「動くな……絶対に動くな!動いたら、警告無しで撃つわよ!!」
中腰の姿勢のまま、イナバを片手だけで胸元の奥深くに抱きかかえつつ。
もう片方の手は、人差し指を突出し。森近霖之助をしっかりと狙っていた。
しかし、その突き出した人差し指は、微かに震えていた。

鈴仙と霖之助の間に隔たる戦力差などは、言うに及ばず。仮に、イナバを後ろに退避させずに。
抱えたままで、戦っても。絶対に勝てる自信があったし。
この場に観客がいれば、余程の賭博狂いでも無い限りは。百人が百人とも、鈴仙に賭けたであろう。

森近霖之助は半人半怪で、ただの人間よりもずっと丈夫で、ただの喧嘩でも十分に強い。
でも、彼は戦うような立場には無い、今も昔も。そして多分、これからも。
だから、月にいた時から兵士として活動した鈴仙が。負ける可能性など、何処にも無いはずなのだ。
なのに、震えるのだ。霖之助の中にある、底知れぬ不気味さがそうさせてしまう。
自分と霖之助の間にある、補いようがないはずの戦力差からくる安心感を。容易に埋めてくるのだ。


「ちょっとちょっと、落ち着いてください。僕は―
「うるさい!!何も喋るな!!」
弁解しようと、そして自分には鈴仙達に対する敵意が無い事を示すために。
霖之助は両手を空高くに掲げて、武器も何も持っていない事を、殊更強く示してきたが。
霖之助の半生や、諸々を色々と知っているから。敵意と言う名の鉾は、絶対に収めようとしなかった。

「僕は、君たちの敵なんかじゃないよ?」
「味方でも無いくせに」意外なことに、この言葉は霖之助の背中から聞こえてきた。

真正面ばかりに注意を向けていたから。
真正面で睨みを効かせ続ける鈴仙ばかりに目が行っていたから。霖之助は、後ろの回り込まれていることに気付けなかった。

霖之助の背後に回り込んでくれたのは、てゐだった。
悪戯を極上の喜びと考えている節があるせいで、人を悪戯に嵌めやすいようにする為か。
いついかなる時でも、人当たりの良い顔で。最もそれでいて、人を食った様な表情の得意なてゐが。
霖之助の背後に回り込んでいる今だけは、まったくの真顔だった。

「何の用?森近霖之助」
普段からよく見受けられる。軽い感じの喋り口調は、場面では全く感じ取る事が出来なかった。
それが、てゐの森近霖之助に対する認識だった。
遊び半分で相手をして良い存在ではない。可能な限り、相対する事を避けねばならない。
てゐの中では、最上級に危険な存在として、森近霖之助の事を認識していた。
だから、とてつもなくきつい物言いで。てゐは森近霖之助と相対していた。

様々な場合で、どちらに比があるかは、この際別にして。
こんな棘のある対応をされたら。誰でも多少なりとも、嫌な気分になるだろう。それはきっと、返答の態度や表情にも表れるはずなのに。

「ごめんなさい……本当に。何か、気に障ることをしたのなら謝ります」
森近霖之助は、絶対に怒らない。それが、彼の一番厄介な所だった。
本当に、申し訳なさそうな表情と態度で。霖之助は、鈴仙とてゐに向かって交互に頭を下げた。
その様子に、てゐと鈴仙の表情が同時に歪んだ。
歪みの理由は、果たして何なのか。恐怖か?それとも混乱か?はたまた、嫌悪感。もしくは全部。
色々考えるが、答えは一向に出てこない。

しかし、答えが出ないなら出ないで。もうそれで構わなかった。
余り真面目に森近霖之助と相手をしていたら、こちらの精神が削られて正気を失ってしまう。
「てゐ?来てくれたのは有難いけど……師匠の方は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、あの人は私達が束になっても勝てないお人なんだから……むしろ、いた方が邪魔だったりして」
なので、二人は敢えて無視を決め込む事にした。
てゐと鈴仙の間でしきりに頭を下げ続ける霖之助は、極力考えないようにした。

「慧音さんは大丈夫?」
「多分、もうそろそろ昏倒すると思うんだけどね……注射器の中身、全部注いでやったから」
極力考えないようにするための手助けとして、二人は喋り続けた。意味はあるのだが、今やる必要が何処にも無い会話を。

「ああ……そう言えば。叫び声もだいぶ小さくなったわね」
「本来なら、一発で昏倒する威力の物をぶち込んだんだけどね」
前と後ろで、頭を交互に下げ続ける霖之助を完全に無視して。てゐと鈴仙はお互いの会話だけに集中していた。


