【文々。新聞 ○月×日】【幻想となる外来人 第一回 名家を支える花婿】
 
                          文責 射命丸 文

【早朝 H邸前】
H氏の朝は早い。
白露の季節とはいえ朝まだきの暗がりである。今回の取材対象H氏が既に身支度を整え出迎えてくれた事に記者は驚きを隠せなかった。
――お早うございます。今日は一日よろしくお願いします。
『こちらこそよろしく頼む』
――いつもこんな早くに? 
『いいや今日は偶々だ。取材されるなら少し格好付けたくなってな。ああ、これは書かないでくれ』
 元は外来人とはいえ今や人里の中核の一人であり妖怪勢力との緊密な繋がりもあるという。当初抱いた印象とは裏腹に意外な茶目っ気のある笑顔だった。
外来人たちは幻想郷では非常に珍しい存在である。幻想郷のあちこちに散っている彼らはどんな生活をして異郷に根を下ろしているのだろうか。
これは数奇な運命を辿り幻想郷に身を寄せた外来人たちの日常を追い、彼らの目を通して幻想郷とそこに住む我々の姿を知るための取材だ。他者の目に映った自分の姿にしか見えないものもあるに違いない。
記念すべき第一回は人里のH家から。そこにはH家の婿となり同家を支えるH氏の姿があった。
 H家は古くからこの幻想郷に栄える学術を生業とする異能者の一族である。その権力は社会全体に根のように張り巡らされている。それらの上に静かに座すのは一族の幼き当主にして祖霊の知恵の象徴【検閲】。
H氏はその九代目の【検閲】A女史の夫となった男である。 
当然取材交渉は難航したが今回は記者がH夫妻の友人であった事もあり様々な厳しい条件下で取材が実現したのである。
 挨拶が済むとすぐにH氏が屋敷の中へ招き入れてくれた。
『朝飯はすませたのか文。俺は今からだが』
【H邸 客間】
――いやすみませんね。私まで御馳走になってしまって。お世話になります。
 通されたのは広くはないが趣のある座敷であった。
『いや客に出すような食事をわざわざ用意した訳ではないから手間でもない』
 確かに食膳に並んだのは正式な客人をもてなすというより単純に朝早く訪れた友人に振る舞うというようなの温かみのある食事である。
 熱々の一汁三菜に雑穀の入った炊き立てのご飯。塩味の効いた香の物が幾つか。恐らくはこのH家の奉公人たちも同じ朝食を食べているのであろう。
どれも素朴な味わいでこのところ不摂生が続く記者には豪勢な食事より余程心に染み渡った。喜んで掻き込み一息吐いたところでふと思い直した。
成程奉公人と同じような食事を出す事で気負わず家人同然の気心の知れた仲であるという暗黙の了解を見事に作り出している。これでは知らず知らずに取材に手心が加わるやもしれない。
やたらと下にも置かない扱いで歓待されるより遥かに効果のある接待と言えるだろう。
 涼しい顔で食事をとるH氏の深慮は見事という他は無い。もしもこれが常に清く正しくと己を律する本紙記者でなければまんまと引っ掛かっていたであろう。
『文。卵は……お前は食わんな。納豆は食うか』
――あ、どうも頂きます。
 納豆の小鉢を受け取る際ふと見るとH氏の食膳に並んでいる朝食は記者に出されたものとメニューが違う。
 別に使用人の食事と比べて贅を尽くしているとかいう事は無い。男性だから量は多いがどちらも似たように素朴な家庭料理で普通の朝食である。少し不思議に思って聞いてみた。
――好物なのですか? 
『何がだ? 』
――その料理がお好きだから別に用意しているのかと思って。
『ああ、これは……俺の食事だけは毎回妻が作っているのだ』
――わざわざ別に、毎食ですか? 
『そうだな。忙しいだろうに。もう少し休んで欲しいのだが』
――ははぁ。愛情の籠った手料理が頑張りの秘訣というわけですか。
『そう言われるとどうもこそばゆいが。わざわざ俺の好みに合わせてくれているし確かにありがたいと思っているな』
 H氏が全く環境の違う幻想郷での生活に深く馴染むまでには周囲からの手厚い助けがあったのかもしれない。H氏の表情は変わらなかったがその声には言葉以上の感謝が滲んでいるような気がした。
 程なくH氏が急須を持って立ち上がった。
『ちょっと茶葉を替えて来る』
H氏が出て行ってしまうと座敷内は急にガランとしたように感じられた。昨日から空模様は思わしくない。今日も雨こそ降らなかったが日の差さない暗い朝である。
 その薄暗さが手伝ってか先程まで風情と趣が感じられていたはずの屋敷の中が急に古めかしく陰鬱に見えた。屋敷内には何人もの奉公人がいるのだろうにとても静かだ。余りに不自然なほど静まり返っているせいか耳鳴りまでしてきて不気味に思った。
 古いが隅々まで清められた品の良い座敷である。ここだけではなくこのH家は全て手入れが行き届いているのだろう。ただこの屋敷は静かになるとどことなく空気が重い。
 不意に視線を感じた。誰かに見られている、ような気がする。背後が気にかかった。
振り返るとそこには奥に続く襖がある。その先は光が差しにくいのか更に暗い。その襖は僅かに開いていて隙間から暗い空間が見えている。その隙間に何か、いや誰かが――。
『文』
――はっ、はい? 
 声を掛けられて振り向くとH氏が立っていた。急須を手に戻ったらしい。
『焙じ茶にしたが良かったか。おいどうした顔色が良くないな』
 もう一度背後の襖を確かめたがそこには何の気配もない。
――いえ、なんでもありません。
H氏が戻った途端立ち込めていた重く暗い雰囲気は消えていた。
 結局もう一服した後で本格的に取材を始める事になった。
【H邸 玄関】
 仕事に向かう準備をするH氏の傍らに控えた老人が手短に告げた。
午前の間に酒造組合と自警団との協議がそれぞれ一件、それから面会の希望が三件控えている、との事である。
『酒造組合の方は契約締結だけだ。判子を押すだけだな』
――どういうお仕事ですか?
『外来人と一緒に新しい酒を造った杜氏が古い蔵元から暖簾分けした。で新しく造り酒屋を立ち上げたが小さな造り酒屋は大抵、蔵の表をそのまま杉玉を吊るして店舗にした細かい商売だから問屋を介さない。
その分、卸値は有利な訳だが資本が小さいと原料米の確保が難しい。他店との競り合いの際に良質な原料を確保できないのでは困るから古巣の蔵元を頼る事になった。蔵元は原料の融通を約束する代わりに新しく出来た酒を優先的に卸す事を条件に提示した。
その量やら値やらの交渉が長引き仲立ちを頼まれていたのだが先頃ようやく両者が合意したので今日は役場で面倒くさい手続きを踏ませて契約に立ち会って連中に握手させねばならん』
――自警団との話は? 何か事件ですか? 
『物騒な事は何も無いぞ。外来の産物が増えたので郷倉を増設する。その設営の手続きだ。こちらももうほとんど終わっているがな。ついてはそれを管理する自警団の施錠管理者と防火管理者、見回り及び保全のための人員配置が必要だ。それもすぐに済む。面会は? 』
 記者の質問に答えると続けざまに老人に先を促した。面会の一件目は河童の技術者N氏。新しい機械の起動実験への立ち合いを希望しているという。
『その場所は却下だ。爆発の可能性がある』
 H氏は即座に実験の場所を市街地から遠く離れた場所に移させるよう指示した。
『Nは非常に優秀な技術者なのだが周りが見えなくなる癖があるから失敗した時の被害も考慮せんとな。立ち合いには行かせてもらうが少し遅れるかもしれん』
 続いては驚くべき名前が挙がった。妖怪の賢者【検閲】氏の式として名高い【検閲】氏である。
『大結界管理の件だな。【検閲】』
――【検閲】氏とは良く話すのですか。
『実務的な事は大体【検閲】と話す事になる。【検閲】は必要がなければ出て来ない。普段の諸々の仕事は【検閲】に一任している。話が早く誠実な上にほとんど完璧な仕事振りだから助かっている』
最後に人里の寺子屋で教師をしているK教諭。寺子屋の備品の件で相談があるという。
『ああ、またチルノが何か壊したな。修繕で済めばいいが』
 淀みなく次々と本日の予定が決められていく。まだ仕事の確認をしている段階でしかないのだろうがその決定力がこれからの業務を円滑に進めるためにも活かされているだろう事は既に予感された。
しかしK教諭の名前が挙がった途端初めてH氏は考え込むような素振りを見せた。

