「あぁ、お二方……」
○○が阿求と一緒に部屋を出て行ったとき、女中の1人と出くわした。
○○は知らないが、その女中は阿求に○○愛用の自転車が消えていると。先ほどに伝えて来てくれた、あの女中であったのだ。
「……よかった」
だから、その女中は。本気で安堵のため息を漏らしてしまった。ややもすれば、失礼な態度であるのは言うまでも無いけれども。
忘八達のお頭が青ざめた顔で入って行き、出て行くときは何も無い空間をにらみつけながら出て行ったのは。家中の者ならばもう知れ渡っている。
それだけでなく、慧音先生が苛立ちながら出入りしたり。東風谷早苗が、永遠亭から渡された物を自分も拝見したいなどと言って入り込んできたのだ。
何事か、それも非常に大きな厄介ごとが持ち上がったのは。稗田家程で働ける者達であるならば、論じるまでも無く理解できなければならない事である。
故にこの女中は、そこに来て更に○○の自転車が消えているのを見た時に心配したのである。

稗田阿求の夫の○○に、しかも阿求の方が通俗的な表現を用いれば○○にベタボレしているのは。家中の物でなくとも、もはや人里に住む者すべてが知っておかねばならない事実であるから。
忘八達のお頭の、明らかに苛立ちを超えた怒りを見れば。そもそもそれ以前に、遊郭を統制する側の稗田家に忘八を呼びつける時点でおかしな事になっているのだ。
そのおかしな事の一部に、○○が巻き込まれていないかを。そんな事、稗田家の奉公人でなくとも考える事だ。
現状の稗田阿求の精神的充足感と、阿礼乙女としての義務――と言うより運命――に対する進捗がなかなか上手くいっているのは。
○○がほぼほぼ付きっ切りでいる事による部分が多い。


○○は外からの流れ者?些末である。実利さえあれば、祟り神にすら頭を下げて拝むことが出来る、それぐらいに幻想郷の人間たちはしたたかである。
故に、○○の行方が一時でも分からなくなったとき。稗田家の家中は、まだ確定された事象ではないからと、それに阿求の方がまだ危険視はしていないから。それを信じてはいたが。
そうはいっても、緊張と不安で押しつぶされそうで合ったところを。この女中は、阿求と○○が連れ立って歩いているのを目撃する事が出来たのである。
朗報を見る事が出来たのである。


「あっ……失礼いたしました」
精神が復調したとき、自分が中々以上に失礼な態度を取ってしまった事に気が付いて。慌ててその女中は頭を下げた。しかし阿求は、問題が全くなかった。
「すいません、夫と一緒に少しばかり出掛けてきますわ。場所は永遠亭です。ええと、帰ってくるのは」
「当てが外れてもそんなにはかからないよ、この件『だけ』はもうそれほど時間はかからない。夕飯までには帰れるよ」
東風谷早苗が守矢にこの話を持っていき、忘八達のお頭は自身の保身もあるだろうけれども即座に動いてくれる。
……女中も似たような認識でいるのだろう。阿求が自分の方を余り見ていなくて、若干浮ついていても朗らかに。
と言うよりも偉い人が入れ代わり立ち代わり入ってきた直後では、こういう軽い感情が見えた方が後々の事を楽観視できるのでありがたいくらいであった。

○○も……無残な事になる命が最低でも五つ。早苗が守矢に向かったので。
そう、あと三人分、いや阿求の認識では三『枚』分の情報を手に入れて『処理』。それにさほど時間はかからないだろう。
「そうでしたか、ええ。ええ!お夕食はいつも通りの時間にいつも通りの場所に」
「はい、お願いいたしますね」
「帰りに阿求の好きなお菓子でも買おうか」
しかし○○は、最低でも五つの命が沈んでいくことに気づき、思いを馳せる事が出来るぐらいの感受性は備えているけれども。
冷たい言い方をすれば、かわいそうだとは思うけれども阿求の方を優先して何が悪い。結局のところ、そこに論は行きついてしまうのだ。
事実、帰りしなに菓子屋によると言った時の阿求の顔は。女中にとっては緊張感から解放される特効薬であり。
○○にとっては自分の判断が間違っていない事を示す証明なのである。


