新ジャンル:玉兎○○


吹き抜ける風にも寒さの香りが漂い始めた秋の頃。
少し前までは青々と茂っていた竹林も緑から銀杏のような褪せた黄色に変わり始めている。
上着を出すか出すまいか、道行く者どもからそんな声が聞こえてきそうである。

夜も更け、竹葉の擦れる音だけが寂しく響く中、この私、鈴仙・優曇華院・イナバは竹林の奥深くで天を見上げ座り込んでいた。

「――現在時刻、子の刻二分前…月位相、上弦。天候確認…よし」

誰もいないその場所で独り言をつぶやく。これは確認をする時の昔からの癖なのだ。

「方位よし、直上遮蔽物なし、感度調整はじめ」

自慢の耳を月に向けてピンと立てる。数だけは多い玉兎ではあるが、この長い耳を持つ者は
その母数に対してそれほど多くは居ない。このタイプの耳は、所謂ロップイヤー型の耳を
持つ者に比べ、遠距離の繊細な念波通信を非常に得意としている。そのためか玉兎の中でも
特殊任務を負っているものが多い。その反面繊細であり、ストレスによる受信感度変化の振れ幅も大きくなってしまう。
故に通信時は必ず感度調整を行う規定になっていた。
地上に堕ちた今では規定を気にする必要はないが、私の耳もストレスの影響を受けやすいため念波通信時の感度調整は必ず行っている。
こうして思うのは「厳格な手順が存在する理由を考えよ」ということだ。無用なプロトコルは息を吐く間に淘汰されるし、
ソレを守ることによって何らかのメリットが存在するならば面倒な手順はしぶとく続いてゆく。そして私はこの面倒な手順を素早く正確にこなす。

「調整終わり。子の刻まで…25…24…23…22…21…」

今回の感度調整はいつものより時間がかかっている。2分前に感度調整を始めたとして、毎回最低1分のマージンは残しているはずなのに。
きっと最近の仕事のストレスだろうと、今集中すべきこの瞬間にも適当ではないことに思考を割いてしまう。
昔に比べて随分と俗世に染まったものだなと思う反面、余計なことを考えている余裕ができたのだと思うと、
うれしいような少し寂しいような、はたまた懐かしいような不思議な気分になる。

「――8…7…6…5…」

そうしている間に目的の時間が目の前に迫ってくる。無意識のうちに体に力が入り、胃のあたりが締め付けられるような緊張感に支配される。
この感覚は私の士官としての初配属の時から全く慣れない。あと数秒、…2…1…

『――発 ○○。 宛 第一管区情報部。定時報告はじめ――』

定刻丁度、寸分の狂いもなく通信が始まった。通信念波帯域からして、イーグルラヴィと情報部間の直通回線だろう。
私はというと、その声を聞いた瞬間全身に鳥肌が立ち、鼓動が早くなっている。
原因はその通信内容でもなければ通信先の情報部でもない。

「ぁっ…○○っ…あはぁっ…...ぁ」

原因は発信者そのもの、つまり○○である。
私は肩を抱きながら間の抜けた顔で、時折口元を這い落ちる液体をすすりながら通信を聞いていた。
もちろん、本来ならば私が聞いてよい内容ではなく、この超高性能な耳を使って
傍受しているのだけなのだ。偶然ではなく、必然。狙った時刻、狙った周波数、誰が話すのか。
そんなことを知るのは私にとって造作もないことである。あぁ、頭と耳のいいことに感謝。
だが私の真の目的はこの通信を聞くことではない。重要なのは通信後、情報部宛の回線を閉じた後の30秒間である。

この30秒のために、私は定期的に通信を傍受しているのだった。

――――



事の始まりは、少なくとも半世紀以上も前のことである。
当時、私は月の兎――すなわち玉兎として月の都にいた。
元々は月に居た兎たちがなぜ今のように嫦娥様や豊姫様達をはじめとする頂点に従うようになったかはわからないが、私が現役だった時代からすでにその役割は多岐に渡っていた。
嫦娥様の罪科を償うためにただひたすらに餅をつく仕事、宮中警備、兵隊として訓練をしたり、しなかったり、雑用諸々。
そんな中で私は玉兎兵として訓練を受けていた。

