それからというもの、私は「イーグルラヴィの情報分析官」「綿月姉妹の世話役」という立場を利用し、行方を眩ますのに必要な情報を集め続けた。
月の都は常に全てが完璧に管理された「理想郷」であり、この中には私がひそめる場所などどこにも存在しない。では都の外、たとえば「静かの海」はどうか。
ここのほとりならば文字通り静かに暮らせるだろうか。答えは否、ここには月に周期的に災いを引き起こす元凶が住むとされており、いずれはここにも監視の目が広がるかもしれない。
では静かの海、その結界の外側はどうか。もちろん、ここもダメ。穢云々どころかそもそも生命が存在できるような条件が整っていないのだ。
青く澄み渡り波音以外に存在しない静かの海も、結界の外側ではただの窪地、不毛の大地となる。

「どうしたものか……うむむ……」

ありとあらゆる可能性を検討し、否定する。その繰り返しをする中で辿り着いた結論は'地上へ堕ちる'ことであった。
一般的に言えば、穢れの蔓延る地上へ行くことはこの月においてこの上無い処罰となる。
実際、過去にも重罪を犯した月の姫が地上へと堕とされた。ここまでならば教科書にも書いてある。

たが調査を進める中で気になる記述を見つけた。
本来ならば罪を償った後で使者が遣わされ、月に帰還する筈であったのだ。
しかし、どういうわけだか当人はおろか、月から送った使者達ですら帰還することはなかったという。

――と、閲覧権限の関係上私が知り得たのはそこまでだが、 私の背中を押すには十分なものだった。

地上へと堕ちた月の姫は後に回収される手筈であった。つまり、"地上で罪を償っている間に死ぬことはない"ということなのだ。
則ち地上の穢れによって月に住むものが即死することはないと言えるだろう。
さらに、迎えとなるはずの月の使者が帰還を果たさなかったと言うことは、地上から月への移動は当初の予想に反し極めて困難であったのだと考えられる。
つまり、私が"優秀すぎて"何かの拍子に月へ連れ戻される心配もないということになる。

気になる事と言えば肝心の地上での暮らしだが、これも問題は無さそうだ。
月の都の開祖たる月夜見様も、元はと言えば地上で生まれ、それから穢れを捨てて月へと移り住んだという。
それが事実ならば、穢れによって本来私達が持ち得ない"寿命"というものを得ること――すなわち月の民の言うところの"賎しき地上の民"となる以外に目立った不利益もないことになる。

「決まり、ね。私はこれから地上へ墜ち、死ぬまで自分の罪を償う」

「そして○○は夢を叶え、私の替わりに情報分析官に任命されるの!完璧!完璧じゃない!あっははは!」

一介の玉兎の発想としてはあまりに完璧。耳と頭と勘の良い私だからこそ、そして○○を心の底から想うからこそこんな事が思い付く。実行できる。
全部、全部全部全部○○のため。

勢い良く立ち上がり、すぐにでも駆け出したかったがなんとか堪えた。
月から地上への移動にはいくつかある槐安通路のうち一つを使うのだが、その特性上それなりに監視の目がある。
つまりタイミングこそが何よりも重要であり、決行日は慎重に選ばねばならない。

しかし、これもまた大した労力をかけずに決めることが出来た。
近々イーグルラヴィ結成最初の演習が行われるという情報を手に入れたのだ。
イーグルラヴィに関する情報は必ず一度は私の耳へと入るため、当然といえば当然だが。



そしてその演習だが、特殊部隊らしく目的地へ素早く展開、浸透するというものだった。
移動先は都から距離のある拠点となるため、通常の移動手段ではなく槐安通路を使用する。
槐安通路とは都から遠方への移動を目的として整備された、文字通り‘夢の通路’である。
だが今までに使用されたことはなく、今回は安全な使用が可能かどうかの確認も含めているのだろう。

それを踏まえて私の立てた計画は至って単純なものだ。
表向きは演習中の事故に見せ掛け、地上へと繋がる槐安通路、すなわち「第四槐安通路」を用いて月から消え去る、たったそれだけのことである。

勿論、強行突破などという愚かな真似はしないし、そもそも不可能だろう。
基本的に重要施設は厳重に監視がされており、正当な理由がなければ立ち入りは出来ない。
強行突破しようにも玉兎よりも何倍も屈強な衛兵達が立ちはだかるため、結局は正規の手段で堂々と立ち入ることが最も安全かつ容易なのだ。

