妖々夢編 八雲藍

    湯煙舞う浴室、薄曇りの奥には二人の姿がある。
    一人は中肉中背の男。
    椅子に腰掛けてもう一人に背中を流して貰っている。
    もう一人は女。
    湯煙の中でさえ目立つ九本の尻尾を揺らして、甲斐甲斐しく男の背を流すしていた。
    女……八雲藍は湯編み衣を着ることもなくその豊満な肢体をさらし、どころかときにはその柔らかな部分を擦り付けながら、甲斐甲斐しさと淫靡さを漂わせながら遇していた。

    「……藍さん」

    「どうした、○○。痒いところでもあるか?」

    「いや、そうではない。気持ちいいよ、とても」

    九尾の大妖怪の奉仕という望外の歓待を受けながら男、○○の声は沈んでいた。

    「そうか、それは良かったよ。…ん、はぁ」

    吐息を熱くして応える藍の声色は喜悦を含み、それが命じられての奉仕でない、自らの望叶ってのことだと教えていた。
    だというのに、○○の背は丸まり、頭を垂れていた。

    「○○、私たちは夫婦だ、だのに一人そう沈まれてはその甲斐がないではないか」

    「……」

    「ふむ、どれ」

    「えっ!? うおあっ」

    藍は然したる力みもなく、軽々とその尾で○○を持ち上げると自らのその細い括れの腰に下ろし、顔をその豊満な胸に着地させた。
    泡をくう○○を余所に藍の顔は喜悦に歪み、まるで今正に餌を装うとしてる飼い主を見る獣のようであった。

    「どれ、何をそうなやんでいるのかな、我が君は」

    「……藍」

    「よしよし」

    ○○の顔をその豊満な胸に納めた藍はそっと目をつぶって○○をあやす。
    まるで理想的な母性愛の権化であった。が、それも束の間。すらりとした脚を片方、○○の腰に絡めるとあふぅと吐息とそれ以外をより熱くさせるのだった。

    「藍さん、俺は怖い」

    ○○は己の最も正直な部分が目覚めるのを自覚しながらもなんとか抑え込んで語りだした。
    頬に触れる藍の胸、その奥へと問うように。

    「なにが怖いんだ?そこいらの妖怪か?それなら心配いらないぞ。私の伴侶に手を出すものなど……」

    ういやつ、とばかりに藍の細い指が○○の髪をすく。

    「いいや、そうじゃないんだ。……藍さん、俺は貴女が怖い」

    藍の手が止まる。

    「朝は俺よりもずっと早く起きて朝の支度、夜は俺が寝てから床から起きて何かしている……それもきっと俺やこの郷のため……」

    「起こしてしまっていたか。すまないな。だが、それで私の何がそんなに怖いんだ?今更妖怪のこの身が恐ろしくなったか?」

    「違うんだ。そんなのはどうでいいんだ」

    くっとうつむき、つまりより深く藍胸に顔を埋めた○○を藍は嬉しそうに……本当に嬉しそうに、「あぁ…」
    声を漏らし受け止めた。

    「外の世界を捨てて貴女についてきたこと、貴女が外の世界から人間を拐う妖怪であること、そんなことはもう俺にとってどうでもいいんだ……ただ、何故こんなにも俺に尽くしてくれるんだ? 俺は貴女に相応しい男か? いつか、いつかそれに貴女が気付くのではないか、俺はそれが怖い。
    こんなにも深く愛してもらったのなんて、俺は知らない。もう、貴女なしでどう暮らしていけばいいのか、考えただけで恐ろしくて、そんな自分が情けなくて、俺は…」

    吐露したのは凡そ男としては決して女に知られたくない弱さだった。
    お前なしでは生きられぬと、捨てないでくれと、あまりに情けない本心の発露であった。
    相応しい男になろうという男らしさは既に折れていた。
    相手は国を傾ける程の大妖怪。
    力に於いてもその美貌に於いても、とうてい相応しくなるなど不可能な事であった。
    そんな強大で美しい女が自分に身も心も尽くしてくれる。
    考えれば考えるほど不自然で異常なことのように思えた。
    不自然なものごとは何時しか糺されあるべき姿へと戻る。
    それはつまり破局であり、藍の寵愛の全てを喪うということ。
    そして藍はそう遠くない未来、新たな伴侶を得て、本当の幸せに至るだろう。
    もっと強大で、美しく、頼り甲斐がある男と。


