香霖堂店主、森近霖之助は頬をポリポリとかきながら、手近なイナバに。
「また明日にでも来ようか?」と言った。
その言葉をかき消すように。永遠亭の奥から、何か大きな。爆ぜる様な衝撃音が聞こえてきた。
勿論、音だけではない。ビリビリとした震える空気がやってきた。
それは、耳をちょっと塞ぎたくなる。それぐらいには、大きな衝撃だった。
霖之助は、両手で耳を塞いで。少し、しかめ面をするぐらいで済んでいたが。
声をかけられたイナバだけでなく、周りにいるほぼすべてのイナバが。
「ヒィ!?」と言って、地面に伏せてしまった。

キーンと言う耳鳴りが静まるのを待ちながら。玄関前に立った時から思っていたが。
やっぱり、とっても面白そうな事になっているなと、そう言う野次馬根性はあったが。
下卑た感情を隠しもせずに、ズカズカと上がり込むのは流石に不味いと。そうも思っていた。
余り、不興を買って。死なない程度の妙な薬を掴まされでもしたら、事だ。
だから、ポカーンとした表情で口を開けている。事情を知らなさそうなイナバを見つけて。
またにしましょうか?などと。心にも無い事を口にしていたのだった。

「いえ!多分、大丈夫だと思いますので。八意様のお薬をご所望なんですよね?」
「まぁ、そうなんだけどね。でも、急ぎの用じゃないから。単に常備薬の期限がそろそろだから、早い目にと思っただけで」
案の定。帰ろうとする客を目の前にして。霖之助に目を付けられたイナバは、霖之助を引き留めようとしてくる。
多分、これが。てゐや鈴仙優曇華院ならば。「その方が良いかもね~」と言われたり。
良くても「ちょっと見てきますんで。何か危なそうなんで、入らないでくださいね?」と言われて待ちぼうけを食らう。
それが関の山だろう。

「良いの?」
「もちろんです!と言うか、お客様を門前払いなどしたら……八意様に怒られますので」
やばそうな空間に。客を引き込む方が、余計に怒られそうなのだが。そこに気づきそうな余地は無かった。
当然だろう。霖之助だって、伊達に長い間、半人半妖をやっているわけではない。
色々見てきたに決まっている。悪い出来事も、嫌な出来事も、不快な出来事も。

霧雨魔理紗の父親には。それなりに、感謝はしているが。本心から、自分の事を受け入れてくれたとは思っていない。
あれは、実の娘が魔法に現を抜かし過ぎて、感覚が麻痺していただけだろう。
いっそ、麻痺を通り越して。父親の方まで、魔道の道に堕ちてしまったら。多分、良い酒飲み友達くらいにはなれたかなと。
それだけは、惜しかったなと思っている。


「では、森近様。こちらです。こっちの方に、多分八意様がいらっしゃる筈ですから」
「そう。有難う」
とは言うが。段々と大きくなる、化け物のような叫び声に。案内をしてくれているイナバは、徐々に歩みが重くなり。
ついには。服の裾を掴んで、震えたまま。一歩も動けなくなってしまった。


「……上白沢慧音がいるの?」
この叫び声の持ち主に、心当たりは合ったが。
一応は、確認を取って置く事にした。
「え……?ええ、はい……。確かに、昨日から、向こうの処置室に……」
「そうなんだ!」
何という幸運だろう。神仏と言う物の加護など、全く信じていない霖之助であったが。
この時ばかりは、まさかの幸運に。日ごろの行いが良いからかな、などと。柄にも無いことを考えてしまった。

「そう……上白沢慧音が……あの教師風が……へぇ……そうなんだ、ついに……ふふふふ」
上白沢慧音がいる。それをイナバから聞いた途端。普段は微笑止まりの、微笑しか見せないその顔を。
満面の笑みが花咲く。とても清々しい顔に変化させた。