『今回の相談が何にせよ寺子屋の備品をいくつか新調しなければならない時期が近い。それにK先生から新しい教材の要望もあった。その予算を決める必要がある。
その他に寺子屋の運営と現状に関して幾つか話し合っておきたい。先生に会う前に確認事項をまとめておかなければならん』
 K教諭からの相談には多くの時間を割いているという。
――ずいぶん熱心なのですね。
『俺は生来怠け者だ。熱心などというものじゃない。K先生は無償で教職をなさっている。人の子供も妖怪の子供も。教師としてだけではなく人里は他にも多くの事で先生の助力を得ている。
人も妖怪も彼女への有形の謝礼を十分とは考えてはいない。もっとも受け取ってもらえないのだが。真の熱意ある教育者とは彼女のような人を指すのだろう』
――K先生と親しいのですね?
『まぁそれなりに良く話すが』
――美人ですよねK先生。
『そうだな』
――それでついつい肩入れしてしまう事もあるのでは?
『おい何が言いたい』
 H氏が少し睨むような目付きになった。
――いやぁ。ただちょっと気になったもので。
 しかし真相究明のためここで引く訳にはいかない。
『いいか。何もないんだ。勘違いするな』
――あややや。随分慌てているようですが。
 事実、彼の様子は何でもないにしては少し行き過ぎているようにも思えた。しかし。
『落ち着け、やめろ』
 そこで初めて記者は彼の視線がこちらを見ていない事に気が付いた。彼の目は記者の後ろを通り過ぎた先。具体的には廊下の奥の暗がりに。
嫌な汗が瞬時に滲んだ。背中に無数の黒い針のような気配が向けられている事に気が付いてぞっとした。
彼は私に言っているのではない。
――ひ。
『もうお立ちですか? 今朝は随分お早いのですね』
 廊下の暗がりから少女が歩み出た。影の中から滲み出るように気配無く唐突に現れたように思えて記者は息を呑んだ。
『ごめんなさい。お見送りが遅れてしまって。少し体調が悪くて』
『いや、構わん……無理するな』
 以前からの友人であるにも関わらずH氏と言葉を交わすその瞬間までその少女がH氏の妻であるA女史と気付く事が出来なかった。何だか幽霊に背後に立たれたような気がしていたのである。
『文さんもごめんなさい。ご挨拶が遅れましたね。朝早くからご苦労様です』
――あ、いえ。どうも。お邪魔しています。
 前述の通り記者はH夫妻の以前からの友人である。今もA女史はごく自然に記者に挨拶してくれた。少し顔色が悪いように見えたがもちろん不審な態度など何一つ無い。
A女史は白磁のような肌をしているから気のせいかもしれない。ただ。
『それでは行ってらっしゃいませ』
 A女史の目だけは最後まで笑う事はなかった。
【人里 役場】
<中略>
予定されていた業務をこなし終えたH氏は事務作業を始めた。
――今なさっているのは? 
『ああ、お前にも関わりがある事だ。妖怪の山……天魔殿に向けて手紙を返す。その返報に書くための内容を調べて資料をまとめる書類仕事だ。互いにいい加減な事は書けないからな』
人里と妖怪の山も全くの没交渉ではない。互いの組織の上部になる程緊密な連絡を取り合っている。という事らしい。
――私もあまりその辺の事知らないんですが。
『互いに基本的な不干渉は保つが話しておきたい事はある。双方に益のある事だからな』
――見せて貰っても宜しいでしょうか? 
『目の色が変わったな。別に秘密ではないから構わんがお前が期待するような陰謀めいた物ではないぞ』
笑いながらH氏が差し出してくれた人里と妖怪の山との往復書簡記録。真実を求める正義の新聞記者の性でつい本来の取材を差し置いて食い入るように見てしまった。
穀物価格の変動について。
獣や下級妖怪の個体数と動向について。
守矢神社参詣道の整備について。
幻想郷の山々の細かな様子について。
特産物と嗜好品の売買について。
遭難者の救助と山の保全について。
妖怪の山の【検閲】について。
スクープを期待したが残念ながらそこに並んでいたのは地味な事柄ばかりで記者にとっては拍子抜けであった。これは記者の知り合いの引きこもり天狗が好きそうな題材である。
『つまらんと言ったろう』
――はぁ。いやまぁしかし意外ですね。わざわざこんなやり取りを。
『互いに角を立てたいわけではない。それに天狗は里の事を、里人は山の事を良く知らない。損でない事を教えあっているだけだ』
――言っている事は分かりますが。何と言うか……私が言うのも何なのですが嫌ではないのですか?
『どういう意味だ? 』
――私が言うのも何なのですが、天狗が少しばかり高慢に見られているかなという自覚はありますし。
『天狗を然程高慢だと思った事は無い。あくまで俺たち外来人の目から見た時の話だが天狗は自分の種族に誇りを持っているだけの事で別に付きあい辛いわけではない』
――しかし妖怪と人間は喰う者と退治するものですよ。怖いとか嫌いとか思わないものですか。貴方たち外来人のそういう意識はどこから来るものなのですか? 
『ああ。またその手の話か』
 倦んだような言葉とは裏腹にH氏は今日一番暖かく笑った。記者が詳しい説明を求めるより早くH氏は続けた。
『幻想郷の人妖はみな同じ事を聞くな。もちろん俺たちも喰われるのは御免だが』
『ここは不思議な所だな文。絶えず親しんでいるにも関わらず慎ましい畏れと敬いが根付き互いの領分を圧する事が無いのに常に備えている。
人は里の外の妖怪を討とうとせず妖怪は自分の縄張りに入った人間しか食おうとせず。領分を守っている限り傷つけあう事が無い』
『外来人は幻想郷の生活に慣れるために色々な面で四苦八苦するものだ。大抵の者は幻想郷に来て最初から満足に出来る事などほとんど無い。
が一つだけ、どんな人妖にも優れる有利が一つある。俺たちはここではない違う世界を良く知っているという事だ。即ちこの幻想郷がどれほど得難い物で満ちているのか、それが骨身に染みて分かっている。
お前たちが妖怪との付き合いが嫌ではないのかと聞く度、俺たちはどうやら幻想郷とは本当の楽園らしいと思い知らされる』
――もう少し詳しくお願いします。それはどういう意味なのですか? 
『俺たちからしてみれば幻想郷にある対立意識は爽やかで……何と言うか、可愛いものなのだ』
 記者は一層分からなくなった。首を傾げる記者にH氏は続けた。
『分からんか。なればこそ楽園だ』
 H氏はそれ以上語らず仕事に戻った。確かに我々にとって近代の外界には知らない事が多い。記者にはH氏の言葉の意味する所は朧にしか分からなかった。
しかしその視点こそ本企画で記者が知りたかった何かの本質である気がする。何かを掴みかける確かな予感に今後の取材にも力が入った。
<中略>
やがて昼食時になった。
『愛妻弁当ですか? 』
――まぁ、そう呼んで差支えないが。
『おやおや桜でんぶでご飯にはぁとですか』
――おい、ちょっと手帳を置け。
権力からの不当な弾圧に屈するわけにはいかない。記者は一時その場を離れ更なる取材の為にH氏不在のH亭へと飛んだ。

