巫覡の性質を併せ持った学問の一族の正月は氏神を祀り血族の安寧を祈る神事でもある。
本家分家の一族郎党が一堂に会すると正月祝いもそこそこに氏神となった代々の御阿礼の子に祈りを捧げその御霊を寿ぐ祭式が始まる。そこでは血族を代表して現当主たる阿求も祝詞を読み上げる。
稗田家は古くから目に見えない天然自然、神や妖の理を解し記録する事によって栄えてきた。
このような一面から人里が御阿礼の子という異能者に向ける視線にはある種の宗教的権威者への畏怖も含まれている。同じ一族内ではその崇敬は更に強まり稗田の知恵の象徴たる御阿礼の子は半神にも等しい。普通の家系であれば一族の顔として扱われる老人たちですら阿求の名と役職に敬称尊称を外す事はあり得ない。
朗々と古い祝詞を読み上げる明澄な阿求の声は静粛な祭式の最中でなくとも自然と頭を垂れさせるほどに凛々しかった。
夫が妻に対してこういう言い方はどうかと思うが真剣な阿求の声は、何と言うか、格好良い。
毎日聞いている阿求の声が荘厳な響きを帯びると俺の耳にはまるで女神の歌のように聞こえるのだ。正直な所を言えば惚れ直したし改めて尊敬もした。
かしこみかしこみもうす、と結びの妙なる響きに心地よく耳を擽られ気づけば間もなく祭式は一段落付くところまで来ている。今までの御阿礼の子たちに稗田家の安寧と共に何より阿求の幸福をこそ祈った。

 斯様に格式張った稗田家の正月行事が非常に手っ取り早く進行し一同がさっさと各々の家屋敷に引き返すようになったのは偏に阿求の方針によるものである。幻想郷での生活は外界に比べはるかにゆったりとしたものである。加えて正月行事が済んだ後の三が日などは現代の外界においすら基本的にやる事の無い暇なものだ。幻想の里では尚更のことである。厳かな行事さえ終われば後には時間の止まったような冬の日々が延々と続くのだ。

未だ新しい年に馴染み切らぬ朝、目覚めると阿求が食卓に配膳をしている所であった。先日までの神々しい気配を纏ったまま家事をする阿求の表情はまだ少し堅い。稗田家当主としての九代目の御阿礼の子としての重責を未だに降ろしきれていないのだろう。
湯気を立てる雑煮の出汁の良い匂いが漂ってくる。てきぱきと配膳している阿求は俺に気付いていない。何となくその姿が微笑ましくて眺めていると不意に阿求が俺の箸を手に取った。
まるで壊れ物を扱うかのような丁寧な手付きであった。
先日の祭式と同様の、あるいはそれ以上の厳粛な表情で恭しく神聖な物のように俺の箸を捧げ持ちじっと見詰めている。
表情は硬いまま変わらないがほのかにその真っ白な頬に赤みがさした。やがて阿求は祈るように目を閉じ静かにそろそろと唇を寄せて俺の箸に口付けた。
「……ちゅ」
「おお、良い匂いだな」
 声を掛けると突然の驚きで息を呑んだ小さな背がびくりと震えたが振り返った阿求は無表情を装っていた。どうやら見られていないと判断したらしい。努めて素知らぬ顔をしているが頬の赤みを消しきれていない。
「…………お雑煮出来ましたよ、あなた」
「そうか速いな」
「こういうお料理は手早く出来るものです。さぁ冷めてしまいますよ。頂きましょう」
 雑煮は澄まし汁仕立てで香り付けに柚子の薄切り、餅の周囲には三ツ葉が添えられていた。啜ると心からほっとする。
「御澄ましで良かったですか」
「うん。落ち着く味だ。餅も良く伸びるな」
「それは良かったです。でも喉に詰まらせないで下さいね」
「ところで俺の箸にしていたのは新年に行う術式か何かか」
「かふっ」
 音を立てて咽せた阿求の椀の中で澄まし汁が波立っていた。
「けほけほっ……み、見ていたなら言って下さい」
 軽くからかっただけのつもりだったが阿求はきまりが悪そうな非難がましい目で俺を睨んだ。
「……あ、あれは何と言うか……そう、今年も私の料理をあなたがおいしく食べて下さるように、という想いを込めたお呪いなのです」
「それは興味深い話だが餅を喉に詰まらせるなよ」
「信じていないようですね。私が単なる悪戯や性癖でしているとでも思っているのですか。あれは古来より妻が夫に対して行う特別な意味を持つ儀式で非常に重要な意味があるのです。事は高度に宗教的な問題を含みます」
「阿求、鼻から三ツ葉が出ているぞ」
きりっとした顔で講釈しようとした阿求がそんな事にも気付かないのは余程慌てた証左であろう。それほど照れているわけだ。
幼い病弱な体で御阿礼の子としての役目を立派に果たしその上俺の妻としても非の打ち所一つない。御阿礼の子としての阿求に神々しさを感じると普段の阿求の懸命さもまた深く思い出されて暖かいものが胸にこみ上げる。
阿求は普段から稗田家の当主として御阿礼の子として十分に立派に役目を果たしている。その決然とした様は俺にとってもとても好ましいものだ。しかしその重責が普段から染み付いて俺に甘えるのにも一苦労していては余りにもいじましいではないか。
いくらなんでももう少し直接的な愛情表現をさせてやっても良い筈だ。
しばらくは夫婦水入らずでゆっくり過ごせる。何だかとても嬉しくなった。まるで子供のように気分が高揚している。この冬には普段頑張っている分も含めて思い切り褒めてやろう。どんな風に労ってやろうか、考えながらほくそ笑んだ。
――――。