『――各員、装備点検を行い装管部に返却のこと!いいか!時間内にだぞ!私の話を聞いていないものはご飯抜き!いいな!わかったな!以上だ!解散!』

訓練の後、教官が大声でまくし立てるが、まともに聞いているものなどはひとりもいないであろう。だが、普通の玉兎なんてそんなものである。
声の主が去ってから堰を切ったかのように話し声が聞こえる。
専らの話題は訓練がきついだとか今晩の夕食についてだとかそういった他愛もないことばかりの平和なもの、言い換えれば退屈な話題である。
呑気なものだなと思ったところで何か違和感を感じた。なぜ今自分がこの状況を「呑気だ」と思ったのだろうか。
毎日変わらずに過ごすことの何がいけないのだろうか。いやまてよ、そもそも前提が――

『――』

と、そこまで進んだところで私の思考は切断された。やいのやいのと騒ぐ声に紛れて聞きなれた声が私を呼んだのだ。
私は耳がいい。だから自分を呼ぶ声など造作もなく聞き分けられる。
声の主、○○も私と同じ玉兎であり、訓練時のバディであった。付き合いもかなり長い。

「○○ー!こっちこっち!」

私は相棒の姿を視界に捉えると、腕を大きく振って自身の場所を示した。○○もそれに気付いたのか、こちらへ小走りで駆けてきた。
私の名前もまだ‘レイセン’ではなく、与えられた管理番号の他に玉兎同士で好き勝手にあだ名をつけて呼び合っていた。
‘○○’というのも、そのあだ名としていつからか呼ばれていたものだ。
しかしかつて仲間達が、○○が当時私を何と呼んでいたのか、今となっては思い出すことが出来ない。

『いやぁ、相変わらず耳がいいねぇほんとに。羨ましいよ、あっはっは』
「それはそれはどうも。で、どうしたの?また何かいい情報でも仕入れてきた?」
『おっ、話が早いねぇ。そうそうその通り。いい情報と悪い情報が一つずつあるんだけどさ』
『どっちから聞く?』

○○は決まって二種類の情報を仕入れてくる。いい情報と、悪い情報の二つだ。

「それじゃあ、先ずは良い方で」
『いい方ね、はい。ええと、今晩の食後の一品はあのクリーミーな‘桃餡饅頭’だって!』
「よし来た私の好物!」
『でも先週の掛けに勝ったので全部もらいまーす!にっひっひっひ♪』
「やぁん!」

私達はその情報が外れるか、当たるかで夕食の一品を掛けているのだが、勝率は芳しくない。
毎度毎度どこから仕入れてくるのか知らないが、その情報の確度は時間の経過とともに信ぴょう性が増してゆくことが多い。
だがそれは二つのうち一つの情報であって、大体どちらか一つは外れていた。

「うう…じゃあ悪い方は?」

たとえ桃餡饅頭が出ても、その数少ない好物を奪われることが確定した私はがっくりと肩を落としたまま残った情報を聞くことにした。
私にとっては桃餡饅頭を失う以上の悪い知らせはないだろうと思う。○○は周囲をきょろきょろと見渡して他の玉兎や‘耳のいい兎’が居ないことを確認すると私の耳元で小さくささやいた。
○○の耳打ちはその息遣いのせいで背筋がぞわぞわする。でもちょっとだけ興奮す――

『明日の戦闘教練、依姫様と豊姫様が視察に来るかもしれないんだけど…』
「――は?」



変なスイッチが入りかけた私のささやかな妄想を一撃をもって粉砕した。
朝一番に聞いたら眠気と一緒に心臓も吹き飛ぶだろう。

「ちょ、ちょっと○○っ!?あぁ…ついに制限区に足を踏み入れたのね?!しかも機密情報にまで手を出して…情報部にこれがばれたら冗談抜きで耳が飛ぶ―――」
『ふぅっ』
「ぴゃあっ!」

私は情けない声を発すと、そのままへたり込んでしまった。
まくし立てる私の耳に○○が息を吹きかけたのだ。
私は耳が良い。言い換えれば敏感でデリケートだ。故に今みたいなことをされると非常にびっくりする。でもちょっと興奮した。

