慧音は返り血で汚れた衣服をバサバサと脱ぎ捨てていた。勿論、新しい服を着る前にタオルを使って念入りに体を拭う事も忘れてはいなかった。
当たり前の事だが、慧音が体を必死で拭っている頃には。永琳が本日二回目のリザレクションを完了していたのだが。
慧音はその間に、永琳が倒れていた位置からは背を向けた立ち位置で着替えや体を拭うと言う作業を行っていた。
着替えを行う慧音の傍らには、空になった器が転がっていた。訝しんで食べてくれないと思っていたが、どうやら口にしてくれたようだった。
空腹に負けたからかもしれないが、素直に嬉しかった。

しかしながら。先程までは確かに、慧音は永琳の方を向いていた。永琳の首の骨を折ったのが慧音なのだから、位置的に前を向いていない筈が無い。
少なくとも、慧音が永琳にリザレクションを強要したときは……確かにまだ前を向いていてくれていたのだが。
今の慧音は後ろを向いている。着替えやタオルの束も散らかしているように見えるが、よくよく見れば不意に後ろを向かないで済むように。
全て慧音の前に置かれていた……物によっては床にも置かれていた。

永遠亭はいわゆる日本家屋であるから基本的には土足で上がる習慣は無い。床にタオルやら着替えを落としてもそこまで抵抗感は無いが。
それでも床にある物を拾おうとする慧音の姿は、少し億劫そうにしているのが後姿だけでもわかった。

ならば慧音の後ろにある寝台の方に仮置きすれば良いのに。そうすれば思いっきり屈む必要が無いので相当にマシになってくれるはずなのに。
それを慧音は絶対にやろうとはしなかった。
それ所か。返り血を拭って汚れたタオルを背中に放り投げて……と言うよりは、その軌道は永琳の場所を意識して明らかに投げつけてきていた。

「うっ……」
丁度一枚のタオルが運悪く、永琳の顔へと真正面からぶつかっていった。
タオルだから別に痛くもかゆくもないが、血で汚れたタオルの臭いは余り良い物では無かった。
その上この血は、永琳自身の血なのだから。その永琳の血が付いたタオルを、慧音は汚物でも扱うかのように放り投げている。
そんな姿を直視すれば複雑な気分にぐらいなる。涙腺からは自然と涙が溢れてくる。


刺々しい雰囲気の慧音を見ていると、あふれ出る涙の量は留まる所を知らなかった。
ならば見ないで俯いて居ればいいのにと言う事ぐらいは分かっているが。それをやると慧音との距離を自分から遠ざけてしまうような気がしてしまって。
刺々しい雰囲気の慧音を見続ける今だって十分苦しいはずなのに。
この刺々しい姿から目を背ける事の方が、永琳にとっては苦痛なのだ。今はどんな形でもいいから慧音とのつながりを持っていたかった。
例え慧音自身が、永琳に対してどのような感情を抱いていようが。全く無視されるよりは辛くは無かった。


臭いを気にしながらとは言え、返り血を拭うのにもある程度満足できたらしく。慧音はようやく服を着る気になったようだ。
返り血を拭うと言う途方もない作業に比べれば、服を着るぐらいの作業はすぐに終わらせた。
と言うよりは永琳と一緒と言うこの空間から、一刻も早く出たいと言った方が正しかったかもしれない。
振り向いた慧音の服には、ボタンが一ヶ所かけ間違えた所が存在していた。
上の方ならば違和感に襲われたろうが、かけ間違えていたのは幸い下の方だった。

慧音とのつながりをこれ以上損ねたくない一心から、慧音の事を無理にでも視界に収め続けていた永琳とは。
当然ながら振り向いてきた瞬間、慧音と永琳の二人は互いに目を合わせる事となるのだが。
「あ……」
ボロボロと大粒の涙をこぼす永琳は、健気にも淡い微笑を見せるのだが。
「…………ッ!!」
その健気な微笑に対して、大きな舌打ちを返して横をすり抜けて出ていくだけであった。
残された永琳の微笑は歪な物に変わるが。
「まだマシよ……まだマシ…………完璧に無視されて出て行かれるよりは……随分のはずよ」
そうブツブツと呟いて一般的には全く良くない事例に対して、必死で良かった探しを行っていた。
勿論、大粒の涙を大量にこぼしながら。