 H家本来の学問や探求を除いた政や金繰りなどの所謂俗事を担当するH氏が不在の屋敷を訪れたのには記者なりの思惑があった。
 実務的な仕事の多くを取り仕切る当主代行がいない時にこそH家の奉公人や関係者から彼に対する率直な感情を取材を出来るかもしれない。
 本日の取材の許可を得るに伴いH家からは屋敷の奥や資料の保管場所などの重要な区画を除いた範囲に限り出入りする了承も得る事が出来た。
しかし屋敷内で仕事に従事している奉公人たちへの取材は思わしい結果にならなかった。
皆、判で押したような笑顔を浮かべ『旦那様には大変感謝しております』と繰り返すばかりである。誰に聞いても取材に対して徹底した情報統制を敷いているようですらあった。
 しかも矢張りH氏がいないこの屋敷は静まり返り重苦しい気配が充満している。そこを歩く奉公人たちは笑みを浮かべながらそれとなく記者を監視しているように思える。
せっかく戻って来たのだが早くもH氏の所へ帰りたくなってきた。
何だか居心地が悪いまま屋敷内を歩いていると、ある部屋の前で見知った背中を見つけた。
A女史である。背を向けていてまだこちらに気付いてはいない。奇妙な事にA女史は何かに顔を埋めて深く呼吸していた。
A女史が持っているのはH氏が今朝着ていた部屋着である。
『ああっ……あなた、あなた、私の旦那様……うふっ。うふふ。うふふふふふ! くんかくんかすーはー。くんかくんか。ふが……はっ……くしゅんっ! …………お洗濯しないと……』
不気味な笑いを漏らしながら部屋着に顔を埋めていたA女史であったがくしゃみをして我に返ったらしい。
いやむしろこれはこのままの方が、と呟いているA女史に気付かれないように距離を取る。正直な話、普段の怜悧なA女史とのギャップに嫌な鳥肌が立った。見てはいけないものを見てしまった。こんな深い闇を取材するつもりで来た訳ではない。
今は取り込み中のようだし記者も別に忍び込んでいる訳ではない。許可も取ってあることだ。今の内に他の取材をさせてもらおう。もっとまともで、今回の企画に相応しい取材を。
忍び足でその場を去ろうとしたが焦っていた為に取材用のペンをポケットに仕舞おうとして落としてしまった。
カツン、と床が鳴った。記者は身を竦ませて固まった。
『文さん』
 ――ぎゃああっ! 何も見ていません! 
 肩に手を置かれて振り返るとA女史が幽鬼の如き気配を発していた。もう片方の手には先程のH氏の部屋着が握られている。
――わ、私は今来た所でして、はい。もう全く何も。
 しどろもどろに言い訳をする記者をA女史は制した。
『多分文さんは勘違いをしています。違うのです。私は変態ではないのです。確かにこれは主人の着物です。
ですが主人が脱いだ後、それを洗濯して乾かし皺を伸ばして畳むまでの間は私の物です。それが妻の責任であり権利というものです。嗅ごうが顔を埋めようが私の勝手なのです』
――あ、あははは、いやぁそうですよね。かくいう私も普段からそう思っていたんですよ。そう! 夫の生活をきちんと把握してこそ内助の功ですよね。
 口八丁には自信がある。自分で自分が何を言っているのか良く分からなくてもそれらしい発言が出来るというのは新聞記者にとって有用な才であると自負している。
 幸いA女史は記者の発言に頷いてくれた。
『分かっていただけて幸いです。流石に文さんの洞察力は素晴らしいですね。その通り、主人の生活の助けとなるために必要な行為なのです。ああする事で普段の身だしなみや体調など分かる事は多いですから』
 A女史は普段の怜悧な印象を取り戻していた。
このように淡々と事物を説くA女史の説得力は大変なものである。落ち着いてみれば先程の行為は本当に家事の一環のようなものであり何らおかしい事ではなかったのかもしれないという気さえしてくる。
何よりこうして目の中に明哲の光輝を宿しているA女史はどこからどう見ても常識人で正に貴顕の神童や賢者と呼ばれるに相応しいではないか。
そしてこれは彼女の夫であるH氏に対する取材である。一番近しい存在であるA女史に取材を試みないでどうするのだ。
記者は勇気を振り絞ってA女史に取材を申し込む事を決意した。記者の内心をよそにA女史は続けた。
『別に変態的な欲求からあのような行為に及んだ訳ではないのですよ。確かに役得だとは思っていますが。それもただ、ああしていると非常に幸福な気持ちになってとても落ち着くし満たされるし興奮する、というだけの事なのです』
 早くも記者の決心は揺らぎ始めた。
<中略>
 洗濯を終えるとA女史は彼女の仕事のために机に向かった。その部屋は本来の彼女の書斎ではなく蔵から出したばかりの古文書などを研究するための場所らしい。そのせいか少々埃っぽい。
――何のお仕事ですか? 
『古い文献の整理です。ところで……』
――はい? 
『主人の仕事場にまで付いて行ったのですよね? それは必要だったのですか? 』
――は、はい……まぁ一応。
『大変なお仕事ですね』
A女史はいつも通りの淡々とした口調だった。別に叱られている訳でもないのだが記者は針の筵の心境であった。この仕事をしていれば誤解を受け怒鳴られたりする事には慣れている。しかし責めるでもないA女史の言葉の底には筆舌に尽くせぬ圧力を感じる。
『それで、どうでした……? 』
 A女史の雰囲気が変わったような気がする。どこか落ち着きがなくなり何度も髪をかき上げている。
――どう……とは? 
『主人は何か、私の事などについて話していましたか? 』
――あやや、いえ、そういう質問はしなかったので。
『そうですか、お疲れではなかったですか? 昨晩は少し眠りが浅いようでしたので』
――そうなんですか? 
『はい。お眠りになってからしばらくお顔を覗き込んでいたのですが、その際寝息が熟睡している時のそれではなかったので』
――えっ。あの。何故そんな事を? 
『別に変なことなんてしていませんよ。少し吐息と吐息を交換していただけです』
――…………へ、へぇ。
<中略>
 古い文献に向かい合った時のA女史は明鏡止水の境地にあるようで余り話をするのは憚られた。
少し手持無沙汰になり見回してみると山のように積まれた文献の傍にまだ新しい分厚い本が開かれたままで置かれている。不思議に思ってA女史に聞いてみた。