「あの……森近様…………どうしてそんなに、お笑いに?」
「え?そうだねぇ……色々あるけど」
イナバから、疑問を呈されても。霖之助はちっとも狼狽せずに。満面の笑みを無遠慮に振りまいていた。
背中からは、叫び声が。正面には、場に絶対そぐわない楽しそうな霖之助の顔。
その両方で、イナバは恐怖に震えた。

「うーん……」
内緒だよ。と言って、この場をはぐらかす事など。イナバに比べて、精神的に絶対的な優位に立っている今の霖之助ならば。
それは造作も無い事のはずだが。
残念な事に、霖之助はとても親切な存在だった。
疑問を呈されたら、ちゃんと答えを返すし……

手を貸してくれと言われたら、喜んで協力する性質だった。
たとえその内容が。どんな物であろうとも。霖之助は、笑顔で協力してくれるだろう。
森近霖之助とは、そう言う存在なのだ。


「久しぶりに会えて、挨拶も出来るし。藤原妹紅が、僕の店に来た時の。茶飲み話が増えたから……それじゃダメ?」
霖之助の言葉は。最後の最後まで、とても穏やかで、優しい声色だった。
この状況でなければ、それはとてつもなく温和な気分にさせるやりとりだったのに。
いっその事。最後に言ったあの言葉。
“それじゃダメ?”が。もう少し、恫喝の空気を孕んでいてくれた方が、相対しているイナバとしては安心できた。
そっちの方が、まだ常識的な展開だ。いままでの微笑は、演技だと切って捨てれる。
後に見せた、満面の笑みは。何が邪悪なことを考えていると。断じる事が出来る。
でも、最後の最後まで。こんなにも温和で、柔和で、優しい佇まいを維持されてしまっては。
イナバとしては。もう、何も分からなくなってしまうしかなかった。



「森近霖之助!!イナバから離れなさい!!」
泣く事も出来ず。ただただ、霖之助の不気味なまでに維持された笑顔の威力に。
肉体には傷一つつけずに、精神だけがガリガリと削られて行く。
もうこのまま、正気を失うまで。自分はこの笑顔に見届けられてしまうのか。
そう、諦めかけた時。天の助けが、イナバの元に舞い降りて来てくれた。

イナバから離れろ。そう、鬼気迫る怒気を孕んだ。誰かの怒声。
それを一身に浴びても。やっぱり、霖之助はいつも通りだった。
何だろう?一体誰だろう?と。まるで、街中でいきなり友人に呼び止められたかのような。きょとんとした顔つきだった。

しかし、霖之助が顔を後ろに向けた時。
もう、鈴仙は。霖之助の毒のような笑みに食らいつくされようとしていたイナバを。もう、助け出して、、距離をグンと稼いで。
本当の意味での優しさで、抱きしめていた。


「大丈夫?」
イナバの視界に。心配そうに、自分の顔を覗く。鈴仙の姿が見えた。
自分は、鈴仙に抱きしめられている。あの奇妙で奇怪で。訳の分からない笑顔から、解放された。

そう理解した途端。
「うわああん!!」
「大丈夫、もう大丈夫だから。怖かったわね……でも、もう大丈夫だから」
イナバは顔をクシャクシャにして。思いっきり泣き喚いた。そして、それをやさしく抱きしめる鈴仙。
イナバは確かな安心感を抱いていた。もう、泣くような怖いものは何もないのに。
でも、だからこそ。イナバの目から流れ出る、大粒の涙は止め処無く溢れ出てくるのであった。


「嫌われちゃったなぁ……何か悪いことしたのかな?」
「来るな!!」
霖之助は。傍から見れば、とても申し訳なさそうな顔で。鈴仙がせっかく稼いだ距離を詰めようとした。
もちろん、それを鈴仙も。見過ごす訳がなかった。
距離を詰めようとする、その一歩目を踏み出そうとした途端。鈴仙の刺さるような敵意が、霖之助にむき出しにされた。
もちろん、抱きかかえているイナバは。霖之助の顔を見ないで済むように。自分の胸元の奥深くにまで抱きかかえていた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2013年09月14日 13:50