「○○」
事情を知っている人間が見れば、果たして慧音の笑顔はどう映るだろうか。
「慧音さん。あ、服着替えられたんですか?」
「ああ用意してくれたんだ……所で、例の木こりから何か提案をされたと聞いたが」
「ああ。聞かれましたか……私は―
「その前にだ」
慧音の反応は早かった。件の木こりが出した提案について、○○が存外良い感触を持っていそうだったから。
なので慧音は話の腰を素早くへし折った。

最も、たとえそうでなくとも言っておきたい事はあったのだが。
「その“さん”付けは……やめてくれないか?少なくとも私と○○の二人っきりの時ぐらいは、呼び捨てにしてくれ」
先程の笑顔と違って、この悲しそうな顔は本物の感情だった。
極力○○に気取られぬようにきな臭い事象は隠し続ける為に、感情の上でも演技をし続けていたから。

だからたまにこうやって、本当の感情を発露しても大丈夫な場面が訪れた際には。発露される感情量が、非常に過大な物になってしまっていた。
「あ……ああ。そう、でしたね」
「もう一つ加えるとだ……その妙に丁寧な言葉遣いもやめて欲しい」
「ああ……なるほど」

しかしこの過剰とも言えるぐらいの感情の発露。今の○○に対しては存外に効果的だった。
「……」
○○は何かを誤魔化したり時間を稼ぐように、ガリガリと頭を掻きむしっている。
慧音の見せた悲しそうな表情に対して、少なからず狼狽していた。
罪悪感と少なからず感じる気恥しさ……そして気恥ずかしさを感じること自体に対して、幾ばくかの自己嫌悪。

「慧音……ああ、もう。やっぱり何か恥ずかしい。自分がこんなに度胸の無い人間だとは……」
自分自身の不甲斐なさに○○は頭を小さく抱えるが。
「いや……良いんだ○○。少し不安になっただけだから。言いたく無い訳ではないのだと分かっただけでも、十分安心できる」
「すいませ……すまない、慧音。さっきは妙な勢いがあったからかなぁ……」
「そうか」意外なほどに短い返答だった。
えっ?と思って顔を上げた時にはもう遅かった。疑問に思ったその時にはもう既に、慧音の顔がすぐ近くにまで迫っていた。



女性特有の柔らかい感触と言う奴か。そう言った感触が今○○の唇には降り注がれていた。
「…………」
状況を理解しきるのにしばらく時間を要してしまった。
「…………ぬぁ!?」
かと言って状況を理解しきった後でも、○○の思考の処理能力は限界を軽く超えてしまった。
慧音が唇を放すまで○○は半ば放心状態で、唇を放した後も素っ頓狂な声を上げるだけだった。
「ははは……意外なほどに“うぶ”なんだな○○は……まぁ誠実と言い換える事も出来なくはないかな?」
「慧音!?」
「あはは……すまないな。驚くだろうとは思っていたが、ここまでとは思わなくて。何、勢いが必要なら付けてやろうと思っただけだ」
だが混乱状態に陥る○○の様子も、慧音の○○を思う気持ちと言う緩衝材を透せば。それはうぶで可愛い姿だと変換されてしまった。

「勢い……?」
「ああ。あの時は私が押し倒したから、色々と勢いがあっただろう……まぁ今のも含めて、多少強引なのは謝った方が良いな」
八意永琳が来る前の事を思い出して、○○は今度は別の意味で気恥ずかしくなった。
「ああ……ええ、まぁ」
その上先ほどのあの一件を、○○自身がそれ程悪い物とは感じていなかった。

そして○○の感じる気恥ずかしさの奥にあるその感情を、慧音が見抜けない筈は無かった。
「まぁ、強引に行くのはやめにしよう」
そう言いながら慧音は○○の横に座った。その座り位置はもちろん○○の真横を狙っていたが……
その狙い方に関しては、まだ割と強引な気配が存在していた。
○○の方はと言うと、まだ明るいうちにと言うような懸念を持っているのか。
それとも○○と言う人間は押さない上に、押されたら押されただけ引いてしまうような。柄にも無く乙女のような気概でも持ち合わせていたのか。