何はともあれ、さして苦労もせずに計画を立てた私は一時的に普通の生活へと戻ることにしたのだが、
計画のその一切を気取られてはならないため、刻一刻と決行日が迫る中でも身辺整理一つしなかった。
部屋の中まで監視されているわけではないが、心境の変化で身辺整理をするその逆、
身辺整理によって自身の心境が目に見えて行動に出てしまうことを避けるためだ。

それは同時に、月を離れるにあたって○○との思い出の品も何もかもを全て捨て置くことも意味していた。
寂しくないと言ったら嘘になる。だが全ての発端は私であり、当然報いを受けてこそ○○の気も晴れると言えよう。

だから、私は――


『――通達、2130時に槐安通路連絡口へ集合せよ。以上』

不意に脳内に響いた声によって私の思考は遮断された。
抑揚のないその声は演習時刻を告げる念波通信だ。
壁の時計を確認すると、現在時刻は午後7時。気が付けば残された時間は3時間を切っている。
「……行こう、地上へ」

軽くため息をつき、壁に掛けてあったブレザーに袖を通すと
二度と戻らないであろうこの場所に別れを告げ、足早に部屋を後にするのだった。


―――――


月の都にある槐安通路の連絡口は、為政者達の集う宮殿の敷地内にある。
その広大な敷地をぐるりと囲うかのように高い塀が築かれており、その出入り口には‘いかにも’な門と衛兵が配置されている。
それゆえ正規手順以外では何人たりとも入ることが叶わないのだ。



「レイセンです。勅命により参上しました。開門許可を願います」
『しばし待て――。よし、確認した』

しかし、私にはここに立ち入る正当な理由がある。
重厚な音色を響かせながら徐々に開いてゆく鉄扉を前に、顔の筋肉が弛緩し始めるのを感じた。

――何も知らずにそこでずっと立っているがいい。

そんな事を考えながら、私は門の内側へと足を踏み出した。
いくら頑丈な門を築き屈強な衛兵を置いたとしても、一度許可が出てしまえばだれも止める者は居ない。そのはずだった。

『――おい待て。お前、何を笑っている』
「はひっ?!」

とっさに声のした方を見ると、衛兵の一人が私を睨み付けていた。その目には明らかな疑いの色と"やっと仕事が出来る"という期待の色が見てとれた。

「あぁ…!私、耳が良すぎるんです。だから開門の音がこそばゆくて、ついつい笑いが…」
『本当に?』
「本当に!」
『…そうか。まあ良い。中ではくれぐれも失礼のないように』

どうやら私は思った事が顔に出やすいらしい。
この先、あまり調子に乗らない方が良いかもしれない。
追求が案外緩かったことに胸をなでおろしつつ、槐安通路がある建物へと足を進めていった。


集合場所には既に多くのメンバーが集まっており、私が到着して間もなく依姫様が壇上に立った。
『――これより本演習に関する補足事項を通達する!』
凛とした声が響き、今回の演習の主目的である「槐安通路の使用」についての説明が始まった。
どいつもこいつも聴いているのかいないのか、欠伸を噛み潰している者も居れば上の空になっている者さえいる。特務部隊の要員としてあるまじき態度だが、誰も注意する者はいない。
身勝手な玉兎ではあるがここに集まった者達は皆厳しい選抜を勝ち上がって来ただけあって、聴いていないようで実は聴いているのだ。
かく言う私もまともに依姫様の話を聴いてはいない。勝手に聞こえてくる情報は無意識のうちに脳が処理してくれるからである。
そして私の耳が聞き取ったところによると、話の要点は次のようになる。

・槐安通路の入り口はこの建物の中にあり専用の扉が存在する。
・扉の中は真っ暗だか進むにつれて光が見え、さらに進むと幾つかの扉が現れる。これが各槐安通路に接続されている。
・今回使用するのは第一、第二槐安通路の2つ。
・槐安通路は"夢"を用いた通路であることから、複数名が同時に入ったとしても互いの存在を認識したり干渉したりすることは不可能であること。
・入り口の扉を潜った段階で夢は始まるので、連絡事項は前もってしておくこと。
・槐安通路において、緊急時は獏を呼び出し、その指示に従うこと。