『はい、はい、落ち着こうね。うん。冷静さは大事だよ。こんどからレイセイってよんであげよっか、ね?』
「……ふぁい」

暫く放心したのち、じゅるっ、と口から流れかけた液体をすすると、○○に向き直ってどういう事なのか聞き直した。曰く、宮中警備のお偉いさんが何人か訓練施設の周辺を調べていたのを見たとのこと。
訓練中に発見するとは凄まじい観察眼である。だが‘いつも通り’ならばその情報の真偽は今晩の桃餡饅頭の有無によって判明するだろう。私は現実味のない話を早々に忘れ、夕食の場に向かおうとした。

『まっ、まって、ちょっと!ねぇ!』
「なに?もしかして…まだよだれ残ってる?」
『何意味の分からないことを言って…ってそうじゃないっ!』
『まだ装備点検おわってないんだけど…』
「え?私はとっくにおわってるけど?」

○○と話す間に、私はさりげなく装備点検を終えていたのだ。

『はっ?いや、まって、ねぇ!時間がね!無いの!』
「そうだね、早く終わらせないと夕食抜かれちゃうね」
『…手伝ってください』
「無報酬じゃぁ気が乗らないなぁ…」
『もっ…桃餡饅頭1/4でどう…?』
「すくないなぁ…元々私のなんだから3/4はもらわないと」
『わかった、わかった、あの掛けは今回なしにっ!だからすぐ手伝って!』
「よろしい」

だらだらと会話をしているうちにも返却期限の時間は迫ってくる。とうとう○○が折れる形で交渉は成立し、私と○○は仲良く桃餡饅頭にありつくことができたのである。
自動的に‘悪い情報’のほうが忘れ去られることとなった。

その翌日のことである。

――

「……」

私はチアノーゼでも起こしたかのような顔で訓練所の応接室の前に立っていた。
胃のあたりが締め付けられるような緊張感に支配される。
きっと初陣を飾る新任士官たちはこんな気持ちになるのだろうなと考えていると、中から入室を促す声が聞こえてくる。

「――しっ、失礼します!」

まるで出来損ないのオートマタのようなぎこちない動きで部屋に入ると、月の民ならば誰もが知っている有名人がそこにいた。

そう、○○の言っていた‘悪い知らせ’の方も当たってしまったのである。
今日の訓練の最中に依姫様と豊姫様が建物の上から見ていたことを解散前の点呼で教官から知らされた。
それだけならば別に何とも思わなかったはずだが、よりにもよってこの私を直々に呼び出したのだ。
今こうして月の為政者を眼前に、私の意識はその二人ではなく自分自身に向けられていた。
訓練中何か粗相をしてしまったのではないか、はたまたいわれのない罪に問われてしまったのか。あぁ、どうか桃餡饅頭が最後の晩餐になりませんように。



『―――というわけで、貴女には来週から私たちの身辺警護を担当してもらいます。極めて重要な任務ゆえ心して臨みなさい』
「…はい?」

正直に言うとまったく聞いていなかった。突然告げられた栄転の通知に、思わず気の抜けたような声が出てしまう。
対する依姫様と豊姫様はそれぞれ全く表情を変えずにこちらを見ている。その視線によって今さら‘なぜ’とも聞けず、私の顔色は青を通り越して白になりつつあった。

『あぁ、ほら、そんな言い方するから気負って真っ青になっちゃったじゃない』
『大丈夫よ?お世話係とかペットとかそんな感じのものだからもっと気楽にしなさいな』

つまり、これからこの二人のそばで過ごすことになるのだ。
それを認識した瞬間、私の緊張は許容範囲を超えて意識をシャットダウンさせた。
薄れゆく意識の中で、これが夢であることを願わずにはいられなかった。

――

数時間後に目を覚ました私であったが、真っ先に視界に入ったのは天井でも○○でもなく、私に緊張を強いた張本人たちであった。現実は非常である。とてもつらい。
観念した私は、先ほどの話を緊張のし過ぎで聞き逃したことと、なぜ自分が選ばれたのかを聞くことにした。
いろいろと判断材料はあったようだが、まとめると‘戦闘のキレが良かったから’らしい。
それに加え、色々と応用が利く私の能力も決め手として一役買ったとかなんとか。