『ああ、それは私の個人的な蒐集物の目録です。ちょっと書きかけだったもので』
 開かれた頁をちらりと盗み見るとそれは集めた品物に番号を振って列挙し記述した形式らしい。それにしても膨大な量の目録である。厚みは百科事典程もある。
――それはH家としてそれらの品々に学術的……であるとか霊的な観点からの価値を見出している、という事ですよね?
H家は古くから学者の一族として妖怪を初めとする怪異の研究も行ってきた。それに関わる様々な物品や宝物を現在でも無数に所蔵、保管し研究を続けているという。
いくら文字通りの専門家の本家とはいえ、これほど膨大な蒐集品が単なるコレクションである筈はないと思った。
『いえ。ふふ。お恥ずかしいのですがH家もそこまで仕事熱心ではありませんよ。これは本当に単なる私の趣味の一つなのです。
笑われるかも知れませんが超常の存在や歴史上の物事を記録するような仕事を続けていると、単なる趣味の蒐集物にも目録を作る癖がついてしまって』  
『そんな物を作らなくても私は【検閲】ので全て覚えているのですけれど。H家の性と言うものでしょうか。どうしても分類して整理しないと気が済まない事がありまして。ふふ、おかしいですよね』
単なるコレクションにも染み付いた学者としての癖が出るという事なのだろうか。
【検閲】として畏敬の念を集めるA女史の個人的な趣味による蒐集物とはどんなものなのか。記者の期待は否応無しに高まった。
――しかしこれ程多くなると保存するのも大変でしょう? 
『ええ。屋敷のあちこちに分散して保存してあります。それぞれ保存に適した場所があったりしますから。特別な保存法を必要としない物ならこの机の中にも幾つか仕舞ってあるのです。
仕事の合間にそういう蒐集物を鑑賞して疲れを癒したりしますね。誰でも似たような事をすると思いますが』
――……どんな物か見せて貰ってもよろしいですか?
『見るだけなら構いませんよ』
A女史は机の引き出しの鍵を開けてくれた。中には幾つか金属製や紙製の箱が並んでいる。A女史はその内の一つを取り出して蓋を開いた。
箱の中は完璧に整頓されていたが記者にはそこに並んでいるものが何か分からなかった。何かが入った瓶や何かが書かれた紙や何かの部品のような物や。その他にも多くの良く分からない物品が犇めいている。
――これは一体……? 
『触らないでっ! 』
――ひゃいっ! 
 びっくりして伸ばしていた手を引っ込めると同時に変な声を出してしまった。
『失礼しました。大切な蒐集品ですので触る時は手袋をお願いします』
――いえ、こちらこそ失礼しました。あのう。それでこれは一体? 
『何と言うか自分で自分の蒐集物を説明するというのは面映ゆいですね。目録を見れば分かると思います』
――はぁ、それでは拝読します。
分厚い目録を手元に引き寄せ適当に捲りながら目に留まったいくつかの項に目を走らせてみた。

【[標本番号 三○八 標本 洋焼菓子の包み紙
  標本種別 丙
  採取場所 台所
  保存方法 防虫処置を施した後、金属製容器に保存。
  標本概要 旦那様が里の洋菓子店にて購入の後お土産として持ち帰ってくださった焼き菓子の包み紙。以前に同店舗の前を通りかかった際に美味しそうと発言した事を覚えていて下さったという証明となる物品。日々の些細な言動を心に留め置いて下さるという幸せを記念して丙種保存とする】

