格子から手を突き出して、止まない雨に晒したまま、男は窓辺でじっとしていた。
 肘から指先までが凍ったように冷え切って、死人の腕のようになればなるほど、かえって男は実感を覚える。晩秋の風が凍てついた腕を引っ掻いて、その余波が頬を軽く撫でると、かつて当たり前のように外を出歩いていた頃を思い出す。
 そして五本の指を伸ばしたり縮めたりして雨粒をつかみ、ささやかな運動として気を紛らわせていた。
 傍から見ればまるで意味のない運動で、むしろ気の触れた自傷のようにしか見て取れないけれども、早苗は男の好きなようにさせて打ち遣っていた。
 好きにさせつつも時にはちらちらと男の様子を伺って、なにか危ないことはないかと、不味いことはないかと、それは姉が弟を見遣るような目つきで、不安といたわりの混じった視線を飛ばしながらも裁縫をしていた。
 やがて腕から冷気が全身にまわり、男の顔からも赤みが引いたのを見て取ると、
「風邪をひきますよ」
 刺繍の済んだ薄手の上着を男の肩にかけてやると、思いの外その首筋が冷えていたので、背中から早苗は男をそっと抱きしめた。それから腕を襟巻きのように男の首に絡みつけて、柔らかい手のひらで凍りついた首筋を包み暖めた。
「すまないな」
 血が頭に通うようになってようやく正気に返ったのか、男は腕を引っ込めると、濡れた片腕を自分の着物でさっと拭いて、肩ごしに早苗の相手を始めた。
「どうしても外の空気を吸いたくなるんだ」
「ええ、わかってます」
「どうしてだろうな。ずっとこの部屋に閉じこもっていると、窓から入ってくる空気がどうにも旨い」
 肩から首へと回された、早苗の腕が僅かに強張る。
「換気もお掃除もしているんですが」
 耳元で囁く平生を装ったその声に、隠しきれない動揺の色を見つけると、男は一抹の充足を覚えながら、なお話題を変えることなく話を続けた。
「別に居心地が悪いわけじゃないんだがな」
「それならいいんですけど。なにか足りないところがあれば正直に言ってくださいね」
 早苗が胸を撫で下ろし、腕の力を緩めたそのとき、
「ああ、足りないといえば」
「なんでしょうか?」
 男の喉元が、再度の圧迫感を訴える。その苦しさは呪いのようで、痛いというよりも重くのしかかってくるように思えた。
 揶揄うように笑いながら、
「腕も冷えてるんだ。暖めてくれ」
 一瞬目を見張った早苗は、呆れてものが言えないという顔を作って大きく溜息を吐きながらも、腕をほどいて男の前に回り込み、すっかり冷たくなってしまった男の右腕を胸に抱いた。

「こんなに冷たくなって……」
「仕方がないだろ」
「もう。しょうがないですね」
 失った感覚を取り戻してやろうと早苗の指が男の指を優しく握る。外気から得た冷たさが指から指へと伝えられるたびに、男が焦がれる娑婆の空気と、どれだけ換気を施しても、どんな奇跡を使おうとも誤魔化しきれない座敷牢の澱んだ空気を比べさせられ、それが少しずつ彼女の指が込める力を強くしてゆく。
 もう数え切れないほど味わった感覚をこらえながらも、早苗は努めて何でもないふうに振舞って、そして男に看破されるのであった。
 その気丈な姿はあまりにはかなく、男の生き死にを握っているだけの存在とはとても思えない。弱々しいからこそかえって憐憫を誘うものがあり、神でも巫女でもなくただ一人の女として男の瞳に映りこんでくるのだった。
 今度は男の方から早苗の肩を抱き寄せながら、
「早苗」
「……なんでしょう」
「外に出たい、と言ったらどうする?」
「出しません。絶対に」
 それは拒絶だった。男が予想していた通りの。
「そう言うと思った」
「でしょう?」
「もう何回繰り返したのかもわからんからな」
「じゃあいい加減、諦めましょうよ」
 胸に抱いていた男の腕を、早苗は一層沈ませた。まだ芯の冷たい手のひらが、装束の隙間から直に早苗の肌に触れる。
 その触れた素肌は、僅かに汗ばんでいた。男にはそれが冷や汗であるとすぐにわかった。間近に感じる鼓動も大きいようで、どこか追い詰められているように見えた。
「もう冬ですから。こんな馬鹿なことをしていると、本当に体も壊しますよ。そうなると本当に容赦しませんからね。あの窓も塞いでしまいますから」
「体を心配してくれてるのか?」
「当然でしょう」
 弾かれたような反駁が、男にはとても心地よかった。
 早苗はその独占欲を直接口に出そうとしない。心のどこか、冷静な部分でその歪さを自覚しているのだろう。だから恥ずべきことだと思っていて、こうして幽閉していることさえ、どこか心苦しく思っている。それでもそうせざるを得ないのは、業とでも言う他ない情の深さに抗えないからだ。そしてやはり理性の部分が強く反発していて、殊に男を前にすると、羞恥と罪悪の念に駆られ前後不覚に陥ってしまう。
 それでありながら愛情が、嫉妬の方がより色濃く早苗を塗りつぶしてゆくのだから、ただただ不条理によじれた形で男を求める。
 男は気付いていた。窓の外を眺めるだけで、早苗が寂しげに顔を曇らすことを。そしてそのことについて問おうとすると、何でもないと必死になって取り繕う。理性と欲望の間で揺れ続ける早苗は、男を背徳的な悦びへ誘う灯火であった。
「普通に人を愛することほど、難しいこともないな」
「残念でしたね。ここは幻想郷ですから、常識にとらわれてはいけないんです」
 季節はずれの長雨は、まだしばらく止みそうにない。明日も続くことだろう。
 男の火遊びもまた、然り。

好きな子ほどいじめたくなるもの、たとえヤンデレでも

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最終更新:2014年07月08日 15:49