その思惑通り俺は最も厳しい寒さの時期を出来る限り阿求を労わって過ごしたのだ。日頃の感謝を余すところなく伝えその努力を誉め阿求の望むままに身を寄せ合うようにして春を待った。
 ……いかん褒め過ぎた、と思ったのはしばらく後の事である
 毎夜頭を撫でながら阿求の喜ぶ言葉をかけ続けたがいくらなんでも常に俺を見る目付きが陶然とし始めたあたりで一度止めるべきであった。今では常に覗き込んだその目の奥にはぁとが見える有り様である。
 それからは四六時中俺に付き纏うようになった。冬の寒さも手伝ってか常に傍らに阿求がいる状態である。この冬の間ずっとだ。
「あなた。もう今日はずっとゆっくりしていましょうよ」
 早朝の布団の中で起き出そうとした俺の耳元で聞こえる阿求の声は甘やかな響きを帯びていた。
「しかしな。せっかく雪が止んだのだぞ」
「大寒の終わりなのですから雪が止んでもまだまだ寒いですよ」
そういえば今日は節分である。幻想郷では外界よりもずっと重要な行事である。俺はほとんど一冬の間、阿求と密着して過ごした事にもなろうか。俺としても阿求といつまでもお互いを温め合っていたいが人の身で冬眠している訳にもいくまい。体が鈍ってしまう。
「いや、やはりもう起きるぞ」
 そう言って起き上がると俺の胸の上で眠っていた阿求も必然身を起こす事となった。途端に阿求は襦袢を整え実に満足気な笑みを浮かべた。
「ふふ、分かりました。お腹が空いたのですね? すぐに朝食を御用意しますからね」
 阿求の言うゆっくりするとはごろごろと過ごすという意味では無い。誰にも邪魔されず夫婦だけで家で過ごすというだけの事である。俺が起きるとなれば阿求はテキパキと俺の世話を焼きだす。
元々甲斐甲斐しく俺の世話を焼く阿求だ。このように全く離れず一日を過ごせばゆっくりするなどと言いながら家事に割く負担はむしろ増えているだろう。それが猶更阿求を喜ばせるらしい。この冬では世話焼きを超えて過保護の段階に達してしまった。
「あ、でもその前に大人しくしていて下さい。寝癖が直せないです」
「自分でやると言うのに」
「もう。あなた。我儘言わないで下さい。私が直しますから大丈夫ですよ」
 我儘なのか。
「それにしても今日は冷えるな」
「お着物は昨晩、こちらに暖かいものをちゃんと御用意しましたから大丈夫ですよ」
「そうか。いつも助かる。では髭でも剃って――」
「ダメです。あなたのお髭は私が剃ります。ご自分でなさるとこの前なんて頬を切ってしまったでしょう。まったく不器用なのですからもう。ちゃんと私が剃りますので大丈夫ですよ」
「いや、しかしどの道、顔は洗いに行かねば――」
「ちゃんと舐めておいたので大丈夫ですよ」
過保護という段階も通り越している気がする。
身支度を終えてガラガラと引き戸を開けると雪の積もった庭は朝陽を照り返して輝いていた。雪の上に足跡を残しながら猫が一匹庭を横切って行った。なかなかに爽やかな光景である。毎夜の脳髄の奥まで染み込むような甘く重い熱が冷まされているようだ。外にはこのような風流が広がっている事を久しく忘れていたような気さえする。
毛皮のある生き物でもこの寒さは堪えるのではないか。餌でもやろうか。そう思ってち、ち、ちと舌を鳴らして猫を呼んだ。
猫はこちらをちらりと見たが足早に去ってしまった。
少し残念に思っていると阿求がやって来て俺の背後に立った。
「はい? なんですか」
 何やら期待に満ちた眼差しでこちらを見てくる。阿求に尻尾があればパタパタと振っているだろう。
いや、お前を呼んだわけではないのだが。とは少々言い辛いがそれで良いのかお前は、とは聞いてみたい。第一、舌を鳴らして人を呼ぶ程不精ではない。
「どうなさいました? ついに睡眠学習が効いてずっと私に膝枕されていたいという欲求に目覚めたのですか」
 この冬の阿求はずっとこんな調子である。
 阿求が俺に書を始め様々な事を教えてくれる個人授業も日課となったがそれすらも最近は厳しさが足りなくなってきている。
――ちょっとやそっとでは許しません。生半な覚悟でものに成る学問などありはしませんから。
――はい。休憩です。
――何を言うのです。短くなんてありませんよ。無理はいけません。さ、厳しくしてお辛かったでしょう。膝枕して差し上げますから横になってください。
――明日は朝ごはんを食べてお茶を飲んでから地獄の早朝授業です。
 あまり早くないな。と思ったがその時は言わなかった。
「さぁ、もう閉めましょう。お風邪を召されますよ」
 阿求はまるで外気を厭うように引き戸を閉じようとした。早く俺と二人きりで寛ぎたいのであろう。寒い冬の間に愛する者と引き籠って互いに温め合うように生活していればそれは心地良い。
 その心地良さに微睡んでいる内、生活の為の必要最低限の活動を除けばほとんど阿求と睦み合って過ごしている事に気付き愕然とした。
余りにも閉鎖的に過ぎる。少しは外の空気を吸わなければならない。
「しかし見事な銀世界だな。散歩に……もとい。そういえば屋根裏の手前の方の柱に貼った札が一枚古くなったとこの前言っていたな。それを買いに少し出てくるとしようか」
「そんなのまだまだ大丈夫ですよ」
「いや、せっかくの節分なのだ。この機会に新しくしてもいいだろう」
「それではすぐに支度しますね。少し厚着をしますから待って下さいね」
