慧音と妹紅が大立ち回りを繰り広げた時から、少しばかり時間を巻き戻して。
輝夜は慧音と妹紅が通りそうな、里への道に陣取っていた。
陣取ると言っても、まさかイナバ達にその手伝いをさせる訳にも行かない。精々がてゐと鈴仙に哨戒をさせるぐらいだから、たった一人で仁王立ちをするだけなのだが。

いつ何時に、あの二人に見つかっても良いように。表情やしぐさと言った見かけだけは異性と言う物を保っていたが。
実際は心細さと今渡っている橋の余りの危うさに、おっかなびっくりの状態でしかなかった。

おまけに、鈴仙に作らせた好物の飲み物も。永琳が作るそれに比べて、酷く甘ったるい。
永琳が使えないのは仕方が無い事なので、代わりに輝夜の好みをある程度把握している鈴仙に頼んだのだが……
甘さだけが際立っていて、苦みとかの成分が殆ど感じられない。永琳が作る完璧な物に慣れていたせいで、舌が受け付けずに途中で封を締めて飲むのをやめてしまった。
その大好物は、いつもならば永琳が作っているはずなのだが、今日は鈴仙が作っている。
努めて考えないようにしていた永琳の不調だったが。いつも飲んでいる好物の味が、不出来な事で、どうしても脳裏に焼き付かせざるを得なくなった。


「……普通の水か麦茶だけにすればよかった」
口直しに、水の入った水筒を呑むが。舌の感じは直せても、消沈した気持ちまでは直ってくれない。
意気消沈までしてしまうと、こんな調子で勝てるのだろうかと言う疑問も鎌首を擡げてきてしまう。
「……チッ」
こんな調子でどうすると、自分自身に舌打ちをして、自分の頬を自らの手でパンパンと二三度叩く。
だが、二三度程度ではこの沈みきった気分は、例え見れる程度と言う低い目標すら越えてくれなかった。

「あああ……!」
軽く叩く程度から、段々と。掌底で殴るに近づいて来ていた。流石に痛かったが、痛みで消沈した気分が少し紛れた。
良いか悪いかの部分は、この際置いておくことにした。


「ふん……まぁこんな物かしら」頬を叩くどころか殴るまで行ったので、口の中を噛んだのか唾と共に血を吐き捨てた。この程度の出血なら、すぐに止まる。
輝夜本人はまぁこれでもいいやと考えているが。傍から見る物は、そうは思わなかった。
多少なりとも晴れた表情をしているのが救いかも知れないが。第三者はきっと、何があったの?と狼狽するだろう。
その狼狽を表現するように、木々を踏みしめる不用意な音が響いた。

「誰!?」
余りにも不用意すぎる音だ。輝夜はその音を妹紅がわざと出したのかと思い、牙をむき出しにした感情で音の鳴った方向を向いた。
「ひぃ!?」
しかし、音を鳴らしたのは妹紅でも無ければ慧音でも無かった。
「……永琳。貴女、部屋で休んでて良いって言ったでしょ、何をやってるのよ」
輝夜からの敵意に、怯えきった八意永琳だった。きっとあの音も、わざとでは無くて本当にしくじって出してしまったのだろう。
全くもって、らしくない。これならば妹紅や慧音にせせら笑われていた方が、遥かにマシだった。


きっと、てゐや鈴仙が今の永琳を見ても狼狽しただろう。
しかし輝夜が今の永琳を見て抱える狼狽は、てゐや鈴仙の比では無い。
「……永琳。部屋に戻りなさい。ここは、私とてゐと鈴仙で何とかするから」
「あ、あの、姫様。いつも飲んでいるお飲み物を作ったのですが」
こちらの話をまるで聞いていない永琳に、奥歯が軋む。舌打ちを打たなかったのは最後の一線だったが、正直その一線もいつまで保てるか分からない。
「永琳、今すぐ、部屋に、戻れ!」
一言ずつ区切りながら、力強く輝夜は永琳に向かっていった。こんな妙な区切り方をしないと、不意に怒鳴り散らしてしまいそうだった。
そうなれば、もうおしまいだ。最後の一線何て、簡単に消し飛んでしまう。この一線が消し飛んだら、永琳に何をするか自分でも分からなかった。