    「……」

    言うべきことをいい終えた○○は黙って裁きを待った。
    絡めたら手足をほどき、突き飛ばされるのか、それともせめてもの情けと一思いに喰われるのか……

    藍の胸に抱き締められている○○には見えないがこのとき、藍はーー


    その狐目をこれでもかと細め、唇は獣のように裂けて耳まで届かんほどであった。
    喰おうとしているのではない。
    嬉しいのだ。嬉しさの余り、余裕なく表情を繕うこともできず、歓喜と情欲と喜悦といとおしさとが内側からはぜるように沸き上がってきているのだった。

    ○○は知るよしもないが、九尾の狐だけに限らず、狐妖怪やある種の獣の妖怪にはある共通した特徴があった。

    雌は雄が死ぬまで決してその側を離れない。

    なかでも狐の古い書き方に「来つ寝」とあるように狐妖怪の情は深い。
    一度夫婦として契ったならば死するまで絶対に側を離れない。
    まさに死が二人を別つまで。
    そんな性質をもつ藍が、言われたのだ「お前と離れるのが怖い」と。
    かつて、数百年、数千年前には藍のその献身に報いるために無茶を無謀をしでかし我が身を滅ぼした男たちがいた。
    彼等は時の権力者で、○○から見れば強大な力もつものたちだった。
    だが、その結果は破滅だ。全てを台無しにしてしまった。
    彼らに比して○○が優れていたものが一つだけある。
    身の程を知っているということだ。
    それ故に、藍へと報いる術をしらず、思いもよらず、一人悩んでいたのだ。

    (ああ…もう、いとおしいな私の男は! いい!凄くいい!)

    きゅっと、○○を抱き締める手足に力がこもる。

    (世の中にはより強い雄、より楽をさせてくれる雄、より美しい雄を第一義におく雌もいるときく。いや、実際それが自然かもしれない。
    だが、妖怪である私からすれば楽など退屈でしかない、姿は如何様にも変えられる。なんの意味もない!
    私を愛してくれる男。私を射止めるのは弓矢でない。いつでも傲慢なまでに私を愛してくれる一途さだけが、それだけがっ)

    千年単位とはいえ、数人の男を見てきた藍は、男が自分から女に弱味を見せる意味を正しく理解していた。
    また、そうまで思われることにこそ身を熱く火照らせる性だという事を自覚していた。


    (かくなるうえは、禁忌を犯してでも離れたくない! 死者の魂を追うことも囲うことも許されないこと。しかし…もう、この男だけでいい。もうこの男しかいらない!)


    「……ぃ、好きぃ…」

    「……藍、さん?…うお?!」

    急に熱く抱き締めてきた藍をいぶかしむ○○を余所に藍はすっかりのぼせていた。
    豊満な乳房から顔を上げたその瞬間、藍によってにゅるんっと位置をずりあげられた○○は鼻と鼻を付き合わせる形で向かい合った。

    「我が背よ。聞かせて欲しい。…………私のことが好き、か? 離れたくないほどにか?」

    藍の熱い吐息が鼻孔を擽り、ほとんど抗い難い衝動となって内臓に染み込み、身を侵していくのを○○は感じた。
    だが、○○は自分へと問う藍の潤んだ瞳に答えなくてはという使命感により強く駆られた。
    ど、同時に少しだけむっとした苛立ちも感じていた。
    それをそのまま答える。

    「ああ、だからそういってるんだ。俺は…情けないが、本当に情けないが藍さん、貴女に身会うような男じゃない。けれど、貴女なしじゃ駄目になってしまった。くそ、こんな…でも」