「昨日作ってくれた鈴仙のお味噌汁。だいぶ薄かったんだけど」
「減塩よ。朝と昼で十分取っているはずだから、あれぐらい薄くしないと、帳尻が合わないのよ」
「ぶーぶー。あたし等は肉体労働してるんだから、もう少し甘めの基準でも良いと思うんだけどさぁ」
「それにしても、あんたの好みは濃すぎなのよ」
「ぶー。多少体に悪い方が美味しいんだよ」
徐々に、状況に即した会話のネタにも、限界が見え始めていた。
しかし、それで会話の無い空白を作るよりは。いっそ、全く関係ない会話でも良いから、空白を作らない事を二人は選んだ。
長い間続いていた、上白沢慧音の叫び声も。いつの間にか、完全に聞こえなくなった。
ゴソゴソとした、大きめの作業音が時折聞こえてくる程度。相手をしていた永琳が、最後の仕上げに縛り上げているのだろうか。

状況の異常さを象徴付けるような叫び声も無くなった事もあり。場を見ずに、会話の文面だけを見れば。
てゐと鈴仙の二人の会話は、よくある日常の一風景にまで。その状況を軟化させていた。
しかし、穏やかなのは会話の文面だけで。てゐと鈴仙に挟まれている霖之助はと言うと。相変わらず、交互に頭を下げ続けていた。
本当に、真摯な態度で。

可能な限り、霖之助の存在を視界から外している二人も。霖之助が、真正面に立っているのだから。
多少なりとも、視界の端には映ってくる。そのせいで、二人の笑顔は明らかに、作った感が丸出しの張り付いた物だった。
でも、二人は日常の会話を装い続ける。
霖之助の相手をして、精神が削れるよりは。随分マシな判断だと、二人ともそう判断していたから。



「ごめんなさいね……二人に任せっきりで」
思ったよりも、大分時間が経ってから。ようやく、八意永琳が助け船に乗ってやってきてくれた。
「師匠!」
「遅いよ!!」
上辺では、朗らかな日常の会話を演じていたのだったが。その内情は、二人ともいっぱいいっぱいであった。
だから、上白沢慧音の叫び声が聞こえなくなった折に。やっと永琳が来てくれる!と、内心大きく喜んだものだったが。

最後の仕上げに手間取っていたのか、永琳は自分たちの所には中々来てくれなかった。
一度喜んで、緊張の糸を不用意に解してしまったせいで。その意図を、再びキチンとした張りつめ方をさせるのは。正直、無理な話だった。

おかげで、最初からまともに作り切れていなかった表情が。張りつめた糸が解けた後では、もはや作り笑顔すら間々ならなくなってしまった。
途中、霖之助が何か声をかけてきたような気はするが……正直、覚えていなかった。


「ああ……八意さん……あのですね―
「森近さん。本日はどのような用件で?」
霖之助が何か喋ろうとしたが。永琳は、それを制して。無理やりにでも話を進めてきた。
「え……えっと、前にもらった常備薬の期限が、そろそろ切れそうなので」
「そうですか、ではこちらへ」
永琳は、霖之助の話など聞く耳を持たなかった。聞く耳を少しでも持てば、即彼の作り出す場に飲み込まれてしまうから。
永琳は今こうやって、相対しながらも。目線は上手い事、霖之助の輪郭を捉えないように視界の場所には気を使い続けている。

結局の所、それしか無いのだ。
如何なる状況でも、笑顔を絶やさず。如何なる場面でも、真摯に対応する霖之助の相手など。
極力避ける。それが一番の防衛方法なのだ。そもそも、霖之助自身そこまで強くはない。だから、危険度と言う点では。論ずる必要がない程度でしかない。
なので、放っておいても構わない。だから、決して倒そうなどとは思わない方が良いと、永琳は肝に銘じているのだ。
でなければ、呑まれてしまう。

すれ違う、時も決して霖之助の顔は見なかったし。案内をしている今だって、スタスタと前に行くばかりで。
他愛もない会話も無ければ、置いて行ってしまってないかと後ろを振り返ることも無い。
どうにも落ち着かない、感じの良くない無言だけが。二人の間を流れていた。
永琳は、スタスタと前を歩きながら。多少なりとも強張った表情をしていたが。霖之助はと言うと……
笑っていたのだった。とても人当たりのいい笑顔で。
それを見たくないから、永琳は絶対に振り向かないのだった。



「では……こちらが新しい常備薬です。それぞれの効果や効能は、付けておいた別紙を見てくださいね」
「はい、有難うございます。八意先生」
と、笑顔で霖之助は礼を言ってくれるが。永琳は、相変わらず霖之助の言葉に対しては無言だった。
事務的で、必要最低限の会話しかしようとしなかった。目線の方もあからさまでは無く、巧みに逸らしていた。
あからさまに逸らしては、霖之助に会話の糸口を与えてしまいそうだから。