「ひ、ひ、姫様。お飲み物を」輝夜の言葉が聞こえているのか聞こえていないのか。とにかく永琳は、しどろもどろになりながらも近づいてくる。
しどろもどろでも、必死で笑顔を作りながら近づいてくるのは。それが永琳の中にある忠誠心のなせる業と言うのは分かる。
それはすぐに分かるが、こめかみに青筋が立ってくるのはどうしようも無かった。
青筋を立てるほどに興奮したせいで血流が増したからなのか、傷が付いた口内に無くなりかけた血の味がまた広がった。

「永琳、私はね、部屋に戻れと言っているのよ。戻らない方が、怒るわよ?」
なおも近づいてくる永琳に、輝夜は怒気を孕みながら言葉を続ける。しかし手は後ろ手に組んで、もしもの事態を出来るだけ少なくしていた。

戻らない方が怒ると言われて、永琳はおたおたとし出した。手には輝夜がいつも飲んでいる飲み物を大事に抱えながら。そして水筒と輝夜を交互に見やる。
早く帰れと怒鳴ってやりたかったが、グッと堪えた。後ろ手に組んでいる手も、握りしめすぎて痛いくらいだった。

しばらくの間、無言の押し問答が続いたが。遂に永琳は、意を決したように歩みを進めた。
……勿論、輝夜の方向に。
「永琳!」
「ひっ……でも、姫様。私は慧音と」
「何が“でも”なのよ!」
怒鳴られた永琳はもちろん縮こまるが、怒鳴ってしまった輝夜も不味いなと言う表情が滲む。
今、怒声を散らしてしまった事で。一線に張られていた糸が一部分、ほつれてしまったのが分かったからだ。
まだ切れてはいないが、もう限界は近い。これ以上近付かれたらどうしてしまうか分からない。

「“でも”ですか?……“でも”の意味ですか?」
“でも”と言う、言葉の意味を輝夜が聞いた事には。特に深い意味は無かった。
しかし聞かれた方の永琳の狼狽は、明らかに酷くなっていた。怒鳴られれば多少狼狽するだろうが、それにしても様子が違う。
「その……ですね」
「永琳。“でも”何なのよ?」
輝夜から“でも”と言う言葉の意味を問われ事を、しきりに誤魔化そうとしていた。何か隠している、それは明らかだった。


「永琳。何を隠しているの?」
スゥッと、輝夜の声が一段落ちた。怒鳴られるよりも、キツイ問い詰め方と言って良いだろう。
声が一段落ちたせいで、輝夜の体に走っていた緊張も少し解けた。手はまだ後ろ手に組めているが、握りしめる力は弱まった。
ただでさえ一線に張った糸がほつれているのに、そんな危険を冒すのは。
隠し事の内容に、悪い予感がしたからだ。

「…………その」
歯切れの悪い永琳の言葉に、一線に張った糸がまたほつれた。

今まで近づかないようにして、永琳にも近づくなと言っていたのに。糸がほつれたせいで、遂に輝夜の方から近づいてしまった。
「永琳……正直に話しなさい」
さすがに、最後の自制心で永琳の襟首を掴む所までは行かなかったが。肩を掴む手は、相手に恐怖を与えるには充分な強さだった。

「……」
肩を掴まれ、睨まれていたが。視線こそ合わせていたが、永琳は無言のままだった。
つまり、言えば怒られると自覚しているのだ。
こうなると永琳が見せる最後の意地と忠誠心で、頑なに外さない視線すら癇の虫に触る。



「永琳。そう言えば、私がさっき怒鳴った時、慧音がって言ったわよね」
永琳が喋らないのならと、輝夜は永琳の隠し事を推測して、探りを入れてみた。
そして幸か不幸か、その探りは一発目から大当たりだった。慧音の事を聞かれた永琳は、明らかに体がビクンと跳ねた。

「言え」
「…………」
言えと強く命じるが、やってきたのはやっぱり長い無言だった。
「言え!八意永琳!!」
長い無言に癇の虫がまた蠢き、その虫は輝夜に一線に張った糸にぶつかった。
「言えって言ってるでしょ!」強い自制心で、繊維が一本だけ残ったが。その程度では、殴るのを我慢して襟首を乱暴に掴んだ程度でも。よく我慢した方だ。

襟首を締められて、怒鳴られて。
それでもまだ何も言わない永琳に、輝夜の表情に掛かる青筋はどんどん太くなり。顔もどんどん赤くなっていった。
無言を貫かんとする永琳の姿に、輝夜は襟首を締める力を増すが。内心では殴ってないだけマシと、妙な自己弁護を必死で繰り返していた。