散々つらいだの何だのとは言ったが、結局辞退することはなかった。
いつの頃だったか、私は今までずっと続いてきた何も変わらない生活に疑問を感じ始めていたのだ。
毎日ひたすら同じことの繰り返し。違いといえば、ソレが餅つきか訓練か雑用かくらいのものである。
変化を忌避し、何も変わらず、すべてが完璧に管理された完璧な世界。ソレが月の都の本質なのだろう。
だからこそ私はその退屈から抜け出そうとし、差し出された手を取った。


もちろん言われたことを鵜呑みにしたわけではなく、上の思惑に振り回されて打ち捨てられないためにも自分なりにその背景を考察してはみた。
月の為政者たちが、その秩序に対して真っ向から疑念という銃を向け変化という弾丸を装填した‘有能な不穏分子’である私を直接の監視下に置こうとしたのか。
一枚岩ではない内部の情勢を憂慮して優秀な腹心を欲したのか。あるいはその両方か。

だが、依姫様と豊姫様の――月の為政者たちの周りで過ごすうちに、現実で進行中の事態は
私の想像よりもはるかに複雑で深刻なものだということが徐々に明らかとなっていった。今まで‘賤しき地上の民’と蔑んでいた者たちが脅威になりかねない状況だという。
地上の民が量子の重ね合わせの状態に気付いたことや、幾度となく血みどろの戦いを繰り返し、その中で科学と技術を目まぐるしいスピードで発達させていること。
ここ百年の間の凄まじい発展、数十年後以内に月に侵攻する可能性があること等々。

最も知りたくなかった情報は、私を世話係としたのは玉兎による潜入工作を目的とした部隊を作るための第一歩だったということだ。
それも直々に言われ、‘期待している’と念まで押されてしまったのだからたまらない。
普段の警護や世話の傍ら、情報部がもたらすデータをまとめて‘主人’に報告する日々が続いていたのだが、良いニュースよりも悪いニュースの方が多いのだ。
そんなものばかり見ていては当然気が滅入ってしまうし、最悪の事態を想定することが日常でも癖になってしまう。
つまりはどんどんネガティブ思考へと落ち込んでしまうのだ。

ベッドの中で一人頭を抱え、眠りに落ちるまで見えない何かにおびえて過ごす毎日。
配属転換からおおよそ半年経過したころには目の下の隈が消えなくなっていた。

つまるところ私は‘レイセン’という名を拝命し、変化にあふれた世界に身を投じることとなった代償として、今までの平穏と安寧を全て失うことになったのである。



大変なのは最初だけ、慣れればどうってことはない。確かに私もそう思っていた時期があった。
実際、私の周りにいる他の玉兎たちは今や悠々とことをこなしている。だが、私の引いたカードは唯一無二の例外、月の頂点である。
何をするのか知らされるのは当日。全て自分の頭で考え、相手にとって最善の行動をとらねばならないのだ。
一挙一動を正確に、無駄なくそつなくこなすために常に脳を全力運転する。確固たる信念も殊勝な考えもなかった私にとって、ソレは負担以外の何者でもない。
今日もお世話という任務を終えて自室に戻ると、真っ先にベッドへ倒れこむ。

「はぁ……どうしてこんなことに……」

今こうして思うのは長らく会っていない○○のことだ。
長らくといえども、たかが半年のことである。変わらぬ毎日を長く生きてきた私達にとっては大した時間ではないはずだった。
人間の感覚で例えるならば、‘さっき会った’‘昨日会った’その程度である。
だが今の私は、自分以外のすべてが昨日と異なるような変化の最中に身を置いている。流れの中にわたし一人が取り残されてしまったようにも感じる。
それゆえ‘変わらないもの’にすがろうとしたのかもしれない。○○は今頃何をしているだろうか、元気でやっているだろうか。

○○に会いたい、話したい、嗚呼――

そうこう考えているうちに、私の意識は限界を迎えて泥沼に沈んでいった。

――

翌朝、いつも通り依姫様からの事務連絡を聞いていたのだが、その内容を寝起きの脳が理解した瞬間、眠気と一緒に心臓も吹き飛びかけた。
なんと、今日から依姫様が直接訓練の指導をするというのだ。
曰く、玉兎兵の訓練を視察した後で直々に指導することを決心したとかなんとか。
あのへろへろな動きをする玉兎たちを見れば無理もないだろう。それでも真面目に訓練に臨むとは思えないのだが。
だが私の心臓が吹き飛びかけたのは依姫様が訓練を直接指導するからではない。
そう、これから訓練のある日は○○に会えるのだ。