これは事前の書類連絡とほぼ同じ内容であり、私の脱走計画が決行可能という確認がとれたことになる。

時は来た。

『――以上である。………現時刻をもって演習を開始する!状況開始!』

依姫様の号令が響き、皆が皆堰を切ったように槐安通路連絡口へと駆け込んでゆく。
私もその流れに乗り、大きく口を開けた扉の中へと吸い込まれていった。



 ̄ ̄ ̄ ̄
気が付くと私は暗い闇の中に佇んでいた。
辺りを見回しても一面の闇が広がり、手元すらまともに見えない。
自慢の耳をピンと立てて意識を集中するが、物音一つ聴こえず、気配も存在しない。

「事前の説明の通りだけれど……本当に"誰もいなくなる"のね……」
槐安通路が夢の通路ならば、この闇は夢を見るのに必要な闇である。

そんな空間にいると、かつて○○が私に話した事が脳裏に浮かんでくる。

"孤独、闇、静寂。この三つの条件下に置かれた者が抱く感情はふたつにひとつ。安堵か絶望のどちらかである"
というものだ。そして今の私が抱く感情は"安堵"。

これから始まる前代未聞の脱走劇を前に、私を止めるものが一人もいないのだから当然かもしれない。
ゆっくり歩みを進めると視線の先にうっすらと明かりが見え始める。
その光を目指して更に先へ進むと、一から十まで書かれた扉が、その数だけ佇んでいた。

四と書かれ扉の前に立ち、そっと指を這わせてみる。
すると扉がまばゆく耀き、一瞬にして光の渦へと変換された。
この光の渦に身を投げればその先は第四槐安通路である。

「ここを抜けたらいよいよね………ふぅっ……!」

一呼吸おいてから脚に力を入れ、まばゆい渦の中へと飛び込む。
その瞬間、渦巻く光が私を包んだかと思うとすぐに流れ星の如き勢いで流れてゆく。
落ちているとも歩いているともとれる奇妙な感覚を忘れてしまうほどに、ソレは美しい。
○○と一緒にこの感覚を共有できたのならば、いったいどれ程幸せなのだろう。そう思わずにはいられない。


視界を埋め尽くす美しい幻想に見とれているうちに、全ての流れ星が小さな光として固定されてゆくことに気が付いた。
反射的に周囲を見渡すと、一面に瞬く大小様々な星々が見えた。勿論、月も。

「月……月?月ってあの……月よね?」

そう、そこには広大な宇宙が広がっていたのだ。

正直言うと、槐安通路は暗いトンネルのようなものを想像しており、ここまでのものとは全く思っていなかった。
私は今、自身の存在も意識も霞と消えそうな程に圧倒的で、無機質で、冷たくて美しい宙の海に、たった一人で浮かんでいる。
もし一歩でも歩みを進めれば崖から転げ落ちるように突き進み、二度と戻ってこられないとすら感じてしまう。
しかし、○○のためにはここから前へ進むことが唯一の正解となる。ここまで来た私に最早選択肢などないのだ。
ならば、有終の美を飾ってやろう。

「見ていてね○○……私は……私は○○のためなら世界中を欺くことだって出来るんだからッ!」

両腕を広げて有らん限り大きな声で、月にいる○○へ向けて思いの丈を叫ぶ
この言葉は決して○○に届かないだろう。だがしかし、そうと分かっていても叫ばずにはいられない。これは○○への言葉であり、そして不退転の決意の表明でもあるからだ。

○○のために、私は今これから地上へと堕ちるのだ!

『そうですかそうですか。いやぁとても友人想いなのですねぇ……ンフフフ……私もそんな大切な誰かが欲しいものです』
「ひゅぃっ?!?!」

さっきまで私以外に誰も存在しなかった空間に、突如として声が響き渡る。
そこには艶かしい……というか大分特徴的な笑みを浮かべる変な服の何かが居た。

「えっ?!なにっ?!だっ…誰?!」
『私はドレミー・スイートです。あぁ……獏です、獏なんですよ、私』

想定外の出来事に当惑する私を余所に、獏──ドレミー・スイートと名乗る獏は愉しそうに言葉を紡いでゆく。

『あれ…もしかして伝達ミス?私や槐安通路についての説明はちゃんとありましたよねぇ?』
「あっ……はぃ、それは一応……」
『ンフフフ……それは良かった。もし私の伝達ミスだったらサグメに何を言われるやら…』
『......おっといけない、危うく本題を忘れるところでした』

彼女から柔和な笑みが消え、突如真顔になる。さしずめ“仕事モード”に入ったという感じだろう。



『今回、第四槐安通路は使用されないと聞いていたのですが……これは事故……ではありませんよね?』
「…通報するつもりですか」

そこまで分かっているのならば、と私は身構える。
ここまで来て水を注されるわけにはいかない。彼女の返答次第では"そういうこと"をしなければならない。この目で、瞳で。
しかし彼女の返答はまたもや私の想像の斜め上をゆくものだった。