「お願いだから、言ってよ、永琳!お願いだから…………」
襟首を締めているが、表情に掛かる青筋はまた太くなったが。嘆願するような言葉を出した輝夜に、永琳はふっと、言ってしまおうかと言う気になってしまった。
永琳もまた、無言を貫く事に並々ならぬ罪悪感を感じていたのだった。


「……慧音を探していました、謝ろうと思って」
「……」
何故永琳が謝る必要があるのかと思ったが、永琳の言葉を邪魔せぬように無言でいた。
「……そして、慧音に会う事が出来ました」
「……」
しかし次の無言は、何だか不味い予感を感じたが故の。後ろ向きな物だった。

「慧音は、やる事があるから。邪魔をするであろう姫様を説得してくれたら、多少は許すと―
永琳が全ての言葉を言い切る前に。輝夜はついに最後の一線に張られた糸を、完全に切ってしまって。

ついに、永琳の横っ面を。妹紅の時よりもずっと強く、思いっ切り殴り飛ばしてしまった。





どれくらいへたり込んでいたのか、輝夜はまるで想像がつかなかった。
気が付いたら、鈴仙とてゐが必死に自分の名前を呼ぶのが聞こえた。それに気付くまでの事を、まるで覚えていない。
「姫!しっかりしてよ!」
てゐにガクガクと体を揺らされても、思い浮かぶのは永琳を殴り飛ばしてしまった事だけだった。
「ああ、もう!姫ごめん!」
パンパンと、てゐの往復ビンタを食らってようやく輝夜は思考を現世に戻す事が出来た。

「あ……ああ……!私……やっちゃった」
「姫!それは良いから!師匠の事は、私と鈴仙で見るから!!慧音と妹紅がああ!」
慧音と妹紅と聞いて、輝夜の顔が青ざめた。そうだ、私は何のためにここに来たんだ。
何とか立ち上がれたが、フラフラとしたままで里の方向に向かう輝夜を見て。てゐは自分にだけ聞こえるよう、小さく呟いた。
終わった、と。






てゐが終わったと呟いた。
事実、其の呟きからそれほど時を置かずして。輝夜の記憶は、妹紅に撃ち落された所で断絶してしまった。

「!?」
そして輝夜は、断絶した意識を取り戻した同時に、跳ねるように起き上がった。しかし、起き上がった時にはもうお日様は煌々と照っていた。
普段自分が起きる時間よりは多分早いが、それはむしろ今の輝夜にとっては皮肉に近い事だった。
「こんな時に限って、普段より早起き?はんっ!」
自嘲めいた呟きのはずだったが、その呟きは思ったよりも音量が大きくなってしまった。もう呟きと言うよりは、自分自身に対する叱り声と変わりが無かった。

「ああ……もうッ!」
荒々しくて棘のある声を出しながら、輝夜は頭を抱えたり掻きむしったりしていた。
昨晩の事は、思い出すだけでも自らの腹を掻っ捌きたくなる衝動に駆られる。
掻っ捌いたところで、無駄だからやらないが。憤死してしまう人間の心情が、少し所では無く理解できたような気がした。


地面に座ったまま自暴自棄になっていると、何か草木を踏みしめる音が聞こえた。
「誰……って、そうよね」
「ヒィッ!?」
当然、輝夜はその人為的に鳴らされた音の方へと視線を向ける。そして音を出した張本人は、居場所がばれた事に肝を冷やして、短く甲高い声を上げた。
輝夜はその様子を見て、かなり不機嫌になった。ただでさえ不機嫌だったのに、更にである。
「姫様!」
見るに見かねて、永琳と一緒に付いてきたらしい鈴仙が割って入ってきたが。
「鈴仙、ちょっと黙って!私は永琳と話がしたいのよ!」
取り付く島も無く、突き放されてしまった。

にべも無く突き放された鈴仙は、少々立ちくらみに近い感覚を覚え、フラッと体を揺らした。ただすぐにてゐが支えてくれたのでそれは良かったのだが。
「鈴仙、これはちょっと、あんまり手出ししない方が良い」
不安定な鈴仙を支えながら、てゐは手を引くように勧めてきた。鈴仙にとっては余りにも不本意な提案だ。

