「昔むかしあるところに、」
そういう語り出しで始まったその人の話は、
焼き鳥屋で串を数本胃袋に放り込み、
ほろ酔い気分になっていた私にとって、
妙に印象に残り、さながら記憶の底にゆらりゆらりと浮かんでは
沈むような、心にひっかかる昔話であった。

昔むかしあるところに、一人の若い男がいたそうで、
時折妖怪の山の一つ手前の山に入っていたらしい。
何でそんな危ないところにいたのかって?
守矢の巫女以外は入ったら最後、生きては出て来れないと
里の皆が噂している妖怪の山ではないとはいえ、
やっぱり普通の人にとっては、危なっかしいような、
恐ろしいような、触れたくないような、まあそんな場所であった。
しかし人が入らないだけあって、山菜やら果物やら、果ては阿求の
お大尽さんでしか食べられないような、松茸でさえ大層あるらしく、
その男もちょくちょく入り込んでは、何かしらを採っていた。
勿論命は惜しいから、度胸と腕っ節がそこそこある、他の若い男と
つるんではいたらしいが。

ある日に男二人で山に入ると、その日は急に天気が悪くなり、
あろうことか雪まで降ってきて、
いくら冬が近くなってきたとはいえ、雪が降るなんぞ夢にさえ思わない
時期だから、二人は仰天して近くの洞穴に雨宿りをしたけれど、
ますます雪が強くなって、終いには吹雪になってきたので、二人は
ああ…しまった、雪女に捕まってしまった。と正に肝が冷える思いだった。

男のつれは、こんな所にいるとお仕舞いだ!俺は雪女なんかに殺されてたまるか!
と言って、男が止めるのも聞かずに飛び出してしまって、
こんな時に飛び出すなんて、正気の沙汰ではなかったんだけれども、
まあそういう男も、何かいい考えがある訳でも無かったもんだから、
結局はそのまま洞穴にいるしかなかったが、そうしているうちに
どんどん寒気が背中に登ってきた。

ああ寒いなぁ。まずいなぁ。と思っているうちに、どんどん寒さは増してきて、
遂には全身こちこちに凍えてきて、歯なんかはガタガタに震えてきてしまった。
すると洞穴の入り口に、真っ白い服を着た女がいつのまにかいるもんだから、
ああ俺も遂には雪女に捕まったかと、こんなに欲を欠くんじゃなかったと、
男が深く後悔していると、その女がつとこう言った。
助けて欲しいですか。ってね。勿論男は生きたいもんだから、
お願いします。なんでもしますから助けて下さい。
ってこれまでにないぐらい必死に頼んだ。そうすると女は
貴方は殺すには惜しいので、助けてあげましょう。
ここで私に会ったことを、誰にも言わないこと。そして
この玉をいつも持っていること。と二つの条件を突きつける。
男は助かりたいもんだから、絶対に守りますと頭を下げるや否や、女はふっと消え、
雪はすっかり止んでいたんで、男は直ぐに山を飛んで下りたと。

次の日に、洞穴を飛び出した連れが、山の麓の大きな木のてっぺんで、
百舌の贄のように氷で串刺しにされていたもんだから、
男は雪女に会ったことは、絶対に漏らすもんかと堅く心に決めたという訳。

その後男は、山に入ることはパタリと止めたけれど、今まで稼いできた当てが無くなったものだから、
今度は色んな所に配達に行くようになった。男が雪女から貰った玉を首に掛けていると、
何故だか雪に足を取られずに、スイスイと雪の上を歩いていけ、
どんな吹雪の日でも、男が歩く道は雪が殆ど降らなくなったから-
部外者からすれば地味と思うかもしれないが、これは中々有用で。
白黒の魔法使いや妖怪といった、人間を辞めたような連中でなければ、
普通の人はえっちらおっちら歩くしかなく、雪の日なんかもう山を越えるだけで
大変なものなので、男は玉を持つようになってからは、
これ幸いと他の人が行けないような時に、色を付けて荷物を運んでいた。
しかし他の人が出来ないことをするもんだから、あの男は持っている玉には
何かあると噂を呼んで、がらの悪い連中に夜道で襲われたことがあった。
玉を奪われて、やっかみを込めて散々袋だたきに遭って、ほうほうの体で男は逃げ帰る。
そして次の日遅くに様子を見に来た、村の世話役に呼ばれて起きると、男の枕元に
ちゃんと玉があったんで、思わず顔を蹙めてしまった。そして後日世話役から、自分を
闇討ちしたであろう奴らが、全員一遍に凍死していたと聞くと、もはや心臓を捕まれたような
気分になってしまった。
そんなことがあってから、男は玉が薄気味悪くなり、然りとて捨てることなど思いもよらず、
愚痴を人に話すこともできないことから、時折酒を痛飲することがあった。
その日も酒を味も感じずに流しこんでいると、ふとこう声を掛けられた。
-あんた、なんか悩んでいるんじゃないかい-
そう言われて睨み返すと女は、男の首に掛けていた玉をとり、
雪女、と一言いうもんだから、男は思わず目を丸くしてしまったとさ。
-あたしゃ、炭を焼いているんだけれど、実はその関係でちょっと呪い(まじない)を使えるんでねぇ、
どうだい、このぐらいの呪い(のろい)だったら、解いてやろうかい?-