『いいえ、別になにもしませんよ?仕事の範囲外なので』
「え?あ…あぁ…はい」

『…何か?』
「てっきり私の目的を阻止するために送り込まれたのかと…」

『私は妖怪獏です。月とは貴女の上司を通しての関係しかありません』
『そして私の居場所は"夢"という"現実"全てにあります。月の都の内部情勢などというちっぽけなものはどうでも良いのです』
『ですから、貴女が脱走しようと私には関係ないことなのですよ』

貴女が"夢"の使い方を誤りさえしなければ、と付け加えると再び笑顔へと戻った。

どうやらこのまま槐安通路を使う分には問題ないらしい。
そう言えばいつであったか、豊姫様も"槐安通路は獏に左右されかねない"と言っていたような。
とにかく無事に目的を達するには彼女に従い、協力を仰ぐべきだろう。

「あの、一ついいでしょうか?」
『ええ、なんでしょう』
「この通路って地上へつながってるんですよね。他の槐安通路は目地直通だけど、この第四槐安通路は地上のどこへ繋がっているのですか?」
『何処と言われましてもねえ…ンフフフ…何処でも行けますよ』

まさに僥倖だった。とりあえず地上へ行くとは言ったものの、出口がどこになるのかは知らなかったのだ。
陸上ならまだしも、海の上に出たものなら目も当てられない結果になってしまう。
ゆえに出口を任意に決められるのは非常にありがたい事なのだ。

「ええと…昔、月の姫が地上に送られたのは知ってますよね?その姫を送った時と同じ場所に繋げてください」
『フフフ…物好きですね。ええ、良いでしょう』

彼女がわざとらしく指鳴らす。すると、広大な宇宙に赤い碁盤の目のような模様が浮かび上がる。

『誘導灯を点けておきますので、今一番近いこれに沿って進んでください。あ、そうですそうです、この赤い線です』
「わかりました。……ええと、ありがとうございます」
『いえいえ、礼には及びませんよ』
『それではこれにて。――良い夢を』

そう言うと彼女は溶けるように宙へと消えてしまった。
出会いも別れも嵐のように突然ではあったが、結果的に大きな収穫であることには違いない。
月に別れを告げて踵を返すと、そのまま地球へ向けて飛び立つ。
第四槐安通路を用いれば、遥か38万4千キロをたったの数時間で移動できてしまうという。夢ってすごい。そして変な服の彼女、ドレミー・スイートにも感謝しなければならないだろう。
彼女が出てこなければ、私は今頃こんな安らかな気持ちで飛んでいなかったはずだ。

このままいけば“無事に地上へ堕ちる”ことができる。

「○○はきっと栄転して願いをかなえる。そして私はそれを地上から見守る。あぁ、なんて、なんて素晴らしいの」

穢れに染まった自分の姿と、栄光を手にした○○の姿を想像しながら
私は目指すその場所に向けて加速して行くのだった。



――――――

地上へたどり着いた後は『鈴仙』という名前を使い、人里離れた山奥に潜伏していた。

簡単に潜伏とは言ったが、衣食住から重力加速度に至るまで何もかも不慣れな中で正気を保ち続けるのには非常に苦労したし、
その後に『幻想郷』と呼ばれる場所にたどり着くまでを全て話せば、涙なしには語れない。おそらく本棚を一つ占領するほどの長編小説が書けるだろう。

それはさておき
幻想郷に辿り着いたところで月の姫と、そのお付きの賢者についての情報を入手した。この穢れに満ち満ちた地上において、いまだに生きているというのだから驚きである。
事情は違えど、同じ月から堕ちた者同士だ。きっと想像を絶する苦悩を乗り越えて今に至っているに違いない。
妙に親近感を覚えた私は、今後身を寄せる場所の確保もかねてその2人の元を訪れることにした。
そこで会った二人に、月に嫌気が差して逃げ出し、命辛々ここへ辿り着いたと説明したところ快く私を迎え入れてくれた。
満身創痍になってまで、噂を頼りに必死になって辿り着いた健気な玉兎を見れば匿いたくもなるだろう。
実際、月を出て着の身着のままずっと過ごしてきたせいで服はぼろぼろ、耳はしわしわで通信どころではない状態だった。