「阿求、しっかり捕まってね。もちろんあんまり速度は出さずに、安全運転するけれども」
「永遠亭までなら、思ったよりも長い時間あなたの自転車に乗っていられそうですね」
○○は阿求を乗せて走る事に慣れてはいても、いつも以上におっかなびっくりな運転だけれども。
阿求は阿求で、いつも通り。○○の自転車の後部座席に乗るとなると、こうやって浮かれていた。
「あっ!ご夫妻さん!」
折が良いのか悪いのか、いつも日用品を持ってきてくれる配送屋の男性と。まだ稗田邸を出てもいないのにすれ違う始末であった。
しかもこの配送屋、余りにも良い愛想でこちらに挨拶までしてきた。
恥ずかしいので、会釈ぐらいならばともかく、あまり景気の良い挨拶は今はして欲しくなかったのだが。
「いつも配達ご苦労様です。私達は少し出かけるので荷物はいつも通り、夫妻の部屋に入れておくだけで構わないので」
阿求の方はまた違った趣を楽しんでいるようでむしろ見せつけたいと言う部分が多分に存在しているのであった。
「……その、それじゃあ」
○○も何か一言位は残そうかなとは少し考えたけれども、阿求が回りに見せつけるようにギュッと抱きついてくるものだから。
少々失礼でも、この場を早く切り抜けてしまいたかった。
どうせ走り出してしまえば、そう長々と里の人たちと喋る事は無くなる。
隠そうと言う気は最初からない。考えるだけ無駄な事であるから、もういっそのこと受け入れてしまっている。
あの旦那も、慧音先生とはほぼ毎日。横にたがいを連れ合って歩いている。



「阿求」
自転車が竹林に入って、里の人たちに会釈をしたりする必要が無くなった辺りで。
○○は少しだけ声を落として、真面目な色で阿求に声をかけたが。
「あなた」
阿求からは、返事こそもらえたが若干の咎めるような色であった。
「分かった」
何も聞いていないが、○○はすぐに引っ込めた。
「込み入った話は、永遠亭に付くまでは無しにしてくださいな。あの忘八達のお頭は、あほうではありませんしやり手ですから。極論を言えば、アレに丸投げしても構いません」
「そうも行かないよ、八意先生と書生君の仲を取り持つ役に。思ったより深入りした以上はね」
「もう、また!言ってみればこれは、『さいくりんぐ』しながらの『でーと』なんですから!今日は帰ったら、食後のお菓子を手ずから食べさせてくださいね!」
要するに阿求は、『あーん』してくれと言っているのだ。昨日もやったし、と言うより数える意味が無い程に何度もやってはいるけれども。
「分かった。じゃあ俺の方にも、俺の好きなお菓子を『あーん』して欲しいな」
「あら、あなた。私は言われないでもそれは、やる気で。最初からいましたよ?」
どうも阿求の発想と言うか決定は、○○よりも一歩も二歩も先んじている。
どのみち阿求の決定に従う上に、こういうところも阿求の可愛い所だと○○は認識しているから。
結局のところ、誰も損していないのだ。
もうそれで良いじゃないか、いつの頃からか○○はそう考えて疑問や話をしまいにするようになってしまった。
こと、阿求の笑顔が目の前にあれば。


「さてと」
そのまま○○は、阿求の望み通りに込み入った話は一切抜きにして永遠亭までたどり着いたが。
阿求は、込み入った話は永遠亭についてからにしてくれと言われていたから、もうこの場では多少そう言う話をしても構わないはずなのだけれども。
(おいおいで構わないか)
阿求を、彼女から手を差し出されたからと言うのもあるけれども。彼女の手を握ったら、○○は疑問の解消を先延ばしにした。
阿求も、込み入った話をしようとしない○○を前にしていると。
「ふふふ、じゃあ永遠亭に入りましょうか」自然と笑顔が出てくる。
この自然な笑顔を前にすれば、おいおいで構わないかと言う。先延ばしでしかない、よくない決断も。
阿求の笑顔が前では、大体の事が○○にとっては些末になってしまうのである。




「永遠亭にはまだ、慧音先生もその旦那さんも……と言うより、書生君だけでなく鈴仙さんもてゐさんも付いて行ったようなんですね」
「ふりだけれどもね、書生君以外は」
○○は皮肉な笑みで答えるけれども、阿求はもっと先が見えているらしくそれすら無かった。
「まぁ、しばらくは大丈夫でしょうけれども。そのしばらくでどこまで固められますかね」
阿求の顔が少しばかり怖くなった。
最も、先ほどの阿求が見せたような。忘八達のお頭が差し出してくれた名刺を、確かに初めて会う○○に対して差し出してくれた名刺を。
それを代わりに受け取って懐にしまうだけならばともかく、目の前でくしゃりと握りつぶした、あの時の顔よりはまだ穏やかであるけれども。
「ひとまず妙なのを五つも一気に処理すれば、変な新規開拓は無くなりますから。後は忘八さん達のお頭から定期的に情報を出させて。あぁ、嫌な話」
そう言う割には、阿求の顔には笑みが見えていた。黒々としているけれども。
「まぁ、阿求が楽しければそれでいいよ」
○○は全肯定していた。
「あらやだ、私ったら!」
たまに○○は思う、阿求はもしかして二重人格では無いのかと。阿求が○○の事を若干放っていると分かった瞬間、顔つきが変わる物だから。
しかし二重人格疑惑も、少しだけしか考えない。
頭の良い者と言うのは、二面性を多分に備えていて。複雑な人格を持っている物だと。
いつの間にかそう、阿求に都合の良い思考を回していた。