「てゐ……貴女まで。いくらなんでも見過ごせるわけ―
「鈴仙!ちょっと黙れって言ったわよね!?てゐ!鈴仙を連れて後ろに下がってなさい!!」
「あー……鈴仙。気持ちは分かるけど、一旦下がろう。姫様ったら、私たちの想像以上に荒れてるよ」
まぁ、荒れて当然なんだけどさ。てゐは昨日の事を思い出し心中で呟きながら、鈴仙を無理に引っ張って行ってしまった。


お供がいなくなって、1人ぼっちにされてしまい。永琳の怯えは更に酷くなった。その様子は明らかに輝夜を恐れている。
別に恐れられる事には、長く生き過ぎたせいで感慨と言うのはもう特には存在しない。だが、この場合において問題なのは……
「何物陰に隠れてぼうっと突っ立てるのよ、永琳。こっちに来たいなら早く来なさいよ!!」
自分を恐れている相手が、自分の一番の理解者であり友人である。八意永琳である事が、問題なのだ。


「……」
「し……失礼しますね」
「良いから、来たいなら来なさいよ」
平時ならば、輝夜の機嫌が悪くて辺りに棘をまき散らしているような状態でも。永琳だけは、いつもの調子で相手をしてくれる。
そのうち、永琳の調子に輝夜が巻き込まれて。いつの間にかいつも通りになっている。

……しかし、今回は趣が全く違う。
そもそも、平時の輝夜が機嫌を悪くする材料は。妹紅に嫌な負け方をしたと言った事ぐらいで、機嫌が悪くても永琳には余り棘を飛ばさない。
「……たく。一晩外で転がったせいで、汚れてるわ」
「あの……」
「あッ!?」
「いえ……申し訳ありません」
だが今回は輝夜自身が多少なりとも意識的になって、永琳に棘を飛ばしている。
今だって、輝夜が衣服の汚れを叩いて落としている最中に。永琳が手伝おうかどうかと迷う仕草を見せているのに対して、輝夜は威嚇にも近い声を出した。

つまりは、今輝夜の機嫌が悪い理由が。永琳に幾ばくかの関係があったと言う事に他ならない。
「……その、姫様」
「……」
汚れを払いのける動作をピタリと止めて、輝夜は永琳の顔を一直線に見つめだした。
その眼には、明らかに憤怒の炎が宿っていたのだが。同時に、目尻には涙が溜まっていて。顔の下半分だけを見れば、そこに憤怒の感情は無かった。

「何よ、永琳」
声の方も、愛憎入り混じると言う感じだった。声色は怒りだったが、震え方は悲しみのそれであり。種々の感情がグチャグチャの状態だった。

「はい……姫様……その、昨晩の事で」
昨晩の事。永琳がそう言うと、輝夜の中で入り混じっていた種々の感情の全てが、大きくなってしまった。
「……ッ」
勿論、感情が大きくなった事は輝夜の様子を一番近くで見ている永琳には丸分かりだった。しかしそれでも永琳は逃げなかった、逃げる訳には行かなかったのだ。


「その……昨晩の敗北は……」
「そうね、半分ぐらいは貴女のせいね」
「……」
輝夜から直接的な、キツイ言葉が飛び出した。永琳は何も反論を返す事が出来ずに、うつむいてしまった。


「……」
「……」
そのまま、十分以上経ってしまったか。二人とも無言のまま、感情だけ揺れ動かしながら突っ立っていた。
奥で見ているてゐと鈴仙はハラハラしたまま、見守る事しか出来なかった。

「……本当に―
「あああ゛あ゛あ゛!!」
何かを言おうと、永琳が顔を上げた瞬間だった。輝夜の中にあった、何かが切れてしまった。
輝夜は狂ったように大声を出しながら、永琳に向かって体当たりをかけてしまったのだった。
それは、永琳からすれば避けようとすれば避けれた物だったが。永琳はただ、眼を閉じて歯を食いしばって。受け入れるだけだった。


「何で避けないのよぉ!!」
滅茶苦茶を言っているなとは、思う。でも出来れば、避けて欲しかった。
避けられたら避けられたで、きっとその事について怒るのだろうけど。でも、永琳を殴り飛ばしてしまった感触は思い出さずに済んだ。
輝夜はわぁわぁと泣き喚きながら、手足をバタバタさせるが。もう永琳を害したくないから、それは全て地面に吸い込まれた。
それを見た永琳はしくしくと泣きだすし、鈴仙は頭を抱えてうずくまり、てゐは遠い目をする事しか出来なかった。

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最終更新:2014年03月18日 11:03