    「じゃあ私とずっと居たいんだな? そんな泣くほど私のことが好きなのか?」

    「ああそうだ。さっきからそう何度もいってるじゃないか。俺は貴女が好きだ。一晩中でも愛したい。死ぬときには骨まで食われてもいい」

    「…………私の男だ。お前は、私だけの男だ。私のものだ!」

    ついに我慢の限界を迎えた藍は○○の唇へとむしゃぶりついた。
    技術も何もない、普段の彼女の技巧をしる○○が目を丸くして驚くぼどの拙い口付けだった。
    身を揺すりながらはふはふと吐息も荒く吸い付いてくる藍のキスは激しく下手に動けば舌や唇を噛みきられそうなほどであった。
    ○○にはまだ分からない。何故そんなに興奮して求められているのか。
    だが、この藍の乱れようは初めてしとねを共にして以来一度しか覚えがなかった。
    婚礼の日。初夜に藍が初めて体を開いた時だ。

    婚礼の日。初夜に藍が初めて体を開いた時だ。

    あの晩、○○は藍を感じ、その懸命に自分を求めてくるさまに藍を生涯愛し抜こうと誓いを新たにしたのだった。そして三日身晩服を着ることなく共にいた。

    その最後の晩、ようよう明け行く空を肩を抱きながら無言で見つめ、藍色の空が火照るように命の橙色に代わり行くさまを共に見た。

    直後、体力尽きて眠りに落ちた○○を抱きしめ藍も眠りについた。
    そんな夢ような幸せな記憶を、○○は思い出していた。

    あの頃、自分になにができるか、試してめなければ分からんと思っていた。
    結果、何事も藍に見合うレベルへ至ることは不可能だった。
    情けなかった。男としても、藍の夫としても。
    残されたものは藍を愛する気持ちだけなんて、男ならこんな美女相手であれば誰でも持ち得るものしかなかった。

    「んむっ、ぷは…帰ってきて○○。懐かしむのは後にして。でないと寂しいじゃないか」

    藍は名残惜しげに○○の下唇を甘噛みして引っ張り、離したあとに痛くなかったか?とばかりに気遣わしげにひと舐めしてから○○の視線を過去から今へと呼び戻した。

    「私に見合うものがないと言ったな○○。ふふ、よく覚えておくといいぞ。ああ、○○。私はもう何処へも行けない。お前がいなければすべてつまらない。んっあん……ふふふ、[私が]抱くのは百年経とうと千年経とうと[お前]だけだ。その責任を、んふ、ふふふ、はぁぁ…ん、取らなければならない。どうだ、嫌か?辛いか?」

    熱のこもった眼差しで見詰める藍に、○○は正直に答えた

    「こんなこと、う、軽蔑されるかもしれないが、嬉しくて仕方ない。そりゃそうだろ、好きな女がこうまでいってくれたら…ちょっと動くのやめて」

    「ふふ、いやぁだ。嬉しいよ○○。それでこそ私の男だ。これは契約だぞ。絶対に破らせはしない。これからも大人しく私の身も心も受け止め続けてもらう。お前の隣も前も後ろも全て私の棲みかだ。どうだ、重いだろう」

    「嫌なら、最初から結婚なんて、くう、しないって」

    「それでこそ私の見込んだ男だ。今夜は寝かせないぞ!お前はまだよくわかってないようだからな、どっくりと教えてあげよう。私がどれだけお前を愛しく思っているのか」

    「……そうだね。そのあとは二人でまた見ようか、藍色の夜明けを。そして丸まって寝よう」

    藍は微笑んだ。
    こうして睦みあい、時にはその気持ちを確認しあい、ずっと私を愛させる。勿論私も他の雄など目もくれない。
    雄は一人でいい。○○ただ一人だけで。
    これからの長い月日、雨の日、雪の日、私のこの尾が無くなるまで共にいよう。
    そして、さしあたり今夜はは寝かせない。
    たっぷり鳴かせてもらおう。

    そう決めると藍は○○を尻尾で包み込み、寝室へと転移した。

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最終更新:2015年02月03日 12:09