【標本番号 九十三 標本 剃刀
  標本種別 丙
  採集場所 湯殿
  保存方法 防錆処置の後、油紙で刃部を保護。除湿した容器内に保管。
  標本概要 旦那様の使用済み理容剃刀。顔剃りを始めとした理容に必要なため脱衣所に備えていたもの。旦那様のお背中を流しする際偶に理容をお任せいただける事があった。現在も十分使用に耐える。いつか必要になる事があれば今度は旦那様が私に使って下さるとの事。もしその日が来たならば旦那様と同じ剃刀を使っていただくべく丙種として保存】
【標本番号 五九一 標本 履物 
  標本種別 乙
  採集場所 裏口
  保存方法 一般的な靴磨きを施した後、暗所に保存。
  標本概要 旦那様が人里の洋靴店にて購入した半長靴。やや耐久性に難があった模様。幻想郷を歩き回ってすぐ履き潰してしまったとの事。実質的な着用期間は短いものの着用時には運動を伴う事が多かった事が推察される。事実、芳香は濃厚芳醇である。正確にはこの濃密な芳香こそが標本の本質である。乙種保存とする。
  追記 標本回収の際、旦那様はこの標本を廃棄する寸前であった。懸命な説得と交渉により廃棄は未然に防がれたが今一度、標本の回収方針を見直す必要がある事は疑いない。特に旦那様ご自身による標本の廃棄及び損壊をより高確率で防止するため更に迅速、確実な回収方針要綱策定が急がれる】
 
【標本番号 ○七 標本 H家の雨傘
 標本種別 甲
  採集場所 玄関
 保存方法 水気を取り去り清掃後に防虫処置。暗所にて保存。
 標本概要 婚前、旦那様と正式に交際を始めた際、自宅まで送って頂いた際に使用した雨傘。図らずも相合傘になっていたという運命的符号は特筆すべきものを感じる。高度な史的価値を認め甲種保存とする】

【標本番号 一二○六 標本 涙液
  標本種別 甲
  採集場所 寝室
  保存方法 消毒済みの硝子瓶に密閉保存。小規模保護術式施術後、緩衝材にて包装。氷室に保存。
 標本概要 就寝中の旦那様の目尻から採取。眠りながら落涙されていた。魘されているなどの変調は確認出来なかったため刺激しないように抱きしめていた際、採集の必要性に思い至った。旦那様の涙を見るのは初めてではないが非常に珍しい。また多くの場合そのような事態は標本の採集どころではない。緊急性が低い状態かつ旦那様ご自身に採集を拒まれないという稀有な状況に巡り合う事ができ採取が可能となった。また採取時は舌で舐め取りたいという強烈な欲求との闘いであった事を付記する必要を認める。状況の再現不可能性、標本の希少性、標本の物的価値の高さから甲種保存とする。
追記 採取後は抱擁を継続、小声で子守歌をお聞かせしているとじきに落ち着かれた。眠ったまま赤子のように鼻を鳴らしてお顔を擦り寄せる旦那様を間近で観察できた。(詳細な観察内容に関しては 標本番号一二○六――別紙一を参照)翌朝お尋ねしたところ昨晩の出来事に関しては記憶が無いとの事。しかし、懐かしい夢を見ていたような気がする、と説明なされた】

【標本番号 九五九 標本 【検閲】
  標本種別 乙
  採集場所 寝室
  保存方法 消毒済み硝子瓶に密閉保存。小規模保護術式施術後、緩衝材にて包装。氷室に保存。
  標本概要 旦那様に特殊な【検閲】を使用して意識を【検閲】させ【検閲】を行った際に旦那様の【検閲】を採取。多少強引な標本採取となってしまった事は否めない。お叱りを頂いた(その際の会話記録は 標本番号九五九――別紙一――口述筆記記録を参照)。次回の同種標本の採集交渉は難航することが予想される。ただし標本は非常に満足のいく保存状態である。より安定した保存のため保存場所は専用の氷室内とする】