「輝夜さんはいるかな?いないのか…………」
永遠亭を跳ねている手近なウサギに、輝夜の私室を尋ねたら。思いのほか素直に教えてくれた。
いや、これは都合がいいのだ。鈴仙やてゐならば、裏を読み取ってくるし。書生君だと人が良すぎて面倒くさい。
○○はそんなことはおくびにも出さずに、案内してくれたウサギ、つまりはイナバ達の誰かに丁寧にお礼を言いながら。後でも構わないと言って、分かれようとしたが。
イナバが完全に別方向に行ったことを確認できたら。
「つくづく都合がいい」そう言いながら○○は、輝夜の私室に乗り込んだ。


「ふん、ふん……簡単に開くとすればあそこぐらいしかないな。なに、駄目元だ」
「○○、何か当てでもあるのですか?」
「無いよ、でもこの床の間。盆栽も陶磁器も、掛け軸すらかかっていない。蓬莱山輝夜さん程の、お姫様が?何か美術品の1つもたしなんでいるはずだよ、阿求の部屋にだって蓄音器があるのに」
「言われてみれば○○の言う通りですね、すっきりしすぎている」
阿求からも肯定の意見を貰った○○は、少しばかり満足げな顔で床の間をベタベタと触って。
押したり、引いたり、少しばかりコンコンとやったり、あるいは耳をそばだてたりしていると。
『分かったわよ、入れてあげるから』
輝夜の声が聞こえてきた、しかもその声は床の間の下側から聞こえてきたのであった。


そして、カチリと言う音がしたかと思えば。ギィーと言った音が、床の間の畳部分から鳴って。
なんと、床の間の畳部分が持ち上がって行って。
「よく気づいたわねぇ……私が永琳をどこかに隠しているのはともかく、永遠亭の内部の私の部屋をドンぴしゃで当てるとは」
持ち上がった畳からひょっこりと、輝夜の姿が見えたのであった。

「あらあら~」
阿求はそう、驚いたような顔をするけれども。好奇心の方が強い笑顔で。
○○の方は満面の笑みで、拳まで小さく握りしめて喜んでいた。それに気付いた阿求は。
「あなた、あなた!当てが当たりましたよ!守矢神社でも当たりを引きましたのに!今日だけで二回も!!」
自らの旦那をことさら褒めそやし。
「ははは、ありがとう。阿求!」
○○も最愛の妻に褒められたものだから、つい喜びを大きく表現したが。

「貴方達はそれで良いでしょうけれども、この隠し部屋の向こうには永琳がいるの。少しは自重して?」
まだこの問題が片付いていないのは事実なのである。ましてや絵図を中途半端に描いたところでいきなり、見切り発車を余儀なくされた輝夜にとっては。
この問題がすべて片付くまでは、一切喜べないのである。


「これは、失礼しました輝夜さん。でも早苗さんや……それに遊郭街の最大派閥の協力を阿求が取り付けましたので」
遊郭の事を話す時、少しだけ○○は阿求を気にしたが。
「ええ、少なくともあの書生さんはもう安全です。その、輝夜さん、八意先生とお話をしても構いませんか?」
輝夜はため息をついたが、美人のため息も中々に様になる。しかし畳の下からひょっこり顔を出しながらと言うのは、思ったよりもおかしな光景であった。

「ええ、構わないわよ。永琳も今の状況を知りたがっているから」
幸いにも、○○が笑い出す前に輝夜は阿求と○○を隠し部屋に招き入れてくれた。
ひょっこりと顔を出した輝夜が、またすぽっと言う風に穴の下へと降りて行ったあと阿求が○○に耳打ちした。
「助かりましたわ、今の輝夜さんの姿が、何だか妙に面白くて」
どうやら阿求も○○と同じことを考えていると知って、○○は確かにうれしくなった。
好きな人と同じことを考えていると言うのは、この上ない幸福であろう。






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最終更新:2019年04月15日 00:29