そして女が耳元で、助けて欲しいかと尋ねると、それまで固く閉ざされていた男の口から
あぁと声が漏れてしまう。女の体温に溶かされたように。

その後は何だか酒か熱に浮かされて世界がぐるぐる回ってしまい、次の日朝起きる男はすっぽり布団を被っていた。
普段ならばそのまま、本日休業御免と看板でも出したいしたいところだけれど、生憎
その日は数日前に、村の者から頼まれていた寺小屋に寄る用事があったため、気怠い面持ちのままで
のそりのそりと布団から這い出して、しかしふと、玉が見当たらないことに気がついたんだ。
いつもならば必ず-奪われた次の日にすら-枕元にあったはずの玉だが、今日に限って影も形も見えなくなっていることに。
男は一遍に目が覚めてしまって、狭い家をひっくり返すように捜してみるが、
やはり何処にも見当たらない。
ああ、これは大変だ!と思って、やはりあちこち捜してみるんだけれど、どうにもこうにもとんと見当たらない。
本当は行きたくないんだけれども、寺小屋の約束をすっぽかす訳にはいかないもんだから、
青くなりながら男は寺小屋に行き、そこの先生から博霊の神社への配達を仰せつかる。
玉が無いので普段なら半日で終わる仕事が、丸一日かかる仕事となってしまうが、
そのことをバラすことも出来ずに、ただ分かったとだけ短く答えて、男は神社に向かって歩き出した。
男は普段よりも急いで、神社がある山の麓まで行くんだけれど、ここで天の助けか
昨日の女にひょっこり出くわすこととなった。男は女に詰め寄って、玉はどこにやったと詰問するが、
女はまあまあと薄ら笑って、山を登っていく。中々の健脚に、男は息を切らしながら女の横に並んで
山道を進んでいくが、女は答えようとはしない。
このままだと一体どうなるのかと、男が腹立たしくなってきた時に、
不意に辺りの木々が燃えだして、あっという間に煙が周囲を取り囲み、
正に五里霧中となってしまう。しかし隣の女は平然としているばかりか、いきなりつと立ち止まってしまう。
男は女に早く逃げるぞと声を掛けるが、女は薄ら笑いをしたままで、
いやいやこれで、いい案配さ、なんて言うもんだから、こいつは気でも触れたかかと思い、
女の腕を掴んで駆け出そうとするが、どっこい女は根っこでも生えたように動かない。
そして女の方からもう一本の腕を掴んできたかと思うと、がっしりと抱きしめられて、
男はまるで、火に炙られたかのような熱を感じた。女から火が出ているのではないのだが、
しかしそう思ってしまうような、雪女の時の氷のような冷たさとは反対の、熱い体温を感じた。

女は暫く男を抱きしめた後、そのまま空を飛んで神社の横に降り立った。
神社には紅白の巫女がいて、呆然とする男からの配達をもぎ取った後、女から炭を受け取った。
女が、上手くいったのでおまけを付けておいたと言うと、巫女は男に一瞥をくれて、はいどうもご贔屓に。と言い、
しかしえらく早いわねと、呟くのであった。
そうこうしているうちに帰ることとなり、道すがら女は男を抱えて飛びながら、
途中の山の中で雪女の呪いを解いたことを男に説明した。先程の山は霊力が高く、
そこの木を使えば、妖怪を容易く祓えるという。男は本当に呪いが解けたかよく分からなかったが、
あれだけの術を使い、今も空を飛んでいる、この女が言っていることなので、取り敢えず信じることとした。

