○○は実に中途半端な人間である。真面目で努力家で、感情に振り
回されない限りは人の言うことを素直に聞く謙虚さを持ち、とても実
直な人間ではある。しかし要領が悪く、何に挑戦するにしても捗々し
い結果は得られないでいる。本人とてこれらを自覚している、だから
こそ強い劣等感に曝されている。尤もプライドが高いから出来るだけ
表面に出さないようにしているが……。

 そんな彼が幻想郷に来て、当時彼はそれを、自らの再起のための
渡り船だとばかり思っていた。平たく言えば、今の生活に満足出来
ないでいるティーンの青少年が、自分は異世界だとか犯罪の世界だ
とかで活躍出来るのだと現実逃避めいた想念を浮かべる心理である。
で、幻想郷に定住して働きだした○○であるが、やはりそこでも彼
は、優れた人間とはとても言い難い、中途半端な生活を送っている
のであった。仕事が遅く、かと言って速さを優先してもいい加減だ
と注意される。もしかしたら自分はみんなに迷惑を掛けているので
はないかという罪悪感を感じながら日々働き、そして自宅に帰り独り
寂しく夕食を摂る。細部から全体像を構成して物事を認識する思考
タイプの○○は、たとえどこの世界に行ったところで、速さと丁寧さ
のバランスが重要となる仕事では活躍なんぞ出来ない。どちらかと
いうと職人向きのたちだろう。だが○○の理想ではなかった。

 ○○が、かのスキマ妖怪の懐刀・八雲藍と出会ったのは、まさに偶
然であった。里の豆腐屋に、味噌汁の具材として油揚げを購入しよう
と訪れた折、やけに目に付く女性が居た。麦畑のようなこがね色の髪
の毛に、二股のピエロ帽子らしき物を被って、導師服を着ていて、最
も印象体だったのは九つの尾が尾てい骨辺りから生えているところ
だった。横まで来て、その女性の容貌を目にして大層驚いた。

 この上なく美しかった。

 そのようにありきたりな感想しか浮かばないくらい。

 切れ長の眼、髪の毛と同じ――いやそれ以上に輝く黄色の瞳を物憂
げに伏せ。薄桃色の、蝋のように滑らかに照る唇に、細く柔らかく繊細
そうな指を当てて沈思していて。頬の肌は逸りに染まっていた。

 店の者は、どういうわけかこの艶やかな女性にまごついていた。
佳人を前にしてたじろぐというより、煙たがっているように。敵意
は無いけど、畏怖を孕んだ態度であった。

 ○○がずっと見惚れていると、やがて女性がそれに気付き、きょとん
とした顔で○○を見やった。

 「あの、何か?」

 「あ、いえ……、失礼しました……」

 綺麗だったから見惚れていたと正直に言えるほど、○○は女慣れした
――面倒見の良い女性などからは昔から受けが良かったが――男ではない。

 「ふむ……」

 と女性は一つ吐くと、取り立てて興味無さげに油揚げに視線を落とした。

 「油揚げがお好きなんですか」

 ○○は思わず尋ねた。彼自身そこまで女性に踏み込むたちではないのに、
相手から訝られたかもしれないことに因る不安からか、或いは、かの女性
に魅入られた故か、柄にもなく。そうして出てきたのが、彼女の毛の色と
九つの尻尾から連想されたその安直な科白だった。


 その後の細かい事は割愛するが、この――有体に言えばナンパめいた
――行動が奏功して、○○はその女性――八雲藍と昵懇の間柄になった
のであった。

 単なる友人関係というより、通い妻に近かった。当初こそ、時々会っては
世間話をする程度だったが、いつの間にか藍の料理を試しに味わう話になり、
○○の自宅で彼女に料理を振る舞われるに至ったのであった。そしてそこから、
藍はしばしば○○宅へやって来ては料理、延いては生活に於ける様々な世話
を焼くようになったのである。初めの内は良いものだと○○とて思っていた。
家に誰かが居てくれて、疲れた自分に変わって食事を作ってくれる。独り言で
はなく、何かを言えば嫋やかで玲瓏な声の言葉が返ってくる。寂しさに萎える
心に温かな潤いが戻ってくるというものだ。