「…………では、八意先生」
「ええ、お大事に」
しばらくの間。霖之助は、いつも通りの笑顔を維持していたが。何も展開が無く、ただただ無言が続く事で諦めてしまったのか。
大人しく、席を立った。それに対して、永琳は短く素っ気ない返事しかしてくれなかった。
しかし、それに対して霖之助は。決して、気を悪くしたとかそういう感情は見せなかったし。
それ以前に、本当に何も思っていないのだ。だから、霖之助の感情が揺らぐ訳が無かった。



「はああ……」霖之助が、永琳の部屋を出て行って。永琳は深い溜息と共に、椅子に深く腰を掛けた。
霖之助に対して、同情の余地はあるけども。それを加味しても、精神的に他者を食う化け物を相手には出来ない。
「八意さん」
そう思うだけで、本当に良かった。ほんの少しでも、口走っていたらと思うと。
八意永琳は、不意打ちのように戻ってきた霖之助の言葉を聞きながら。肝を冷やすしかなかった。


「八意さん……鈴仙さんとてゐさんに僕宇佐見 蓮子や待っていたと、伝えておいてください」
「…………ええ、大丈夫だから。伝えるから」
椅子に深く腰を掛けて、うつむき気味に。永琳は、霖之助の相手をしていた。相変わらず、顔は絶対に見ようとはしなかった。

「八意さん、それともう一つ」
「……」
ついに、永琳は返答すらしなくなったが。霖之助は構う事はなかった。
「もう一つだけ……僕が彼女たちの敵ではないと。僕が彼女達の事を嫌っていないとも」
「……ふっ」
余りにも不用意な行動だった。今、永琳が見せたこの嘲るような笑みは。

「どうしましたか?八意さん」
「貴方は誰の味方でも無いでしょうに……」
そして、てゐと同じような事を。霖之助に向かって、吐き捨てるように呟いたが。
最後の一線である。顔を見無い事だけは、ちゃんと守っていた。だから、まだ平静を保てていた。
「森近霖之助……貴方は、里の事を嫌っている。そして里の不幸が大好きだって事以外は、何も考えていない癖に」

「里を憎く思う以外の感情を身に着けない限りは……私達の態度は変わらないわよ」
「じゃあ無理ですね」
吐き捨てる様な永琳の呟きに、霖之助は爽やかな声色で答えた。



永琳から、吐き捨てるように色々言われたが。霖之助の人当たりの良さそうな表情に、変化は全く無かったし。
きっと、感情の上でも。霖之助の心中には、さざ波すら起こっていないのであろう。だからこそ、永遠亭の面々は彼を恐れるのだった。

先ほど、あんなにも。邪見を超えるぐらいの扱いを受けても。霖之助は決して、物に当ろうとはしない。
下駄箱から、自分の履物を丁寧に降ろして。玄関戸だって、乱暴に扱わずゆっくりと開け閉めをした。

「あ……こんにちは」
「おやぁ…………君は」
だから、事情を何も知らない○○は。霖之助の事を怪しむ材料など、何一つ提示されなかった。


「君は、確か。○○君だよね?」
「はい……そうですが……あの、何で私の名前を?」
いきなり自分の名前を呼ばれて、いぶかしむ○○に。霖之助は、ハッとした表情を浮かべた。
「これは……失礼な事をしちゃったね。確かに、君は僕の事を絶対に知らないんだから」
ペコペコと、本当に申し訳なさそうに。霖之助は、○○に向かって頭を下げ続けた。
その余りの様子に、むしろ○○の方が恐縮するばかりであった。

「ああ……そんな、頭を上げてください。こちらの方こそ、随分と刺々しい言い方で」
「ごめんね、○○君」
ペコペコと、霖之助と○○のお辞儀合戦がしばらく続いた。
「そうだね、○○君は僕を知らない物ね。じゃあ、まずは自己紹介からしないと」

「初めまして。僕の名前は、森近霖之助。魔法の森の近くで、香霖堂って言う古道具屋の店主をしているんだ」
「初めまして、森近さん」
「霖之助で良いよ。折角なんだから、仲良くやろうよ」
○○は、幻想郷の歴史など何も知らない。○○には、情報というものが何一つ与えられていない。
あったとしてもそれは。都合よく改竄と改変を繰り返しているから、もう元の姿など留めていない。

「はい、よろしくお願いします。霖之助さん」
そんな○○が、外見上はとても人当たりの良い、森近霖之助と出会えば。仲良くなってしまうのは、必然だった。

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最終更新:2013年09月15日 23:40