前は人と妖怪との境界線で暮らしているのだ。妖怪を刺激する食べ物の臭いを撒くような危険な真似はするんじゃないぞ」

軽いお説教を受けた後、○○はブラブラと里の通りを歩きながら出口へと向かう。
平日の昼下がりな為か、人出は多く里人や外来人、そして買い出しに来た人外と様々な人出で賑わっていた。

「お……」

ふと、香ばしい臭いに足が止まる。
豆腐屋の店頭で客寄せの為か、子供が七輪で油揚げを炙っていた。
森に持ち帰らなければ大丈夫だろう、そう考え少年に一皿分食べたいと声をかける。
焼き立ての短冊に刻んだ油揚げへ刻み葱をふりかけ生醤油をひとたらし。
酒が欲しくなる一品だがまぁそれは今度で良いだろう。
そんな事を考えながら油揚げをハフハフ食べていると、店内から1人の女性が出て来た。

(あ、妖怪さんか)

背は高い方だろう。
呪符が張られた頭巾を被り、青を基調とした中華風の長衣を着ている。
髪の長さはショートボブぐらいで、きりりとした知的な美貌とよく似合っている。
何よりも特徴的なのは、腰に生やした扇状に伸びる9本の尾だろう。
そこまで見やった○○を、視線を感じたのか女性が振り返る。
その手にあった大きな包みが揺れる。恐らく、購入した大量の油揚げだろう。

「……」
「……!」

切れ長な視線と○○の視線が合う。
視線が重なった瞬間、ぞくりと背筋が震える。
思わず皿を取り落とさなかったのは僥倖だった。
反射的に胸にぶら下げている守り弾を入れた小袋を握り締めていると。
彼女は何事も無かったかのように、○○から視線を外してそのまま飛び去っていった。

「お、お兄さん、あの人とどうかしたのかい?」

子供が恐る恐るといった塩梅で声をかけてくる。
○○は何でもないと言い、びっしりと浮いた脂汗を拭った。
あの夜、自分を凝視してきた金色の瞳。
あの女性の、深い金色の瞳。

2つの金色の瞳は、あまりにも似通っていたから。


それから暫くは何事もなく、普段通りの生活が続いた。

ただ猟の最中、回避するのに苦労する人食い妖怪達の気配が何故か遠離るという不思議な現象が続いた。
○○は日常に紛れ込んだ違和感を感じながらも、猟師として獲物を追い続けた。

そんなある日、珍しく大きな猪を撃ち損じ逃げられた後。
仕方がないと帰宅途中で方々に仕掛けた狩猟罠を覗いて回っていると。

「山、鼠か……」

特大サイズの山鼠が罠の中でチーチー啼きながら暴れていた。
○○の脳裏に、あの晩の事が過ぎる。
○○は無言で山刀を鞘から抜き、山鼠を素早く〆た。

「久し振りに……天ぷらでも食べるか」

○○は何かが、静かにざわめくのを確かに感じた。

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最終更新:2013年05月29日 15:36