 しかし、徐々にその生活に慣れてくると、随伴して意識が理性的になっていき、
例えば、自分はこれで大丈夫なのか、立派な男だと言えるのかという疑念が、心の
内に染み出してくるものである。思えば、その頃の○○は、随分と藍に頼り切って
いた。金を借りたりもした。否、表面上ではお互いに貸し借りを認知したやり取り
ではあるが、そもそも○○程度の収入では、その債務にまで金を回すと首が回らな
くなってくる。ついては、その金は後回しにしてもよいという取り決めまでなされ、
そうしてなあなあと約束が自然消滅してしまう。事実上、藍から金を貰っているに
等しい。また、これは○○からの無心によるものではなかった。藍と会話している
時、ふと金が必要な状況にあることを口にすると、向こうが貸してきたのだ。いや、
これも言い訳に過ぎない。○○はどこかで、言えば藍が金を貸してくれるのだと期待
していたのかもしれない。これではまるで――

 「若い燕じゃないか……」

 ある日○○は藍に、○○が彼女に依存している生活を断ち切るために、通い妻を
やめて普通の友達付き合いをしないかという旨の提案を持ち掛けた。その時は○○
も、せいぜい藍は吃驚する程度の反応をするだろうと高を括っていた。ところが彼女
は、○○から告げられたことを理解すると、絶句してそれ以上の反応が出来ないで
いたらしかった。これは○○も予想外だった。

 「ど、どういうことだ、○○……。な、何か私に、至らないところでもあった
のか?……」

 殊の外動揺している彼女に、へどもどして○○は二の句を告げられないでいた。
だがそれがまずかった。

 藍は確実に○○を好いていた。恋とは人を沸き立たせる、その高ぶった感情が
幸福感を喚起するのである。反面、興奮とは時に人にネガティヴな想念を思い起
こさせる。この時の場合、藍は○○の世話を焼く日々に充足感を得ていて、その
矢先に○○から、お互いに距離を置こうという提案、藍からすれば即ち別れ話を
切り出された。

 ――私はもう必要ないのか。――私は捨てられてしまうのか。

 失意が藍を覆った。それに対して○○は何も声を掛けられないでいた。その日、
二人の間には別れるまで、終始沈鬱な空気が流れていた。


 それから二、三日。あれ以来○○は藍と会っていない。○○の言葉を聞き入れて
くれたのか、はたまた愛想を尽かしたのか。どちらにせよ、あの時○○は藍に不義理
を働いたことは事実であるから、もし彼女に再会出来た折には、釈明をしなければ
ならない。この二、三日間、○○は時折それを考えては悶々としていた。今日も今日
とて、煩悶しながら床の上の布団の中で目を閉じたのだった。

 然り而して、次に目を開けた時は、全く別の場所に居た。初め、自分の部屋と
あまり様相が違わなかったので分からなかったが、明らかに自分の部屋より広く、
手入れの行き届いていることに気付いた。

 「起きたのか、○○」

 不意に横から声を掛けられて○○は飛び退いた。

 声を掛けたのは藍だった。彼女は○○の間抜けな様子が可笑しかったからかくすくす
と笑っていた。

 「お前は本当に可愛いなあ……」

 彼女があまりにも微笑ましい顔でそう言うものだから、つい○○もそれに苦笑を浮か
べた。○○とて、可愛いなどと言われることは心外だった。別に可愛らしい顔立ちでも
ないはずなのに。さすがにもう慣れたが。

 「ここはどこだ」

 「それは朝餉の後にしよう」

 ○○からの言問いを遮るように藍は言った。彼女の言う通り、腹が減ったので朝食を摂
ることにした。いつも通り、彼女が振る舞う食事はとても美味しい。舌鼓を打ちながら掻
き込んでいると、たちまち朝食は終わった。

 「それで、ここはどこなんだ」

 食後のお茶を啜りながら、改めて○○は――食後で落ち着いたからか――今度は至って
穏やかに尋ねた。

 「ここは私の秘密の家だ。尤も、今日からは私とお前の秘密の家……」

 藍は上機嫌で告げた。

 「いや、話がよく解らないんだが……」

 「そのままの意味だ。今日からお前は、私と共にここに住むんだ。良いものだろう」

 「ちょっと待てよ、大体仕事はどうするんだ。見たところ、明らかに職場から離れて
いるぞ、どう通えって言うんだ」

 「お前こそ何を言っている、そんな必要なんて無いじゃあないか、ここに住むに当
たってお前が稼がなくてはならないことはないのだぞ。食事だって私が作る、退屈な
らおもしろい物を持ってきてやろう」