「寝癖は…なし、服にしわは…ないね、よしっ」

いつも以上に身だしなみの確認を入念に行った私は逸る心を抑えながら訓練所への歩みを進めていた。
だが、いざ訓練所についてみいるとそこに○○の姿はなかった。
訓練中でさえその姿を確認することができない。
そんなはずはない、ありえない、と自分の耳を澄まし目を凝らしていたが、ものの数分で希望が絶たれてしまった。○○の姿は確かに存在しなかったのだ。
こうなってしまえば私にできることはただ一つ。いつもの自分に戻って頭を垂れて呼吸をすることだけしかな――



『――』

びくんっ、と体を跳ね上げてあたりを見回す。
今、たった今確かに○○の声が聞こえたのだ。だが訓練中の玉兎たちの姿には○○の姿はない。
幻聴かと一瞬だけ疑ったが、私の耳は幻聴を聞くような粗末な耳ではない。
ならば○○は確かにこの近くにいるはず。私は依姫様が指導に夢中になっている間に、と踵を返した…...まさにその瞬間。

『ここさ』
「うわぁっ」
『やぁ――!久しぶり!元気だった?!……っと、今はもう‘レイセン’だったね、ごめんごめん』

目の前には焦れた○○の姿が確かにそこにあった。私は思わず声を上げて一歩退いてしまう。

「なっ…あっ…○○…○○!」

驚きと共に停止していた脳が再び回転をはじめ、私は何とかその名前を口にすることができた。それと共になぜ○○が今ここに、私の背後にいるのか、訓練はどうしたのか。
聞きたいことは山ほどあったが、私から聞かずとも○○が自ら答えてくれた。

『いやさぁ、半年前…レイセンが‘レイセン’になってからさ、いつも以上に訓練に身が入らなくてねぇ』
「あぁ、サボっちゃったわけね。今こうしているみたいに」
『むっふっふっふ…兎の話は最後まできくものだよ、レイセン君』

○○は昔読んだ小説に出てくる胡散臭い紳士のような口調で、私の知らない空白の半年を語り始めた。
曰く、私が転属したことをきっかけに自身について色々と考えた結果、情報部へ転属願いを出すことにしたらしい。
現在はめでたく希望通りに配属―――とはいかず、今も情報部から与えられた課題をこなしているという。

「どおりで背後に立たれても気配を感じなかったわけね」
『いや、べつにそういう訓練とかは受けてないし、特別いつもと違うようなことをした覚えはないよ?』
「えっ…?」

いつの間にか○○は特殊な能力にでも目覚めたのかと思ったけれど、それも違うらしい。
瞬間、○○の表情が少し険しいものになる。

『あのさ…レイセン。率直に言うけどさ、だいぶ無理してるんじゃない?』
「そ、そんなことは…」
『そんなことはあるよ。まず目の下のクマ。次いで私の気配に気づかなかったこと。声にハリがないこと。』
『会話のキレは…こっちは問題ないね。あとはそう…前みたいに早とちりせずに落ち着いてること…それから…』

○○は容赦なく今の私の様子を形容していった。的確に、無駄なく完璧に。
その間37秒。まるで無駄のない言葉を、私は子守歌のように聞いていた。

『…レイセン?』
「…あっ、いやごめん!ちゃんときいてたよ?!ねてないよ!?」
『…そっか、うん。…それならよし!』

一瞬、ほんの一瞬だけ言葉に詰まったが、私の顔を見るや否や少しだけ安心したような表情になった。

『レイセンの顔もみたことだし、そろそろもどることにするよ』
「あっ…うん。○○も頑張ってね。応援してるから」
『ありがと、レイセン。それじゃあね』

軽く別れの挨拶をすると、○○は踵を返して、そして半分だけ振り返って言った。

『そっちの顔の方が断然いいよ』

それだけ言うと○○は薄暗い廊下へと歩みを進め、やがて見えなくなった。

――



今日もお世話という名の任務を終え、自室に戻った。
だがいつものようにベッドにダイブすることはなく、脇にそっと腰掛けて○○の言った言葉の意味について考えていた。
‘そっちの顔’とはいったい何のことなのか
私は○○の言葉を反芻する。顔?全くわけがわからない。