「いやそれには及ばん。俺が一人で行ってすぐに帰ってこよう」
「えっ……でも、御一緒した方が……」
「いやいや、この寒さだ。それにお前は最近の家事で疲れているだろう。少しぐらい体を休めろ。俺一人で行ってこよう」
「…………それでは必要な御札を書き出しますから買って来て下さい」
かなり真面目な顔で言って正解だった。阿求は余り納得していないようだったが長い逡巡の後そう言った。

霞を纏う新緑を祝ったかと思うと夏の昼夜の黒白に目を眩ませ紅葉の贅を楽しんだ途端に白銀が敷き詰められている。自然な色といえば文脈上では、落ち着いた色というような意味に読み取る事が多いがこうしてみると自然の発色というものは存外に豪華絢爛な極彩色である。
 前述の通り幻想郷の節分は現代の外界と比べ遥かに大切な行事として根付いている。あちこちで大人子供を問わず人妖が豆撒きをしているし振る舞い酒も見受けられる。屋敷を出れば銀世界はなかなかに賑やかであった。
雪掻きという重労働や移動の不便さを除けば雪道というものは歩くだけで人の心を弾ませるものだ。
幸い守屋神社の巫女が節分を名目に御札やらお守りやらを人里に売りに来ていた。中々の盛況である。信者獲得に余念の無い東風谷早苗の笑みは溌剌としていた。
晴れてはいても寒い日である。俺は羽織袴の上から外套に長靴、帽子に襟巻まで着用してなお寒い。その寒さだというのに行列に並ぶ人々に順に応対する早苗の額には汗が光っている。そのせいか余計笑顔は輝いて見えた。
少し行列に並んでからようやく頼まれた札を買い揃える事が出来た。
「これだけでいいのですか? 本日は節分ですよ」
少し世間話をする合間、さり気無く東風谷早苗は真新しい札を指示して勧めてきた。
「鬼遣らいならこちらの御札がお勧めです。お安くしておきますよ」
早苗はなかなかの商売上手である。

これで当初の外出の用事は済んだがせっかくだからもう少しぶらつく事にした。
川縁の辺りまで歩いていくと雪の積もった土手に小さな子供と大柄な女が膝を抱えて黄昏ているのが見えた。見ようによっては親子に見えない事も無い。しかし両名の頭に立派な角が生えているから外見通りの年齢ではない事は誰にでもすぐ知れよう。
程無く二人はこちらに気付き青い顔を向けて力無く手を振った。
「やぁ……旦那。久しぶり、へへ……」
 あまりに力無いぼそぼそとした挨拶であった。覇気の無い伊吹萃香と星熊勇儀の両名ほど見るに堪えないものはない。こちらの力まで抜けてくる。
「よぉ。こんな所で何をしているのだ。寒くないのか」
 萃香は鬱病患者が無理して作ったような笑みを浮かべた。
「寒いよ、そりゃ寒いけどさ……」
「ああ……ないのさ……どこにも行く所が」
 今にも凍りそうな川を眺める勇儀の目は焼け出された被災者のそれであった。
「くそっ……。節分は毎年こうだ。霊夢には追い出されるしどこにいっても豆をぶつけられるし」
「古明池や射命丸の所へ遊びに行ったらすごい迷惑そうな目でみられるし……もう嫌だ……」
 妖怪とは不思議なものである。凄まじい力を持っているかと思えば同時に不安定な存在でもある。豆や鰯の頭の何が恐ろしいのか。単純な邪魔者扱いもそうだが節分と言う時節そのものが鬼たちを気弱にしているようでもある。明らかに普段より弱弱しい。その辺の細かい理も阿求から教わったのだが外来人の俺にはどうも今一つ理解が及びきらない。
「どうせ私らはどこに行っても駄目さ。酒も売ってくれないさ。へへへ。地底の皆、今頃は宴かねぇ……」
加えて一種の祝い事の最中に自分たちだけが仲間外れで酒も飲めないという事が鬼たちの精神を蒟蒻のように萎えさせるようである。別に鬼たちは節分の扱いで恨みに思ったりはしないのだが悲しい気持ちにはなるらしい。
「ああ。そうだね。楽しいんだろうな……へへ。それできっとその場にいない私らの悪口で盛り上がるんだ……変な仇名付けられたりなんかして」
「やめろよぉ。泣きたくなるだろうが」
 誠にもって見るに堪えない。この二人から竹を割ったような気立ての良さを取ってしまったらただの呑兵衛である。このままでは俺にとっての鬼のイメージが崩壊しかねない。
「人里に外来人の昔馴染みがやっている居酒屋がある。そこなら鬼もいれてくれるだろう」
 二人は恐る恐るといった様子でこちらを見た。被災者を通り越して戦災孤児の目である。
「だ、大丈夫かな。私らなんかが行ってお店に迷惑じゃないかな。それにひょっとしてお店に鰯の頭飾ったりしてない? 」
「そ、その前に人の多い所を歩いて大丈夫かな。道に豆も落ちてるだろうし。子供が直接豆を投げてくるかも」
「鰯の頭は知らんが客の選り好みはせんと言っていたから多分大丈夫だろう。保証は出来んがな。道中は我慢しろ」
「そ、そう? そうかい? そんじゃあ道中は少しだけ的になる覚悟で……」
 立ち上がろうとした鬼の足元は腰弱い女のように(女だが)よろめいた。危なっかしいと思い手を差し伸べようとした途端滅多に聞けない女らしい鬼の悲鳴が響いた。
「きゃああっ! …………旦那っ。そこで止まって。動かないでくれっ」
二人揃ってあまりに大袈裟に飛び退くものだから何事かと思ったが思い出してみればついさっき早苗から貰った節分の鬼遣らい札を一枚懐に入れたままであった。結局二人の鬼は俺の影を踏まぬ慎ましやかな距離を開けてしずしずと俺の後ろを付いてきた。