とにかく○○は、無理にでも隣に座ってこようとする慧音に対して。中途半端な距離を開けようとしていた。
この中途半端さが、恥ずかしくもあるが離れがたいと言う好意の現れなのだろうか。
とにかく、この距離は慧音が少し手を伸ばせば掴める程度の距離でしかなかったから。少し距離を取ろうとする○○の腰には素早く慧音の手が回り込んでいた。


「……ああ、そうだ。思い出した」
腰に手を回されて、身動きが制限されてしまった○○は。もう行く所まで行ってしまえと、妙な覚悟を決めてしまっていたが。
いざ覚悟を決めたのとほぼ同時に、慧音はある事を思い出してしまった。
「…………隣にはまだいたな」
先の惚けた面がどうしたと言われるような沈んだ表情で、慧音は隣室とつながっている壁を見やった。
多分まだ、永琳はいるはずだ。そう思いながら隣室との間に隔たる一枚の壁を見やる。
「あ……なるほど……まだ隣の部屋には八意先生が?」
八意先生などと、優しげに口にする○○の姿に。嫉妬にも似た癇の虫が、慧音の中で騒ぎだした。


「○○……別の部屋に行こう。あの部屋は狭いから、用意してくれたそうだ」
○○の腰に回していた慧音の手は、いつの間にか○○の手を握っていた。それもかなりきつく、容易には解けないような強さで。
「え……ああ、そうなんですか?」
「ああ、だから早く行こう……一緒にな」その言葉を呟く慧音には、有無を言わさない圧力があった。
一緒に行くと言うよりは、連れて行かれると言った方が正しそうな様子だった。

もう既に○○が出そうとしていた話の腰はバキバキ所か、粉々に粉砕されていた。
そもそも慧音の悲しげな顔を見た時から、自分が話そうとしていた内容を何処かに落としてしまったのだ。
この落とし物に気付くのは……随分先の事だった。






「ああー!!腹ッ立つ!!」
イライラを隠そうともせずに頭をガリガリと掻きむしりながら、輝夜は永遠亭へと帰宅した。
傍にはてゐや鈴仙所か、イナバすら引きつれていない。
「お風呂入りたい……空いてるかしら」
だが、今の全身が煤けた様子の輝夜を見れば。永琳ほどでなくとも事情をそこそこ知っている者であれば、妹紅と色々とあったのは分かってくれるだろう。
誰も引きつれていないのも、延焼を防ぐための後片付けに追われているのである。


「永琳ー!?いるー?」
近年でもまれにみる輝夜と妹紅の激闘に。永遠亭内のイナバ達は殆どが死闘の後遺症とも言える、火災の始末に駆り出されてしまっていた。
普段ならもう少し人の気配がある永遠亭が、今はしんと静まり返っている。
だが、慧音と○○を見るために残っているはずの永琳の声。これすら聞こえてこないのには、さすがの輝夜も不安感が芽生えた。

「……永琳ー!!?」
一回目よりもさらに大きな声で、輝夜は自身の従者の名前を呼び叫ぶが。返事や反応は何もない。
いよいよ、芽吹き始めていた不安感が成長しだした。
「……何かあったのかしら」
煤けていてべた付いていて、風呂に入りたいと思っていた気持ちの悪い感触も。
自分の声にすら反応しない永琳と言う事象の前では、些末でしかなかった。


何かあったとすれば今の状況を鑑みれば、それは多分慧音絡みだろう。
永琳が日中は殆どを過ごす処置室や、薬品保管庫と言った。永琳がよくいそうな場所を素通りして、真っ直ぐ慧音の病室に足を向けた。

「永琳、い…………」
結論から言えば、永琳はその部屋に確かにいた。いたのだが、その様子は最悪のさらに上を言っていた。
開けた瞬間に輝夜の鼻孔を襲う血の臭いに、辺り一面に飛び散った血。寝台に座ったまま、声も上げずにボロボロと泣いている永琳。
その光景のせいで。輝夜の中で流れている時間が、悪魔の館の瀟洒なメイドがいるわけでもないのに止まってしまった。