【標本番号 二四四八 標本 【検閲】
  標本種別 甲
  採集場所 【検閲】
  保存方法 【検閲】
  標本概要 【検閲】

――ぅ…………わ……ぁ……。
 記者は烏天狗としてそれなりに長く生きているのだが腰が抜けそうになるという体験は多いものではない。
『この部屋にあるのは主に丙種の蒐集物です』
――へ、丙種? 
『はい。私たちのみにその由来や起源を限定しないものの特に保存の必要を認めるものが主に丙種に含まれます。普通の夫婦なら所謂思い出の品、記念品と言うものでしょうか』
――……甲種と乙種もあるのですか? 
『あるにはありますが……期待されると申し訳ないのですが。甲、乙、丙という分類は便宜上付けているだけで必ずしも品質や価値の高さで分けている訳ではないのですよ。
本来上下など付けられないという物も多いですから』
『乙種は私たちにその由来と起源を限定し日常生活の中で採取可能である標本の内、特に良質な採集及び保存が可能であった物が主です。
乙種はとある理由により大部分が失われてしまいました。現在再拡充を図っている所です』
『甲種は私たちにとって特に思い出深く記念碑的価値を認められるに値する物品をはじめ互いへの気持ちの表出が著しく認められるもの、多くは再度の採集が不可能である物品が含まれます』
――これは、このコレクションの事はHさんはどういう風に思われているのですか? こんな……。
正直に告白するとこの時、気味の悪い、という言葉が喉まで出かかった。これも一種の愛情表現なのだろうが率直に言うと余りの重さに血の気が引いた。
先程まで話していたH氏がこれに関わっているという事など想像出来なかった。記者としてはA女史が内密でこれらのH氏に関わる物品を集めているという答えを期待したのだ。
『……以前、大喧嘩になりました……』
当時の記憶が蘇ったのかA女史の怜悧な瞳が微かに潤んだような気がする。
『前はもっと些細な物でも蒐集していましたからこの何倍もの蒐集物があったのですよ。旦那様のお言いつけで必要最低限の物だけを残すようにする事になって。少し酷だと思いませんか』
――あ、ああ、乙種が減ったってそういう……。
『でも、その時、旦那様と何度も話し合いを重ねてある程度の蒐集を許していただいたのです。蒐集物を廃棄されたのは残念でしたがそれで私たちは更に分かり合えたんです。今ではちゃんと全ての蒐集物に旦那様の許可を頂いているのですよ』
 知っていた。H氏もこれを知っている。そして否定的な態度を示しつつもこの蒐集を容認しているのだ。身震いと同時にH氏の親し気な態度までが不気味なものに思えてきた。
 それにしても異常な趣味だ。軽い気持ちで深淵を覗いてしまった。これ以上この話を続けていたくはない、と記者が真剣に思い始めた頃、ようやくA女史は立ち上がった。
そろそろ夕食の支度に取り掛かるという。束の間ではあるがほっとした。
<中略>
H氏の話によればA女史は本来の仕事とは別にH氏と自分のための家事を毎日こなしていることになる。
割烹着を身に着けて台所に立ったA女史は筆を包丁に持ち替えても鮮やかな手捌きであった。先程まで古文書と向き合っていた時よりさらに真剣なように見える。すぐに素朴な家庭料理の美味しそうな匂いがし始める。
H氏への余りに重い愛情表現を除けば完璧なお嫁さんぶりであるといえるだろう。
しかし時折奇妙な行動が垣間見えた。
ほぼ料理が出来上がるとA女史は小瓶を取り出した。その中身の透明な液体を汁物を煮ている鍋の中に注いだ。
――今いれたのは何ですか? 
『……ただの愛です』
――あやや、いや、そういう事ではなく。
『愛です』
――あっはい。
さらには焼き魚の身を綺麗に取り分け一本一本小骨を除いていく。
――あの、何故そんな事を? 
『ああ、これは。うふふ。主人は焼き魚を綺麗に食べるのが苦手なのです。いえ、私から見ればの話ですよ? でも、いい年をして子供みたいですよね』
――それをいつも頼まれているのですか? 
『いえ。別に頼まれてはいませんが。せっかくのお料理ですから』
――そ、そうですか。
<中略>
『あとは主人を待つだけです』
記者はその言葉に違和感を覚えた。
A女史は記者に質問の時間を与えず言葉通りに玄関へ向かうとそこに端座した。朝夕は特に冷え込む季節である。その冷気など感じていないかのような背筋の伸びた美しい姿勢であった。ようやく記者は待つという言葉の意味を理解した。
――いつもこんな事を? 
『いつも出来る訳ではありませんよ。ただ今日は時間も丁度良いですし疲れてお帰りになるのですからせめてお出迎えぐらいちゃんとして差し上げたくて』
――しかしすぐに帰って来るかどうかは分からないのでは? 
『いえ、そろそろお帰りになる時間です。特段遅くなるという知らせもありませんでしたから。ご飯が冷めてしまう前にお帰りになるはずです』
 A女史は全ての仕事を済ませると言葉通り本当に待っているのである。それにどうしてそんなに自信をもってH氏の帰宅時間を予想出来るのか。記者の背筋が冷えたのは冷気のせいばかりではない。
 やがて門前に人の気配が灯った。
――ようやくお帰りですね。
 H氏が帰ってくるのだ。途端にA女史がしきりに髪型を何度か手櫛で整え始めた。
『文さん』 
――何でしょう? 
『ど、どうですか……? 』
――はい? 
『つまり、身嗜みとかおかしくないですか。それに着物はもう少し明るい色だった方が……? 』
――あやや、今更言っても……。
『いえ、もちろん普段から気を使っている積りですよ。ですから最終確認として……』
 記者の返答の前に玄関を開く音がしてH氏が帰宅した。
『お帰りなさいませっ』
 途端にA女史は笑顔を輝かせて三つ指を付いた。
<中略>
 書斎に持ち帰った仕事を手早く仕上げてしまうとH氏は大きく伸びをした。
――この後はどうするんですか? 
『特に予定は無いな。普通に飯を食って風呂に入って寝るさ』
――お忙しかったですね。
『いや外界の基準で考えればやりがいは別にして忙しいというわけではないのだ。それにいつもこうではない。毎日出勤するわけでもないしな』
――それにしても大変な仕事ばかりでしたよ。噂通りの仕事振りでしたね。
『そう言ってくれるのは嬉しいが特別俺が大した事をしているわけではないのだ。俺が与えられた仕事をこなせるのはH家の奉公人たちが手厚く補佐してくれているおかげだ。
もちろんこの家の当主代行などという事が出来るのも全て周りが俺を教え導いてくれているからだ。俺がこの地位にいるのはAの夫だからでH家の婿だからに他ならない。
それに俺がHとなる前から付き合いのあった人妖たちもいつも俺を助けてくれる。俺はほとんど周囲が助けてくれねばまともに仕事など出来はしない』
――もちろんそれもあるのでしょうが。私はそれだけとは思いません。
 H氏が帰った途端、屋敷の中の重苦しい雰囲気は跡形もなく消え去った。あの雰囲気の変化は決して記者の気のせいではなかったのだ。
 日中の仕事も見事だったがH氏が帰宅した時、A女史は勿論の事H家の奉公人たちもほっとしたような顔をしていたのが印象的であった。H家が代々その家の要として守り神のように奉ってきた【検閲】その九代目であるA女史。実務能力だけではなく何よりもA女史の為にH氏そのものの存在が必要不可欠であるのだ。
そしてそれはH家全体の共通認識でもある。
 我々の幻想郷は人と妖怪どちらが欠けても成立し得ない。幻想郷には人里が必要だ。人里にはH家が必要だ。H家にはA女史が必要だ。そしてそのA女史にはH氏が必要なのだ。
 即ち外来人として幻想郷を訪れたH氏は最早この幻想郷に無くてはならない存在となったと言えるに違いない。彼のように、幻想の一部となった外来人は他にもいるに違いない。
――それでは本日はありがとうございました。
『こちらこそ。なかなか新鮮で楽しかった』
本連載では引き続き幻想郷の外来人たちの姿を追っていく。まだ見ぬ幻想の一欠けらを求めて。
――。