余談ではあるが二人はなかなかサービス精神が旺盛である。道中豆撒きをしている人妖の子供らに鬼だ鬼だ、と取り囲まれた時は青い顔をしながらも。
――そうだぞ……。
――なめんなよ……。
と鬼の矜持を崩さなかった。実際に豆をぶつけられるまではだが。
思えばこの二人の鬼とも俺が旦那扱いされる前からの付き合いである。なかなか懐かしい顔に会ったものだ。積雪の中でも出歩く甲斐はあった。
鬼たちは豆を持った子供らから必死に逃げ目的の店を見つけると大急ぎで中へ引っ込んでしまった。矢鱈と一緒に入ろうと誘われたがまだ午前である。付きあってはいられない。
「そんじゃあ、また今度こっちの遊びにでも付き合っておくれよ。昔みたいにさ」
 鬼は賽を二つ手の中で鳴らすと笑って手を振った。
「よせよせ。またへそくりまでつぎ込んで霊夢に飯を抜かれるぞ」
「なぁに。そんな大枚賭けなくたって。小銭でも少し賭けるだけでぐっと盛り上がるもんさ」
そして遠くから子供の笑い声が聞こえた途端慌てた様子で扉を閉めた。最後に見せた笑みは少しいつもの快活さを取り戻していた。

萃香たちに別れを告げて人里の通りを少し歩くと非常に賑やかな所へ出くわした。
この通りが一層賑やかなのは先程鬼を追い掛け回した幾人かの人妖の子供たちが積雪で雪遊びをしているためである。どうやら鬼に豆をぶつけ終わって豆撒きには飽きてしまったらしい。
人数の割に騒がしい訳だ。子供たちの中には氷精チルノの顔がある。冬は一層元気なのだ。
チルノは巨大な雪達磨を作りながらも紅魔館のフランドール・スカーレットに雪玉を投げつけている。忙しい事だ。
きゃーきゃーと奇声を上げながら雪玉を投げるチルノに対してフランはベソをかきそうになっている。それでも力の劣るチルノから逃げるだけだった。
フランは強力な力を持つ吸血鬼の妹だが如何せん育ちの良さが災いしているようだ。ずっと地下室暮らしだった程に危険な性質を生まれ持ったフランが意外な事にただの氷精に追い回されている。地下室の外に出たばかりの少女が腕白なチルノの遊び方に当惑を示すのも当然であるのか。
フランは少し気が触れているだけで基本的には優しい子なのだ。吸血鬼だって豆は嫌いと聞いた事があるからフランはただ他の子供に混じって遊びたかっただけに違いない。少し気の毒である。
おやおやと思っているとフランがこちらの方へ逃げて来て俺の背に隠れた。
「やだやだやだやだ。冷たいから止めてよぅ。お兄様この子を止めてぇ」
「チルノ、その辺にしておけ。仲良く遊べ……ええい、よじ登るなフラン」
 チルノから俺を盾にしたフランはとにかく安全圏へ避難する事で頭が一杯らしい。そのまま俺の背を登攀し始めた。
「アタイ別にいじめてないよ。雪合戦してただけだもん」
 チルノはそう言いながらも雪の上にしゃがみ込んでせっせと新しい雪玉を作っている。こっちを見もしない。チルノが次弾装填の準備を止めないのを見てフランは更に高い位置に避難する。最早俺の首の辺りである。
「嘘よ。騙されないでお兄様。止めてって言っても止めなかったもん。いけないんだから」
高い所へ避難して気が大きくなったらしいフランは強気になりつつある。こういう所は姉と似ている。
「ほれ、雪合戦は休憩しろ。それより向こうの雪だるまを完成させたらどうだ。なかなか立派な大きさじゃないか」
 少し先でルーミアとリグルが完成間近の雪だるまの形を整えていた。大妖精も少しだけ宙に浮いて雪だるまの頭にバケツの帽子を被せている。チルノが抜けたので作業が遅れているらしい。
「なかなか分かってるね旦那は。頭の雪玉はアタイ一人で作ったのよ。特別にもっと近くで見て行ってもいいよ。本当は駄目なんだけど」
 ふん、と鼻息も荒くチルノが踏ん反り返るのも無理は無い。子供の作る雪だるまとしてはかなり巨大なものだ。俺の背丈ほどある。この大きさになるまで雪玉を転がすのは苦労したろう。
「すごい? ねぇすごい?」
「ああ、大したものだ」
「顔の材料にもこだわるつもり。普通の石とか木の枝とかは使わない。何を使うかはまだ教えてあげないけど。ふふん。旦那は良かったね。こんなすごいものが見れたね」
「分かった分かった。偉いぞ」
 ぐしゃぐしゃとチルノの頭を撫でてやる。くすぐったかったのか、うひひとチルノは笑った。
「お兄様……私も作りたい」
 頭の上で小さな声がしてくいくいとフランが俺の髪を引っ張った。
「フラン。一緒に作りたいと思った時は自分で入れてとお願いしろ」
「うん……」
 フランが更に小さな声で返事をした途端にチルノが俺の頭まで登っているフランを見てパッと顔を輝かせた。今まで気付いていなかったらしい。
「あっ! ずるい! アタイも登る! 」
 待て、と言う前にチルノは弾丸のような速度で突っ込んできた。飛ぶように、いや文字通りに空を飛んで。
「ぐっ」
 小さな氷精とはいえ飛んで突っ込んで来れば結構な衝撃であった。驚いたフランが首を引っ張って体勢が崩れさらに雪で足を滑らせた。
 派手に転ぶ拍子にフランとチルノを下敷きにしない様身を捩って結果無様に尻もちをついた。
 辺りにばっと雪が散った。チルノは雪まみれになりながらも面白かったようであはは、と大きな声で笑っている。
「今度説教だチルノ」
