八雲紫編

正直にいって、内心馬鹿にしていた。
恋という精神状態。愛という行為。
それがもたらす高揚はメカニズムの副産物に過ぎないと。
……今、私の腹の上で伏す男を、食糧として食ってしまえるかを、そう、妖怪らしく振る舞えるかを演算して……危うく自分の身が滅ぶところだった。
全く赦せなかった。
首に手をかけるどころか、害意をもって彼の瞳に映る、その自分を想像しただけで物理的に私という存在にダメージを負った。いや、負わせた。自らに向けた憎悪がそうしたのだ。
傷を負った私の体は反射的に収縮した。と、それを敏感に感じ取った彼が短く呻いた。
それが、喜びの声であったから、結果として私は私を許せた。
負った筈の内傷は、彼を私が喜ばせているという実感……その感触を得た瞬間に完全に癒えた。
いいや、それだけではない。
頬に触れている掌、頭頂部で髪を櫛げる指、私の唇を無断ではむ彼のそれ、そして……などから強烈な力が熱を伴って流れ込んでくるのを感じる。
私たち妖怪が、決して持つことの叶わない熱が怒濤のように……しかし私を傷つけることなく、元から受け止める路があったかのような自然さで身に染み入っていく。
これが……噂に聞く……愛というもの……なの?
陳腐という言葉では言い尽くせない、なんだろう……誇り、のような充足感が胸の奥で炉のように燃えている。
彼のためなら風雨を受ける傘となってもいい。いや、成りたい!と熱望する己を強く感じる。
危険ですわ……これ……。だってこれ
涙腺の自由がきかない。
彼にしがみつきたい衝動を押さえられない。
なんでもいいから彼の役に立ちたい。
それらを永遠に継続したい。
そして何より、ロジカルな思考を保てない!
それらの緒症状が一度に身を侵している。
試しになにかしら言ってみようかしら。何でもいい。というより、何をいうかすら思考が纏まらない。
それだけおかしくなっている。ええい、ままよ。なにか、なにかを

「あっはぁ、す、すきぃ! 好きなの!貴方が好きぃっ!」

…………なにいっているのか私は。
子供か? 好意を伝えるのしてももっと何かあるだろうに。
好き、好き!ってあなた……いや私が言ったのだけれど

息が弾む。
苦しくはないが、声を止めることが出来ない。
私の幼稚な告白を受けた、彼の返事もまた稚拙なものだった。
技巧も、粋な言葉運びもない、単純に「自分もそうだ」という事を伝えてくる。
曰く、好きだ
曰く、俺のものだ
曰く、誰にも渡さない
おかしいわ……全くおかしい。
こんな言葉に私の頭は何度も弾けるような白い世界に拐われてしまう。
声が1オクターブ高くなる。
神隠しの主犯と蔑まれた私が、こうも容易く拐(かどわ)かされるなんて。
それがこうも快いなんて……
主導権を奪われて、そのまま奪い返す気に全くなら無い。
いつまでも私を握っていてほしい。
いつでも貴方のものだって、主張してほしい。
私の隙間を埋めるのは、自分だけだと言い聞かせてほしい。
こんなにも熱く潤っている泉に浸っているのに、もっともっとと渇いたように求めてしまう。
何故? 私は何を飢えているの?
そんな業つくな女だったかしら? 何かを恐れて?

「ーーッ お願い! 抱き締めて」

私の中にある恐れるものの正体を掴んだ。と、同時に襲ってきた虚無。
その寒さを感じた瞬間、叫ばすにいられなかった。
空間を抉りとる無音無温の闇。それがすぐ背後、背中の皮に触れるほどの近くにある。
胸で、臍で、顔で、彼の事を感じれば感じるほど。
熱を受ければ受けるほど、それに与ることの出来なかった部分は凍えていくようだった。

……何時しか、この寒さ、空虚さ、何もない空間だけが残ってしまったら?

これが飢えの、乾きの正体だった。
恐ろしい、まさに隙間だった。

今となっては何一つ疑う余地もなく私は○○を愛している。
このひとの為に、私は発生したと、そう錯覚するほど……そう信じたいほどに。
そう、錯覚の筈のなのだ。しかし其れを私は知っていながら肯定したい。
私はこのひとのもの。
貴方を愛する為に生まれた。
そう胸を張って言える。
だから、
だからどうか……
それだけを許してほしい。
私いう憐れで愚かな妖怪が、さんざ食い物にしてきた人間のなかのひとり、貴方を愛し続けることを。
それを、見ていてほしい。
例え貴方が、私に指一本触れたくなくなっても。
例えその寂しさに、背中から虚無に喰われても……
貴方を愛している私を、貴方が認識してくれているなら!
それだけで私は生きていける。
いつしかそんな日が来ても、私はーーー

ふと、私は自分を揺らす律動が止んでいるのに気付いた。
思索の海から意識を引き上げると、強い圧力を感じた。
頭に、頬に、鼻に、背中に。
それは彼の腕、掌、頬。
私の望み通り、抱き締められていた。
無駄に発達した胸が、行き場を失い苦しいほどにぎゅうぎゅうに締め付けられて、すごく痛い。
彼の濡れた頬の感触で、やっと自分が泣いていることに気がついた。
それもしくしくと、などいう可愛いものではなく、号泣といった風にわんわん泣いていたようだ。
いったいどうしたのかと心配気に頭を撫で、涙をぬぐってくる彼に私は素直に話した。
私の気持ち、やがて来るかもしれない虚無、それを恐れる心を。

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最終更新:2015年06月16日 23:24