そして男が女と別れ、家に帰り扉を開けると、男の手足はたちまち凍ったよう動かなくなり、
怒りの形相を浮かべた雪女が、男を引きずり込んだ。
雪女は男を畳の上に倒して馬乗りになると、目を真ん丸に見開き男の肩を鷲掴みにして、どうして、どうして、あんな人間の妖術師風情に、と
色々喚いていたものの、数分たった頃には段々と落ち着いてきたのか、ぐずぐずと涙を垂らすだけになってきた。男はどうかこのまま立ち去ってくれと
心の中で強く念じていると、雪女は赤くなった目で男の顔をじっと見つめだす。すわここが正念場かと、男は負けじと見返すと、雪女はふと漏らした。
貴方を殺すのが惜しくて今まで生かしていたものの、他の女に取られるのなら、いっそ浚ってしまいましょう。
そう言って男の首をぎゅっと握ったものだから、男は自分の出した、ぐぇ、という声と共に気を失ってしまった。
男が目を覚ますと辺りは薄暗い洞窟の中であった。洞窟の壁に背を預けてよくよく目を凝らせば、
何処とはなしに見覚えのある洞窟だったから、恐らくは前に迷い込んだ洞窟だったと見当を付けるも、
体は殆ど動かない。腕も足も氷付けにされたように固まっており、指の先の色はは暗くて見えないものの、
じりじりと焼けるような痛みを脳味噌に伝えていたから、多分酷い凍傷になっているんだろうと思われた。

男が目を覚まして暫くすると雪女がやってきて、男にしだれかかりながら、ようやくこれで邪魔が入らないとか、
二人っきりで生活が出来るとか、機嫌がすこぶる良さそうに話した。しかし男は心の中が、後悔やら怒りやら恐怖やら
で一杯になっていたもんだから、ええだの、ああだの傍目には、気の乗らないような生返事しか返さない。
雪女はそれで不機嫌になるかと思いきや、更に上機嫌になり、歯を見せんばかりの笑顔になって、
見せたいものがあると言って、妖力で明かりを明かりを壁際に灯した。
男が目を細めながらそちらを向くと、氷付けの女の恨めしそうな顔が転がっており、心が麻痺していた男は、
ははぁ、氷付けになったもんだから、血の臭いがしなかったんだなぁと、見当違いのことを考えてしまっていた。
雪女はこれで男の望みが絶たれたと思ったようで、少々術が使えるからと言って、何やら妖怪に勝った気になっていた
生意気な女を殺してやったと、獲物を狙う蛇のような声色で言いながら、そうだ折角なので見せつけてやりましょうと、
明かりを一層強めて、男に自分の顔を近づけた。
男が雪女の顔から目を背けると、否応でも女の首が目に入った。男の目には氷づけにされた女の顔が一層歪んだように見え、
顔を其方に向けてしまうが、雪女は冷たい手で男の顔を真っ正面に固定する。そして男の顔に強く自分の唇を押しつけると、
雪女の唇から、濃い血の臭いが漏れてきた。
雪女がぐらりと揺れ崩れ落ちると、後ろには死んだはずの女が、手を真っ赤にしながら立っていた。男が驚いて
女に何故生きていると尋ねるも、女は以前のようにニヤリと笑い、まあねと言って答えない。背中の服がが真っ赤に染まり、
動かなくなった雪女を、よっこらせと退かし、女は男の体を一通り診ていった。そして男にこのまま手足を腐らせて死ぬか、竹林の
薬師の所に担ぎ込んで、駄目になった四肢を切って貰うかと尋ねるが、男も自分の手足が惜しくて決めかねる。
すると女はもう一つの選択として、死ななくていいし、手足も切らなくていいものが有ると悪魔の囁きを差し出すと、
男は一にも二にもなく、その申し出に飛びついた。
そうして男と女は幸せに暮らしましたとさ。とその人が話したのを聞いて、
いやに詳しい話だと問いかけるも、よく出来ているだろうと、にべもなく返される。
いつの間にか、亭主と女将以外の人がいなくなり、看板となっていた焼き鳥屋を出て、
私は自分の家に帰ることとした。
山に着く前に恐らくは、懐に仕舞いこんだ謹製の守り札から、家に帰って来ることを聞きつけて、
焦れた妻が飛んで迎えに来るだろうと思いつつ。

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最終更新:2016年03月29日 21:10