「うぇっ! 」
 ショックを受けているチルノを雪の塊と一緒に足の上から退かしたが背中のフランはなかなか降りない。
「どうしたフラン。早く降りろ」
「だって靴がどっか飛んで行っちゃったよう」
 見ると今の衝撃のせいであろう。確かにフランの靴が無い。
「冷たいだろうがとにかく一度降りろ。探してやるから」
「駄目よそんなの。レディが靴も履かないで歩いたらお行儀が悪いってお姉様に怒られるもの」
 行儀が良すぎるのも考え物である。
「慧音も裸足で外を歩いたらいけないって言ってたよ」
 チルノまでこれに賛同らしい。
「仕方ないな全く」
 どうせこの辺の雪に埋もれてしまったのだろう。仕方なしに俺はフランを背に乗せたまま周辺の地面を四つん這いで探してやった。
「みんなぁ。フランの靴が無いんだ。一緒に探すよ」
 チルノの呼びかけで周辺の子供らが集まって皆で靴を探し始めた。
 がやがやと周辺が一気に賑やかになる。
「うふふ。こうしてるとなんだかお馬さんごっこみたいね」
「振り落しても良いんだぞフラン」
 慌ててフランは俺の襟を掴んだ。
「あったぁ。見っけたよ」
 程無くチルノが雪の中から一揃いの靴を見つけてきてようやくフランは俺の背中から降りてくれた。
 おずおずとした動きで靴を履いてようやくフランはチルノに向き合った。
「探してくれてありがとう……あのね雪だるま私も作っていい? 」
「うん、いーよ。それじゃこれから雪だるまの顔を作るから。でも普通の木の枝とか石とかは使わないのよ。これは特別のやつだから。きれいな石とか木の枝を探す。分かった? 」
 フランは大きな声でうん、と返事をすると他の子供たちと一緒にチルノについて駆け出して行った。今度は仲良く遊ぶと良いのだが。
 少し雪まみれになったが久々に子供の相手をするのも悪くないものである。
 子供たちが行ってしまい突然静かになった通りを見回し、やれやれと膝の雪を払って顔を上げ一息吐こうとして。
ぞっとした。

付近の貸本屋の窓から阿求がじっとこちらを凝視していた。
硝子窓の向こうで血走った涙目に唇をぎゅうっと噛み締めて微動だにしない。ただでさえ真っ白な阿求の片手は氷のように冷たい硝子に冷やされて命の色を失っていた。口元の硝子は吐息で曇りきっている。
いつからあそこに立っていたのかと自問してすぐに、俺がここに着いた時からずっとに決まっていると自答した。
ではいつから俺の後を付いて来ていたのかと考えてこれも俺が家を出てからずっとに決まっていると直覚した。
背後に見える店内には人気は無い。ただ一人阿求の友人の本居小鈴だけが窓越しに俺の方に愛想笑いを浮かべていた。そういえばここは小鈴のいる鈴奈庵のすぐ近くであった。
俺と目が合うと阿求は全く目線を外さず窓から離れすぐに外へ出てきた。
 積雪にも関わらずこちらへ歩み来る阿求の歩調にはいつも通り全く乱れがない。しかしその小さな体から焔のように執念が立ち上り踏みしめるだけで雪が溶けていくように思われた。
 歩み来る阿求の表情が明瞭になるに連れてその感情の細部が読み取れていく。
 俺が阿求と二人きりの冬に嫌気がさして外出したのではと恐れているに違いない。
俺がそのために適当な口実をでっち上げてまで離れたかったのではと怒っているに違いない。
俺が他の人妖といる時の方が楽しんでいるのではないかと不安になったに違いない。
そして理性でそれらを必死に打ち消して何とか平静に見せる努力を決意しているに違いない。
俺が一人で外出し他の人妖と話している姿がどれほど阿求の心を波立てたのか。今日一日ずっと俺の背後を付いて回って物陰から嫉妬の炎を燃やしていた阿求の姿が容易に想像できる。
歩みは平静でも表情ばかりがぎこちない。努めて作った無表情が動揺で微かに震え力を入れて引き結んだ唇にも色が無い。
今すぐ俺を抱き締めて落ち着くまで抱き返すように要求したいのを堪えている時の阿求の顔だ。ここは往来だ。阿求は二人きりになるまでは出来る限り感情を抑制する努力を怠らない。
 目の前まで来ると阿求は実にぎくしゃくとして引き攣った作り笑いを浮かべた。
「あ、あなた? こっちへ来て温まりましょう? ここは冷えますし……」
 そして俺の手を掴み軽く引いた。引きこそ軽いが俺の手を握り締める力は肌に爪が食い込む程強い。
 言いながら阿求は俺を貸本屋に向けて引っ張っていく。
「偶々、偶然に私も小鈴に用事があって出掛けてあなたを見つけたのです。奇遇ですね」
 結婚後も阿求が俺に監視を付け、あるいは自ら俺の後を尾行する癖が治っていない事はお互い了解している。阿求はそれでもやめられない己の癖を恥じてこういう建て前を使う。
 友人の小鈴が店番をしている時の鈴奈庵が、俺へのストーカー行為をする際の拠点の一つであった事は結婚前から知っている事実であるし小鈴からも聞いている。このような事は小鈴は慣れているのだろうがこの機会に改めて礼を言っておこう。
振り返らないまま阿求は早口で言った。その歩みも口調同様に早い。
「歩き回ってお寒かったでしょう。今ちょうど小鈴と紅茶を淹れようとしていたんです。あなたも御一緒しましょう。温まりますよ…………それにしても」
 一生懸命に動揺を押さえ込んだ阿求の声がその部分で少し裏返る。