そんな私を迎えた二人。

その一人は誰もが知る月の賢者、八意永琳だ。
その頭脳は天才以外に形容する言葉はなく、彼女が居なければ月の都も蓬莱の薬も存在しなかっただろう。
あまりに畏れ多いのでこれから先はお師匠様と呼ぶことにする。

そしてお師匠様に蓬莱の薬を作らせた張本人、「元」月の姫は自身を『輝夜』と名乗った。
名前は自身に非常に良くしてくれた老夫婦からつけられた名だという。
月に居た頃の名前は忘れたが、とにかく月に住むものならその存在を知らぬものはいない。
未だに地上人から付けられた名を名乗り続けるということは、何か思うところがあるのだろう。
地上に堕ちた記念にと、お師匠様は私に『優曇華院』という名前を付けた。
そのくせ私を呼ぶときは「ウドンゲ」と省略して呼ぶ。天才の思考はよく分からない。

因みに、その名の由来は「優曇華」という花らしい。
千年に一度だけ咲く、などという言い伝え付きである。
しかもこの花、ただ珍しいだけではなく月との所縁があるのだ。
それはなにかと言えば、秘宝『蓬莱玉の枝』である。地上の民でも歴史物語で読んだか人伝に聞いたか、そのどちらかはあるだろう。

そしてその『蓬莱玉の枝』が実をつけたものがこの地上では『優曇華』と呼ばれているという。
植物は穢れを吸って成長する。『蓬莱玉の枝』も御多分に漏れず、永い間穢れを吸って成長するはずだ。
しかし、穢れそのものが排除された月の都をはじめ、永遠に時が止まったこの屋敷では『蓬莱玉の枝』が『優曇華』に成長することはないだろう。

そして、月を捨てた月の姫も私に名を付けた。
……付けたのだろうか。
姫様は私を「イナバ」と呼ぶ。彼女はここ――永遠亭にいる兎と私を大して区別していないようだった。その上、他にも人の型を持つ兎がおり、そいつも苗字を「イナバ」と名乗っていた。
何が何だかわからなくなってくるが、その洗練されていないややこしさも地上の趣というやつなのだろうか。……やはりよくわからない。

かくして、私は『鈴仙・優曇華院・イナバ』という名前を持つに至ったのだ。
長ったらしい名前だが、案外気に入っている。

今までの私は○○の存在と自分の優れた能力でアイデンティティを確立してきた。
それが崩れ去った今、改めて自分の存在、立場を認識させてくれるのがこの名前なのだ。
月から地上へ、自ら不可逆変化を起こした私に相応しい名前。



「……ついにやり遂げたのね……私」

与えられた殺風景な自室から外を、空を見上げる。眼前に広がるのは全てを覆い隠さんとする竹藪、その隙間からはつい最近まで自身がいた場所が、夜空から私を見下ろしている。
あそこには今、この瞬間も○○がいるのだ。あぁ○○、○○、○○――

「――っ!」

意識が上空へ飛びかけていたその時、何かが動く気配を感じた。
咄嗟に身をかがめ、あたりを見渡す。誰か、誰かに見られているのだろうか。
自慢の耳もノイズだらけで何も捉えるとこができない。視線を上下左右に動かし、気配の正体を探ってゆく。やはり何も見つからない。
気のせいかと肩の力を抜き、溜め息をついて足元を見る。すると、そこに白い塊が見えた。

「うわぁっ?!」

殆ど本能のままに飛び退く。しかしそこにいたのは、この屋敷で飼われている何の変哲もない兎だった。

「……なぁんだ、兎か」

たかが兎ごときに何をやってるのだろうか。こんな今の自分の状態を思うと悲しくなる。
疲れているのかもしれない。何せ短期間の間に余りにも多くのことが起こり過ぎたのだ。 そうなるのも致し方ないであろう。

「今はゆっくり休もう……」

何の変哲もない、この先の安寧を夢見て何気無く放った言葉だった。
しかし、実際は心の安寧が訪れるどころかその逆に進み始めていた。

────────────────────

ゆっくりと休養をすれば、体調が良くなる。体調が良くなれば、思考が冴え渡る。耳にもハリが出る。
思考が冴え渡るとどうなるか、それはお察しの通りである。今○○がどのような状態にあるのか、それが気になって仕方がなかった。
そもそも今私がここにいるのも、○○の為にイーグルラヴィの情報分析担当のポストを空けようとした結果なのだ。
当然、私の行動が成果となって現れてもらわなければ困る。