気分を変えようと窓近づくと外には名も知らぬ星々が太陽の光を反射して輝いていた。
こうして星を見ていると、何だか昔のことを思い出す。こうして、○○と一緒に消灯時間を無視して星を見ていたっけ。
で、翌日の起床時間には目の下に仲良くクマを作っていたなぁ。
ふと、窓ガラスに焦点が合う。映った私の顔は、半年前に戻っていた。

そこでようやく理解した。○○の表情が少し安心したようになった理由がこれだったのだ。
私はこの半年間ずっとずっと身も心もすり減らして全力疾走してきた。
そんな中で○○に会って、話しをして。今の私の顔は半年前に戻っている。
○○は私をちゃんとみてくれていた。半年前の私も、今の私も全部。
それを認識した瞬間、私の中で大きなものが渦巻き始める、そんな気がした。

――

あの日、おおよそ半年ぶりに○○に会って以来、毎日自室のベッドで○○の名を呼ぶようになった。
周囲の何もかもが激流のように変わりゆく中で、○○の存在こそが唯一私を癒す薬なのだ。

「○○…○○…あぁ…○○」

呪文のようにその名を唱えるだけで、あの時の会話を反芻するだけで幸福感に満たされる。それだけで私の心に潤いが戻る。
あの日を境に、私の中の○○という存在は私を支える柱になっていったのかもしれない。
だが○○そのものに会うことはおろか、その声を聞くことですら叶わなかった。
私は月の頂点の‘お世話’を行い、○○は○○の進む道をゆく。
二人の進路が交叉することは極端に少なく、まるで何かが私と○○を合わせないようにしているかのように思えてならない。
例えるならば、織姫と彦星のような関係。はじめのうちは○○の名を呼ぶだけで満足できた。
身体がしびれるような恍惚感と、天女の羽衣に包まれているかのような安心感を感じることができたのに。

いやしくも私は、すぐにそれだけでは満足できなくなっていった。
○○のことを考えるたび、思慕は強くなって私の心と耳にのしかかる。
でもどうしようもなく○○に会いたい、お話したい、声を聞きたい、ああでも巡り合えない。
どうしよう、どうしよう。○○、○○……。
思い悩む私の耳は、丸めて部屋の隅に投げたブラウスのようにしわしわでくしゃくしゃになってしまっていた。

こうなってしまえばあとは早い。
私の脳の余剰スペースは常に‘どうすれば○○に会えるか’に割かれる事になったのである。
ここで○○のことだけを考えて‘お世話’をおろそかにしたりしないあたりは流石私といったところだろう。
仕事は素早く完璧にこなす、そして空いた時間は全て○○に会うための手法の検討へと割かれる。冷静に、牛歩だが確実に。
ありとあらゆる可能性を列挙し、実現可能かどうかを一つ一つ検討してゆくのだ。

幸い、私の周りには月のありとあらゆる情報が流れている。耳に入れることも許されないような情報もあるが、それ以外の、
私が触れられる情報の中にも有益なものがたくさんあった。だからこそ、さほど時間をかけずに網を引くことができたのだ。



「――特務部隊編成に関する要綱……」

目を付けたのは、私が今ここにいる理由の一つである「対地上特殊任務に就く玉兎の選抜」だった。
通称イーグルラヴィ計画。ここ数十年で急激に懸念が高まりつつある地上からの脅威に対応すべく、
時間や場所を問わず潜入・工作などの任務を行える玉兎部隊を編成するのが目的である……と、依姫様が言っていた。
その任務の特性上、戦闘、情報収集など幅広い素養と、+αで飛びぬけた技能が要求される事だろう。
その点、○○の普段からの情報分析力はうってつけのはずだ。
そして○○が私同様に採用されれば、私と○○はまた一緒にいられる。そうなれば毎日毎日○○の声が聞ける。お話しできる。ずっとずっとずっとずっと一緒にいられる。
依姫様によると、近いうちに詳細を伏せた状態で募集と選抜試験を行うという。

