「それで、俺の友達は」
○○はまだしらない、妻である稗田阿求が――ただの凡百ともいえる失敗でもなさそうな気すら抱き始めたことを。
けれどもそれを知らないから○○は、存外にも威厳のある空気は維持していた。



○○はここで一旦呼吸を整えた。さながら、俺の友達と言う部分を、上白沢の旦那が友達であると言う部分を強調しているようであった。
「俺の友達は、洩矢諏訪子から協力してもらえると言ったようなことを口走っていたが」
「……諏訪子は、○○君と上白沢の旦那さんが、何か厄介ごとを抱えているんじゃないかと。
いや、邪推だろうとは私も考えているが……その、何かあったのかい?」
「その話はしない。今の段階でお話しできることは何も無い。
何かあったらこっちから伺います、だからそっちからは何もしないでくれと、洩矢諏訪子さんにお伝えください」
稗田○○はそう言った後、もう何度目か分からないほどの数であるが、また懐中時計を確認した。
「ああ……」
そしてほんの少しだけうめき声のような物を上げたかと思えば、懐中時計をパチンと閉じて懐にしまい。
そのまま何も言わず、別れの挨拶も会釈も無しに、立ち去ってしまった。
どうやら限界点を超えてしまい、まっすぐ帰る以外の事が出来なくなってしまったようだ。

「神奈子様……」
「何だ?」
足取りはしっかりとしているが、明らかに機嫌の悪い○○を見送りながら。早苗は、神奈子の名前こそ言ったが。
宙に向かうように声をあげた。
「午後の宣伝活動は休みたい……」
「そうしよう……その方が良い」
そしてそのまま疲労を訴えた。疲労を感じているのは神奈子も同じであった。


早苗と神奈子は、体の芯からにじみ出てくる疲労感に負けてしまい。
その日の午後の宣伝活動は早々に、二言三言程度のやり取りで中止を決めてしまった。
○○も……頭の中を早急に切り替えたがっていたが。
洩矢諏訪子の暗躍、友人の昏倒……それ以前に今も続いている横領被害。
これら全部を、しかも同時進行で考えなければならなくなり、頭の中を切り替えるのは容易ではなくなったが。
しかしながら阿求に、妻である阿求は――自分は気にしていないが、阿求は負い目を感じている――
妻である阿求が感じている負い目の事を考えると、また感情が粟立ってきてしまった。
○○自身は、全てを納得の上で阿求との契約に応じたと言うのに。
最後の最『期』で、友人である上白沢の旦那を発狂寸前まで怒らせてしまいかねないと言う心配事と言うか。
申し訳なさはあるけれども……しかたがないだろう、それが稗田夫妻にとっての愛の形なのだから。

だがそれでも阿求は、その負い目を少しでも埋めるために、○○には一切の不自由を。
特に金銭的な不自由は絶対にかけさせないと、最初から宣言されていた。
それは確かに○○の側からだけで物を見ればありがたいが、そう無闇に喧伝する事でもないとして。
それでも使わねば阿求が心配してしまうから、それに第一、稗田阿求は一線の向こう側だから。
遊びにもある程度の制限を、阿求だけではなく阿求を妻としてめとった当の○○ですら。
知らず知らずのうちに一線を引いて、そこから先には踏み出さないように気を配っているありさまである。


……最も、○○はそれで構わないと思っている。
確かに遊びに対する制約はあるが、遊郭街の事は少し調べただけで中々に深淵だ。
あまり近づこうとは思えない。最も、阿求に頼んで作り上げた『名探偵』が活動する場としては……
皮肉かもしれないが、中々に面白くて映える場所かもしれないのだけは苦笑を禁じ得ない。
けれども契約に際しての○○からの要求である、阿求が○○の話を『遺す』と言う部分さえ確約されれば、それで十分とすら考えているのだから。
構わないと、大上段に構えて仕立ての良い座椅子に深く腰かける事が出来ればどれだけ楽で済むか。

無論、阿求の言ってくれたことも理解している。
話を『遺す』以上、そうそう汚点など『遺せ』ない。神話ほどだとやりすぎで、現実感と言うか度々依頼をしたくなる親近感が薄れるけれども。
失敗談ですら超然としているべきなんですとは……いつだったかの寝入りばなに語ってくれたのを覚えている。
……であるならば、有象無象のどことも知れぬ輩に長年横領をされていたなどと言う事実は。
例え事実だとしてもその事実を放置する事は……阿求が求める『超然たる』存在からは程遠い。
歴史の授業でその逸話が披露されれば、明らかに舐められる。
結局阿求が横領被害の事を知ったならば、何かやる。間違いなく。


「…………」
少しばかり、散歩と言うにはふらふらしすぎたとは考えているが。外出間際に阿求に、阿求の好きなおせんべいでも買って帰るかと。
ただのぼやき、ですらない独り言のような毛色は存在していたけれども。
手ぶらで帰る事を恥と考える位には、自分は阿求の事を愛してしまった。
最『期』が上白沢夫妻と比べれば、あまりにもはっきりと予測できているはずなのに。
こんな性格だから幻想郷に迷い込めたのだろうか。
『遺せる』事がこんなにも嬉しいのだから。