「このままで掲載は許可できません。書き直して下さい」
 珍しく。本当に珍しく取材対象から記事掲載の許可を得に来た射命丸文だったが阿求の言葉を聞いてがっくりと項垂れた。
山々が余りに紅の驕奢を恣にしたので秋神の姉妹が息切れを起こしたのだという。射命丸文の取材を受けたのは秋分の前後だったと思うのだがそれがこうして形になる頃には既に山は布団のような霜を被り眠っていた。
「勘弁してくださいよう。まだ妖怪の山の上からの検閲も控えているんですから」
「匿名性が薄過ぎます。これでは私たちの事だと分かってしまうでしょう。後半の記事も何ですか。これでは私が変態みたいではないですか」
「あややや……しかし後半は紛れもない事実で……脚色無しの……」
「もしもこのまま通そうとしたら稗田家及び人里から妖怪の山に対して正式な抗議をさせていただきます」
「そんなぁ、それじゃあ私の新聞が原因で外交問題に……上から怒られるどころでは……とほほ……」
 文には計算高い所があるからその過剰に哀れっぽい声にも演技が含まれているのだろうが気落ちしているのは本当であろう。
「幻想郷の管理者としても稗田家について何でも書かせる訳にはいきませんわ。他にも幻想郷の基幹システムに関わる記述に数カ所看過出来ない部分があるわね。まだまだ検閲が甘いですわ」
 まさか八雲紫まで出て来るとは思っていなかったのだろう。文の原稿に次々と【検閲】部分が増えていく。
「ああもう。まいっちゃったな。やっぱりダメかな、こういう企画」
 文は疲労を滲ませた声で黒髪を搔き上げると溜息を吐いて肩を落とした。
些細でも面白おかしく日常の新鮮な事件を多く扱う事を旨としているという文々。新聞は主筆、射命丸文の不断の努力にも関わらず甚だ信憑性に欠けるという評判である。いや文の不断の努力故に信憑性に欠けるのか。
そもそも幻想郷の人妖の間では天狗の新聞という媒体自体の信用が薄いのだ。面白おかしい記事の題材とされて怒る者もいるがその不名誉は極めて限定的、一時的なものであまり気にする者もいない。読者は人妖問わず朝読んだ記事をあまり信じておらず付け加えて昼には忘れているからだ。
故にそんなに気にしなくても大丈夫だとは思うのだが流石に稗田家の内情や個人情報、そして幻想郷の根本に抵触しかねない記事には阿求も紫も非常に厳しい。
文も事前に注意を受けていたために反論出来ず項垂れている。
記者と読者の間にある温度差は天狗たちも文も無論知ってはいる。しかしその冷たい現実は彼ら彼女らの報道への熱意を微塵も失わせない。
文の新聞作りへの情熱はそれら天狗の中でも一際強いように思われる。文々。新聞は天狗の内輪ですらも人気が無いらしい。
文の新聞は基本的に取材対象への配慮が薄い。一見、取材を強引に行うほど多量の情報を得られるように思われるが、この手法には欠点もある。取材対象が不信感を募らせれば情報提供に非協力的となるという点だ。
関係者しか知り得ない核心的情報を欠いた報道は当然内容が薄くなる。
射命丸はその欠けた情報を出鱈目で補っている、とよく他の天狗に揶揄される。本人も記事で重要なのは文字数ぐらいだと嘯いたとも伝え聞く。
しかし批判を気にしていない事と受け止めない事は別である。文は新聞作りの方針を変える気は無くとも、より良い新聞を作るための研究にもまた余念が無い。文も自身の得意とするパパラッチ的取材方法は深い情報を得難いという点は自認している。
好敵手である姫海棠はたてからの記事の内容の薄さを指摘する声にやり方を変えないまでも思う所はあったのだろう。
一面でいつも通り新鮮な事件記事を掲載しつつ目立たない三面で何とか記事内容の充実を図ろうと考え抜いた末に思い付いたのが今回の企画であるという。
案の定その結果は芳しいものとはならなかった。記事の速報性を第一とする文に社会性を題材にするような腰の落ち着いた連載は向いていないのだ。
文章も途中からゴシップ的になったりどこを主題としているのか分からなかったりでちぐはぐである。何かを論ずる事が目的なのかとにかく体験を伝えようとした実録なのか自分でも見失ったのだろう。思いつくままに筆の勢いに任せて書いてしまうという文の瑞々しい感性がこの記事では完全に裏目に出ている。
その上この検閲である。
慣れない事はするものではないと人は笑うだろうか。しかし文の記事はその真価を発揮すれば突風のような勢いで要点のみを伝達し衝撃と共に人を引き付け気付けば爽やかな読後感が残っているという秀逸な文章である事もある。毎回こうな訳ではない。
何より批判にさらされても顧みられる事を求めず己の信条を貫き常に改善を怠らず筆禍に怯まぬ姿勢は素直に大したものだと思う。大したものだと思うからこの落ち込みようは哀れである。
「稗田さん。助けてくださいよう」
「だから俺は止めただろうが」
ちなみに記事の冒頭では俺は文の取材を知っておりそれを快諾していたかの如く書かれていたがその部分は捏造である。助けてはやりたいが俺としてもこのままでは許可できない部分が多い。
「まぁ元々、外来人の幻想郷での生活が主題なのだから個人が重要なわけではないだろう。もっとどこの誰か分からないようにした方が実際良い記事になるのではないか。それに後半の阿求の趣味についても無いほうがしっかりと内容が纏まるはずだ」
 せめてもの慰めだったがそれで紫や阿求が検閲の手を緩めるわけではない。

「以前から思っていたのですがあなたは少し文さんに甘くないですか」
「ああ、そうですわね私もそう思いますわ。何か理由があるのかしら」
 阿求が俺を睨んだ。紫がそれに便乗する。このスキマ妖怪は明らかに面白がっている。
 乗せられているようだが確かに思う所が無いわけではない。
「そうだな。お前らの懸念ももっともだ。まず稗田さんだからH氏は安直だぞ。稗田家もH家なのだから表記が被っているではないか。あといくら何でも持ち上げ過ぎだ。照れるからちょっと直してくれ」
「もう……稗田さんまで止してくださいよ……」
文は大きな溜息を吐いた。

 結局作業は夕方まで続いた。紫はスキマを開いてさっさと帰ってしまったが文はこの寒さの中を飛んで帰らねばならない。
「大丈夫か。泊まっていっても構わんぞ」
「お気遣いありがとうございます。でも平気ですよ。私は烏天狗ですから。この後も仕事がありますしね。それに正直に言って長居するのは少しばかり気が引けます」
 文はやけに背後を気にしている。
「阿求さんが貴方にちょっと危ないぐらいぞっこんだという事は知ってましたがこれ程とは思いませんでした。流石に懲りましたよ…………」
 取材時を思い出したのか文の顔は夕暮れ時にも関わらずなお少し青かった。実はあれで阿求にしてはかなり控えめだったのだ、とは言い辛い。
「まぁおっかない思いもしましたが貴方については興味深かったですよ。きっと良い記事になると思います。それではこれからも文々。新聞と清く正しい射命丸文をよろしくお願いします」
 気を取り直したように別れを告げると文は木枯らしを纏って飛び上がった。

