「ごめん、藍……今日は疲れてるから……」

と、○○が言ったのは梅雨も最中の六月の末の事である。
季節の変わり目というのはとかく体力を消耗しがちで、かつ、○○は文明華やかなりし外の世界につい昨年までいた外来人である。
クーラーなどあろうはずもないこの幻想郷の夏は、その恩恵に浸りきっていた彼にとって厳しかった。
だから、疲れていたというのは紛れもない事実である。
……正直を言えば、副次的な理由として、彼の妻……八雲藍の閨の作法は些かダイナミックであり、アクションであり、流麗かつ華麗で、朝までコースであったので……、その、なんだ、大袈裟に言うと、ほんと大袈裟に、いうと、少し辛い。
斯様なゆえあって、勿体無くも申し訳なく、御誘いを辞退した訳である。……が、その○○の頬を雫が叩いた。

「……ん? おおおい! 何故泣く!」

何かの雫は涙であった。
藍の宝石も霞むような蒼い瞳からはらはらと、止めどなく流れては形のいい頤を滑る雫が、ひたひたと責めるように○○の頬を叩いていた。
○○は彫像のように瞬きひとつせず、ただ落涙する愛妻の姿に肝を抜かれ、上掛けをはねあげて愛妻の肩を抱いた。
藍が外の世界に用事で出ている場合を除き、ほぼ毎日肌をあわせている○○だが、まさか泣かれるとはつゆほども思わなかったのだ。
抱いた肩をよせ、顔を除き混むと、びくりと身を震わせ恐る恐る上目遣いで○○を伺うも、すぐに拗ねたようにふいと顔を反らしてしまった。
なんてこった……
藍は外の世界でも超有名な大妖怪、九尾の狐である。
魑魅魍魎のばっこするこの幻想郷でも支配する側の存在だ。
そんな強い存在が、ただひとたび閨の褥を袖にされたぐらいでこれほど心を乱すとは……

「○○は……い、嫌なの……だろう? わ、わたしを抱くのは」

肩を抱く程度では文字道理話にならないと踏んだ○○は藍の顎を自らの肩に乗せ、ほとんど一方的な抱擁でもって彼女をあやした。
その窮屈な姿勢のなか、やっとのこと鼻声で応えてくれたのがその一言だった。

「いやその、なあ、嫌なわけないじゃないか」

すっかり弱々しくなってしまった愛妻の様子に、なにか今まで感じたことのない背徳的な興奮を○○は感じていた。
しかし、それではあまりにも動物すぎると押し込める。
今のところ大人しく抱かれている藍の背を、子供をあやすように撫でるのは、我知らず父性でそれを封じる為だろうか。

「……だって」

藍は不満げに溢すと、すんと鼻をならした。
それは、先程断崖絶壁のような悲しみとは違う、いうなれば「とりつく島」のある心待のように、○○は感じた。
肯定、囁き、愛の言葉……そういったものなら聞きます、そしたら許してあげるかもしれませんよ? そう言っているかのように。

「あぁ、聞いてほしい、藍。俺はーーー、ーーー、ーーだよ、今までも、これからも」

藍の尖った狐耳に、彼女以外には聞こえぬよう○○は囁いた。
それは藍だけに聞こえればいい、愛の言葉であるので、ここでは略す。例え、主の隙間妖怪にすら聞かせたくない藍への、藍だけの言霊であった。
藍は抱かれるままの姿から、そっと○○の背に腕を伸ばした。
そして、こちらはその艶めいた声を確かな形とするように、あるいは誇示するように「私も」と応えて、○○の耳朶に軽い口付けを落とした。

「私達は……いや、私のような愛を知った妖怪はな……」

藍は語り始めた。
語りつつも口付けを耳から頬へ、そこからは鼻と言わず額と言わず顔中に雨のように降らせ続ける。
それは、ある種動物的ともいえる愛情の標(しるし)つけ。
それでいながらたっぷりと女性的な湿った意味をもつキスの霰だ。