だが○○は少し反省せねばならないだろう。感情の起伏を激しくし過ぎた。
出来るならば早々に帰宅するべきなのだけれども。今帰宅すれば重々しい表情に気付かれて、そこから……
と言う可能性を○○は想起してしまい。
「ああ、阿求が好きそうな味だな……」
等という取り留めのない事を話して、時間を稼いで、少しでも感情の粟立ちを抑えようと努力していた。
そのお陰もあって、阿求が前々から好きだと言っていた味付けのおせんべいはもちろんだが、新作もいくつか求める事が出来た。
わざわざ目の前で焼いてくれた事も、時間稼ぎとしてはこの上なく自然であるし。
焼ける際の香ばしい香りに心を落ち着けることが出来た。
土産があれば、時間を稼いだことの言い訳も立てやすい。

だったはずなのに。
たまに犯人の事が恨めしく思える。
もう少しうまくやってくれと。特に今回の場合はそうだ、お前たちがうまければ俺だってもう少し、妥当で穏当な着地点が探しやすいのに。


「あれ……」
帰宅したとき、おせんべいを頬張っている阿求を見かけてしまい。
しかもそのおせんべいは、袋から今まさにだした、新品の状態であったから余計に。
○○は素っ頓狂にも近い声を出してしまった。
「○○、お帰りなさい」
不覚にも、阿求が帰宅の挨拶を先にしてくれたのに。
「うん、ああ。いや、おせんべいは無かったような気がしたから買ってきたのだけれども」
自分の記憶と目の前の現実に、明らかな矛盾が発生してしまっているから。
挨拶よりも先に、焦って状況確認を先に持ち出してしまった。
「――」
この時阿求は、せんべいの咀嚼も止めてしまいながら。○○を、上から下までしっかりと確認した。
「あら、○○。おせんべいを買って来てくれたのですか?でも変ね、今日の荷物に……」
奇妙な間であるが、阿求が作り上げた朗らかさが、その奇妙な間に対する疑問を封殺していた。

「いや、うん。そうだよね」
○○は努めて阿求の作り上げた朗らかさに乗ってしまい、誤魔化そうとするが。
今この場を操縦しているのは間違いなく、稗田阿求の方であった。
「阿求が今日の荷物で、おせんべいを頼んでいると知ってたら失敗しなかったのになぁ」
そして不用意な発言を、往々にして不用意な発言や行いと言うのは、やってからようやく気づけるものだ。
「ああ――」
阿求は返答こそあったが、また奇妙な間が出来上がった。
ようやく○○は気づいた、今の阿求は間違いなく何かを考えていると。
まだ気づかれていないとは信じたい。
もしも確信していたら、こんなものでは済まない。

「いえ、いえ……」
阿求は喋っていても、言葉と言葉の間に奇妙な何かが出来上がっていた。
「○○の失敗じゃないので、安心してくださいな。今日は、荷物を担当している人が……店の方が
ええ、ええ。間違って入れていたんですよ。まぁ、でも、このおせんべいは度々注文しますから。
間違ってはいっていても、ええ、ええ。特に変ではありませんわよね?」
何故阿求は疑問文でこちらに聞いているのだろうか。
こちらからの失言を待っているのだろうか。
なんにせよ不用意な発言は出来ない。阿求は完全記憶能力者なのだから、後から矛盾を洗い出す為に。
いくらでも記憶を閲覧できる。

「そう、阿求好きだものね、そのおせんべい……」
「ええ、でも」
阿求が噛み砕くせんべいの音が酷く獰猛に聞こえた。捕食動物を想像してしまった。
「別に男性が塩気のある物ばかりを気に入ると言う道理はありませんのに……第一、少し関われば……」
阿求が○○の方向を見直した。
そこに捕食動物が見せような獰猛さは無かったが。
何をやろうとも、どこまでやろうとも包み込まれてしまう、深い沼のような雰囲気を見てしまった。
「○○はコーヒーやお茶のお供に、大福を好んでいるのは。伝票から気づけるはずなのに……随分不用意な方もいらっしゃるのですね、世の中には
いけませんわねぇ……どうにも私の方も基準が、名探偵をそこに置いてしまっている」
コロコロと阿求は笑っているが、そして笑いながらしなだれかかってくれたが。
どこか独占欲を感じ取ってしまった。
「あ、そうだ……○○。何か入り用だったり、不便はありませんか?」
阿求が○○の身の回りを心配する時、阿求は更にまるまるにしなだれ……と言うよりは、しがみついた。
これは容易に離してくれそうにない。
今日はもう、横領被害の実態解明の為に調査はもちろん、頭を回すことも危険だろう。
「いや、今日も荷物は届いたし……何とでもなるよ」
「いえね……まぁ、そうなんですけれども。○○の荷物におせんべいが紛れている時にふと気になったのですが」
そう言って言葉を切った阿求は、また間を作って、何かを考えていた。
心臓が跳ね上がる音が、自分自身の耳にも聞こえたような気がした。
もしそれが事実ならば、阿求は間違いなくこっちの変化に気づいてしまった。

「○○ったら今日の荷物には、インクと紙の束を少しだけでしたから。ちゃんと頭を回す為の甘味やらコーヒーやらが足りているのか気になりまして」
それ以前の話かもしれない、既に変化の一端はもう、阿求は手に入れたのかもしれなかった。
確かに……伝票を改ざんされないようにと。
改ざんが難しそうな数字に値段を調整する事にばかり集中してしまっていた。
普段ならば水の如く飲むコーヒーですら削ったのは、失敗だったかもしれなかった。





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最終更新:2019年11月04日 11:51