この永遠亭に匿われてから10日経つ頃には、自慢の耳を駆使して月の通信の傍受を始めた。
月を離れて地上に潜伏し、此処へとたどり着くまでに一月近く費やしている。
それに、私の役職は「綿月姉妹の世話役兼イーグルラヴィのメンバー」だったのだから、脱走すれば月に何らかの動きがあって然るべきだろう。

深い竹藪の中のいくらか開けた場所まで移動し、耳をこれでもかと真っ直ぐ伸ばす。

「方角は…よし、遮蔽物なし。集中して…集中…」

方角や角度を合わせて意識を集中すると、多少のノイズ混じりではあるが、玉兎たちの他愛もない会話が聴こえてくる。

「わぁお……」

この耳が遠距離通信に秀でているとはいえ、まさかここまでの距離があってもまともに聴こえるとは。
やはり私はとんでもないくらい優秀なのだろう。
ふふんと自慢気に鼻を鳴らすが、それを聞く筈の相棒はいない。
何とも言えない虚しさを覚えつつ、情報収集を始めた。
お喋りばかりのオープンな回線、イーグルラヴィ専用回線、情報部専用回線、連絡用回線…
自身が今までに使用してきた様々な念波帯域、周波数に合わせ、耳に入る情報を片っ端から貪る。

『訓練が厳しい』『誰かが消えた』『桃餡饅頭が2つ余っていた』『集合時刻変更』『寝込んだらしい』『捜索再開打診中』『4号案否決』『お夕飯抜き』等々

一つ一つの情報だけでは何の役にも立たなくとも、それらを一つ一つ紐付けていけばやがては大きな「絵」になることもある。

私が知り得た情報から有効なものを抜き出して纏めると次のようになる。

演習中に私が行方不明になったという一報が届き、すぐさま捜索が始まったという。
当然だが、いくら探せど見付からず仕舞い。
そこで槐安通路で移動中に何らかの事故が起きた可能性を検討した。
獏によれば『全員が全員、それぞれ行くべき目的地へ到達したのを確認した』とのことであり、再び月中の捜索がなされる。
しかし見付からず、最終的には結界の外側へ弾かれてしまったという結論に至り、つい数日前に捜索が打ち切られた。
情報部に再捜索案が出されたのが昨日であり、今朝それが否決された。

と、こんなところである。ありがとう変な服の妖怪獏さん。

皆のお喋りが過ぎるお陰で、今日一日だけでも、私の居なくなった月で何が起きたのかを大分知ることができた。

「通信暗号を強化するより玉兎の口に戸でも立てた方が良いと思うわね」

しかし、肝心の○○に関すること何一つとして手に入れることはできていない。
まだまだ聴き足りないが、もう戻らねばならない時間だ。結局、そのまま永遠亭へと戻らざるを得なかった。



それからというもの、毎日毎日暇さえあれば耳を立てた。
兎達がお喋りというのもあって、一週間もしないうちに月の詳しい内情が明らかとなった。

情報分析官の権限が見直され、私のように‘機密情報を握ったまま行方を眩ます者’の出現に備えて分析官は必ず情報部への情報伝達を行うことになったらしい。
最初から手間を省こうとせずおとなしく私と○○を同じ場所に配属していればよかったのだ。
愚かな為政者め、と心の中で毒づく。

更に数日後には、綿月姉妹の世話役には別の玉兎が充てられたとの話も耳にした。後任となる"二代目レイセン"の声を確認したが、少なくとも○○ではないようだ。
これだけ色々な会話を盗み聞きしているのに、○○の声はおろか、その動向すら聞こえないのはいくらなんでもおかしい。

「なんで…○○……どこ行っちゃったの?○○…」

もう二月近く○○の声を聞いていない。 会えないどころか声も聴けないのがこれほどまでにつらいとは思いもしなかった。

○○に会えなくなるのは少し寂しいが仕方ない。全てはわたしのせい。
これは自分自身への罰なのだ。受け入れろ。
この地上へと来た当初の目的ソレであった。その筈だったのに。

「あっあっ…○○いない…いないよぉ…」

○○のためにと勇んで行動に移したは良かったが、結局は寂しくなってこのざまである。
浅ましく、情けないことこの上ないが、かといって穢れに堕ちた私に今さら何ができるわけでもなし。
この先も膝を抱え、耳を立てて○○の名を呼び続けるだけしか残された道はないのだろうか。

だが、その心配は稀有に終わることになる。

――――――――――――――――――

私が月の通信を傍受し始めてはや1ヶ月。
永遠亭での生活にも慣れ始め、何かと雑用を任されるようになったためにこうして深夜になっては屋敷を抜け出し、竹林をさ迷い歩くようになった。
こうして外に居れば周囲を気にすることなく耳から入る音に集中できる。