「それを喪うのは最早存在の意味を棄てるのと同じなんだ……ん、舌、出して……」

んっふ……と、普段の藍ならもっと手順を踏んで求めてくるのだが、テンションの谷間から急浮上しようとする勢いに煽られてか、辛抱堪らないと言わんばかりに吸い付いた。

「あぁ……ん、ふきぃ……らいふきぃ……」

元より閨では情熱的な藍。
しかしその行為のセクシャルさと裏腹に、すがり付く子供のような余裕の無さを○○は感じていた。

「お願い……私を、………………私を拒まないで」

途端、1オクターブ低い声。

あ、マズイ、と。
そう、藍の悪いスイッチが入ってしまったのを、○○は察知したがすでに遅かった。

「ん……本当は、本当は……ああ、私の○○……私だけの、私だけの! 閉じ込めたい! 朝も夜もなく私という結界の中で、私の声だけ、私の匂いだけ、私の肌だけ、私の味だけ、私の感触、体温! 私だけで溺れさせたいの! 私だけにすがって欲しいの!!」

がばっ、とやおら弾き飛ばすように唇を遠ざけた。
そして、恨めしいとすら言わんばかりにぎっとねめつける視線を○○にぶつける。
肩を掴む藍の手にも力がこもり、ぎちと寝間着に爪が食い込んでいく。
白い甚平に赤いものが滲む。……が、ここで痛みを顔に出してはいけない、○○は本能的にそう感じていた。
少なくとも、藍が大事なら、平然としてこれを聞き届けなければ、と。

「溺れて、溺れさせて、そして、そして………………また、駄目にしてしまう……
  あぁぁ、御免なさい○○、○○! 見せたくなかった、言うんじゃなかった! 分かってるの、これを見せれば貴方が離れるかもしれないことっ
  でもお願い、私のあなたでいて、居てくださいっ その為なら、わた、わたしの……むぐっ?!」

分かった。○○は愛妻の口をふさいだ。
藍が自分を傷つけ始めたからだった。
これ以上は言わせても、聞いても駄目なのだなと、○○は思った。
藍の業、それは深く、千年以上の重さがある。
この豊潤な体と、灼熱の情に歴史があるのも分かっている。
その分、深い痕があることも。
もしかすると、その傷ゆえに那須の地で死ぬつもりで、石へと封印じられたのかも知れないな、と○○は妄想を逞しくした。

「ん、んむ……」

一瞬だけ驚いたように固まっていた藍は、しかし押さえ付けられるよう後頭部を掌で捕らえられるとむしろ安心したかのように身を委ねた。
舌を絡めることもない、ただ柔らかいところを与え合うだけの口付け。
控えめに時おり鳴る水音。はぁ、と途切れ途切れに聞こえる吐息は情欲よりも心底からの安堵の響きであった。
まるで、家族待つ家に帰った幼子のような。

「藍、分かった……」

ちぴ、と名残惜しげに柔らかな唇を開放すると、「あん…」と不満げに藍が鳴いた。
細い糸がゆったりと二人に橋をかけ、途切れた。
今までの狂乱を忘れたかのように、平静を取り戻した藍が視線で問う。と、○○は返答とばかりに藍の襦袢の襟を割った。
すらり、とそれは衣擦れを残して肩を割り、鎖骨をのぞかせたかたかと思うとそのまま豊満な乳房を外気に晒した。
ふるん、とまろびでた膨らみは何よりも美しい放物線を描き佇んでいる。
幻想郷一の胸である。
○○はその幻想郷一の胸の柔らかさ、肌触り、そしてその味……全てを藍に教わっていた。
同時にそれが全て、○○のモノだということも併せて。

「あ、あなた……」

藍の瞳に若干の驚きと、そして徐々に大きくなる期待とが溢れてくる。
○○は頷くのも面倒と、そのまま藍を夜具の結界へと沈める。
藍の円い肩が布団へと捕らわれると、剥き出しの胸がたゆん、と揺れた。
藍の胸は豊満である。
すると、これからへの期待にいよいよ藍の瞳は熱く潤み、頬は桜よりなお艶やかに色付いた。

「今夜もしたい。藍」

できうる限り直球で○○は宣言した。

「あなた……でも、お疲れでは」

「………………したいんだ。俺の藍だから、藍の俺だから……だから」

「あなた……!」

藍は感極まったとばかりに落涙すると、その細い腕を伸ばして夫を抱き寄せた。
蒸し暑い幻想郷の湿度と、気温が3度ばかり上がった。
そしてそれは、夜、と呼べるギリギリの範囲まで続いたという。

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最終更新:2015年10月06日 11:50