「随分おはしゃぎでしたね……あ、あんな。あんな事私にもしてくれた事ありませんよね」
「あんな事? 」
「……お馬さんごっこです! 」
 丁度往来の人気から遠ざかった辺りで阿求は強い口調で言った。声量こそ抑えていたが眼光は俺を射抜くように鋭い。普段からきりっとした阿求の双眸に怒気が含まれると最早常人の出せる威圧感では無い。背後の木々から小鳥の群れが飛び立って逃げ出して行った。

阿求の小言は長引いた。この冬は元々過剰に触れ合っていた反動であろう。
「だ、大体なんですか。妖精や吸血鬼とばかり楽しそうに。私といても楽しくないという当て付けですか? 雪だるまぐらい私だって。私の方が上手に…………用も無いのに外へ行って何をなさるのかと思えば私以外と話したり遊んだりするのがそんなに楽しいですか。理解に苦しみます」
「ああ、やっぱり家を出てからずっと付いて来ていたか」
「ぐ、偶然。偶然ですよ。そう言えばあなたは先程鬼と賭け事をするお話をしていましたね。節分だって言うのにわざわざ鬼と遊ぼうだなんて。そんなに賭け事がお好きですか」
「いや、別に好きというわけでは」
「失礼しました。そうですね別に好きではありませんでしたね。節分に鬼と賭け事で遊ぼうとする程度ですものね」
 何故知っているのかは最早問うまい。ただ阿求がすっかり拗ねてしまっている事は良く分かった。
「なんでここで夫婦喧嘩するのよ」
 小鈴は三人分の紅茶を卓上に並べて苦笑した。
「どうせお客さんもいないでしょう」
「そりゃまぁこれだけ雪の積もった寒い日に余り外へは出ないでしょうけど」
 親友の小鈴には阿求も珍しく敬語を使わない。年相応の少女のような阿求の口調も聞いていてなかなか微笑ましい。
「そう、そうよ小鈴。良い事を言うわ」
 阿求は小鈴の言葉に大きく頷くと再び俺の方に向き直った。
「あなた。冬の楽しみというものは雪遊びなんていう子供染みたものだけではありません。そもそも寒い時に更に体を冷やすなんて非合理です。こんな、こんなわざわざ私から離れてお外に遊びにいかなくったって。ちゃんと家の中で楽しむことができます。小鈴にも手伝ってもらいたいの。確か奥にあれがあったわね? 」
そう言って阿求は鈴奈庵の奥へと入って行った。勝手知ったる他人の店と言うやつである。 
「すまん小鈴。阿求が迷惑をかけたか」
「いえ、いつもの事ですから大丈夫ですよ。急に来たと思ったら少しの間店を借りるとか何とか。その後は窓の辺りにじいっと立ってましたね。旦那さんと出会った頃からずっとこんな調子だから慣れっこですよ」
 慣れっことは言えやはり悪い気がする。阿求の外出には大抵奉公人が付き従うがそれも鈴奈庵の前で無理に帰らせたかしたのだろう。恐らくは帰ったふりをして遠巻きに阿求を見守っている筈だ。女中たちにも後で礼を言っておこう。
 小鈴と話していると阿求がうきうきとした様子で戻ってきた。
「お待たせしました。見つけましたよ」
 阿求が差し出した物は外界でも見た事があった。
 百人一首。上の句と下の句に別れた和歌の下の句をかるた形式で取り合うという日本の伝統的屋内遊戯である。読み手は上の句から和歌を読み上げるので自然暗記している和歌が多い方が有利となる。
「ふふ。お正月にこれでは遊んでいなかったですね。そ、そうだ私とも何かを賭けましょうか。少しでも何か賭けているだけでも盛り上がる……のですよね? 」
 先程の萃香たちとの会話も聞かれていたらしい。この手の遊戯で阿求が強い事は簡単に予想できる。しかしせっかくの阿求の申し出である。興味もあったし正直に言えば俺も少し嬉しかった。何より阿求はとにかく俺と遊びたい訳だ。
「例えば何でも一つ言う事を聞くというのではどうだ」
 半ばサービスのつもりであったが俺も簡単に負ける気はない。反射神経も大切な遊戯だし望みがまるで無い訳ではあるまい。
「な、何を……!なんでもって、なんでもですか! 」
そう食いつかれるとは思わなかった。
「例えばだ。それになんでもと言っても。取り返しがつかないような事や……」
「もちろんです。そんな当然の事でこれ程の機会を無駄にするわけないでしょう。ちゃんとあなたの許容範囲内で考えるに決まってるでしょう」
これで俺に一生阿求の部屋から出るなとか今すぐ二人で隠居しようなどと聞
く心配はなくなった。
「あ、あの、ところで、今のもう一回言って貰えますか」
「取り返しの付かないような事や? 」
「その前ですっ 」
「……何でも一つ言う事を聞く」
「はうっ! 」
俺のその言葉をもう一度聞いた途端、阿求は息を呑んで仰け反ったかと思うと天を仰いで震えた。
「ふ、ふへ。ふへへ。な、なんでも。なんでも」
 そうしてその言葉の内容をゆっくり舐めしゃぶるように何度も反芻していた。
陶器のように真白い肌に似つかわしくない程の赤みが差し荒くなった吐息が熱の篭った霞となって阿求の周囲に漂った。
ほぼ同時にその鼻先から薄い桜色の唇へ、そして着物に真紅の雫が滴り落ちた。夢見心地であった阿求もさすがに恥らってこれも病的に白い指でその流れを押さえた。その指の隙間からするすると幾筋も紅の筋が伸びる。
「は、鼻血出ちゃいました……えへ」
人形のような少女は慌てながらそう言ってバツが悪そうに照れ隠しに笑って見せた。
小鈴も流石に引いた顔をした。これは思ったよりも不味いかも知れない。