「――現在時刻、子の刻1分前…月位相、下弦。天候確認…よし」

誰もいないその場所で独り言をつぶやく。これは確認をする時の昔からの癖なのだ。
自慢の耳を月に向けてピンと立てる。数だけは多い玉兎ではあるが、この長い耳を持つ者はその母数に対してそれほど多くは居ない。
このタイプの耳は、所謂ロップイヤー型の耳を
持つ者に比べ、遠距離の繊細な念波通信を非常に得意としている。そのためか玉兎の中でも特殊任務を負っているものが多い。その反面繊細であり、ストレスによる受信感度変化の振れ幅も大きくなってしまう。故に通信時は必ず感度調整を行う規定になっていた。

地上に堕ちた今では規定を気にする必要はないが、私の耳もストレスの影響を受けやすいため念波通信時の感度調整は必ず行っている。
○○に会うことはおろか、その声すら聴くことのできない今となっては尚更だ。

「方位よし、直上遮蔽物なし、感度調整はじめ」

首から上、さらには耳の先へと神経を集中させてゆく。先ほどまで聞こえていた竹葉の擦れる音も、頬を撫でる風の音さえも消えて無くなってゆく。
地上の音全てが消え、私の意識は一気に遥か上空へと引き上げられる。
まさにその時だった。



『… 宛 ……部………時報…はじ…』
「っ…!?」

唐突に聞こえてきた音に心臓を直接握られたかのようで
あまりの衝撃でそのまま尻餅をついてしまう。

「今の……声って…...まさかっ……!」

まさかも何もない。私のこの耳が聞き間違えるなどあり得ない。
まぎれもなく○○の声だ。

すぐさま耳を伸ばし、これでもかと意識を集中する。
ザザザ――という微かなノイズの後に、追い求めて止まなかったその声がはっきりと聞こえてきた。

『――は特に問題点を認められず。今後の使用に支障なし』
「○…○、○○っ!○○だぁ!」

短距離を走りぬいた直後のように心臓が早く鼓動し、息が荒くなる。
自身の生み出すその音にすら気が付かないほどに、私は○○が紡ぎだす声に時間さえ忘れて聞き入っていた。

『――以上である。定時報告終わり。通信終了』

それ自体は数分もかからなかっただろう。
型にはまったような“お堅いセリフ”を一通り話し終えると、○○の声は止まってしまった。

「ぁ…おわっちゃった……」

口元を伝っていた液体を拭うと、途端に虚しさがこみあげてくる。
例えるならば、線香花火のその最後の火球が地に落ちて消えてしまった時のソレに似ている。もっと見たいと思うのに、必ず時間切れは訪れてしまう。

○○の声はわたしの中に小さな光を灯し、そしてその光ごと消えていった。
残されたのは孤独、暗闇、静寂。


そんな状況に置かれたものが抱く感情は二つに一つ。安堵か絶望。
今の私に迫り来るものは後者だ。
真っ暗な塊が蛇のようにはい上がってくる。その感覚が胸元にまで達した瞬間。


先ほど○○声が止まって20秒も経っていないくらいだろうか。
突如として‘続き’が始まった。

『――聞こえる?レイセン』
「ひゅっ…!」
『聞こえて…いるかはわからないけど。あのね、レイセン。もし無事だったら返事がほしい』
『私…イーグルラヴィに配属になったんだ。レイセンがいなくなったすぐ後に』
『で、レイセンの後釜についたわけなんだけど、レイセンがどこに消えちゃったのか…。捜す手立てももう無くて…それで…』
『……あぁ、時間…。それじゃあね、いつでも返事待ってるから!』

一分、あるいはもっと短い時間だったのだろうか。
私の思考が追いつく間もなく○○の通信は、私宛のメッセージは打ち切られた。
しかし今度のソレは線香花火などではなく、強烈なスパークのように私の中を照らしたのだ。