この上ないチャンスを得た私は、早速○○を焚き付けることにした。
だがここで一つの問題が発生する。○○がどこで何をしているのかが分からないのだ。
だからこそ私はこんな風になってしまっているわけで。本末転倒もいいところだ。
しかし、この問題を解決するための手段を私が持ち合わせていることに、今になってようやく気が付いた。
‘耳’である。
自慢の長く感度のいい耳をもって○○を探し出すのだ。
なぜ今まで気が付かなかったのだろうかと頭を抱えそうになったが、きっとストレスのせいで思考能力が低下していたのだろうということで片をつけ、準備に取り掛かることにした。

なるべく開けた高い場所へ移動し、耳を伸ばして目をつむり、意識を集中させる。都程度の範囲ならば感度調整の必要はないだろう。数分かけて準備を終えると、脳をフル回転させて○○の声を探る。

「○○、ああ、どこにいるの?○○、○○、○○――」

嗚呼もどかしい。はやく声を聞きたい。
うわ言のようにその名を呟きながら、あまねく宇宙の中から針と糸を見つけ出すような作業に没頭した。

どれくらい時間がたったのかわからないが、しばらくして○○の声らしき音を捉える事が出来た。
何か鼻歌のようなものを歌っているようだ。同じ場所からは、トン、トン、トン、とリズミカルに机をたたくような音が聞こえてくる。だがノイズが多く、うまく聞き取れない。

「もっと…そう、この角度…集中して…集中…」

ここからさらに音を拾うことができるのが私の才能だ。

「…ンッフフフアハァッ!入った…入ったァ!アッハハァッ…!」

数秒後、はっきりと○○の声を捉えた。いや、声だけじゃない。
衣服の擦れる音や細かな息遣い、リップサウンドまで全部、全て、○○の起こす音全てを私の耳が拾い、増幅して脳へ送られる。
荒くなる息を抑え、本来の目的が何であったのかを忘れまいとするが、暖簾に腕押し、糠に釘。まったくの無駄である。久しぶりに聞く○○の声だ。高ぶらないはずがないのだ。
結局、その日は震えながら自分の肩を抱いていただけで終わった。



翌日以降、さすがに反省した私は今度こそはと計画を練ることにした。
○○を上手く焚き付けるためには、○○の現状を、情報部に異動した○○の現状を全て把握しなくてはならない。ついでに私生活も。いや、断じてやましい考えがあってのことではない。
現状の不満、隠された抑圧はプライベートに現れるからだ。

「そう、だからこれは盗聴とかではなくて、れっきとした調査であって、私が知らない○○の声が聴けてうれしいなんてことは全くない…わけでもないけど、いや、これは調査であって…」

連日、ひとりで間抜けな問答を行う傍らで、○○に関する‘情報収集’はこれでもかというくらいしっかり行った。
それによると、現在○○は当初の希望通り情報部配属となったが、いざ入ってみるとその仕事は書類仕事ばかり。理想と現実とのギャップを感じているらしい。
それもそのはずである。情報部は月の内側を向いた組織であって、外からの情報は‘傍受’
する程度なのである。故に○○に回ってくる仕事といえば月内部に関する書類の整理しかない。

それだけ分かれば十分だった。
あとは‘一応収集しておいた’○○の生活パターンに基づいて邂逅場所を予測し、偶然を装って会えばいい。私にとっては造作もないことである。
そうして計画は流れるように進んでいった。

「○○―!」
『んぉ?…おぉー!レイセン!久しぶり!』
「すごく久しぶりだねぇ○○、うんうん、いつ以来だっけ?」
『レイセンが死にそうな顔してた時以来だから…もうすぐ2か月くらい?』

暦上では間違いなく二か月なのだが、私にとっては二か月どころの話ではなく、既に数年は経過しているように思えてならなかった。それだけ焦れていたのだろう。
‘調査のために’○○の声を聞いていた時も、はじめのうちは電流が流れるような幸福感を味わうことができたのだが、これもすぐに満足できなくなってしまった。
そうして今目の前には○○がいる。今は平静を装っているが、実際のところ全身の震えを抑えるのと、口元から溢れそうになる液体を飲み込むので精一杯だ。

「まだ二か月しかたってなかったのね」
『そうだよーまだ二か月。どう?最近の調子の方は』
「相も変わらず。おかげで私の耳はしわくちゃよ」
『つまりは』
「今日○○にあえて良かったわ」