 「いいわけあるか。それじゃまるで……、まるで……、お前に養ってもらっている
みたいだ……」

 ヒモみたいだ、と形容することで強調したいところだったが、どうしても口に出す
のは憚られた。

 「お前はただ私のそばに居るだけでいいんだ。一緒に食事を摂って、おしゃべりでも
して、たまにはその辺を漫ろ歩きでもして……。私もいつもここに居るわけではないか
もしらんが、私がここに帰ってくる度に、笑顔で出迎えてほしいんだ」

 諭すような口だった。しかし節々から彼女の不安が滲み出ていた。

 でも○○は――

 「無理だ」

 と、にべもなく告げて立ち上がると、

 「藍、俺は出来れば自立して生きたいんだ、そのためには、誰かに養ってもらうとか
そんなんじゃ駄目なんだ。お前から借りてた金子は、必ず返すよ。なあなあで済ませて
はいたけど、ちゃんと帳簿は取っておいたし。……ただ、お前との関係をこれっきりに
しようってわけじゃないんだ。たまにはうちに来て、また飯を作ってくれないか。それ
で、世間話でも、どこかに散歩でも……。またな」

 彼女の横を通って部屋を出た。その間際に、

 「絶対に逃がさない」

 と悲憤に唸る調子で呟いていたが、○○の耳には獣の唸り声にのようにしか聞こえ
なかった。


 廊下に出た時、○○は愕然とした。廊下の突き当りに在ったらしい部屋から出て、
一方には漆喰の壁、もう一方には果てしなく続く薄暗い廊下。それでも○○は意を
決して歩き出した。意気軒昂に部屋から出て舌の根も乾かぬ内に、心細いから出口
まで案内してほしいとは、到底言えなかったからだ。

 しかしながら、この歩けど歩けど終わりが見えない廊下を進み続けるのは、やはり
気が滅入る。明らかにしもた屋の広さで
はない。狐につままれた心持ちだ。

 その時。

 突如、真横にあった襖がおもむろに開き、そこから手が伸びてきて
○○の胸ぐらを引っ掴むと、即座に部屋の中へ引きずり込んだので
あった。○○は部屋の中央に投げ出された。そこには布団が敷かれて
いて、ちょうどそこに落ちた。それはひんやりとしていた。新しく敷
かれた布団だ、おそらくついさっき敷かれたもの。

 彼の後ろで襖が強く閉められる音がした。振り返ると、藍がこちら
に背を向けて佇んでいた、たった今閉めた襖に手を掛けたまま。何か
違和感があった。とは言っても、大きな九つの尻尾が邪魔で全体がよく
見えない。ただ、頭部のほうは見えた。そうだ、いつもの帽子が無い
のだ。あの、二股のピエロ帽みたいな。今の彼女は、あの金色のショー
トボブの髪の毛を晒している。それと、頭頂部には一対の、動物の耳が
生えていた。あれはまさしく狐の耳だった。当たり前だが、やっぱり
彼女は狐だったのだ。

 彼女は振り向いた。尻尾に遮られて見えなかった部分が見えた。
それはいつもの導師服ではなく、白い、長襦袢であった。生真面目
気味な彼女らしく、崩すことなくぴっちりと来て、肢体の線が明瞭
に出ていた。

 「駄目じゃないか、○○」

 いつになく蠱惑的な声音。○○に覆い被さろうと倒れ込んできたの
を、思わず彼は退いて避けた。

 「酷いじゃないか、○○。世間は、お前が生きていくには、甚だ残酷
過ぎる。あんなものに苛まれるお前の姿なんぞ見とうない。お前とて分
かっているはずだろう、お前は集団と連なって上手くやっていけるタマ
じゃない」

 藍は這いずり寄ってきた。○○は後ずさって、襖の辺りまで来ると襖に
手を突きながら、藍を注視しつつ立ち上がった。後ろ手で襖に手を掛け開
こうとする。が、びくともしない。何かが突っ掛かっているというより、
まるで襖が張りぼてであるかのように。引き続き藍を視界に留めたまま、
○○は部屋の隅に、襖伝いに動いた。

 据わった眼でこちらを凝視しながら藍は寄ってくる。自身の情を、同時
に妖怪の気を垂れ流しながら。それは最早執着だった。絡み付くその情念
に、ただの人間に過ぎない○○の肌は粟立つ。