「阿求、血がまだ止まってないのに大丈夫なの? 鼻に詰め物をしているのは絵的にどうなの? 」
「小鈴。そのどちらも重要じゃないわ。そんな心配より読み手をする事こそ今貴方に課せられた使命よ」
小鈴は困惑した表情で百枚の読み札を受け取った。
「ええーっ……でも旦那さん。百人一首は」
「小鈴、余計な事言わないで。あなた、試合形式は簡単なものでよろしいですね」
確認しながら阿求は素早い手付きで札を並べて行った。
「うむ。始めてくれ」
返事をしながらも俺は気が漫ろであった。次々と並んでいく札を覚えようとしていたのである。
「はぁ。それじゃいきますよ……難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花ぁ」
 なんだかんだ言って小鈴も結構ノリノリである。わざわざ序歌から始めてくれた。この句は試合とは関係ない空札で本番は次の句からである。
「む――」
 小鈴が一枚目の札を読み始めるや否や。ばしっと乾いた音と共に札が舞い上がった。
「村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧立ち上る 秋の夕暮れ、寂蓮法師……藤原定長ですね」
今何が起こったのだ。
「これは一字決まりですから確実に取れますよ」
 阿求は得意気に笑うと取ったばかりの札を俺に見せつけた。
「……小鈴。すまんが何が起きたのか解説してくれ」
「ええーっと。参っちゃったなもう。百人一首には決まり字というのがあってですね。そこまで読まれれば特定出来るっていう札があるんです。今のは一文字でも読まれればそれが分かる一字決まりっていうやつで……。というか阿求は百首全部完璧に覚えてるから……ついでに札の配置も一目見ただけで」
 参っちゃったのは俺の方である。これ程力の差があろうとは思わなかった。とにかく阿求が機嫌を直すなら構うものかと適当に承諾してしまったのだ。
「くふっ。あなた? もう止めておきましょう? ね? 今あなたが降参して下さるなら……なるべく……何というかその。ふふ。今なら……なるべく優しくしてあげますから。くふっくふふふふふふふふふっ」
 じゅわぁと阿求の鼻の詰め物を赤い染みが侵食した。一体何を命令するつもりなのか。
――あ、あなた? どの札か教えてあげましょうか? 私が代わりに取って差し上げても。
――あっ。ごめんなさい手が当たってしまいました。痛くなかったですか? 次からはちゃんと加減しますから大丈夫ですからね。
――大丈夫ですよ落ち込まないで? 次はきっと取れますよ。
――あなた? 大丈夫? 結婚します?  
――あらあらどうなさったのですか? まだまだ始めたばかりじゃないですか? せっかくですもの。最後までやりましょうよ。
――愛する人に少し意地悪をされると、なんというかその。へ、変な気分になってしまうのは仕方の無い事ですよきっと。恥ずかしがらなくても良いのです。
「…………俺の負けだ」
 勝負はまだまだ途中であったが棄権を宣言した。これは勝負ではない。阿求には余裕を通り越して対戦相手である俺への慈しみさえあった。常軌を逸していても根底にあるのは愛情なのだがその慈しみをもって阿求は俺を蹂躙した。阿求はもちろん真剣勝負においてこのような態度が著しく礼を欠いている事も理解しているだろう。俺を苛むこの挑発はむしろ俺への執着の顕れであった。
「あ……あの、私、こんなつもりでは…………」
 一頻り俺を責め弄んだ後は阿求も正常な状態に立ち返っていた。阿求の側には既に山のような取り札が積み上がっていた。
「ふはは。全く驚いたな。しかしこのままは結構悔しいぞ。そうだ次は――」
 仕切り直して沈んだ空気を何とかしたかった。しかし阿求は積み上がった自身の取り札をじっと見詰めていた。少し顔が青い。
「い、いえ良いんです。気を使って頂かなくて……。私はただあなたと楽しく遊びたくてそれで……。……もう止めにして帰りましょう。小鈴、お邪魔してごめんね」
 完勝したというのに阿求はすっかり元気をなくしてしまった。
 小鈴は再び苦笑して見送ってくれた。
 鈴奈庵を出る際、小鈴は俺だけを呼び止め言った。
「旦那さんも色々大変でしょうけど頑張って下さいね。阿求ったらずっと旦那さんの事以外頭に無いみたいで。いつも旦那さんの話で惚気ては舞い上がったり落ち込んだりしてるんですよ。前から変わった子ですけど何とかよろしくお願いします。こうと決めたら思い詰めるところがあるんですよね……これは釈迦に説法ですかね。後でちょっと優しくしてあげて下さい。いつもの事とはいえかなり落ち込んでいるようでしたから」
 持つべきものは親友である。俺は小鈴に日頃の感謝も込めて丁重に礼を言った。

成程小鈴の言う通り阿求は大層落ち込んでいた。
連れ立って屋敷へ帰り俺の昼食を用意した後、阿求の姿が見えない。
屋敷の中を探し歩くと庭の隅の方で雪の中に埋もれそうになりながら歩き回っている阿求を見つけた。
昼過ぎからまた降り始めた雪が体の上に積もって今にも見えなくなってしまいそうである。しっかりと厚着をしていたがそれが余計に重そうで阿求は大汗を掻いて息を切らしていた。
「はぁ……はぁ……ひぃ……ふぅ……」