阿求と二人きりになると自然と文とその記事の話題が上った。
「でも、おかしいですよね、文さんも。あの取材の仕方はちょっと評判も良くないのですよ」
俺が文の報道への情熱を褒めていると阿求は固い表情で呟いた。阿求が本当に俺のためを思って人付き合いに口を出す時はこんな回りくどい言い方はしないのだ。
「阿求。別に文に怒っているわけではないのだろう」
「あ……いえ、あの……私は、だって……あなたがご迷惑なのではないかと……」
 歯切れが悪い。恐らく言いたい事は他にある。
「阿求」
 窘めるように名前を呼ぶと阿求は視線を彷徨わせて黙る。こういう時は言いたい事を全て聞く事にしている。俺は阿求が答えるまでじっと待った。
「……だって文さんたらあなたの事を何でも知っているような書き方をするんですもの。それっておかしい事ではないですか……? 」
 長い時間をおいてようやく阿求は語り出す。
「おかしいですよ。だってあんな、たった一日であなたの事を知った様な事を書くなんて。わ、私のほうがあなたの事を知っています。なのに文さんを褒めるのもおかしいですよ」
 そして一度話す気になってくれれば阿求の想いは止まらない。
「あ、あの、例えばこれを見て下さい、ほらっ私の蒐集品もどんどん増えているんですよ。ほら、あなた自身が知らないあなたの事だってちゃんと記録していますし何より私が知っていますし記憶しています」
 確かにあの蒐集品もまた数が増えてきた。阿求の整理整頓は行き届いているから雑然とする事は決してないが。俺の私物が阿求にとってどれほど大切な宝物なのか大喧嘩して説得されてからは黙認している。事実阿求の不安の解消には役立っているのだ。
「あなたの事は私が一番良く知っているんです。言葉に出来る事も出来ない事も何でもです。私はあなたの事をどんな事でも全部完全に記憶しているんです。あなたのお風呂上りの匂いだって、くすぐったがる場所だって、血液の味だって、もっともっと大切な事だって、魂の性質だって全部です。お望みならこんな目録より遥かに精密な記録だって簡単に作れます。あ、文さんは。あなたの事なんて何も分かってないんです、わ、私のほうがずっとずっとあなたを知っています」
 慣れている俺は聞き取れるが実際には小声でしかもどんどん早口になる。他の者が聞いてもぶつぶつと何かを呟いているようにしか聞こえないだろう。その異様な呟きと暗い影をまとった姿が人形のように小さく可憐な外見や磨き抜かれた所作と歪な不協となり怨霊を見たかのような恐怖を周囲に抱かせる。
そしてその美しい双眸に不安や嫉妬が光輝となって宿る時、その視線は射貫かれた者に悪霊の呪詛を受けているかのような深い恐れを抱かせる。
あの時の文のように。
「こんな記事であなたの事なんて分かりません。だから私のほうが文さんよりあなたを理解しているし絶対あなたのお気持ちだって分かるんです!私は好きっ! あなたが好きで愛しているんですっ! あの女は違いますっ! わ、分かります!? 分かりますよね! だから、だからつまり……」
 迷子になった子供のような顔で阿求は一度言葉に詰まった。そして何度もつっかえながらようやく声を絞り出した。言いたい事を全て言い切ってしまってから最後に残るのが阿求の不安の根源である。
「お願い……もう文さんと親しくしないで……」
 自分で自分が無茶苦茶な事を言っていると分かっている時の阿求はひどく叱られるのを知っている子供のように怯えた顔で立ち尽くす。両手の指をしきりに絡めている。落ち着いて分別を取り戻せば後で取り消す事を俺はちゃんと知っている。
 普段はあらゆる物事と相手に理路整然と氷のような態度で正しく理を説ける阿求が今にもクズグズに崩れそうな理屈で必死に俺を論破しようとしている。
 俺にはその様が哀れでまた愛おしかった。
「阿求、まずお前が誰より俺を知っている事はもちろん分かっているしその通りだ。お前が如何に俺を知る事に情熱を傾けてくれているか俺はちゃんと知っているよ。それでも不安か? 」
「だ、だ、だだって、文さんはびっ、美人です……」
涙目になっているくせに必死でぶっきらぼうに見えるように俯いて憮然とした表情を作ろうと頑張っている。不機嫌を装って何とか、私怒っているんですからね、と伝えようとしているのだ。
「そ、それに、それに。文さんがあなたの事興味深かった、って。文さんがどんどんあなたに興味を持っていったらどうするのですか」
「あれは取材対象としての話だ。それに俺はお前の方が美人だと思うが」
「馬鹿ぁ! 馬鹿じゃないんですか! 真面目に聞いて下さい! 」
 小さな手が何度も俺の胸を叩いた。気持ちに嘘はないが確かにちょっと茶化したから文句も言えまい。
「わ、私はっ。あなたの心まで手に入れているかどうかがいつもいつも怖いのですっ。だってあなたは私の持ち物を集めてくれたりしないし。愛しているなら舐めたり食べたりせめて手に取って匂いぐらい嗅ぎたいって思うものではないんですか」
 阿求にとってはあの趣味は己の不安を鎮めるためでもあり愛情と執着が形を成した物でもあるというわけだ。どれほど俺を知っているのかを形にして確認している。
「ふぅん、つまりお前は俺がお前の何かを集めたりすれば少しは不安ではなくなるわけか。しかしお前と一緒に住んでいて、触れようと思えばいつでもお前自身に触れられるのにか? 」
「そんなの……。そんなの大好物のお料理を食べるからって匂いは嗅がないって言っているようなものです……私には分かりません……」
 大抵拗ねると阿求は子供っぽいが何だか例えまで子供っぽくなっている気がする。
「このままでは分かりません……あなたの事が分からないのでは困りますから」
ぎゅうっと力強く抱き着いたまま阿求が言った。
「新しい標本が必要です……」
 
後日、文々。新聞はさらに妖怪の山からも度重なる検閲を受けた後発行された。記事は匿名性を高めた状態で問題の部分も削られていた。
しかしそれで却って外来人への取材という内容が纏まって良い記事になったと思う。事実それなりの好評となりあの連載は続いているようだ。今も文は俺とは別の外来人へ取材に行っているという。
それは良いのだが最近何だかやたらと俺の手の届く所に阿求の使用済みや着用済みの生活用品が置かれている事が増えた。そういう時は決まって背後から熱の籠った視線を感じるのだ。
手に取って匂いぐらい嗅ぐべきであろうか。
最終更新:2016年03月29日 20:41