「ひゅ…」
「ぁ……○○が……○○が心配してくれてるよぉ……」
「うれし…うれしいよぉ…あっはははぁ…!」

○○は確かに「レイセンの後釜」と言った。つまり私がここに来た目的もめでたく達されたというわけなのだ。

私の行動によって○○は夢を叶えた。
そして○○は行方を眩ませた私のことを気にかけ、心配してくれている。
あぁ、なんという幸福。何もかもが完璧ではないか。

その後数時間ほどの間、 頬に両手を当てて身体をくねらせながら
この悦びを反芻し、噛み締めていた。


──────

それからおおよそ24時間後、私は昨日と同じ時刻、同じ場所を目指して竹林の深くへと歩みを進めていた。
昨日の事が、○○が私に向かって語りかけるソレが私には忘れられなかった。
私は○○にひどい仕打ちをしてしまったのに、まだ愛想を尽かしていないどころか、心配し、気にかけ、探し回ってくれているのだ。どうして落ち着いていられようか。

「はやく…あぁ、はやく準備をしなくちゃ…」

地上からの通信には長い手順があり、まず月位相を確認する。
満月では月との通信に大きなノイズがのってしまうのだ。
地上にいる妖怪達が活発になるという話も何らかの関係があるかもしれない。

そして次に天候、方位、直上の遮蔽物、全ての確認を終えてようやく感度調整に入る。
耳を伸ばし、任意の念波を捉え、距離に合わせて耳で増幅し、最後に脳へと送るのだ。
こちらから発信する際は単にその逆をすればいい。


「感度調整終わり…帯域は…昨日と同じ……よし。子の刻まであと…46…45…」

面倒な手順を焦らず確実に、焦っても確実にこなす。
全ての準備が整う頃には昨日の“定時報告の時刻”まで一分を切っていた
あの定時報告という言葉を額面通りに受け取るならば、この通信は毎日の頻度で決まった時間に行われることになる。
そしてその度に○○の声を聞き、私宛の想いを耳元で感じることが出来るのだ。

『――発 ○○。 宛 第一管区情報部。定時報告はじめ――』

定刻通りに始まった“お堅いセリフ”の中には非常に機密性の高い情報が含まれているのだが、今の私にとっては○○の声が聞こえてくるという以外に何の価値も存在しない。
そしてこれは前座でしかないのだ。この長ったらしい“前置き”の後に、○○は私宛に独り言を放つ。

『――以上、定時報告終わり。通信終了』

主目的はこの後の‘続き’なのだ。

『あー…、よし。レイセン。聞こえている…のかな』
『こうして何回も呼びかけているけど、中々うまくはいかないね』
『でもレイセンからきっと返事が来るって信じてるよ!』

私がいなくなってから、○○は毎日こうして私のことを想ってくれていたのだろう。
今すぐにでも○○に返事をしたい。

私はここにいるよ!
○○がイーグルラヴィに入れるようにポストをあけたんだよ!
うれしいでしょう?!
○○の為に地上まできたんだよ!頑張ったんだよ!
凄いでしょう?偉いでしょう?○○、○○、○○……

しかしそれが念波として発信される前に、脳に浮かんでからほんの一瞬も経たない間に
私の耳は"くしゃり"と潰れた。
それに伴い、ノイズ一つ無く○○の声を拾っていた通信はそのまま切断される。

「ぁ……」

触ってみると完全に縮み上がっているのがわかる。
踏み潰された道草、干物、投げ捨てたブラウス
何れとも形容出来ないような状態。
極度の負荷がかかると反射的にこうなることがあるし、そうなること事態は生理現象なので特に不思議はない。
問題はその生理現象を生み出した源だった 。

耳が潰れる直前、一つの考えが頭を過った。
もし○○の呼び掛けに応答したのなら、○○は一体どんな反応をしてくれるのだろうか と。
○○は私の無事を知り喜ぶだろう。生きていたことに安堵するだろう。
ではその後どうなる?

あぁよかったと安心したら、○○はそのあと私宛の独り言を止めてしまうのではないだろうか。
そうなったら、日々の仕事に忙殺されて私のことなんて忘れてしまうに違いない。
そうなれば、もう二度と○○の声を聴くことが出来なくなる。
唯一の心の支えが失われてしまう。

想像力豊かで頭の切れる私が素早くその答えに辿り着いた結果、それが今のこれなのである。

「返信……できない……だめ……」

さっきまでとはうって変わって今は歯を食いしばり、ままならないこの状況に耳と頭を抱えている。
だが、それも長くは続かなかった。
今ここで短期的な欲求を満たすために○○に念波を送ってしまえば、この先私にとっての光が完全に失われてしまう。
しかしそれを我慢すればこの先ずっと○○の声をその身に受けることが出来る。どうするかなど、あらかじめ決まっているようなものだ。

こうして、この先数十年に渡る日課が始まったのである。

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最終更新:2017年02月12日 20:34