 ○○は次に、自身が引きずり込まれてきた、あの廊下に続く襖の方を見た。
意を決して○○はそこへ飛び出す。が、通り抜けようとした彼の腰に藍は飛び
付いた。そこから○○を、部屋の中央に敷かれてあった布団の上に引き倒すと、
馬乗りになり、相手の両肩を押さえ付けながら相手の口を吸った。中に舌こそ
入れないものの、彼の口角から口角までが丹念にねぶられる。息を荒くさせな
がら藍は首をもたげ、今度は彼の胸元をはだけさせるとそこを自らの唇で撫で
だしたのである。

 「○○よ、私は見ての通り狐だ、九尾の狐だ。それこそ大昔には方々で
あらゆる男を手玉に取ってきた。いわんや数ヶ月の付き合いを持つ私たち
ならば、とっくにそのような関係になっていても不思議ではない。なのに
私がどうして今まで、お前様に身を重ねるよう迫らなかったのか、お前様
には分かるか。いいや、きっと分からないはず。大方そういったことを
意識しない鈍感な者だからか、もしくは私がお前様に興味が無いとでも勘繰
られていたのか……。いや! それは違うぞ、断じて違う! お前様にだけ
は……、心から好いた男には迫れなかったのだ……、もしも駄目だったらと
思うと怖かった……、あの心地良い日々でも十分満足だったから、変わって
しまうのが恐ろしかったのだ!……」

 やけに熱っぽく、艶めかしい。それでいてまるで、戦で夫と長らく離れ
離れになっていた身持ちの堅い妻の如く、泣きに声を震わせながら滔々と
彼女は語る。吐息で○○の胸元が湿った。


 「……それにしても随分と迷ったものだ! 今私は、こんなにも清々
しい至福で満ち満ちているぞ!」


 卒然と藍は勢いよく身を起こし、○○の眼を覗き込みながら、さもこれ
から目の前の男を喰らってしまおうということを宣言するみたいに結んだ。
先ほどこの部屋に○○が引きずり込まれてからよほど動き回っていたせいか、
白い長襦袢はすっかり着崩れてしまっていた。ただし、これから為されるこ
とを思えば、どうでもいいことだが。

 再び藍は○○に顔を寄せる。たちまち辺りは、情欲に蒸れた女の匂いにむせ返る。

 「ほら、私は伝えられたぞ……、もう私は恐れることは無いんだ!……。
お前様が私の気持ちを知っているのなら、ひた隠しにしておく道理は無いの
だからな! 案ずるな、○○よ、我が愛しい人よ。私たちはこれから夫婦に
なるんだ、妻が夫に尽くすのは当然のこと、なれば私に依って立つことを憚
ることもないのだから……」

 こうして○○は、ついに藍に貪られることとなった。その際、襖の隙間か
ら、うらうらと地上に降り注ぐ太陽の光を見た気がした。外からは激しく騒
々しい雨の音が響いてきているのに。

 後日、幻想郷中に配られた『文々。新聞』にて、二人の結婚の報せは
人・妖問わず沸き立たせた。

 ところで、藍は幻想郷でも屈指の実力者であることは周知の事実であろう。
また、昨今、幻想郷に訪れている結婚ブームにて、人里が恐れている実力者ら
が次々と結婚していくことに、人々は大層喜んでいた。理由は言わずもがな。
しかし、その実力者の中で、藍だけはなかなか所帯を持とうとしなかった。
その事に人里の者たちは戦々恐々としていて、他方、藍を知っている実力者ら
はそんな彼女を心配していた。そんな折に現れたのが○○だった。

 彼らは、藍と○○の二人が好い雰囲気になることを好ましく思っていた。
これであの意地張りな九尾がいよいよ身を固める、また人里は安泰となるのだと。

 無論、彼らはただ黙って成り行きを見ているだけではない。例えば藍の
主・八雲紫は、藍が○○と一緒に居られる時間を稼ぐために、与える仕事を
少しずつ削ったり。人里の場合、閉鎖的な共同体特有の連携を以って、○○が
金が要り用になるよう仕向けたりなど、○○の性質を知った上で彼がとかくが
藍に依存するように仕立てたのであった。

 人里の、特に○○の職場の者たちにとって、彼は好感の持てる人物では
あったが、さして惜しむべき人材ではなかった。従って、此度の姦計は、
人と妖の利害の一致によって為された事でもある。

 なお、彼ら彼女らには悪意などは無い。飽くまで○○と自分らの利益を
考慮した、善意であると信じ込んでいる。

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最終更新:2017年06月15日 21:44