 そんなに息を切らして何をしているのかと見るとほんの膝の高さ程の雪玉を一生懸命転がしているのである。
 美しく切り揃えられた阿求の髪が汗で額に張り付いている。そのお蔭で普段隠れがちな阿求の瞳が見える。その眼は疲労の余りに力無い。
「何をしているのだ」
 俺は心配になって言いながら庭へ降りた。履物を履くのを忘れた事を思い出したがそんな事はどうでも良い。
「少し、雪遊びが、したく、なったのです」
 疲れて息が切れているのを取り繕って話すから尚更に苦しそうだ。
「もうやめて家に入れ。また風邪を引くぞ」
「大丈夫です。もうすぐ、出来ますから」
 そう言いながら阿求は雪玉を転がし始める。すぐにまた息が切れ始めた。
はぁはぁひぃひぃふぅふぅぜぇぜぇ。聞いているこちらが苦しくなる肺病患者のような喘鳴だ。どうしてこんな事をしているのかはすぐに分かった。
「やめろといっているのだ。まだ怒っているのか」
「そんな、怒って、いるなんて」
御阿礼の子の知識として人体の働きをも解し武術すら継承している阿求だが体力の無さはどうしようもない。このような単純労働には誠に弱い。恐らく先程の子供らのような雪だるまを作ろうとして膝の高さ程の雪玉を拵えただけで早々に力尽きようとしているのだ。
なぜならあの百人一首などでは俺を楽しませることができなかった。
「私にだって、雪だるま、ぐらい、作れます」
 だから俺が褒めたあの子供たちの雪だるまのようなものを作って自分にも雪遊びが出来る事を示そうとしてくれているのだ。
阿求はようやく出来た雪玉をもう一つの雪玉に重ねようと持ち上げた。そしてその重みで雪の中に転んでしまった。せっかく作った雪玉もごしゃりと割れる。
「おい、大丈夫か」
駆け寄っても阿求は動かなかった。真っ白な積雪の中にうつ伏せに倒れ込んだまま微動だにしない。その肩が微かに震えはじめたのを見て俺はそれ以上の追及を止めた。
「おお可愛い雪だるまだな。家へ持って帰ろう」
 俺はわざとらしくそう言うと阿求を抱えて屋敷の中に運んで行った。
「ふっ……うっ……」
 俺の腕の中で阿求はようやく泣き声を小さく上げてくれた。まるで雪が溶けるように涙が流れる。すぐに風呂にいれてやらねばならない。

僅かな外気の出入りもないよう密閉された密室で更に隙間も無いよう何重にも被った布団の中で阿求は俺にしがみついたまま動かなかった。少しでも密閉された空間で少しでも俺と密着する面積を増やすようにして阿求は眠る。二人きりになって空間をお互いから由来する物質のみで満たすようにしてようやく阿求は心から安らぐらしい。
しかし今日の阿求はそれでもなかなか眠れない様だった。
拗ねているを通り越してすっかり悄気込んでしまったようだ。
「わ、私だって、私だってあなたに朗らかに楽しんでもらったりしたいんです。もっと明るくて健全な。私が出来る事は全部……陰気で地味で暗い事ばかりですもの。でもやっぱり私には、氷精や鬼のようには出来ません……私には理解の外です」
 人には向き不向きと適正というものがある。阿求はそれを生まれながらに誰よりも知っている。その残酷な重さを俺が阿求にもう一度見せつけてしまったようだ。だが俺にとっては阿求のそういう独特の性状までも含めて愛おしいという事も何度でも見せつけてやらねばならない。
「阿求、俺の一番の楽しみはな。毎日お前の顔をただ見る事だ。自分だけの女が自分のために笑ったり泣いたり悩んだりしてくれるその顔を見る。男にとってこれに過ぎたる楽しみはそうそう無いものだぞ。だからまぁお前はお前なりの楽しみ方をただ俺に見せてくれればいい」
 阿求はじっと黙っていた。そして俺の胸に顔を埋めたまま動かなかった。そのまま長い時間が過ぎた。どうしたのかと思っていると抱いている阿求の体がまるで行火のようにじんわりと熱くなっていく。
 闇の中でも阿求が全身真っ赤になっている事が分かった。そんなに恥ずかしい事を言ったつもりはない。
「……それでは、それでは一つだけ……どうしてもお付き合いして頂きたい事があります。今日の百人一首の勝負の『何でも』を今、使わせて頂きます。断る事は出来ませんよ」
 阿求はもぞもぞと動いて体を起こした。そのまま俺の上に座り込む。そして紅に染まった顔のまま俺をきっと睨むように見下ろした。決意を固めた双眸に射抜かれて俺の鼓動は大きくなった。覚悟を感じさせる表情に俺も少し緊張してくる。阿求がこれから何を言うのか。
 阿求は長く呼吸を整えてからようやく口を開いた。
「…………お馬さんごっこを、してください……………………」
 いつも通りの凛々しい瞳に不思議な熱を湛えて真剣な表情で阿求は言った。
「……あっ! 違いますよ? 今のはいやらしい意味ではなく……普通にですからね! 」
 何か妙な意味にも取れる事に気付いたらしい。慌てて阿求は補足した。その慌てようを見た途端、俺はおかしくなって吹き出していた。
今日一日、怒ったり拗ねたり悄気たり深刻な顔で悩んだり。その結果考えていた事がそれとは。
「な、何がおかしいのですかっ。私は今日一日、あれが羨ましくて羨ましくてですね……わ、笑うのをやめて下さい! 」
 こんな遊びなら雪が降り止んでも、春が来ても。世の終わりまでこうしていられる。そう思って、また笑った。

   終
最終更新:2015年06月13日 23:34