「ああ……姫様。お帰りになられていたのですね……その汚れでは、お風呂がご所望でしょうね。すぐに用意します」
目尻からは涙を溢れさせているのに。輝夜の姿を見やった永琳は、即座に微笑を携えて輝夜が今何を欲しがっていそうか、すぐに当たりを付けてくれた。
普段ならば「お願いね」と言って上機嫌で風呂場に迎えるのだが。
「そんなの、どうでもいいから!何があったの!?慧音と○○は!?」
今は永琳の見せるそのとてもよく回る気配りと、無理に出そうとしている微笑が。却って事態の深刻さをよく現してしまっていて。
妹紅との死闘でもないのに、柄にも無く輝夜は大きな声で永琳に駆け寄った。


「待って……待って、姫様!……あまり大きな声を出さないで下さい……この血も私の物ですから、二人は大丈夫です」
「えっ……」壁や床や寝台。余すことなく飛び散った血の量を、輝夜は絶句しながら確認した。
しかもこんなにも広範囲に飛び散ると言う事は……ただ切り付けられたと言うわけではない筈だ。

「あの姫様。私なら、大丈夫ですから……先ほどリザレクションもしましたので、体の方は全く何も問題はありませんから」
確かに体の方は問題ないであろう。
「リザレクションしたですって……誰にさせられたの!?」だが心の方まで無事とは到底思えなかった。
蓬莱人以外の者にリザレクションをさせられる事の、深刻な意味を。輝夜はよく理解しているからだ。

「慧音?慧音にやられたの?」
やられた方も心配だが……やってしまった方の心の状態も心配だった。
「いえ……これは……今回のリザレクションは自分で」
永琳から柄にも無い、バレバレの嘘をつかれて。輝夜は怒りよりも絶望の感情に強く苛まれた。
「……慧音にやられたのね。何回?一回だけ?」そして永琳が稚拙な嘘で、誰を庇おうとしていたのかも。

回数の事を輝夜から触れられた永琳は、明らかに狼狽していた。
「一回じゃないんだ……」永琳の肩を抱きながら、輝夜は頭をガクリと項垂れるしかなかった。
「に……二回です!姫様が思うより多くは無いはずですから!」
「十分すぎるわよ……一回でも十分なのよ」
「あの……慧音の事なら、私は何とも思っていませんから!私が迂闊すぎたのが、そもそもの原因で……」
輝夜が慧音に対して怒りを積もらせているのではないかと心配した永琳は。輝夜に対して必死に弁明する。
しかもその弁明の内容も、私が悪いの一点張りだった。

「大丈夫だから……怒ってなんかないわ。むしろ心配しているのよ」
「慧音を……ですか?」
「そうよ」
輝夜の言葉に永琳は大きな安堵の溜息を付いた。

だが、輝夜の言う慧音に対する心配事の内容。これが正確に伝わったとは輝夜は思っていない。
永琳の言葉通りなら、慧音は永琳に対して二回もリザレクションにまで追い込んだ。
これによって、慧音の中にある心のタガ。これが吹き飛んでしまっていないか……輝夜はこれが心配だった。

蓬莱人相手の殺人は、全て無かった事に出来てしまう。
これが、種々の凶行に対して。心理的な壁を著しく低くしてしまいかねない。
人里で何事かをやらかす際にも……今回の事が予行演習となりかねないか。輝夜の案じていた心配事は、そこにあった。


「あの……姫様」
「何?」
「その……何度も言うようですが。慧音は悪くありませんから……どちらが悪いかと言われたら、それは私の方なのです」
慧音の暴走に、今回の事が拍車をかけていないか。そればかりを案じていたが、必死で慧音を庇う永琳を見て、案ずるべきことはもう一つあったのに気付かされる。
輝夜は今まで妹紅の存在だけが、○○と慧音の首を絞める荒縄だと思っていたが。
今この瞬間、否が応でも気づかされた。荒縄が実はもう一本……物凄く近い場所にあったことに。

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最終更新:2014年03月18日 10:41