流石に口には出さなかったが、仕事のストレスよりも○○に会えないストレスの方が圧倒的に大きかった。
目の下のクマは濃くなる一方であり、耳はへしわしわへにょへにょ、目はいつも通り真っ赤。
こんな状態でも○○に会える日は調子が良くなる。

『あっはは!そっかそっか、それは良かった。実を言うと私もレイセンと一緒だよ』

レイセンと一緒、レイセンと一緒?私と○○は一緒。
○○の口から発せられた何気ない言葉を認識した瞬間、頭の中だけが完全に停止した。
○○の前で醜態を晒すわけにはいかないという理性によって脳内のブレーカーが作動した
結果、なんとか思考が止まる程度で済んだのだろう。
リラックスしきった状態で面と向かってあんなことを言われてしまったら、顔面の筋肉を制御できなくなる。
そうなるのは今晩のお布団の中までお預けだ。

『…レイセン?どうかした?』
「へぁ…ぁあ!ごめんごめん、今耳が変なノイズ拾っちゃって」
『耳が良すぎるっていうのも考えものだねぇ』
「あはは……。で、なんだっけ…あ、そうそう、わたしと○○が一緒ってどういうこと?」
『毎日頭を抱えて生きてるってことさ』
「希望通りの情報部配属って聞いたんだけど…結構大変なんだ」
『いやいや、悲しいことにその逆だよ』



なんとかその場を誤魔化した私は○○を舞台に引きずり上げるべく、会話の誘導を始めた。
○○曰く、配属転換の申し出を行って現在は希望した情報部に配属されていること。
その仕事は書類仕事ばかり、いつもいつも‘これは自分じゃなくても、誰でもできるんじゃないか’という考えが頭を離れないこと。
栄転した私を密かに羨んでいること等々。○○の口にしたことは事前の‘調査’の通りの内容である。

下準備は全て終わった。

「そっか…てっきり充実した毎日をおくってるとばかり…」
『ううん、レイセンが気に病むことじゃないって。その気持ちだけで十分うれしいよ』
「でもさ、○○。もしかしたらほんのちょっぴり力になれるかも」
『なになに?桃餡饅頭くれるとか?』
「ちーがーいーま-すぅー!」

ブレザーの胸ポケットから一枚のメモを取り出して手渡す。
イーグルラヴィ計画について自身が書き留めておいたものだ。
近々公表されるであろう内容が書かれた紙を、○○は食い入るように見つめている。


『これって…』
「私、思ったんだ。○○の得意が生かせるのは‘生きた’情報分析だって」
「だから、○○にぜひとも採用テストを受けてほしいの」


少し戸惑ったような表情をしているが、その目は上空の星屑よりも明るく輝いている。
その目をみていると何だか吸い込まれてしまいそうになる。

『ありがとう…レイセン。検討してみる!』
「うん、しっかりと準備もしてね?」
『もちろん。この○○さまに抜かりはないよ』

かくして、一通りの会話を終えた私と○○はそれぞれ自分の生活へと歩みを戻す事となった。

『それじゃあまたね』
『うん、がんばってね、○○』

進む方向は真逆、背中に感じる○○はどんどん小さくなってゆくのに、胸の奥のざわざわした感情は‘いつもと違って’霧のようにかき消されてゆく。
私の目論見は見事に成功した。あとは○○が採用されたという報告を待つだけである。
○○の実力ならばきっと問題なく採用される。
そうなれば、もう○○と離れ離れになることはない。私の視界には端に○○が映るであろう日々が現実のものとなるのだ。

「今夜の夢見は良さそうね…ンフフフフッ」

頬に手を当て、体をくねらせる様子はさながら蛇のようだ。言い方を変えると、民話伝承の類に登場する即死系の邪神のような動きである。
不気味なことこの上ない動作を継続しつつ、私は自室へと戻るのだった。

それから毎日、○○の様子を確かめた。耳で。
それによれば、○○のやる気も志も高く、ついでに鼻歌の頻度も高かった。
近いうちにこの○○の様子を間近で、しかもずっとずっと見られるようになると思うと
高ぶりが止まらない。
こんな調子で日々を送っているうちに、徐々にその時は近づいてくる。


そのとき私は、ひとつの大切なことに気付いていなかった。

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最終更新:2017年02月07日 22:05